父さん 母さん ごめんね

父さん これでよかったのかな 
母さん 何もできなくてごめんね

お願い 静かにさせて。

2006-08-31 11:53:26 | Weblog
昨日は 本当に良くない日でした。
朝から下の妹にポンポンつんつん 電話で言われ
仕事では ミスが見つかり
夕方は 疎遠になっている夫の実家から電話が入っているわ で。

一晩寝て 忘れてすっきりしたかと思っていたけれど
なんか 兄妹の縁を切りたくなってきました。

揉めたくないから 言うことを 静かに聞いて
できることを精一杯(看病とか お金とか)自分なりにやってきて。
・・・・こういう思いが良くないのかな?

だけど なんだかねえ。
我が兄妹だけど縁を切りたくなってきました。

ただ 母さんが悲しませたくないから
適当にやんなきゃね。

夫の実家も 今頃 何よ。

お願い、静かに暮らしたいのよ。
揉めたくないのよ。
昔の嫌なこと 思い出したくないのよ。

やっと 子供達を成人させ
夫が穏やかになって
やっと 静かな生活をおくれるようになったのよ。
蓄えはないけど 程ほどに生活できるようになったのよ。
誰にも頼らずにね (頼れなかったのよね、本当は)
・・・・こういう思いが良くないのかな?


おねがい しずかにさせて。 

親は親

2006-08-30 10:44:14 | Weblog
父さん 今朝は 気が重いです。
下の妹から電話がありました。
お葬式にも来なかった人に偉そうに言われました。
ぐうっと こらえて・・・・

土地等の名義を母にするということは 了解してくれましたけど

なんていうんでしょうね。

淋しいですね。
年老いた両親に何を期待していたんでしょうね。
「うちの親は冷たい。」って言っていました。

何なんでしょうね。

どんな親でも親は親。
けど それほど悪い親でしょうか。

もういい加減 してもらうことよりしてあげることを考える齢だと思うのですがね。

そして そのほうが 自分も楽だと思うのですが。

私だって 何もしてあげられない けど
気持ちだけでも 幸せにしてあげたい。
それだけなんですけど。

あ-あ 今朝は仕事もつまずいています。



遺言書がない

2006-08-29 14:03:32 | Weblog
父さん

もうすぐ2ヶ月です。

宅地 田畑 の名義 は どうしましょう。

遺言書もなく・・・ そのまま にしておきましょうか。

遺産分割協議書 を作りますか。

でも本当は 全部 長男の兄に渡したかったのでしょう?

それでもいいのだけど 母が一人 家にいます。

やはり 母名義にするのが良いと 兄や妹と考えました。

それがいいですよね、父さん。

母さんが 「毎朝 4時におじいちゃんに起こされる。」って言ってます。

私は 全然    。




尊厳死

2006-08-25 11:29:04 | Weblog
今朝の読売新聞に
吉村昭さんは点滴の管を自ら抜き、ついで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、直後に看病していた長女に「死ぬよ」と告げた とあった。

尊厳死 ですか。

父は 同じことをしたけれど 自ら死を選んだわけではない。
まだまだ生きていたいと思っていたと思う。

遺言もなく さよならも言わなかった。

亡くなる4、5日前 ベッドで「家のお風呂に入りたい。」紙(スケッチブック)に書いた。
私は「肺炎にかかっているから無理なの。」と答えた。
すると 父は小さな小さな声で いえ 声になっていなかったけれど
「バ-カ」と言った。
これが 私への最後の言葉だった と思う。

