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いわゆるネット右翼と呼ばれる人たちについてであるが、どうも彼らの中には社会的弱者……今の言い方なら「負け組」が結構居るのではないか、と見ている(もちろん全てのネット右翼が、必ずしも負け組ではないかもしれないが)。
小泉「新自由主義」改革の犠牲者とも考えられるのだが、そんな人たちが、中国や韓国への反発などを理由に小泉政権を支持……直接的に支持せずとも、小泉政権に批判的な人たちに攻撃を加えたりして、結果的に支えている。
何故か?
その疑問に対する解答、もしくは解答の一助になる文章を先日見つけた。
ここにもリンクさせてもらっている『気ままにつれづれ』さんとこの以下の記事で紹介された文章、『ニートや引篭もり・社会的弱者が、嫌韓厨や国粋主義者「ネットウヨク」になりはてる理由』である。
*適当なこと・95
その文では、社会的弱者がいわゆるネット右翼に走る理由として、以下の3つをあげている。
●第一に、右寄りの言動により、自分を強く見せることができるからだ。
●第二に、国家や社会に尽くしているように思わせることができるからだ。
●第三に、ニート・引篭もりにとって、国家は手軽な帰属先であるからだ。
そして、以下のように説いている(以下、一部を引用)。
> 自分の悪い部分、相手のよい部分をわざわざ集めて発表する人はほとんどいないが、その逆は気味が悪いほどいるのが現実だ。
日本は政府単位で反他国教育していないという点で賢明なのに、歪んだ知識のみ吸収した一般人が始末の悪いことに正義感で反他国感情を煽動するようになってきている。
その姿は、その人が憎んでる相手とまったく同じ姿なのに気づいていない。実に、実に愚かだ。
そして自分こそが正しいなどと思っている。(実際は限定され取捨選択された伝聞情報をみて判断しただけ。思考はない。)
ナショナリズムの歪んだ姿で、知性のない感情的なあり方だ。無知性で感情的、そんな人ほど与えられた情報のみからしか判断せず、感情のみで判断して憎しみをもつようになる。いがみあいの連鎖。
自分は知識(偏った)がある分だけ普通の人より民族間問題に精通していると勘違いしている愚か者の大量発生だ。人の愚かさとは無慈悲なものだ。
偏った知識でも他人より多くの知識で判断しているのだからという錯覚で、馬鹿ほどインテリぶることができ、卑小な快楽が得られるためにそれは起こるのだろう。
隔離板で知性のかけらもないストレス発散の醜態を見せたり、なんでもかんでも反他国に結び付けるので疎まれていることに気づいてないのは本人だけだ。
群れに混じって中傷だけしてれば反論されない。自分と中身のないクズの常套手段である。
……( 中 略 )……
あるイデオロギーを押しつけようとしているのと変わりなく、それはまさに嫌韓している人が嫌ってる韓国人の姿となんら変わりない。
そこにはなにも知性は感じられず、感情にまかせて両者がなじりあっている、なんともまぬけな状況になってゆく。
以上、引用終わり。
人によってはこの文に対する賛否もあるだろう。また、ネット右翼やそれに走る人々について一面的な見方ではないか、という気がしないでもない。また、『気ままにつれづれ』さんはこのネタを2ちゃんねるで拾ってこられたそうだ。投稿者は匿名性の高いハンドルな上に、その投稿文もどこかからのコピペである可能性もあるので、どういう人が書いたのかは、私にはわからない。
だが、それでも私は思う。これほど見事にネット右翼に走る人々、いや、それだけでなく、全世界の排他主義に走る人々の心情について、これほどまでに見事に喝破した文章にはそうない。
なお、この文には及ばないが、私も以前この話題に関する文章を書いたことがある。
ここにリンクさせてもらっている「tsurezure-diary 」の4月10日記事のコメント欄に書いた文章である。詳細は、以下のコメント欄参照。
「愛国心」とか「伝統文化」というなら……。
「何故、社会的弱者にあたる人たちまでもがネット右翼に走るか?」という疑問の他、「何故、彼らはあれだけ排他的・攻撃的なのか?」という疑問について、私なりに考えたものである。
おそらくはこのコメントも、私が「反日」認定された原因のひとつではないか、と今になって思うのだが。
追記:
ところで、ここまで文章を書いておきながら、私はふと、ある種の虚しさというか、物足りなさを感じた。
これら(今までの文)は一助というか、問題の一面をとらえてはいると思う。
だが逆に言えば、問題の一面しかとらえてはいないのではないか、という気も私にはする。
ネット右翼と呼ばれる人々をただ叩くだけなら簡単だ。だが、それだけで十分なのだろうか?
「おそらく一部の煽動者や、いわゆる“プロ”等を除いては、ネット右翼と呼ばれる人々の多くは、実は社会的弱者やその予備軍みたいな人たちではないか?」という見方に基づいて、私は本論を展開した。
昔だったら、そういった人々は左翼運動や、あるいは【Under the Sun】などの「格差社会に反対しよう」という運動に加わったかもしれない。直接加わらなくても支持・賛同をしてくれたかもしれない。
だが……今の現実はそうはなっていない。何故か?
それは本論で述べた「ネット右翼に走る者たちが抱える問題」だけではないような気が、私にはする。
失礼を承知・覚悟の上で言わせてもらうと、それは「左派や自称市民派、あるいはリベラル派などといった人たち自身が抱える問題」でもある、と私は思う。
もっと言えば、ネット右翼が増殖し、あのような独善的な言動に至ったのには、いわゆる「左派(左翼)」とか「市民派」「リベラル派」の人たちにも責任があるのではないか、という気もする。
どういうことか?
詳しく述べていきたいと思うが、今夜はもう時間も紙幅もない。
次のエントリーで、それについて論じたいと思う。読者の皆さん、もう少しお待ちを!
とにかくこの問題は、ネット右翼と呼ばれる人たちをただ批判さえしていればいい(もちろん、それも必要なことではあると思うが)、という問題でもないような気が、私にはするので。
そして私にとっても‥‥昔,左翼運動に関わり、現在では「新自由主義反対」「格差社会反対」を主張している者の一人として、それは自省と自戒の意味をも込めた作業である。