京都の闇に魅せられて(新館)

*「成果主義」と「自己責任論」とは何だったのか?

 近年声高に主張されている「成果主義」と、「自己責任論」。
 あれは何だったのか?
 いきなりだが、今日は私の考えをここで述べてみたいと思う。

 『teacup』のコミュニティ・カテゴリ「経済」にて、「成果主義」の話をしている人がいたたためだ。それにトラックバックさせてもらいたいとも思ったので、私もこの話題を取り上げる。

 なお今回は、私のHP掲示板に、サークルの大先輩ファン=ヒューリック氏が(今年の7月16日に)書いたカキコと、それに対する私のレスをコピーする形で載せる。
 まあ、はっきり言えば「またしても手抜き」であるのだが、ここはご容赦いただきたい。私も連日の仕事疲れでしんどいのだ。それに、以下のコピーは、「成果主義」と「自己責任」というものに対する私の考え方を、よく表してるから。



 まずは、ファン=ヒューリック氏のカキコのコピーから。


 久しぶり、ちょっと気になるニュースを見つけたんで。

 とある保険会社の52歳の会社員が成果主義の結果、給料の手取りが2万で生活出来ないと、平均給与の支払いを求めて仮処分申請したって言うもの。

 成果主義と言えば聞こえは良いが、結局の所その評価の基準がしっかりと決まっていて、さらにそれを説明する等の点が無ければ結局の所、上の人間のご都合主義になってしまう、又仮に働きが悪いと言っても生活出来ない様な給与では働く意欲を失ってしまう、どうもその辺が日本の企業経営者は分かっていない様だ。この記事を見てつくづくそう思った。

 又、この様な事態が世間に知れれば当然だが企業のイメージダウンになり業績もおそらく低下するだろう、おそらく会社は、世間に漏れれば会社に居れなくなり、他言する事は無いと考えていたのだろう、だが『窮鼠猫を噛む』の例えどうり、生活の為に嫌でもそうせざるを得ない事はある、その程度の事も予想出来ない様な人間が人を評価するなど笑止千万だと思う。

 90年代に日本企業はこぞって、成果主義と言われる物を導入したが結果はその殆どが失敗したらしい、その代表的なものが富士通だと言うのはとある本で読んだ。その理由は上記の様に評価基準がハッキリせず上司のサジ加減で給与や賞与が決まったりする事や、あるいは評価基準を定めたが、それに拘りすぎて情状的な評価を完全に無視し反発を受けた等だ。

 この辺が難しい所だが、これについては『SWリプレイNEXT』の幕間で清松さんが言っている『大体物事は中間に正解がある、どちらかに偏りすぎてはいけない』っと言う物がまさに真理だと思う。無論、これが分かっていても実行するのが難しい、本当に。

 まして人間の評価なんて非常に難しい、個人的な事を言えば最近共に夜勤をする2人の人間がほぼ正反対で、その時々で感情的な評価が変わってくる、わずか2人に対してそんな有様だから、何千、何万となると一体どうやって客観的に判断出来るのか不思議でならない。

 色々、長々と脈絡の無い事書いて御免なさい。今私も忙しいんで、もう少し落ち着いたら、又例会しましょうね。




 以上が、ファン氏のネタふりのカキコである。
 これに対して私は、『ダメなリーダーほど「成果主義」や「自己責任」が大好きだ』という題で、以下のようなコメントを載せた。
 ここでは全文でなく、必要な部分だけを載せる。



 結論から言えば、昨今蔓延している「成果主義」とか「自己責任」とか言う言葉に、私は前々から胡散臭さを感じてました。
 何故ならばこれらの言葉は、従業員にまともな給料を払えなくなったダメ経営者や、国民を喰わせられなくなってきた無能政治家・官僚などが、(自分の懐をなるべく痛めないように)そのツケと責任を立場の弱い従業員に押し付けるための方便でしか、ないんやね、結局は。
 「生活が苦しいのは、おまえらが無能だからだ。リーダーとしての俺には責任ないぞ」って、言いたいんですね、要するに。
 現に、「成果主義」という言葉が好きな管理職や経営者ほど、優れた業績を上げているとは思えません。「自己責任」という言葉が好きな政治家や官僚ほど、自分の権限や言動に伴う社会的責任というのにまるで無自覚ですしねえ。

 さらにもうひとつ言わせてもらいましょう。
 何故、「成果主義」とかいうものが、多くの経営者や自称経済学者や自称エコノミスト等にもてはやされ、広まってしまったか?
 先に述べたような「立場の弱い従業員への責任転嫁」というのもあります。またファン氏ご指摘のように、「生活できないレベルまで給料下げられた人はやる気を失う」とか「こんなことをすれば企業のイメージダウンになる」とか、考えてみればあたりまえのことすら、経営者や自称エコノミストは理解してない、っというのもあるでしょう。
 しかしもっと言えば、それらの人々には‥‥「その辺のことがわからない」という以前に、「そもそも自分というものを持たない」と言ってもいいと思うのですよ。
 日本のエリート(と称する人たち)は、全てがそうではありませんが、「いかに他人の示した答えを、いかに多数派の答えを答えるか?」という訓練を続けてきたでしょ? 自分の価値感やものの見方などを養う、というよりも。いや、極端な言い方になってすみませんが。
 だから、今までもてはやされてきた「日本的経営」とやらが、ちょっと行き詰って旗色が悪くなると、今度は今勢いのあるアメリカで流行っている(らしい)「成果主義」という奴に、コロッとなびいてしまう。本当は、今までのやり方にもいい面もあるし、また新しいやり方にも問題あるのに、それらをまともに検討もせず‥‥。



 以上が私が書いたコメント(要旨)だ。

 以上のコメントに、今回更に私は補足させてもらう。
 成果主義とは、私がここ最近何回もその到来を予測している『一億総負け組社会』を正当化するための宣伝文句ではないだろうか?
 つまり、バリバリの「市場原理主義」「弱肉強食」「優勝劣敗」「Winner takes all」という社会を作って、そこで勝ち組やエリートになるであろう人たちが、「機会と分配の不平等」と「自分たちだけがおいしいとこどりすること」を、正当化するための。

 そうすれば、これに異議を唱える人に対して、「自分の能力・努力不足のせいで負けたのに、うだうだ文句を垂れる甘ったれた奴」というレッテル貼りををして、批判を抑えつけるための。
 
 なお今回、我々日本国民は、エリートや勝ち組のそのようなプロパガンダにまんまっとひかかってしまったのだろうか……?
 「官から民へ」とかもっともらしいことを言って、バリバリの「市場原理主義」推進政策を進める小泉内閣を大勝させてしまった……。
 その結果どうなるかは……言うまでもないかな?
 今後、一部の人たちに都合よく歪められた「成果主義」がいっそう猛威をふるうことになるのだろうか……?
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