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大いなる平安

2016-01-30 20:05:30 | 日記
TFIより転載

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」—ヨハネ 20:19[新改訳]

わたしの平安はすべてを包み込む贈り物であるから、状況に左右されることはない。他のすべてを失っても、わたしの平安があるなら、あなたは実に恵まれているのだ。

そのことを大いなる慰めとしなさい。とりわけ自分ではどうすることもできないような、人生の数多くの側面において。状況に翻弄されているように感じる時には、すべてを包み込むわたしの平安こそが、あなたに必要なものだ。たとえ時折、それを受け取ることができないように感じるとしても。おそらくそれは、あなたが愛する人々や持ち物や、世間の評判といった他の物事にしがみついているからなのだろう。

わたしの平安が、わたしが死ぬ少し前に信者たちに残していった超自然的な贈り物であることにあなたが気づき、それをこの世の他の何ものにもまさって大事にするよう、助けたいと願っている。まもなく死ぬとわかっている者は、愛する人々に何か大切なものを残したいと思うものだ。だからわたしは、弟子たちや信者たち全員に、わたしの平安を残していくという「遺言」を与えた。わたしはこれが(とりわけ逆境のさなかにいる時には)、受け取るのが難しい贈り物であると知っていた。それで、よみがえった後最初に弟子たちに語った言葉が「平安があなたがたにあるように」だったのだ。彼らはわたしが死ぬ前に彼らに教えたことを確信できるよう、このような保証を必要としていた。あなたもまた、この贈り物の聖なる性質を思い出さねばならない。わたしが与えるのはこの世が与えるような平安ではなく、人知を超えた平安だからだ!

他の物事にしがみついているなら、この尊い贈り物を受け取るのが難しくなる。それはまるで、わたしが幾らでも純金をあげようと言っているのに、ちっぽけな銅貨をしっかりと手に握りしめているようなものだ。わたしがあげようとしている贈り物を受け取るには、まずあなたの手と心をわたしに開かなければならない。そうやって思い煩いを手放し、わたしがそれを世話するのに任せるのだ。わたしの輝かしい平安を受け取るなら、あなたはわたしとの親密さをさらに増し加えるという、あらゆるもののうちで最も豊かな祝福にあずかるだろう![1]

わたしにあっての平安

「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません。」—詩篇119:165

祈りの内にたゆむことなくわたしの顔を仰ぎ求め、わたしを認め、わたしのもとに願いを携えてくるなら、わたしは忠実な与え手となろう。そしてあなたを引き続き世話し、害悪から守る。あなたに供給し、危険から救う。苦難の時にあなたを慰め、混乱の中で平安を与え、悲しみの代わりに喜びを与えよう。

天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びることがない。わたしはあなたへの約束を決して破らないが、あなたも自分のすべき分を果たし、わたしを尋ね求めなければならない。もし一心に尋ね求めるなら、わたしを見つけるからだ。わたしの平安を求め、穏やかに静まってわたしのもとに来るなら、わたしの平安が訪れるだろう。恐れや気苦労や不安を和らげてあげよう。あなたがわたしのもとに来て、へりくだってそれらをわたしの足下に横たえ、わたしの助けや平安を求めるならば。

わたしの愛と心は、あなたに向けて開かれており、いつでもわたしの答えや慰めや、愛や力を注ぎ出そうと待ち構えている。だからわたしに呼ばわりなさい。そうすれば、答えてあげよう。呼び求めるなら、わたしの平安と力を与えよう。わたしは導き、守り、道を示す。人知を超えたわたしの平安で、心を満たしてあげよう。

打ち勝つ平安

「そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。」—イザヤ 58:8

わたしを全身全霊で、心から信頼することを学ぶなら、何ものもあなたをわたしの平安から引き離すことはできない。あなたが耐え忍ぶあらゆる物事も、それによって鍛えられ、わたしに信頼することを学ぶなら、有益なものになり得る。あなたはこのように、自分に害を及ぼそうと襲ってくる逆境そのものを通して、恵みの内に成長することによって、悪しき者のわざをくじくのだ。自分の兄弟たちに次のように宣言したヨセフは、このどんでん返しの格好の例だ。「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて下さいました。」[2]

