ごきげん練習帳 〜自分トリセツの作り方〜

自分と人生を楽しむための”セルフ・コーチング”ノート

生きているのに、死んでるように感じていたら・・・

2014年03月01日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)

 

 

昨日は、終日、某大手企業様の管理職研修に

入らせていただきました。

 

ご参加の皆様は、これから1ヶ月かけて、

ご自身のエネルギー漏れの穴を塞ぎ、

ご自身の基盤を整えていく、ということに

取り組まれることになっています。

 

 

 

研修をしながら色々なことに気づきました。

 

いくつかあるのですが、今回は、

生きているのに、なんか自分が生き生きと生きている感じがしない、

ということについて書いてみたいと思います。

 

 

 

企業で働く皆様は、本当に忙しい。

日々、納期に追われていたり、ノルマに追われていたり、

乗り越えても乗り越えても襲ってくる波に、

飲み込まれないように必死に船を維持している・・・

そんな感じを受けることもあります。

 

そんな日常の中で、

ご自身のエネルギーがだだ漏れ状態で

自分がすり減っていく感覚を持つ方も少なくありません。

 

そういうときって、聞いてみると、

これから来る未来の納期のことや、仕事の結果のこと、

あるいはプライベートの今後の生活のことを考え、

不安に駆られたりしています。

 

すると、常に「今」に居られなくなります

 

そして、その不安を埋めるかのように、

また目をつぶって走るのです。

 

そしてそんな心の使い方がついつい習慣に……

 

 

そこにさらに、やっても認められない、うまくいかない…

そんなふうに思って「諦め」の気持ちがプラスされていったりすると、

ついには、エネルギータンクにガソリンを入れることさえ、

忘れてしまいがちになります。

 

 

食べ物を食べていれば肉体は維持できるでしょうけれど、

人はパンのみに生きるにあらず。

心にも栄養が必要です。

ここが枯渇してくると、

肉体としては生きているけれど、

人として健全に生きているとは言えなくなります。

 

そんなときは、

心にもエネルギーを入れてあげることが

緊急で重要な事項となります。

 

 

 

 

では、

心のエネルギーって何でしょうか?

 

それは、

「目的も成果も効果も、そんなことはどうでもいい。

 とにかくやっていて楽しいこと」

「今に居られること」

です。

 

それを実行することです。

 

 

 

私の場合は、こんなことがありました。

 

やはり仕事で連日、夜中帰りが続いていたときでした。

そんな生活では、学んでいる講座に参加することも無理だと思い、

週に1回の夜の講座を1年間、休学していました。

でも、なんだかアプトプットばかりで

自分が枯れていく感じがしたのと、

講座の有効期限が迫ってきたこともあり、

それを思い切って再開したのです。

すると、1時間の講座を受けた途端、

まるで砂漠の砂が水を吸い込むかのように、

私自身の魂に、栄養が行き渡り、

枯渇していた細胞が、甦るような感覚を持ったことを覚えています。


講座を受けた後は、どこからかエネルギーが湧いてくるのです。

それは、もう驚くほどでした。

自分の心が、こんなふうに喜べるってことに、ビックリ

 

 

私には、ストレングス・ファインダーでいう「学習欲」

という強み(傾向性)があるのですが、

何かを学んでいる、吸収していると、自分が活性化するんですね。

 

 

 

また、

マイ・コーチに「今に居られることは何?」

と聞かれ、

自分にとっては「歌うこと」だと思い出したときは、

カラオケで初めての「オール」というものをしました。

本当は、ハーモニーを作ることが好きなのですが、

それは無理でも、とにかく歌うことはできる。

なので、カラオケへ。

 

そして歌ってみると、そうそう、私ってこうだったよね

という忘れていた感覚を思い出せた気がしました。

 

 

 

心が栄養失調になっていると思い当たる方がいらしたら、

どうぞ、大至急、心に栄養剤を!

