千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

福岡(黒田)藩考

前回の続きです。

そのころ福岡博多「福岡(黒田)藩」はどげんやったっちゃろう?

関ヶ原の功績によって黒田長政が筑前ば与えられて福岡ができたとは
皆さんご存知ですね。
その前は官兵衛が豊前領主やったとが筑前にやってきました。
長政に家督ば譲った官兵衛は太宰府で余生ば過ごしたゲナです。

ばってんが、福岡ができたとはたかだか、ここ300年
博多はそれより大昔から栄えた商業都市です。
山笠行事で町人の結束の固うて新参の領主も扱いには気ばつかうたらしい。
始め前任者の小早川秀秋の名島城に入城したばってんがその地は博多の東はずれ
海に囲まれ立地条件も良うなかったけん
福崎の地に7年かけて城ば築城します。
その天守閣があったか否か?は未だ解明されとらんとです。
別名「舞鶴城」て言うて今もこの地に「舞鶴」て言う地名が残っとります。

長政は藩政に博多の町民ば取り込んで治めました。
途絶えとった松囃子(今のどんたく)も復活させ
焼失しとった東長寺も今の場所に建立しとります。
官兵衛に負けず劣らぬ文武に奏でた名君やったごたります。

当時の黒田家臣団は6~7000人ほどやったらしい。
主に備(そなえ)・組(くみ)ていう戦闘集団と
「役方(やくかた)」て呼ばれる行政官としての役職にわけられとったげな。
家老には黒田官兵衛の一の家来「栗山善助」の子「栗山大膳」がおりました。

島原の乱以後、外国船が入って来んごと長崎警護で参勤交代ば免除されたげな。
佐賀鍋島藩とは仲の良かったごたります。

黒田藩では馬廻組まで屋敷住まいやったげな。やっぱ規模の大きな藩やったとですね。

お江戸のごとお城が出来て町がでけあがったとと違い
博多は大昔から博多の町が存在したけん武士の町福岡と町人の町博多は
那珂川ば挟んで向こうとこっちにわかれとります。
福岡部が武家屋敷と下士の住む長屋です。

長政には三人の子供がおりまして
忠之は世継ぎ、弟の長興に筑前秋月藩5万石、高政に筑前直方藩4万石が与えられたけん
福岡藩(黒田藩)52万石て言うたっちゃ実質43万石であります。

長男忠之は長政の側室の子やばってんが長政はこの側室ば嫌うとって
遠く橋本(七隈線の終点)に住まわせ忠之も橋本で生れ育ちました。
長政はこの忠之に後ば継がせとう無かったばってんが後ろ盾の「栗山大膳」の
後押しで忠之は2代藩主になりますと。

ところが忠之は説教がましい大膳ば疎ましゅう思いここから黒田騒動の起こります。
お家取りつぶしの沙汰ほどの騒動やったばってん・・・

その昔、長政が信長の人質やった時、官兵衛が荒木村重に寝返ったて疑われ
長政の首ば跳ねよて信長が命令したばってんが長政は竹中半兵衛にかくまわれて生き残ります。
官兵衛が栗山善助らの手により有岡城から救い出された時、信長は
長政ば殺せて言うたとば涙流して官兵衛に謝ったげなです。

そげな縁もあり、官兵衛は半兵衛の子竹中重門の烏帽子親ば務めとります。
その重門の口利きで黒田家は領地取り上げやったばってん
その日のうちに再度52万石ば拝領、おとがめなしやったげな。

これはお上のお話・・・・

なら博多町人はどげんしよったとでしょう?

お上から博多の行事一切ば任された年行司(その前は月行事て言いよった)て言う人がおって
藩から博多の一切の差配ば任されとりました。
税金と別にジョウギリ銭て言うて博多の祭りごとの積立金ば納めよったとです。
博多はその頃はすでに「流」て言う町組で組織されとって
その長が「町年寄」です。
その配下で山笠行事やらの一切合財がとり仕切られますと。

年よりて言うたら今のおいしゃんんのごと
使いもんにならん人たちておもいますばってんが重要な仕事しよったとですね。

暮れも近いこの頃・・こげなと書きよったら足のがつった・・・

どげんかならんもんかいな


>あ痛たたや誰か助けてくれんやろうか・・

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