京都の闇に魅せられて(新館)

いわゆる左派・市民派にも、ネット右翼増殖の責任がある!?(1)

 失礼を承知・覚悟の上で言わせてもらうと、ネット右翼の増殖と横暴の責任は、「左派や自称市民派、あるいはリベラル派などといった人たち自身が抱える問題」にもある、と私は思う。
 前回記事において私は、「何故、社会的弱者がネット右翼に走るか?」という問題について考えたのだが、そのうちにひとつの疑問を抱くに至った。
 昔だったら、そういった人々は左翼運動や、あるいは【Under the Sun】などの「格差社会に反対しよう」という運動に加わったかもしれない。直接加わらなくても支持・賛同をしてくれたかもしれない。
 だが……今の現実は必ずしもそうはなっていない。何故か?
 もしかしたら、彼ら自身だけでなく、彼らの支持や共感を得ることが出来なかった左派とか市民派と言われる人々の方にも問題があるのではないか? 
 そのようにも考えた。
 更に、ネット右翼と呼ばれる人たちは、左翼・市民派批判をやっているにも関わらず、その言動は実にサヨク(サヨク)的である。これは、『気ままにつれづれ』さんや山澤氏など、少なくない人たちが気づき、指摘されていることである。何故か?
 ここにも、左翼とか市民派とか言われた人たちの責任があると思う。そして、ネット社会のそれを含む、日本の言論がダメになった理由も、そこにあると私は考えている。


 このテーマについての文章は長くなったので、何回かに分けて論じていきたい。
 今回はまず、「いわゆるネット右翼(及び左翼・市民派批判をする人たち)の言動までもが、しばしばサヨク(左翼)的なのは、何故か?」という問題について、少し考える。

 まず、悪い意味で「サヨク(左翼)的な姿勢・言動」とはどのようなものを言うのか。
いろいろあるだろうが、いくつか思いつくものを以下に並べてみた。


・最初から、「自分の立場と言説が絶対に正しい」という前提と
・それ以外の立場は間違っているか、劣っているという前提で議論を進め
・自分と少しでも違う意見に対して、非寛容で攻撃的な態度をとり
・議論や異議と称して多数で詰め寄る。
・大声でまくしたてる。
・数の暴力で吊し上げる。
・勝ち負けや論破に固執し
・議論と言論の場を事実上占拠しようとする。

 
などなど……。
 つまり、「自分とは異なる立場の相手に対する配慮も全くなしに、自分の主張のみを押し通そうとする非寛容・排他的・独善的な姿勢や言動」をいうのではないか、ととりあえず私は考えている。
 全ての左翼・市民派関係者がそうだというわけではないが、先鋭的な左翼学生や活動家、運動団体等にしばしば見られた特徴である。これは、昔左翼学生運動にも関わっていた私が言ってることである。もちろん、私にもかつて(もしかしたら今でも)このようなところはあったかもしれない。
 しかしながら、悲しいかな。左翼や市民派などを批判している側の人たちにも、実はこういった特徴が見られる場合が少なくない。ネット右翼と呼ばれる人たちなんかは、特にひどい。というか、かつての左翼以下ではないか、とすら思う。

 何故そうなるのか?
 それは、「極右とかネット右翼などの排他的言動をとる人の姿こそは、かつて左翼とか進歩派などと言われた人々の鏡像であり、影のようなものである」からだ!
 つまり、「ネット右翼などの排他的・攻撃的言動には、左翼とか進歩派、市民派とか言われる人々にも責任がある」ということだ。

