今日は長文なので、忙しい人は読まないでください。
手話を勉強している方から、手話表現について、質問いただいた。
場面
手話がたり
対象者
子供たち(ろう学校の生徒さんたち)
手話表現
魔法、魔法使い
まず、場面が「手話がたり」であること。
これは手話通訳ではない。従って、話者独自の表現でよい。
ただし、手話通訳であろうと、手話がたりであろうと、「手話でのコミュニケーション」という捉え方で言えば同じ。
大切なのは「伝えること」。
正しい手話かどうか、なんて、どうでもよい。
対象者は子供たち。
この子供たちが10人を超えるなら、俺なら、お手上げ。
相手が子供であろうと大人であろうと、対象者が10人を超えると、相手の反応を見ながらの手話表現は不可能に近い。
こうなると、話者の手話は限りなく「標準手話」に近くならぜるを得ない。
お話としての魅力は死んでしまう。
さて、手話表現。
最も重要なポイントは、お話の中に「魔法使い」が何人出てくるか、ということ。
登場する魔法使いが三人以下なら、「魔法使い」という手話表現は捨てる。
例えて言うなら、「ハリーポッター」の話なら、ハリーはハリーであり、ハーマイオニーはハーマイオニーである。
重要なポイントが4つ、ある。
1、お話を始める前に、子供たちとの間に物語の世界を創りあげる。
例えば・・・
「まほう」
と書いた紙を見せる。子供たちの反応は?
ハリーポッターの話をするのもよい。
この映画を見ている子供もいるかもしれない。
メガネ、壊れる、魔法、メガネが治る・・・
子供たちの反応は?
俺なら、左手にメガネを持ち、右手でメガネに向かって、杖を振るしぐさをする。
俺はメガネをかけているから、ちょうどいい。
話者がメガネをかけていない人なら、手話がたり用のアイテムとして、伊達メガネをかけていくべき。
ハリーポッターを知っている子供なら、反応するはず。
ここで、手話を創りあげるのもよい。
手話でなくてもいい。
パントマイムでも構わない。
子供たちに通じることが大切。
ここで作り上げた「まほう」の手話で、物語を紡いでゆく。
2.「魔法」と「魔法使い」の手話表現を区別しない。
日本語にこだわると、手話表現から豊かさが奪われる。
もっと言えば、主語はない方が伝わる。
例えば、
「ハリーがこう言った」
ということを子供たちに伝えるなら、「ハリー」という手話は不要。ない方がいい。
話者がハリーになって、ハリーの台詞を言うのだ。
具体的に書くなら、
敵が現れる。ハリー、身構える。戦いのための呪文を唱える。
真剣な顔で戦いの呪文を唱えれていれば、それはハリーである。説明は不要。子供たちはちゃんと理解する。
敵の台詞であれば、恐ろしい表情を創る。これは、ハリーではなく、敵である。これも、子供たちはちゃんと理解する。
今の台詞は誰の台詞なのか、子供たちが判っていれば、全く問題なし。
3、ナレーションはない方がいい。
例えば、絵本の場合、
「魔法使いたちは、●×山に着きました」
という文章が出てくる。
これをそのまま手話にすると、物語が味気ないものになってしまう。
説明は一切、不要。ない方がいい。
上記のようなナレーション的なところは、手話で情景描写する。
ハリー、歩く。ハーマイオニー、一緒に歩く。二人で歩く。暑い。汗が出てくる。山、のぼる。
4、手話表現を限定しない。
手話通訳者は手話がたりが下手である。手話表現を一つにしてしまうからだ。
例えば上記の例で、メガネを治す時の「魔法」と、敵と戦う時の「魔法」の手話が一緒だったら、子供たちに伝わらない。
その場面によって「魔法」の手話が変わるのは当然。
「手話通訳」の常識は捨てる。
手話を勉強している方から、手話表現について、質問いただいた。
場面
手話がたり
対象者
子供たち(ろう学校の生徒さんたち)
手話表現
魔法、魔法使い
まず、場面が「手話がたり」であること。
これは手話通訳ではない。従って、話者独自の表現でよい。
ただし、手話通訳であろうと、手話がたりであろうと、「手話でのコミュニケーション」という捉え方で言えば同じ。
大切なのは「伝えること」。
正しい手話かどうか、なんて、どうでもよい。
対象者は子供たち。
この子供たちが10人を超えるなら、俺なら、お手上げ。
相手が子供であろうと大人であろうと、対象者が10人を超えると、相手の反応を見ながらの手話表現は不可能に近い。
こうなると、話者の手話は限りなく「標準手話」に近くならぜるを得ない。
お話としての魅力は死んでしまう。
さて、手話表現。
最も重要なポイントは、お話の中に「魔法使い」が何人出てくるか、ということ。
登場する魔法使いが三人以下なら、「魔法使い」という手話表現は捨てる。
例えて言うなら、「ハリーポッター」の話なら、ハリーはハリーであり、ハーマイオニーはハーマイオニーである。
重要なポイントが4つ、ある。
1、お話を始める前に、子供たちとの間に物語の世界を創りあげる。
例えば・・・
「まほう」
と書いた紙を見せる。子供たちの反応は?
ハリーポッターの話をするのもよい。
この映画を見ている子供もいるかもしれない。
メガネ、壊れる、魔法、メガネが治る・・・
子供たちの反応は?
俺なら、左手にメガネを持ち、右手でメガネに向かって、杖を振るしぐさをする。
俺はメガネをかけているから、ちょうどいい。
話者がメガネをかけていない人なら、手話がたり用のアイテムとして、伊達メガネをかけていくべき。
ハリーポッターを知っている子供なら、反応するはず。
ここで、手話を創りあげるのもよい。
手話でなくてもいい。
パントマイムでも構わない。
子供たちに通じることが大切。
ここで作り上げた「まほう」の手話で、物語を紡いでゆく。
2.「魔法」と「魔法使い」の手話表現を区別しない。
日本語にこだわると、手話表現から豊かさが奪われる。
もっと言えば、主語はない方が伝わる。
例えば、
「ハリーがこう言った」
ということを子供たちに伝えるなら、「ハリー」という手話は不要。ない方がいい。
話者がハリーになって、ハリーの台詞を言うのだ。
具体的に書くなら、
敵が現れる。ハリー、身構える。戦いのための呪文を唱える。
真剣な顔で戦いの呪文を唱えれていれば、それはハリーである。説明は不要。子供たちはちゃんと理解する。
敵の台詞であれば、恐ろしい表情を創る。これは、ハリーではなく、敵である。これも、子供たちはちゃんと理解する。
今の台詞は誰の台詞なのか、子供たちが判っていれば、全く問題なし。
3、ナレーションはない方がいい。
例えば、絵本の場合、
「魔法使いたちは、●×山に着きました」
という文章が出てくる。
これをそのまま手話にすると、物語が味気ないものになってしまう。
説明は一切、不要。ない方がいい。
上記のようなナレーション的なところは、手話で情景描写する。
ハリー、歩く。ハーマイオニー、一緒に歩く。二人で歩く。暑い。汗が出てくる。山、のぼる。
4、手話表現を限定しない。
手話通訳者は手話がたりが下手である。手話表現を一つにしてしまうからだ。
例えば上記の例で、メガネを治す時の「魔法」と、敵と戦う時の「魔法」の手話が一緒だったら、子供たちに伝わらない。
その場面によって「魔法」の手話が変わるのは当然。
「手話通訳」の常識は捨てる。