 

 

 

 

クリックいただけると嬉しいです。↓

 

 

 

 


映画『happy』を観てきました

2013年12月05日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)

 


一昨日、『happy』という映画を観てきました。

友人コーチが主催する自主上映会でした。

 

その中では、世界のさまざまな国の、さまざまな立場の人が

幸せについて語っています。

それらの人々の言葉と映像を、

著名な学者たちのコメントを骨組みとしながら、

その周りにコラージュのようにちりばめた作りとなっていました。

 

私自身は、いじめられている子どもが

自分がどんな気持ちかを、勇気を出して語るシーン

ぐっと来て、涙がハラハラと流れ出ましたが、

どこが山場、ということもなく、

すべてのシーンがハイライト、

そんな映画だと思います。

 

 

沢山のメッセージが詰まっています。

 

happyを感じられるために大切なのは、

・大切な人たちとのつながりを感じていられること

・誰かのために自分の力を使っていると感じられること

・自分が好きだ!と思えることをしていられること

などなど……

多くのことに気づかされます。

 

正解はありません。

 

それだけに、何度も読み返したい本のように、

何度も観たい、味わいたい、

噛めば噛むほど味が出る、

スルメ(!?)のような映画になっていると思います。


観た時には、特別でっかいインパクトがなくても

その後、ボディーブローのようにじわじわと効いてきます。


友人コーチは、観るたびに、

その時の自分によって、感じるところが違う、と言っていました。

 


近々、DVDも出るとか。

私もまた、観てみたい、

そして、一人でも多くの人に観てほしいなあ、

そう思います。


これを読んでくださっている皆様も、チャンスがあれば、

ぜひ、観てみてくださいね




フェースブックのファンページはこちら↓
https://www.facebook.com/happyrevo

 

 


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仮説思考が進化を速める! ~『3分でわかるロジカル・シンキングの基本』~

2013年10月02日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)

 

 

久しぶりに、ロジカル・シンキングに関する本を

読んでいます。

 

コンサルタントの人が書いたもので、

数ある論理思考のフレームワークから

これだけあれば十分、という、

エッセンス的なものを選んで紹介してくれています。

 

ほとんど知識として知ってはいたものなのですが、

今回、読んでいて、

ロジカルな思考法って、

意外と普段の日常にも気軽にいかせるんだ、

ということに気づき、

所々でとても深くうなずくことがありました。

 

たとえば、「仮説思考」について。

 

 

著者は、何かの問題を考えていく上では

仮説思考を使うことの重要性を説いています。

精確なデータに固執せず、

ともかくも、仮の推理を立ててみることが大切というのです。

そして、

「重要なことは最初に立てた仮説の精度ではなく

『仮説→検証→修正』のサイクルを

いかに早く回すことができるか」

だと言っています。

 

「仮説は間違っていていい」といいます。

その代わり、事実と推測が違った場合、

すぐに修正する、のです。

 

頭をガンと殴られた思いでした。

 

これは、私流の翻訳をすると、こういうことです。

 

考えても答えのわからない時には、

とりあえず、これじゃないか、と思うことをやってみる。

やってみると、違ったとか、これでよかった、

ということがわかる。

違ったら、別のやり方、あるいは別の方向性で、

またやってみる。

それを繰り返すうちに、本当に望む所に到達するよ、

ということです。

 

たとえば、100枚のカードの中に

1枚の「あたり」カードがあるとしたら、 

どれが「あたり」か、うんうん考えてないで、

とりあえず、これと思う1枚を決めて、めくってみる。

めくってみてはずれだったら、

次の1枚をめくる。

 

そっちの方が、早く「あたり」カードに

出会うことは、当然ですよね。

 

だって、透視能力でもない限り、

あたりの1枚はわからないんですから。

 

 

なのに、考えても仕方のないことを考えて、

無駄に時間を使っていることって、

私の場合は多いなあ、と思います。

 

「仮説思考」。

もっと使っていけると、

ごきげんになれる確率も高まる気がしました。

 

 

 

 

 


『少年H』をみて思うこと

2013年09月04日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)

 

 

先日、映画『少年H』を観てきました。

まったく予定外で、突然行くことになったのですが、

行けてよかったなあ、と思います。

心の芯に置きたいものを、また一つ、

増やせた気がします。

 

随所で涙しましたが、

私がいちばん泣いたのは、

誤解を受けて特高警察に取り調べられた少年肇の父が帰宅して、

肇と会話するシーン。


父がスパイと疑われるような原因を作ったと思われる自分の友人に、

怒りをぶつけに行こうとした肇を止めて、父は

「それも、そもそもあんたがその子に(アメリカの宣教師からの)絵はがきを

見せなければ、起きなかったことではないか?」

と言うのです。

 

