空手道の本質は、技を極めることにある。基本でも形においてももちろん組手でも極めの足りない空手は見栄えがしないし、当然威力もない。だから普段の稽古でも極めのことはやかましく指摘される。しかし極めとはいったい何なのか、どういう具合にやれば極まるかと問われても、さて答えるのに窮するのである。極めは極めなのだからそれ以上の答えはない、といってしまえばそれまでである。寸止めとの区別をよく言われる。曰く寸止めと極めは違うのだと、極めは目標物の一寸手前で技を爆発させることにある、対し寸止めは目標物の手前で技を止めることにある、と。む、む、む、それではその爆発と止めでは体の使い方にいかなる違いのあるのか。そこを探求しないことには答えにならないような気がするのである。でないと協会空手は、極めの空手だと言ってみても空念仏と変わらないと断じられる恐れがあるからである。
組手試合においては、軽いが速くて目標に的確にヒットしていれば技ありが取れ、試合で勝ち上がることができる。一方遅いがパワーがあり強烈な技が相手に極まれば相手は倒れるが技ありが取れないばかりか反則となる場合もある。この場合は当然その試合には負けてしまう。だから軽くても速い組手を目指せばいい、という訳には単純にはならないのだ。当然極め技の制御が必要なことは言うまでもないことだが、的確な極め技を俊敏に繰り出すだけでは実はほんとうの協会空手にはなってはいないのだ。形試合においても全く同様なことが言える。速くて緩急がすばらしく安定していて形がきれいであっても、やはり極めが活かされていないと空手をしているとは言えないのではないのか、と頭の中では理解できるのだ。
さてその極めなのだが、極まったと思われたときの状態はどのようになっているのかまず考えてみよう。突きの場合、極まった瞬間は当然腕が伸びきっている。もっと厳密に言うと違うのだが、とにかく上腕三頭筋が伸びきっているはずで触ると固くなっている。対して上腕二頭筋はゆるんでいなければいけない。なぜなら上腕三頭筋(二の腕)は伸筋で物を押し出すときに緊張して力を出す。二頭筋の方は屈筋でいわゆる力こぶと言われるように、物を引き寄せたり持ち上げたりするときに曲げることにより入力の力として発揮されるのだ。腕を胸の前に出して伸ばせば外側の三頭筋が固くなり内側の二頭筋は柔らかいはずである。逆に曲げれば二頭筋が固くなり三頭筋がゆるむ。空手の突きにおいて力んだ状態は、この二頭筋に力こぶができている状態で、力が内向きにしか働かなくて突きが外へ伸びない。だから威力のある速い突きを出すには、三頭筋のみを働かす必要があるのだ。しかも脇を締めるというより背中の広背筋をのばすことにより(胸筋の脱力)さらに威力が高まる。もっというと脚のハムストリングス、ふくらはぎを伸ばしてその反動で腰を落とせばもっともっと威力が出せるのだ。中国武道では寸頸とよばれているものだ。
しかし空手では拳を握る。拳を握ると二頭筋に力が入って伸筋である三頭筋の運動を妨げてしまう。この一見矛盾した力の分布が極めの正体のような気がする。三頭筋の伸筋を最大限のばしきったところで拳を強く握って二頭筋を働かせ、外向きに働いている力の運動に思い切り逆らうようにぶつけるのだ。こうすると物に激突したかのようなものすごい破壊力が生まれるのだ。この瞬間の動きがいわゆる極めなのではないのか。だからこの理屈で言えばたとえ対象物に攻撃技が当たらなくてもすばらしいエネルギーが生まれているのだ。
と、頭の中では解析できてもそれをくまなく形や組手に活かし切るとなるととても容易なことではない。たとえば腕だけでも屈筋と伸筋を区別して動かすのも困難なのに、体中の筋肉を効率よく区別して動かすことなんか至難の業である。物を持ち上げたり引きつけたりする力より伸筋の物を押し出す力の方が実はパワーがあるのだ。そして年を取っても屈筋は力がなくなってもこの伸筋はあまり衰えない。空手がこの伸筋優位の武道であると言うことが、実は生涯空手が成り立つ証ではないかと気がつく。本当の力の出し方というのは屈筋が衰え始めたときにしかわからないというのも、これ武道空手の奥の深いところではないのか
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