 もう少し詳しく説明すると以下のようになる。
 元々左翼運動、市民派運動などに関わっていた人たちがいるとする。その手の運動や活動に携わる人たちには時々いるのだが、「自分たちが絶対に正しい」と思うあまりに、非常に独善的で自分と違う意見や立場を認めたがらないというタイプの人がいる。
 はっきり言ってそのようなタイプの人は、相手の立場を考えずに、ただ自分の意見を押しつけてくるだけなので、実は嫌われたり、疎まれたりすることの方が多い。しかし、運動団体や同じ仲間内だけの狭い世界では、「熱心な活動家」として重要なポジションを占めてしまう。そして「自分と立場が同じだから」「その人の言動が活動を進める上でプラスになるから」等の理由で、仲間内からも注意されることもなく(あったとしても、少ない)、結局そのままのスタイルで通用してしまう。
 さてそういう人たちが、自分の理想を実現できずに挫折、あるいは何らかの形で壁や限界にぶちあたった、とする。というか、この種の活動はたいてい、一度は挫折や限界にぶちあたるものなのだ。あえてそこで踏みとどまる人もいるのだが、中には見切りをつけて、あっさりと反対の立場に行ってしまう人もいる。後者の人たちは、かつてのお仲間から「転向者」と呼ばれていた(もちろんその場合の呼び名には、軽蔑するニュアンスが込められていた)。
 「転向すること……途中で立場や考え方を変えること自体が悪い」などと言うつもりはない。ところが反対の立場に行っても、その独善的な言動スタイルは、ほとんどそのままという人たちが、実は結構いた。つまり転向先においても、その言論活動の手法とスタイルは転向前のそれとまったく変わらない。要するに、「立場は変わっても(変わったように見えても?)やっていることは結局同じ」なのである。
 困ったことに、転向先においてもこの種の人々は、その声のでかさなどの理由で、やはり大きな発言権とポジションを得てしまうことが多いようだ。そして、さらに問題なのは転向を受け入れる先の人々の姿勢である。このような転向者のスタイルを諌め、改めさせようとする姿勢はないようだ。それはやはり「自分たちと立場が同じだから」とか「その人を下手に諌めて余計な摩擦を起こすよりも、多少問題あっても黙認した方が、自分たちの言論・活動にとってはプラス」という“大人の判断”が働いているからなのか?
 結局、「左」だけでなく、「右」の人たちのこのような姿勢・言動によって、日本の思想・言論界は、有意義な異論を述べる人たちを事実上締め出し、発展性のある議論をしてこなかった。というより、育んでこなかったのではないか?
 日本では、90年代以降(注:マルクス・レーニン主義の崩壊が明確になり、大量の転向者を出した時期!)だけでなく、戦前・戦後にもこういった転向者が幅を利かせ、思想・言論界を一般人にとって縁遠いものにし、その発展性を奪い、ダメにしてきた。そのように私は見ているのだが。

 そして日本のネット社会の現状はどうだろうか? 
 残念ながら、ネット社会においても、前述の思想・言論界と同じような状況になっているようである。
 以下、参考までにITコンサル・山澤貴志氏が「るいネット」に投稿された文のいくつかを紹介し、一部を引用させていただく。

*ネットウヨク、ネットサヨクの事実解明に向けて 06/06/24

(以下、引用)

>……あなたもご指摘の通りプロ市民と呼ばれる連中がおります。で私はこの連中もネット界を堕落させた張本人として批判する必要があると思っていますし、るいネットが長らく実名投稿を基本としてやってきたのも批判するだけの左翼思想から脱却したネット環境をつくるためです。私が思うにネットはまずは左翼系を中心に展開されてきたが、その影響力故に次第に右翼系の方々も参加されてきたのではないか。とりわけ自民党のマスコミ支配の実態から鑑みて、インターネットにも相当力を入れてきたのではないか。それが新興勢力としてネットウヨクと呼ばれる現象を引き起こしているのではないか、と推論した訳です。……

(引用ここまで)


 長くなったので、そろそろ今回の結論に行く。
 このようにネット社会ですら、左右両方のプロと、それを容認してきた人たちによって食い物にされてきた、あるいは食い物にされつつある現状において、我われはどうするべきか。何を心がけたらいいのか?
 とりあえずできることといえば、

・ 違う立場、意見であってもなるべく、それはそれとして認める。
・ 論破(異質者の排除、言論空間の占拠)を目的とした議論を控える。


ということぐらいだろう。
 そして、「異なる意見の排除」「言論空間の占拠」を目的にした行為については、自分と同じ立場であっても、「それは違うよ」と諌める。
 このような、考えてみれば当たり前のことを心がける。
 いかなる立場や考えであれ、まずはそれから始めることが大事である、と思うのだがいかがだろうか?