「ぼくは、ただ、いっちゃんにアメリカがどんなものか、

見せたかっただけだ」

というようなことを聞いて、父は、

「それはいっちゃんも、同じだったんじゃないか?」

「いっちゃんも、苦しんでいるのではないか」

と言うのです。

 

この言葉には、

ほんの小さな誤解や偏見が、無実の人を犯罪人にしてしまったり、

命を奪うことになったりする、この時代の恐ろしさが現れていると同時に、

時代を超えた人の弱さと強さ、真実や愛、普遍性、

そうしたものが見事に込められていると感じました。

 

常に自分の身体で感じたことを大切に、自分の頭で考えること。

その上で、自分がいかに生きるべきかを選択すること。

その大切さを、この父は家族に伝えていました。

 
 

この父は、そして母は、自分の中の真実にまっすぐに生きることを

身をもって家族に示す人でした。

一方、周りには、その時々で主義主張を変え、

肇の言葉を借りれば「よろしくやっている」人も沢山いました。

 

両方を見て、肇は自分が何を拠り所とすべきなのか、悩みます。

 

ただでさえ、大きく価値観を問われる思春期に、

戦中・戦後という価値観の180度変わる時代が重なります。

 

 

 

正解はどこにもありません。

すべての人が、生きることに一生懸命なことに変わりはない。

けれども、一生懸命なりに、どんな生き方もできる。

 

人を非難することも、許すことも、

憎むことも、愛することも。

それは、どんな時代であっても。

 

 

 

肇の父が語ること、

肇とその家族の生きるさま、

それは、この映画を通して、今の私たちに、

「あなたはどう生きることを選びますか?」

 

と、問うているのだと思いました。

 

 

 

『少年H』は、同名の妹尾河童の自伝的小説が原作。

原作が出た当時、単行本で読みました。

原作の中でもいくつか、記憶に残るシーンがありましたが、

私の中では、空襲にあったとき、

母と少年が爆弾の中を逃げたくだりが心に残っていました。

今はもう、原作が手元にないので確認できませんが、

そのとき、少年は「母と精神的立場を逆転した」、

といったことが書かれてあった気がします。

守られる立場から、守る立場へと。

 

だれでも、子どもから大人へと成長していきますが、

少年肇のなかでは、この時が、一つの象徴的な

ターニングポイントだったのでしょう。

 

 

原作を知っていたとは言え、

映画は映画として楽しみました。

そして、原作とのつながりがどうの、

原作の事実のとらえ方がどうの、ということは別にして、

映画として、とてもよくできていると感じました。

 

登場人物一人ひとりに、役割があり、

出来事一つひとつに意味があり、無駄がない。

テーマも明確。

 

肇役の男の子をはじめ、役者も味がありました。

 

 

まだ見ていない方は、ぜひ、ご覧いただきたいなあ、

と思います。

 

 

 

 


ドナルド・キーン氏の講演を聞いて

2013年07月18日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)

 

 


昨日は、早稲田大学の大隈講堂で行われた

ドナルド・キーン氏の講演を聞いてきました。
 






「最後に、若い人たちが文楽を楽しむためには?」という

司会者からの問いに答えて、氏、曰く。


「若いときから近松や西鶴の作品を読むことです。

読んでいれば、自然に観たくなります。

聞いたところによると、最近、高校では、

西鶴の作品が読まれないとか。

理由の一つは、"遊郭"といった言葉などが

出てくるからだそうです。

そんなこと言っても、みんな、テレビは自由に見ている。


高校の先生としてではなく、文学の先生として、

ぜひ、教えてほしい」



最後の「文学の先生として」の一言、響きました。


教師は、教育者であるとともに、

自分の教える学問を愛するものであってほしいと、

私も常々思ってきました。



キーン氏、1922年、ニューヨーク市生まれ。

いまだにかくしゃくとして、頭脳明晰。

70年以上も日本文学、演劇、文化……を愛し続け、

日本人の私たちに、その素晴らしさを語り続けてくれています。


どうぞ、まだまだお元気でいらしてください。


※展示は、演劇博物館にて、8月4日まで。
 詳細は→こちらへ。


 

梅雨明けの気分

2013年07月06日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)

 

 

今日は、友人が出るゴスペルグループの

コンサートに行ってきました。

 

