父さん 母さん ごめんね

父さん これでよかったのかな 
母さん 何もできなくてごめんね

そもそもの間違いであった

2009-05-11 16:25:26 | Weblog
私が生まれた頃

父方の祖父 母方の祖父母はなく

父方の祖母も多分病気であったろう・・

私が1歳になって数ヵ月後に亡くなっている。

兄は4歳。

子守がいないから農繁期は藁で作った“ミ”なのか“ビク”なのか

そういうようなものに入れられていたそうな。

3年後 7年後に妹が生まれ

水のみ百姓 昔なら小作人の貧しい農家。

その頃は 収穫もよくなくて・・・


妹が生まれた年に父は会社務めをするようになり

毎日 自転車で決まった時間に行き 帰る生活。

母は 土地改良でスコップとかをもって力仕事をしていた。

小学校の行き帰りにはよく見かけた。

近所のお母さんたちはほとんど働いていて

大変だな と思うことはなかったが

今になって「きつかったろう」と思う。

母さん、よく働いてくださいました。

改めて感謝です。



身体の弱かった父さんを労わり

父さんだけに お刺身。

「父さんが一番大事。」

「父さんのおかげ。」

私達子供は ツマをいただいた。

庭の鶏が産んだ1個の卵で卵かけご飯を4人分。

そういえば

幼稚園の遠足は 父が付き添ってくれてた。

小学校の参観も父だった。

最近 気がついた・・・

妹達がいたからだってこと。

教科書の名前はいつも父が書いてくれ

毎年その度に担任の先生がほめてくれた。

「お父さんは字が上手だね。」

自慢でした。

 

よく自転車の前に私 後ろに兄を乗せて

数キロはなれたおばさんちに連れて行ってもらった・・・

いつも三人だった。

なぜ兄と私だけだったのか・・・

妹達が小さかったから・・・それだけのこと。

最近 ようやくわかった。


今でも 電車もバスも通っていない。



ほとんどの家は おじいさん おばあさんがいて

うらやましいとか は なかったけれど


小学校高学年にからは 学校を休んで田植えを手伝ったりしてた。

夜 星空の下で母と田んぼを耕した事もある。

兄とリヤカーを引いて1キロほどの農道を何往復もした。

何を積んでいたか・・・

藁だったり 脱穀したばかりのお米だったり

農機具だったり かな?

よそ様が 耕運機やら ミゼットやら を使うようになっても

うちは なかった。

よそ様が どんどん車に乗るようになっても

兄が 社会人になって車に乗るようになるまで

うちだけは 車がなかった。

でも それを貧乏と思わなかった。

比較 をしない子供だったように思う。

友達たちが 一日10円のおこづかいをもらっていても

1ヶ月の小遣いを千円と聞いても欲しいとは思わなかった。

うらやましいとかの感情もなかった。



祖父母がなかったから 学校を休んで田んぼを手伝った。

田植えや稲刈り どうかすると 親戚の人が手伝いに来てくれた。

祖母の妹だったり 知らない人?だったり

高校生まで学校を休んで田んぼを手伝った。

もともと 学校は好きでなかったから よかった。

喜んで手伝った。

でも 農家は 好きではなかった。

両親の反対を押し切って都会の会社に就職をした。

「小ぬか雨フル御堂筋・・・」

なんて曲が流行っていたころ。

それが そもそもの間違いであった。

しなくてもよい苦労の始まりだった、ね。

親の言うことは 聞くもんだ。

実感。