 なお、「何故、社会的弱者と言われる人が、左翼や市民派と言われる人たちを支持しないのか?」という問題に対する考察については、もう紙幅も時間もないので、また次の機会にする。

コメント一覧

komichi@管理人
>犬さん
http://moon.ap.teacup.com/komichi/
 コメントありがとうございました。
 それにレスが遅くなりごめんなさい。

 あなたのご意見に対するレスを考えていたら、新エントリーができてしまいました(笑)。
 以下のエントリーをレスとさせていただきますので、ご了承ください。

http://moon.ap.teacup.com/komichi/91.html

 それでは。
声の大きい転向者もいるのかもしれませんが
インターネットにおいて「国民の賛同を受けている」はずの左翼への反対意見≒「ネット右翼」が増えたのはネットでの意見の言いやすさが原因ではないでしょうか。

リアルにおいて左翼的活動に異を唱えることは非常に危険で面倒です。演説会場に行き反対意見を言い集団リンチされる危険をその辺の市井の人間がそうそう積極的に行うとは思えません。
匿名だから気軽に反論できる。逆に言えば現状においてリアル左翼には、一般人は匿名でないと反論し難いのです。

そのようなネットだから出来る一般人からの反論に対して、左翼陣営は普通の国民の反論とはとらえず
「国民が正しい自分を支持しないはずがない」→「反対勢力の工作だ」→「右翼の反対攻撃」→「ネット右翼」
と短絡的にレッテルを貼って満足しているように見えます。
反対意見への短絡的なレッテル張りがネット右翼という想像上の化け物を永遠に生み出しているのではないでしょうか。

ちなみに右翼街宣車の「韓日友好」という文字をみて
これを書いたのは日本人右翼じゃなく韓国人の偽右翼じゃないのか?
と小馬鹿にし、リアル右翼の理論や行動にもリアル左翼に対するのと同じような突っ込みを入れる
ネット右翼の態度からみればわかるように、
彼らは単純にアンチ左翼思想のネット「右翼」だとレッテル張りしてよい存在ではないと思うのですが。

ネット弁慶ではありますが、彼らも普通の国民の声の一部なのだと認識しない限り、左翼活動はますます一般社会から乖離するのではないでしょうか。
komichi@管理人
 これから仕事なので、あまり時間がないのですが、とり急ぎレスをさせていただきます。
http://moon.ap.teacup.com/komichi/
>morichanさん

 コメントどうも!
 本文でも少しだけふれましたが、実はこの見方は、昔左翼学生運動に関わっていた時、そこから離れた後に思ったことでもあるのです。
 もうしばらく多忙のため、新エントリーも滞りがちになるかもしれませんが、今後ともご意見等あればよろしくお願いします。


>山澤さん

 るいネットでの2つの投稿文、非常に興味深く読ませていただきました。

>このように見ていくとネット右翼現象の本質は「差別的言論」がもたらす自我的快楽性にあり、その主導者が私権派のネット産業(大人)と自己中派の厨房(子供、そしてニート)だということになります。

 日本のネット社会において、需要側としての「自己中な人々」と、供給側としての「差別的言論を容認し、煽るネット産業の人々」とが存在することが、いわゆる「ネット右翼」現象の背景にある。
 この見方は非常に興味深いもので、今後の参考にもさせていただきたいと思います。
 