子どもと親とが一緒に歌うという合唱団。

もともとは、親子のゴスペルワークショップが

始まりだったとか。

 

ほんとに、赤ちゃんから小学生、中学生、

そして若い方も、熟した方々も(笑)。

 

 

 

 

ゴスペルの声は、

本当にまっすぐに飛んできます

 

 

私は、今日、三男の部活の保護者会を終えてから

行ったので、

途中から聞いたのですが、

会場となった教会のホールの扉を開けた途端、

歌声がいきなり、私の心の真ん中に、

矢のように飛んできました。

 

 

 

ゴスペルは神様に向かって歌う歌。

魂の歌と言ってもいいかもしれません。

ある意味、トランス状態で歌うものかな、と思いますが、

見ていても、歌う人は

そのままの自分を解放しているようで、

本当に気持ちよさそう。

そして、だからこそ、

聞くものの心も揺さぶるんだろうな、と思いました。


そうやって、自分を解放する時間

大事だなあ、って思います。

そういう時間は、たぶん、宇宙や神様と

つながっているのだと思います。

というか、つながりを、感じられるのだと思います。



コンサートは、昔、

私が大学で所属していた合唱団が

週に1回、練習に使っていた場所で行われました。

久しぶりでしたが、変わっておらず、

あの空気感、匂い……

懐かしさがこみ上げました。

 

 

 

帰りには、大学のそばの八幡様を通って駅へ。 

 

 

 

 

 

 

 

おりしも、梅雨が明けたばかりの空が高くて、

風が思いっきり飛び回っていて、

本当に気持ちがよかったです。

 

歩くうちに、もう30年も前の頃の気持ちを

思い出しました。

 

好きな歌に、好きな場所。

好きな空。

 

 

今日はガレージの大片づけの後に、保護者会があったため、

途中からしか聞けないコンサートでしたから、

行こうかどうしようか、

正直、迷いました。

 

でも、思い切って行って、本当によかったと思いました。

 

好きなこと、諦めちゃダメですね。

 

 

 

自分の心に栄養を

2013年05月29日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)

 

 

今日は、上野で行われるセミナーに出かけたので、

これはチャンス と思い、

上野の西洋美術館で6月の2日まで行われている

「ラファエロ展」に行ってきました。

 

セミナーの前に行くつもりが、

行ってみると長蛇の列

入場までに30分かかると聞き、予定変更。

ちょうど、開館時間が延長になっていたので、

行動の順番を入れ替えることにしました。

 

セミナーの前には、上野の森の樹の気を浴びながら、

まとめたいものを考えることに。

 そして、セミナーのあとに、

再び西洋美術館へ。

 

入場制限は続いていたものの、

夕方には比較的スムーズに、

作品を見ていくことができました。

 

 

 

今回の展示は、ラファエロを中心として、

彼に影響を与えた人たちの作品、

そして彼から影響を与えられた人たちの作品を

流れの中で見ていけるような構成となっていました。

 

こうしたことは、

彼らが生きた時代が終わってしまっているからこそ

できることでもありますね。

 

そしてその「流れ」は、実によくわかりました。

ラファエロが父から受け継いだもの、

弟子たちに受け継いだもの・・・

そうしたものは、確かに作品を見ると現れているなあ、

と思いました。

 

それはまさに、人の親子の似方と同じ

そう思います。

 

そして、彼の前にも後にも、優れた画家はいたけれど、

その中にあって、ラファエロがいかに天才的であったか、

ということも、よくわかりました。

 

私は、絵画のことはよくわからないのですが、

なんだろう、

あらゆる意味で、ダントツに「バランスが取れている」

ゆえに(?)そこに命が宿っていると感じました。

 

その「バランス」は、

ラファエロとともに、

ルネサンス最盛期の三大巨匠と並び称された

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロにも

共通するもののように思います。

彼らの間で、互いに影響し合っていたということも、

大きな意味を持つのでしょう。

 

別に、バランスが傑作の要因のすべてとは思いませんが・・・

 

ちなみに、今回のメインとも言える

『聖母子像』ですが、

描かれた当初、その背景は

外の見える窓のある室内、だったそうです。

それを、ラファエロの死後、おそらく17世紀頃に、

真っ黒に塗った、という経緯があるそうです。

理由は定かではないようですが、

17世紀頃、聖母子像のバックを黒くすることが

はやっていたという事実もあるとか。

傷みを修復する際に、「いまふう」にチェンジした

っていうことなんでしょうか

 

