当時の新宿には、町井の舎弟分が四人いた。現伊藤興行初代会長、伊藤晃、柳川、陳滝本、それぞれ勇猛果敢な猛獣たちだった。彼らは競合しつつ共存していたのである。その頃、台湾人の陳の舎弟になったのが後に旋風を巻きお越す新宿少年愚連隊の帝王と恐れられた三木ひろむ達であった。東声会は本来、暴力団ではなかった…と?在日民団の同胞は言う1948年9月に朝鮮民主主義人民共和国が建国され、55年5月、北朝鮮の海外団体~在日朝鮮人総連合会朝鮮総連が、誕生した57年、町井は権弁護士の勧めでこの総連に対抗する右翼団体として東声会を結成した昭和32年12月浅草で結成式が盛大にとりおこなわれることになった。俺は、東声会の結成式には間に合わなかった33年1月末に京都刑務所を出所したばかりだった俺は、新宿伊藤興行初代会長、伊藤晃に連れられて、東京の土を始めて踏んだ。と言う訳だ。それから俺の破天荒な人生が始まって行く。
二丁拳銃の侠唐田知明の黒い履歴書が始まるのである。
昭和32年12月、東声会の結成式が、何故、浅草で行われたのか、と言うことだが、当時の町井グループは、ドングリの背比べで、その中で一際目立ち頭角を表していたのが、浅草で覇を競っていた広村興行だった。広村は、力道山と故郷が同じ北朝鮮だった。こうした関係で、力道山は、町井との親交が深まって行くのである。
巷では、児玉が力道山を町井に合わせたように言われているが、決してそうではなかった。広村と力道山は、先輩、後輩の間柄で、広村を兄さんと従っていた。この事実に偽りはない。しかし広村は若くしてこの世を去った。
広村の系統は、高山三郎と春男兄弟で、途絶えている。その高山兄弟も鬼籍に入ってしまった。現在、広村興行と柳川興行が合併し広柳会となっているそうだが、詳細は不明だ。俺は、上京して数ヶ月、伊藤晃の自宅で、部屋住の若者として修業をしていたが、兄貴分の岡田龍の助が、上京し新宿に定住してからは、藤田五朗や、宮永、二瓶、岡田等が、プロダクションを創設したので、俺もその一員に組み込まれることになった。その頃の新宿は活気があり、華やかだった。