右手のひらを返す。
2014年の24時間テレビ、ご記憶だろうか。
かすみちゃん(キスミちゃんだったかな・・・)という、ろう少女の取材があった。
一般の人たちは、
「聞こえないハンデを克服して、聞こえる人たちの中に入って見事なダンスを披露する可憐な少女」
という、感動的ストーリーに魅了された。
しかし、手話通訳者が見るのはそこではない。
終始、手話通訳者を注視していた。
貴重な機会である。
同業者(手話通訳者)が実際に通訳している現場を見る機会はめったにない。
講演会通訳などで、舞台に立っている手話通訳者を見る機会は多いが、あれを見てもたいして勉強にはならへん。
場面通訳。
司会者が、かすみちゃんが書いた作文を読み上げ始めた。
さあ、手話通訳者、どうする?
かすみちゃんは、数秒の間、自分の作文を読み上げる司会者を見ていた。
こういう時、未熟な手話通訳者は、「聞き取り通訳」モードに入ってしまう。
聴覚障害者が自分を見ていないのに、聞こえてくる日本語を機械的に手話に置き換える。
こういう手話通訳者、多いんや。
試験勉強が身に沁みついているんやろな。
しかし、流石にテレビに出てくるだけのことはある。
この手話通訳者、臨機応変に対処していた。
かすみちゃん(キスミちゃんだったかな・・・)という、ろう少女の取材があった。
一般の人たちは、
「聞こえないハンデを克服して、聞こえる人たちの中に入って見事なダンスを披露する可憐な少女」
という、感動的ストーリーに魅了された。
しかし、手話通訳者が見るのはそこではない。
終始、手話通訳者を注視していた。
貴重な機会である。
同業者(手話通訳者)が実際に通訳している現場を見る機会はめったにない。
講演会通訳などで、舞台に立っている手話通訳者を見る機会は多いが、あれを見てもたいして勉強にはならへん。
場面通訳。
司会者が、かすみちゃんが書いた作文を読み上げ始めた。
さあ、手話通訳者、どうする?
かすみちゃんは、数秒の間、自分の作文を読み上げる司会者を見ていた。
こういう時、未熟な手話通訳者は、「聞き取り通訳」モードに入ってしまう。
聴覚障害者が自分を見ていないのに、聞こえてくる日本語を機械的に手話に置き換える。
こういう手話通訳者、多いんや。
試験勉強が身に沁みついているんやろな。
しかし、流石にテレビに出てくるだけのことはある。
この手話通訳者、臨機応変に対処していた。
聞こえない人の苦しみは、聞こえる人にはわからない。
当然のこと、と言おうか。「厳しい現実」と表現するか。
真逆の視点から見れば、手話通訳者の苦しみは、聴覚障害者にはわからない。
でも、目の前にいる人の気持ちを慮ることはできる。
相手の気持ちになってみようと努力する人と、それをしない人の間には、天地の開きがある。
理解とは完結ではなく、日々の前進である。
当然のこと、と言おうか。「厳しい現実」と表現するか。
真逆の視点から見れば、手話通訳者の苦しみは、聴覚障害者にはわからない。
でも、目の前にいる人の気持ちを慮ることはできる。
相手の気持ちになってみようと努力する人と、それをしない人の間には、天地の開きがある。
理解とは完結ではなく、日々の前進である。