絵画のこうした変遷がわかるのは、

エックス線解析などができる現代ならではですね

 

そんなことも知ると、

一つの作品を見るのに、さらに奥行きが出て

楽しめる気がします。

 

 

それにしても、

目の前にあるものが、

今から500年以上もの時を経ている、

というのは、何とも不思議な感覚です。

 

そのモノには、500年以上にわたる

さまざまなエネルギーが含まれているんだろうな、

そう思います。

 

 

・・・というわけで、

これまでなら、行く時間が取れない、

無理しないでおこう、

そんなふうに思って後回しにしたり

諦めてしまうことの多かった

自分の心の栄養となる時間を、

今日も、「あえて」取ってみました。

 

そうすると、なんとなく

心が水を含んでやわらかくなるような感覚を持ちます。

また、やりたいことを選んで実行した、という事実が、

自分で自分の人生をコントロールしている感覚

つながります。

 

 

樹の気を浴びながらまとめたことも、

短時間ながら効果的にできたし、

今日は満足

 

やはり、自分を後回しにしてはいけないですね。

 

自分がやりたいと思うことや、やろうと思ったことがある時、

それは、実は自分と約束するようなものかもしれません。

そして、それをやらない、ということは、

自分との約束を破ること。

 

約束を破る人のことは、

信用しなくなります。

それはたぶん、自分でも同じ。

自分で自分を信用しなくなるから、

自信がなくなっていくのです。

自分で決めたことを自分で実行できると、

自分で自分を信用し

自信を積み上げていくのです。


だから、自分で決めたこと、

やりたいと思ったことをやることは、

とても気持ちがいいのだろうと思います。

 

 

(西洋美術館の『地獄の門』ロダン作)

 

 

 

 

 

 


ただ、今に居る時間が心の栄養

2013年05月27日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)

 

 

このところ、コンサートづいています。

 

昨日は、古巣である中世音楽合唱団の演奏会に

行ってきました。

と言っても、お客としてではなく、

受付のお手伝いをしてきました。

 

この合唱団は、今から60年も前、

音楽学者の皆川達夫先生が、

まだ、学生の頃に、

研究もかねて始められたもの。

今でこそ、ヨーロッパの中世・バロックの曲を歌う

日本の合唱団も増えていますが、

当時、しかもネウマ譜を見ながら歌う人たちなんて

おそらくほかにいなかったことと思います。


私は、この合唱団に、高校の卒業式の直前から、

第1子出産までの約8年ほど、

通わせていただきました。

(歌うときはほとんど五線譜の楽譜でしたが)


4人の子育てに追われてかれこれ四半世紀。

すっかりご無沙汰しておりました。

この間、合唱団のメンバーにも当然、入れ替わりがあり、

私が存じ上げている方は半分くらいになっていました。

 

それでも、久々に聞くハーモニーの音色は、

昔と変わらず。

皆川先生も、相変わらずお元気で、

なんだかとても嬉しく思いました。

 

演奏を味わえたのは、本番前のステリハの一時でしたが、

時空を超えて、そのハーモニーの中に入っていく

自分を感じながら、

幸せ感を味わいました。

 

 

そんな時間を、長いこと忘れていたような気がしました。

 

理屈や思考なく、ただ、その一瞬を味わい

そこに身を任せる時間。

 

それは、その時々を、全身全霊で味わいながら

生きていくためにも、

必要な心の栄養だなあ、と

改めて思いました。

 

これからは、そんな時間を増やしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 


そのままの自分になる ~星野富弘さんの世界~

2013年03月30日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)




友人に誘っていただき、
「竹下景子の朗読と音楽で綴る
 星野富弘 詩画の世界」
という企画に行ってきました。

女優の竹下景子さんが
筧知佳子さんという
音楽家であり、
この企画のプロデューサーでもある方と
知り合って、
実現している企画とか。

2008年からは小児がんの子どもや
その家族のためのチャリティ公演として、
続いているものだそうです。

今回は、そんな趣旨の中に、
「被災した方の直面している苦しみや悩みに
 ひととき心を寄せる機会を持つ」
という意味も込めての開催でした。


スタッフの皆さんが、
星野さんを訪ねて、
星野さんと語らっていらっしゃる映像も
流れていましたが、
スタッフの皆さんの温かさと
プロフェッショナルさを感じる舞台でした。