 左翼の問題に関して言えば、「平和」や「人権」などといった主張がマンネリ化(あるいはマンネリ化したという印象をもたれたこと)があると思いますが、その理由がご指摘の点にあると思います。
 それらを絶対化しすぎて、まともな論議がされてこなかったことも、いわゆる左翼・市民派退潮の一因であるという見方には同感です。
 なお、今後は別の観点からも、左翼・市民派退潮の原因について考えたいと思いますので、またご意見等さればよろしく。
山澤
> 「何故、社会的弱者にあたる人たちまでもがネット右翼に走るか?」
http://real.zoom-in.to/blogn/
>「何故、社会的弱者と言われる人が、左翼や市民派と言われる人たちを支持しないのか?」

という問題提起を受けてネットウヨクというものを現象として再度見直して見ました。

ネット右翼現象の背後にあるもの①~ビジネスとしての差別主義
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=126168

ネット右翼現象の背後にあるもの②~自己中‘厨房’の問題性
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=126169

ここで左翼の問題に絞るならば

>「人権・平和は絶対」といった紋切り型に終始し、実態として人権の名の下での逆差別が横行し、平和の名の下での戦争がまかり通る、という現状に対して有意義なる言論を提示しえていないという点が大きいのではないだろうか

という結論に至りましたが、如何でしょうか。
morichan
 なかなか耳の痛い話です。
http://green.ap.teacup.com/passionnante
 自分の主義主張を明確にしたと思い込んで、それと対立する論には表面上は優しく、それでいて、相手を叩きのめす論を展開する。
 思い込みの論理は足が宙に浮いた状態で、「左」「右」双方にあり、その状態の中にいる仲間を味方としてどんなことも容認してしまう関係が出来上がるのだと思います。
 外から客観的にこの人間関係や「左」「右」を見たとき、双方の差を感じさせない様相がここにあるのかも知れません。
komichi
>喜八さん、kaetzchenさん
http://moon.ap.teacup.com/komichi/
 右翼、左翼の分類(あるいは単なるレッテル貼り?)が、「今でも有効かどうか?」という議論はあるようですが、私は「全く無意味というわけでもない」とも考えております。

 右翼、左翼のありかたについて、もう少し私なりに考えていきたいと思いますので、またご意見等あればよせてください。

 とりあえず、これから仕事に行きますので、今回のところはこれで。

 それにしても、最近喜八さんとこにTB送ろうとしてもうまくいきません。何故?
kaetzchen
>喜八さん
http://blog.goo.ne.jp/kaetzchen/
「反米主義」という意味では,戦後日本の右翼と左翼は基本的に同質のものです。単純に社会主義を認めるか認めないかだけ(笑) ところが,天皇制を認めるか認めないかになると,左翼の中で内ゲバが発生します。これが「国体護持」の結果であり,左翼を分裂させる原因となっているのです。
喜八
こんにちは。
http://kihachin.net/klog/
なるほどウヨとサヨは似ているということですね。
私はもともとノンポリなので、ぜんぜん気づきませんでした。(^_^;)
kaetzchen
http://blog.goo.ne.jp/kaetzchen/
komichi さんは komichi さんの立場がありますから,「天皇制」まで含めて議論しろと詰め寄ることはありませんから,安心して下さい(笑)

入手困難と思いますけど,岩波文庫の戸坂潤『日本イデオロギー論』が比較的分かりやすいかなと思います。高1の時『科学論』と一緒に古本屋で見つけて,値切って読みふけった記憶があります。

「一族郎党すべて極刑にするのが原則」なのは大陸では常識です。また,出雲大社や太宰府天満宮のような巨大な神社はかつてそこに強大な国家が存在し,伊勢神道がその国家を皆殺しにしたため,殺した人の「たたり」を怖れて怨念を封じ込めるために建てられたという説を日本民俗学の本で読んだことがあります。

私は人類学の立場で人間を客観的に観察していることが多いので,「過激」と誤解されることが多いようですけど(笑)
komichi@管理人
>kaetzchenさん
http://moon.ap.teacup.com/komichi/
 私は今回は「天皇制」という問題にまでは切り込んで考察しておりません。
 考えてみれば、日本のイデオロギー問題を考える時には重要なファクターであるのですね。ですから、今回の考察はkaetzchenさんからすれば、もしかして不十分なものになるかもしれません。

