おはようございます。
Konemy述べる時間です。
仮の話をしましょう。
ありふれた仮定の話です。
もし仮に、人の運命を見ることが出来たら。
そして、その運命を変えることが出来たら。
そもそも
「運命」を信じるか、信じないか
そこから話を始める必要があるかも知れません。
以前、このブログの中で書いていそうな事ですが
私は「運命論者」です。
ただし、厳密な意味でいうところの「運命論者」ではないと考えます。
「運命」とは「人の意志を超越した力」であり
人の幸、不幸を定める力であります。
人の意志を超越したものですから、人間の意志は介在する事が叶わない。
しかしながら、私が信ずる「運命」は違います。
「人の意志を超越した力」でありながら
それは「人間の選択」の上に成り立っている。
選択する意志、ここに運命があるのです。
何だか、書いているうちに私が「運命論者」なのか
怪しくなってきましたが。
ならば、なんと称するのが適切なのだろうか。
それほど考えてはいませんが
私のこれは
「事実信奉」とでもいいましょうか。
「選択」と「運命」
本来、相反するはずの二つによる結果、生じたもの。
「事実」です。
私はこの「事実」を信じているのでしょう。
訳のわからん話になってきましたが
あれ、前提がおかしくないか。
「運命」=「人の意志を超越した力」
これ、見ることも変えることも人間には不可能なのではないか。
仮の話をしているのだから、不可能なことだって仮定できる訳ですが。
さて。
ここまで読んだ人の中で
冒頭の仮定に違和感を覚えた人はどれほどいたでしょうか。
言葉とは難しいものです。
皆さん、「運命」はどういった用法をされていますでしょうか。
それでは bye! Konemy
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