同時に、
ここには来れない星野さんも一緒に、
作っているのだということを
肌で感じる舞台でした。




さて、
星野さんの詩と画。
ずっと昔に何冊かの本を持っていましたし、
群馬県の美術館にお邪魔したこともあります。
でも、ここしばらくは、忘れていました。


今回、久しぶりにその世界を味わってみると、
悲しみや絶望という、どん底を経験したからこそ
生まれている純粋な言葉の数々なのだ、
「今、ここ」にいるからこそ
描けている画の数々なのだ、
ということを、
改めて感じました。


私たちは、「今、ここ」を
なかなか味わうことができません。
いつも、過去を悔やんだり、
未来を心配したりします。
今やっていることを味わうことなく、
それが成し遂げられたときだけを見ていたりします。

もちろん、星野さんにも
そんな時間が沢山沢山あったことでしょう。
あのとき、ケガをしていなければ……
将来、身体が動くようになれば……
そんな思いがなかったはずはありません。

けれど、やがて、
名実ともに、
「今、ここ」にしかいられないという
変え難い、どうしようもない事実を
受け容れざるを得ないことを知り、
長い時間をかけて
受け容れていかれたのではないか、
そう思います。

それは、まるで、
長い長い時間、
心が水の流れの中で洗われ続けたかのような
時間であったろうと想像します。


そうやって、洗われ、磨かれたことばたち。
そのことばが、とても真実に聞こえるのは、
それが語るものが、
きれいごとではないからだと思います。

次々に浮かんでくる自分の想念を見ていると、
そこには、
醜いものも沢山あるはず。

でも、星野さんは、
それが自分なんだと受け容れているのだと思います。

長い長い時間は、
それを受け容れるための時間だったのではないでしょうか。

そして、
自然そのものである花たちが、
星野さんのその心の熟成を
手伝ってくれたのではないでしょうか。


だからこそ、
そこから生まれることばと画には、
真実の力と響きがあり、
すべてを受け容れる優しさがあり、
見る人に
「そのままでいいんだよ」
そう語りかけるのだと思います。




     冬があり 夏があり
     昼と 夜が あり
     晴れた日と
     雨の日があって
     ひとつの花が 
     咲くように
     悲しみも
     苦しみもあって
     私が 私になってゆく

               (星野富弘











映画『隣る人』『はちみつ色のユン』をみて

2013年03月29日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)




昨日、ずっとみそびれていた映画『隣る人』と
『はちみつ色のユン』を
二本立てでみてきました。

共に、実の親と暮らせずに
養護施設、そして国籍の違う里親のもとで暮らす、
子どもの日常を描いた
ドキュメンタリー。

前者は日本のとある施設を舞台に
日本で撮られた作品、
後者は韓国人の孤児で、
幼くしてベルギーの家庭にもらわれて行った
監督本人が
アニメーションと過去・現在の実写で描いた作品。



『隣る人』の舞台となる施設では、
施設の担当者を「ママ」と呼んで、
子どもたちは寝るときも布団を並べて
一緒に寝ます。
共同生活をする子どもたちは、きょうだい同様。

子どもたちは、みんな「ママ」が大好きで、
「ママ」の肌が恋しくて、
「ママ」を独占したがって喧嘩をします。

施設をやめることになった「ママ」と
分かれなければならなかった子どもが
ママから離れまいとして泣き叫ぶ姿には
心をわしづかみにされて
揺さぶられるように感じました。


スクリーンの中の場面が、
4人の子どもたちを育てながら、
私自身が何度も出会ってきた場面と
オーバーラップし、
私自身が「ママ」の気持ちにもなり、
また、観客として、子どもの気持ちにもなりました。


何カ所かで、切なくて思わず涙しましたが、
見終わって、心がほっと温かいのは、
登場する子どもたちが、
実の親の家庭では育つことができなかったけれど、
彼らを本当に愛する人たちの中で
彼らとの絆を結びながら
生きている姿をみることができたからかもしれない
と思います。


