現在いろいろな博多の歴史書で見るこの「博多古図」はじめ
いろいろな地図は黒田三奈木家に残されとったものです。
黒田三奈木家てなん?
聞いたことはあるばってんが知らん人も多かて思います。
場所が近かけん秋月藩?て思う人もおりまっしょうね。
違いますばい。黒田本藩の筆頭家老の家ですたい。
「黒田二十四騎」の一人でその中の精鋭「黒田八虎」の一人
黒田三左衛門(美作)本名「黒田一成」
この人の人生は面白かです。恩義が恩義ば生んだ・・てな感じ。
幼名は「加藤玉松」そうもともと黒田の家系や無かとです。
その父は加藤重徳、荒木村重の有岡城の牢番やった人です。
この人は村重の説得に失敗し投獄された黒田官兵衛ば
手厚く見守った人です。
黒田家の家臣の叔母が有岡城におり官兵衛の世話ばするとば黙認したり
たびたび忍んできた「栗山善助」と官兵衛が会話するとも容認しとったとです。
もともと黒田家はあそこら辺の出やけん親戚のおっても不思議や無かですもんね。
官兵衛が助け出されたとき息子の松寿丸(長政)は殺されたて
思うとったけん、加藤重徳の恩に報いるためその息子「玉松」ば養子に引き取ったとです。
ところが松寿丸は秀吉の計らいで竹中半兵衛の下でかくまわれて生きとったとです。
ばってん玉松は長政の弟同様に育てられのちに三左衛門て名乗り
長政の右腕として生涯、活躍し黒田家の筆頭家老ば務めます。
長政につき朝鮮出兵、関ケ原でも功績ば残します。
筑前入国後、名前ば黒田美作(みまさか)としとります。
時は忠之の時代「島原の乱」で幕府郡が佐賀、久留米、柳川、島原四藩の兵で攻めますばってんが
敗退、そこで援軍として九州全部の大名が駆り出され
黒田藩も1万8千の兵ば繰り出しました。
黒田騒動の恩義があって汚名挽回て忠之は奮起しますばってんが
総大将の老中の松平伊豆守信綱は黒田の老臣黒田美作ば
軍議に呼んで知恵を借り、兵糧攻めば決め乱ば治めました。
朝倉三奈木に居ば構えたけん黒田三奈木家て言われとります。
黒田家の中で唯一幕末まで家老ば務めた家であります。
今回はおふざけ一切なしであります・・・チャンチャン
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