今日という日に、あるいはどんな日にも、何が起こるかを恐れてはならない。わたしに信頼し、なされるべきことに思いを向けなさい。わたしが日々あなたの前を行き、あなたと共にいることを思い出しつつ、わたしが統治者であるのだと、肩の力を抜きなさい。悪を恐れてはならない。わたしはあなたが遭遇するであろうあらゆる状況から、益をもたらすことができるのだから。[3]

静まれ、黙れ

「すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、『先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか』と言った。イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。イエスは彼らに言われた、『なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。』」—マルコ 4:37–40

信仰によってわたしの言葉に信頼するなら、魂は静まり、平安と休みを見いだすことだろう。だから心配や恐れや不安という荷を下ろして、信仰によってわたしのもとに来なさい。

わたしが舟に横たわって眠り、風や波や嵐が襲って来た時、わたしの弟子たちはどうしたらよいのかわからず、風や波を恐れ、舟が沈むのではないかと心配した。それでわたしを起こした。答はわたしの力にあると知っていたからだ。わたしが「静まれ、黙れ」と言うと、嵐は静まった。彼らは自分にはどうすればいいかわからないと認めて、わたしのもとに来たので、わたしは彼らに平安を与えた。

だから、父親が自分を誤り導くことなく、むしろあらゆる真理に導いてくれると確信している子どものような信仰を抱いて、わたしのもとに来なさい。心と思いを開いてわたしのもとに来るなら、平安を与えよう。信仰や信頼によって、そして自らの意志を明け渡し、神の意志に従うことによってもたらされる平安を。

進み続ける!

2016-01-13 22:03:57 | 日記
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。—ピリピ3:12–14

*

過去について考える時には、私たちの将来はその過去によって制限されないということを覚えておくと、助けになると思います。過去にどんな決断をしても、今あなたがどのような状態にいるとしても、将来は今も神の約束のように明るいのです。たとえば、「信ずる者には、どんな事でもできる」[1] という約束があります。今の状態が自分の望む状態でなければ、それを変える時間はあるのです!

あなたがした選択の幾つかが悪い結果になったように思えるか、思っていた通りの結果でなかったなら、まだ結果のすべてが見えていないのかもしれないことを思い出してください。今、石か蛇のように見えるものは、実はパンだったのだとわかるかもしれません。ことによると、その代わりに祝福の3コース料理かもしれません![2] オーソン・ウェルズが言ったように、「ハッピーエンドかどうかは、どこでそのストーリーを終えるかにかかっている」のです。その原則は主を愛する人にとっては確かに真実です。主は万事を共に働かせて益としてくださいます。別の言い方をすれば、「最後にはすべてがうまくいく。もしうまくいってなければ、まだ終わりではない」ということです。

過去を振り返る時には、「やっていればよかった」と思うことだけでなく、祝福を数えましょう。あなたの人生のストーリーを構成する、良きこと、愛すべきこと、称賛すべきこと、賛美に値することを思い出すのです。[3] そして、この地上におけるものでも永遠の天国におけるものでも、主と共に過ごせる素晴らしい未来を感謝しましょう!—マリア・フォンテーン

ゴールに目を留める

レースの走者は、つまずいたり転んだりしない限り、自分の後方を走っている人を振り返ったりはしません。むしろ、前方のゴールをしっかりと見据えます。後ろを向きながら人生を歩んでいるように思われる人を、あなたは何人知っていますか? そういう人たちは、失ったものや後悔する出来事や、自分の犯した失敗を数え上げます。打ちひしがれているのも、無理はありません。

ゆるしを神に感謝しましょう! 私たちはキリストのうちに、自分の失敗に対するゆるしを見いだします。キリストのうちに、最も深く傷ついたことでさえゆるすための恵みを見いだします。だからパウロは、後ろを振り返らないのです。「忘れる」はギリシャ語の動詞「エピランタノマイ」で、これは「何かを忘れて、思い出さないこと」を意味します。といっても、過去のあらゆる痛々しい記憶が、私たちの心からすっかり拭い去られているという意味であるとは思いません。むしろ私たち自身が、もうそのことにこだわるのをやめ、思い出さないと決めるのです。そして、むしろ前方に目を留めることを選ぶのです。

