ライバルは島耕作?何も専務の奮闘記

ファミリービジネスを担う?ボンボン育ちの何も専務・・・ライバルであったはずの島耕作はとっくに社長->会長->相談役・・・

一市民にもできたこと

2011年03月21日 | 学んだこと

『家の中はメチャメチャで、水道は来ていませんが、私は大丈夫です!』
メーリングリストに投稿された文書は、日本ふるさと塾を主宰する萩原先生@茨城県からのものだった。

今から8年前の青年会議所時代、県議会議員選挙の公開討論会のコーディネータをお願いしてからのご縁で、『みらいを担う子供達のために』という題で講演会を開いていただいたりと、自分のまちづくりの先生として尊敬してきた先生が困っている・・・

地域経済を活性化するための飲み会?の席で、この話を当時からの仲間にしたところ『行かざ~よ』ということで、直ぐに話がまとまった。
とはいえ、飲み会終了後直ぐにネットで調べてみても、道路は不通で行く手段もない・・・
それでも、毎日茨城県の被災状況を知らせるTwitterサイトや、nexco東日本のサイトのチェックを続けていたところ、ついに速度制限付きながら、先生のところまで一般車両が高速を通行できるようになったと表示された。

直ぐに有志を募ったところ、当時の焼津青年会議所で副理事長を務めてくれていた良知さんと、清水さん、そして監事の塚本さんが『はい喜んで』と手を挙げてくれた。
それでも、お互いそれなりに忙しい身(特に良知さんは4/10の県議会選挙のための活動中)ということで、日程は当然の如く弾丸ツアー。
19:00に当社の駐車場に集合して、一路茨城へと向かった。

いつもの休日は大渋滞が当たり前の海老名SA付近もガラ空きで、東名高速はスイスイ。
首都高速に入っても、その状態は変わらずで、看板のネオンが消えたまちは、不気味なほど静かだった。



そして、常磐高速道路に入ると、速度制限が50km/hに変わった。
それでも、流れに乗ってそれなりのスピードで走っていると、『この先段差有り」という、普段我々が工事現場で使っている看板が目に入ったと思いきや“がくんっ”という衝撃が車に走る。
まさか、高速道路に段差があるとは思わなかったので、心の準備ができていなかったせいもあり、慌てて舌をかみそうになってしまったが、50km/h規制の意味が良~く理解できた。

そんなこんなで、22:30前に萩原先生のご自宅に到着。
差し入れのお米30kg&買い物袋×4の野菜をお渡ししたところ、『茨城産の野菜から放射能が検出された』というニュースが流れた瞬間、一切の野菜が流通しなくなってしまったとのことで、先生の奥様(差し入れに来たのに「いくらお支払いすればよろしいですか」と言われたのには困ってしまいましたが・・・)に大変喜んでいただいた姿が印象的だった。

昔話に花を咲かせながら、地震直後の様子や、震災後のまちづくり等について、先生と息子さんから熱く&熱く語って戴いたことは、これからの自分の生き方にとって、大きな影響を与えて戴いたと思う。


 <津波による陥没に伴うブロック塀の崩壊@大洗>

今回の強行軍を通じて、
-岩手・宮城・福島と比較して相対的な規模は小さいものの、茨城も甚大な被害を受けていること。
-放射能汚染の風評により、茨城では野菜が全くと言って良いくらい流通しなくなってしまったこと。
-ガソリンスタンドの営業再開を待つ車が、街灯の明かりが消えた道路の路肩で、夜を徹して延々と並んでいる姿。
等々・・・

マスコミが伝えてくれない(決められた枠の中におけるニュースの取捨選択は致し方ないものの・・・)現実が、そこにはあった。
しかしながら、これらの現実を肌で感じたことの意義以上に、先生に仰っていただいた『こうして会いに来てくれたことが、我々にとって一番嬉しいことです。元気を頂戴しました。ありがとう。』という言葉が、自分の胸を熱くしてくれた。

我々がとった行動は、被災地全体の支援という観点から見れば、本当に小さなことに過ぎない。
また、ガソリンを節約しましょうと言われている時に、一晩で50リットルの燃料を消費してしまったことは、大きな罪なのかも知れない。

それでも、萩原先生夫妻の笑顔。
「明日になったら、すぐにご近所に野菜をお裾分けしなきゃ」と仰っていた、先生の奥様の行動による幸せの連鎖。
そして何より、『できない理由を探してウジウジしているよりも、やろうと思って行動に移せば、できないことはない!』ということを改めて気付かせてくれたことが、今回の弾丸ツアーの意義だったと思う。

さ~てとっ、もう一踏ん張りしてから、仮眠することとしようzzz



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