映画の中では、
実の母親が、娘の母であろうとして
努力してみるけれど、
うまく折り合わなくて悩む姿もありました。

子どもを手放して、
施設に送らなくてはならない親たちが
子どもを愛していないわけではないのだ、
ということもよくわかります。

子どもと向き合う、というのは、
沢山の喜びをもたらしてくれるものではあるけれど、
時にぞっとするほど、
自分自身の暗闇とも向き合うものだと思います。


それにしても、
子どもとは、
健全に育つためにはまさに「餓鬼」のように
愛情を貪り食うかのごとく必要とする生き物である
ということも、
改めて認識しました。


愛情は、子どもが、大人に育つための
ガソリンであり、
気球が空へ上がるためのガスであり、
花が育つための土であると感じます。

それが満たされてこそ、
自分が存在することにOKが出せて、
すべてのスタート地点に立てるのでしょう。




本来、そうした愛情を注いで
自分の土台をつくってくれるのが
親なのでしょうけれど、
その親からうまく愛情を得られない、
まして、その親自体がいない、
その上、文化的な背景も違うところで育つとなると、
アイデンティティの危機感が
さらに高まることになります。

そんな危機感を抱きながら生きるということが
どんなものなのか、
そして、それを救うのも「愛」であるということ、
それを綴ったのが、『はちみつ色のユン』でした。




子どもに必要な「愛情」を与えられる人が
共に暮らしてくれるならば、
それはもう「家族」。
そこに、血のつながりは必要ないのだということを、
この映画たちは語っていました。

いっぽうで。
どんなにそうだとしても、
自分の存在の根源である親を、
人は自分の中で消し去ることはできず、
あるいは求め続ける。

親もまた、親として子どもを愛したい、
関わりたいと思いながら、
それができずに悩んだりする。



親と子。
血のつながりのある親と、ない親との
関係を描きながら、
「家族」や「親子」の危うさと
素晴らしさを描いている作品たちでした。



……とつらつら書きましたら、
なんか、私のことばでは
映画の良さについてはうまく表現できていません……


どうぞ、機会があったら、ぜひ、ご覧ください。


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●『隣る人』 参考情報
http://www.tonaru-hito.com/sakuhin.html
http://www.youtube.com/watch?v=aD_OkGxXyew
http://ameblo.jp/kamiyamaz/entry-11257128190.html

●『はちみつ色のユ』 参考情報
http://hachimitsu-jung.com/
http://www.youtube.com/watch?v=m7uXEmGe7fM



期待と応援

2013年01月31日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)



昨日、
「期待」が「フロー」を妨げている
ということについて書きました。
(→こちら


「期待」するから腹が立つ。
不機嫌になる。
というわけです。


ただ、本の中では、
この言葉は基本的に
「愛する」ことについて、という内容で
書かれているものです。


「愛する」ことは

・意志
・相手が主役
・自分の喜び

が3つの大切な要素であるという定義のもとに、

「愛してあげる」ためには
「期待」より「応援」
と書いてありました。


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期待とは、こちらの勝手で相手を枠組みにはめて、
それを愛だと思い込んでいることを言う。

(中略)

期待ばかりする人は、いつも怒りの感情になり
ノンフロー状態になっているはずだ。
勝手な枠組みに人をあてはめるので、
そのとおりにならずに腹がたつのである。
しかも自分ではそれを「愛だ」とか
「お前のためなんだ」と考えているので、
余計に怒りの感情が生じるというわけなのだ。
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だから、「期待」ではなくて「応援」だと。



たとえば、

このイベントに参加することは、
彼のためになるに違いない、
と思って後輩をイベントに行くよう促すが、
本人にはその気がなくて断られてしまう、
という場合、
断られて機嫌が悪くなるのは
「これに行ったら、きっと後輩が成長する」と
「期待」していたから。
「そうか、行かないか」と言って、
がっかりしたとしても、
「すべては本人次第だから」と軽く流せるのは
「応援」しているから。
と、そんな感じでしょうか?



本の中では、
これは、親子や男女の間の感情の場合ではなく、
上司と部下、コーチとクライアントといった関係での話、
という但し書きがありましたが……

親子でも男女でも
やっぱり結局、これって同じではないか、
と感じます。


親子関係でも
そして男女関係でも、
上記3つの要素が大切にされれば、
きっと成熟した良い関係
(いってみればフロー状態の心持ちでつき合える関係)が
築かれるのでは?