後ろを向きながらレースを走ることなどできません。心と思いを目下のレースやゴールに向けねばなりません。パウロは「目標」つまりゴールラインを目指しており、これはギリシャ語では「スコポス」と言って、「遠くを見つめる」という意味の語根に由来しています。つまりここでは、遠くから見据えられている目標であり、「人が目を向けているゴールあるいは終着点」を指します。

高校のとき、私はテニスの代表チームでプレーしていました。コーチは、一体何度私たちに「ボールから目を離すな!」と叫んだことでしょう。野球のバッターなら目をボールに留めていなければならず、クリスチャンはその目を目標に、ゴールに留めておかなければなりません。イエス・キリストにことごとく降伏し、完全な交わりを持つことです。世俗的な世界に目を奪われると、霊的な世界に集中できなくなり、方向性を見失ってしまいます。過去に何があったかなど忘れましょう。目をゴールに留め続けるのです! ―ラルフ・F・ウィルソン博士

前のものに向かって進み続けなさい

すでに過ぎ去ったことばかり考えていては、誰も競争に勝てません。競争で最後まで勝ち残りたいなら、忘れるという習慣を築かねばならないでしょう。

パウロにも過去がありましたが、キリストのための役立つ器になるために、その過去を後にしました。彼はかつてクリスチャンをむち打ち、投獄したし、ステパノ殺害のほう助者でもありました。彼が過去の罪を告白して、主にゆるしを求めていなかったなら、一体どんなに役立たずの弟子になっていたことでしょう? 過去について自責の念にさいなまれながら、競争を走ることなどできません。それはまるで、鉛のブーツを履いて競争を走ろうとするようなものです。過去に関する自責の念から解放されたいなら、主にその罪を告白してゆるしを求め、それを十字架の下に置き、そこから歩き去ることを選ばなければなりません。主はあなたをゆるして下さいますが、あなたが自分をゆるさないと決めるなら、過去にとらわれたままでいることを選んでいるも同然なのです。

まだ競争を走っているあいだに、パウロは自分が王イエスの御前の壇上に立っている姿を見、イエスが「よくやった!」と言われるのを聞きました。彼が関心を向けていたのはそこです。その目を「賞与」に留めていたのです。前を見据えていました

あなたがこの競争のどこにいようと、ひたすら走り続けなさい。前のものに向かって体を伸ばし、全力を振り絞りなさい。それにはあなたの全身全霊を要するでしょうが、神の助けによって、あなたは最後まで走り抜くでしょう。次の言葉をあなたの残りの人生のスローガンとしなさい。

「ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」[4]—デービッド・マクチェスニー

正しい者の道

過去を振り返ると、私たちはしばしば、あれやこれをすればよかったとか、少なくともあのことをもっと良くやればよかったという後悔の念を幾らか抱いてしまいます。

主は私たち一人一人の気持ちを、地上のどんな人よりもよくご存じです。私たちの心と思いを知っておられるのですから。私たちの思いは一つ残らず、そしてすべての行いも、主の書に記されています。また、私たちの思いや祈りや行動の結果もそこに記されているのです。考え方が変わり、心が動かされ、人生が生まれ変わるといった、周りの人々やこの世界自体が私たちから受けた影響が。

過去を振り返るとき、私たちはほんの一部分しか見えておらず、しかもその一部分でさえ、完全に見えているわけではありません。けれども主は、それによって築かれた人格を見られます。様々な経験によって、これまで培われた深い思いやり、手に入れた知恵、身につけた成熟ぶりを。聖書には、正しい者の道は夜明けの光のようで、いよいよ輝きを増して真昼となるとあります。[5] 主は私たちの前にある将来の道を照らすと約束されました。そして、万物をご自分と和解させる日に至るまで、私たちを導かれるのです。[6]—マリア・フォンテーン