 天皇制、天皇問題に関していえば……。
 私はkaetzchenさんみたいに「一族郎党すべて極刑にするのが原則」とまでは言いませんが(笑)、「ポツダム宣言受諾時に退位」とか、何らかの形で責任を明確にした方がよかったのではないか、とは思いますね。
komichi@管理人
>華氏451度さん
http://moon.ap.teacup.com/komichi/
 議論とは本来、「意見交換をする」とか「自分とは違う見方があることを知る」ためのものだと思うのです。
 が、何故か双方がムキになって「相手を言い負かす=勝つ」ことが目的と化している傾向が見られます。
 かくいう私も、昔はそういうところがありましたから、本当はあまりエラそうなことはいえないのかもしれませんが……。

 ネット社会を含む、日本の言論の場では、まだ「異なる意見の存在を認める」ということがまだまだ浸透していないのかもしれませんね。
 何故か? どうすれば、その状況お改善できるか、というのは今後も考えていくべき課題ですが。

 以下は私見であり、なおかつ数ある要因のうちのひとつに過ぎないのですが……。
 議論が「言い負かし合い」になってしまう原因のひとつとして、論者同士が自分の考えと、「個」と、良い意味での自尊心(というか自己肯定感)というのを確立できてないことがあるのではないか、と考えております。
 その3つを本当にあわせもっている人ならば、自分とは違う意見や価値観に出くわしても、「それくらいで自分が失われたり、揺らいだりすることはない」という自信があるから、それらを受け入れられる。
 逆に、その3つがない人は、「異なる意見を認めたり受け入れたりすることによって、自分が変えられたりする」ことを必要以上におそれ、逆に自分(の意見や価値観)に固執しすぎて、かたくなになり、相手を打ち負かして不安を除こうとする。
 そういうところがあるのでは、と思うのです。
 
 その他、言論界やネット社会が抱える問題もあると思うのですが、それはまた別の機会に考えるとしましょう。
kaetzchen
もともとは戦後日本の左翼運動が「反米運動」という「ナショナリズム」を基盤にしていたことが原因ですよ(笑)
http://blog.goo.ne.jp/kaetzchen/
私の親父はいわゆる50年安保世代で,全学連の一人として東京でデモしてた一人なのですけど,デモ先の一つが「江戸城」でした。私は「あいつらはA級戦犯なんだから,一族郎党すべて極刑にするのが原則で,それを反米闘争へすりかえたのは矛盾ではないか」と親父に質問したら,さすがに返答はできませんでした。

つまり,日本の左翼運動は「国体護持」の上に成り立っていたため,根本原因である「天皇制の抹殺」を思いつかせないよう,思想コントロールをされていたと言っても過言ではないのではないのでしょうか。社会的弱者が市民派を支持しないのも,実は天皇制の問題が大きく関与しています。
華氏451度
http://blog.goo.ne.jp/bebe2001pe
昨日あるところで「ディベート」の話になり、私はディベートは嫌いだと言いました。なぜならばディベートにおいては「相手を言い負かす=勝つ」ことが目的。相手の言うことを理解しようとして考え込んでは負けになるので、相手の揚げ足をとりつつ大声でガムシャラに持論を展開しなければなりません。

「ネット右翼」の問題は置いても、現在、ネット上ではこういうディベート型の議論のやり方が主流であるように思う。komichiさんの言われる「当たり前のこと」が確立していない気がします。なぜだろう、と私も考え込んでしまいました。
雪おんな☆
初めましてぇ~こんばんは☆
るいネットでトラックバック見つけましたぁ(^0^)/

私は何回教えてもらっても、いつもどっちが右翼でどっちが左翼か分からなくなります。。というより一緒に見えるんです(^^;)
それなのになんで仲が悪いんだろうなぁとか不思議だったりしたんですが、ちょっと分かった気がします。まだすっごくちょっとですけど(笑)

続き、楽しみにしてますね♪
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