へっぽっこ 野良ネコぐれん隊!(仮) 目指せ!ノンフィクションなライター!

うちのネコと昭和 新宿独立愚連隊残党
懲りない面々なんかとの つれづれテキトー奮闘記 

友愛社ブログから・・その2

2011年05月14日 | 歌舞伎町オッサンと・テリー親分 夢枕

当時の新宿には、町井の舎弟分が四人いた。現伊藤興行初代会長、伊藤晃、柳川、陳滝本、それぞれ勇猛果敢な猛獣たちだった。彼らは競合しつつ共存していたのである。その頃、台湾人の陳の舎弟になったのが後に旋風を巻きお越す新宿少年愚連隊の帝王と恐れられた三木ひろむ達であった。東声会は本来、暴力団ではなかった…と?在日民団の同胞は言う1948年9月に朝鮮民主主義人民共和国が建国され、55年5月、北朝鮮の海外団体~在日朝鮮人総連合会朝鮮総連が、誕生した57年、町井は権弁護士の勧めでこの総連に対抗する右翼団体として東声会を結成した昭和32年12月浅草で結成式が盛大にとりおこなわれることになった。俺は、東声会の結成式には間に合わなかった33年1月末に京都刑務所を出所したばかりだった俺は、新宿伊藤興行初代会長、伊藤晃に連れられて、東京の土を始めて踏んだ。と言う訳だ。それから俺の破天荒な人生が始まって行く。
二丁拳銃の侠唐田知明の黒い履歴書が始まるのである。
昭和32年12月、東声会の結成式が、何故、浅草で行われたのか、と言うことだが、当時の町井グループは、ドングリの背比べで、その中で一際目立ち頭角を表していたのが、浅草で覇を競っていた広村興行だった。広村は、力道山と故郷が同じ北朝鮮だった。こうした関係で、力道山は、町井との親交が深まって行くのである。
巷では、児玉が力道山を町井に合わせたように言われているが、決してそうではなかった。広村と力道山は、先輩、後輩の間柄で、広村を兄さんと従っていた。この事実に偽りはない。しかし広村は若くしてこの世を去った。
広村の系統は、高山三郎と春男兄弟で、途絶えている。その高山兄弟も鬼籍に入ってしまった。現在、広村興行と柳川興行が合併し広柳会となっているそうだが、詳細は不明だ。俺は、上京して数ヶ月、伊藤晃の自宅で、部屋住の若者として修業をしていたが、兄貴分の岡田龍の助が、上京し新宿に定住してからは、藤田五朗や、宮永、二瓶、岡田等が、プロダクションを創設したので、俺もその一員に組み込まれることになった。その頃の新宿は活気があり、華やかだった。

 


実録 東声会 京都支部長  唐田智明氏 友愛社ブログ その1

2011年05月14日 | 歌舞伎町オッサンと・テリー親分 夢枕

実話時代に連載した記事の一説を加筆し編纂したものである。東声会町井久之権力への野望?昭和二十年代後半から三十年代にかけて、在日朝鮮人を主体とする愚連隊?東声会が、首都東京を中心に組織拡大を図って活動を開始した彼らの独自な絆は過激な行動に一層拍車をかけ、瞬く間にその勢力は拡大して行った。1958年6月1日、東京で開かれた第3回アジア大会が最終日を迎えていた夜閉会式を前に完成間もない神宮球場では、サッカー決勝が行われ、韓国と台湾が白熱した試合を繰り返していた。韓国が先制したこの試合は、ラフプレーが目立つ大荒れの展開となった。退場で一人欠いた台湾が後半逆転すると、韓国もすかさず追い着く。延長戦で台湾が勝利しスタンドは沸きに沸いた。韓国がまだ貧しかった時代、町井は海外遠征のユニフォームを用意するなど、経済的に何かと面倒を見てきた。そうした意味でもこの試合は、町井にとって感慨深いものであった。その当時のヤクザと愚連隊の激戦地は、浅草から新宿へと移行していた。深夜営業の喫茶店やバーが急増し博徒やテキヤなど様々なグループが流れ込んできた。そこに新興愚連隊が我が物顔で闊歩する新宿の街へと豹変して行ったのである。車が触れたの目が合ったのと、些細なことで対立するヤクザ仲間の抗争事件が頻繁に発生し警察は、暴力団の縄張り争いと、新興勢力の東声会を取り締まった。