もっとも、「愛」がある、近い関係だからこそ
「期待」もしてしまうんですけどね。





●本は以下のものです。
『「第二の脳」のつくり方』(辻秀一:著/詳伝社)





期待

2013年01月30日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)


読み終えたばかりの本に、

「期待という思考は応用スポーツ心理学でも、
最もノンフロー状態を作り出す思考のひとつと
考えられている。」

という一文があり、「やっぱり」と思いました。

フロー状態というのは、めっちゃ簡単に言うと
「ごきげん」な状態。

だとすると、「期待」と「ごきげん」とは、対局にある、
と言うこともできる・・・
そう思ったら、なんというか、
思い当たることが沢山あったのです。



たとえば、私がノンフローな時は、どんな時かと言えば、
日中に予想外に雨が降ってきたとき。
家にいる家族は(言わなくても当然)、
洗濯物を取り込んでおいてくれるだろう、
(なぜなら、私はそうするから)
と思っていたのに、
仕事から帰ってみると洗濯物が雨でずぶ濡れだった、
などという時です。

そんなときは、どんなに鼻歌まじりで帰ってきても、
玄関を明けた瞬間に不機嫌になります。

「お母さん、今日は機嫌が悪いね?」
なんて言われると、
「ジョーダンじゃない!
とってもご機嫌で帰ってきたのに、
そんな気持ちを台無しにしたのは、あなたたちでしょ!」
って思うわけです。

で、なんでそんな不機嫌でノンフローな状態になったのか、
と言えば、
それは、実は、
家族が洗濯物を入れてくれなかったからじゃなく、
入れてくれて当然だ、と、私が勝手に
「期待」していたからなのです。

雨が降ってきても、
家には誰もいないとわかっているときは
帰ってきてずぶ濡れの洗濯物を見ても
「あ~あ」とは思っても、
怒りは湧きません。

まして、
隣の家の人がうちの洗濯物を
入れてくれなかったからと言って、
不機嫌にはなることなどありません。

だって、そんなこと、はじめから「期待」してないから。


そう、そもそも勝手な期待があるからこそ「腹が立つ」。
期待したことと現実にギャップがあるから。
自分の思い通りにならなかったから。



この本の一文章を見て、
やっぱりそうなんだなあ、と思いました。


「期待」は、結局とらわれである、
ということなのでしょう。



・・・で、そこはわかったとして・・・
期待を手放すには、
それなりに修行がいりそうです・・・



●本は以下のものです。
『「第二の脳」のつくり方』(辻秀一:著/詳伝社)


コミュニケーションの目的

2012年11月12日 | ●心のごはん(本、映画・演劇、音楽・美術…)


突然ですが、
コミュニケーションとは、なんだと思いますか?


先日、ある本で、
コミュニケーションの目的を
「お互いを安心させ、お互いを勇気づけ、元気づけること」
(つまり感動を与えること)

と言っているのを読んで、
愕然としました。

そんなふうに考えたことがなかったからです。


辞書では、
1 社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を
伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として
行われる。「―をもつ」「―の欠如」
2 動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる
情報伝達。
(大辞泉)

とあります。

ついつい「伝達」に重心が行ってしまいがちでした。


もちろん、伝達も大切。
双方向の伝達。

でも、伝達して、そしてどうしたいのか。

そう考えた時、
そこにあるのは、「安心」であり、
「勇気づけや元気づけ」なんだ……。


そう思ったら、なんだか、とても納得できました。

目指すところは、
「違い」じゃなくて「共通点」なんだ。。。




違いがあるのは当然。
それはそれで、置いておく。

で、「コミュニケ-ション」するのは、
それでも、同じところ、共感できるところを
探すためなんだ、と。


本の著者は言っています。
そうするのは、
「私たちはたった一人で生存できるわけではなく、
 まわりの人をいかに生き生きさせるかということが、
 私たちがより豊かに生きていく、
 もっとも効果的で確実な方法だから」

と。

だから、
「ひたすら、お互いの安心に向けて
 コミュニケーションをかわす」
のだと。


コミュニケーションは、
相手のためであり、
そして自分のためなのですね。

互いに、人間として生まれて、
その生を思い切り、生き切るために



ちなみに、この本は、
『こころの対話 25のルール』伊藤守:著
(講談社+α文庫)
です。