父はまだまだ 治って 元気になっていろいろしたかったはず。
母も治るものと思っていたはず。

今朝の読売新聞の医療ルネッサンス という記事を読んでいて
諦めず 方法を探したほうがよかったのだろうか と思った。

検査、検査で 苦しかったと思う。
セカンドオピニオンも考えたけれど 父は嫌がっただろう と思う。
両親を変に不安にさせたくなかった。

辛い検査 治療をして数年生きるより 苦痛のない時間を過ごさせてあげたかった。

せめてあと 10歳若かったら と思う。
もう少し前に検査を受けていてくれてたら と思う。

私も 人間ドック を予約しました。


父さんは今頃

2006-08-24 11:10:38 | Weblog
七七日を終えて帰ってきました。

お寺に納骨もしてきました。
小さなところに納まってしまいました 過去帳と共に。
お墓のほうは 納めていません。
お骨はまだ 置いています。
母は もうしばらく置いておくと言っています。

みんな来てくれましたね。
良かったね、父さん。
ごえんさんの姿が 父とダブりました。
写真の父が抜け出てくるような感じもしました。
でも 居ないのですよね。

銀行の父名義の口座も兄妹皆の書類が順調に揃い 手続きを済ませてきました。
よかったね 母さん。

背中が丸くなっていた母もいくらかシャンと伸びていたように思いました。

母と銀行へ行っている間 夫は庭の木の剪定をしてくれていました。
昔は遊び人で酒癖が悪くて・・・・   うそのようです。
父さん母さん 心配をおかけしましたね。

お父さんと旅行はできなくなってしまいましたね。
今年こそ と思ってばかり でした。
ごめんなさい。
父さんは今頃 自由自在に子供達や孫のところに行けていますか?
行くところがいっぱいあって 大変ですか?
末の妹のところばかり行かないで 私のところにも来てくださいな。




最期の選択

2006-08-10 13:55:38 | Weblog
読売新聞 企画・連載 「延命 最期の選択」を毎回読んでいました。
もしかして 病院を変えていたら助かっていたかも知れない。
もっと検査をして 父にあった治療があったかもしれない。

父、母に病名を知らせず 最期の選択を姉妹二人で結論を出してしまった。
私達には 他に兄も妹もいた。
「延命処置をするかどうか話があるから来て欲しい。」と頼んだが
「行きませんから。」と言われた。
私は 「そう。」とだけ言って電話を切った。

なぜだ! そこまでされなければならない両親だったのか。
そんなに悪い両親か。
泣けた 泣けた。
兄や妹の気持ちは理解しているつもりだった。
でも でもだ。なぜ なぜだ。
親孝行はできなくても 親不孝はするなよ。
親を喜ばすことはできなくても 悲しませるなよ。
気持ちは理解しているつもりだよ。
だけど だけどなんだ。

私達は あきらめて 二人で結論を出した。
苦しまず 痛まず を最優先にしたい、と。

在宅看護を希望し 先生も看護師さんもソ-シャルワ-カ-さんもいろいろ努力してくださった。病院を去るのがさびしいくらいよくしてくださった。

苦しむことなく逝けたことに感謝しているが
これでよかったのか と
父さん母さんが穏やかに過ごせることだけを考えてた。
何か方法があったのかも知れなしい。
無知だった。
やっぱり お父さん お母さん ごめんなさい。


七七日の予定

2006-08-09 11:20:25 | Weblog
台風7号が近づいています。
朝 母から電話がありました。
実家のほうは カンカン照りだそうです。
こちらは 雨です。

そろそろ七七日の予定を立てなくてはなりません。
早めに行ってお手伝いをするか 家族と一緒に前日に出るか・・・
迷っています。
母に聞いてもどちらでもって感じで。
どちらが良いか 迷っています。

どうすっぺかねえ。

お別れなの?

2006-08-08 18:31:37 | Weblog
7月5日

父が灰になってしまいました。

もう父の姿を見ることは出来ません。

小さなつぼに入ってしまいました。

自宅に帰って初七日の法要 親戚の方達、組の方達にお礼の食事を出し
目まぐるしい時が過ぎて・・・

次の日は 暑い日でした。
お寺にお礼に伺いました。
そして 作法を知らぬことのお詫びをしました。
ろうそく お線香のあげ方さえも知らぬ私でした。
父には本当に申し訳のないことをしてしまいました。

父さん ごめんなさい。


その日の夕 夫 息子夫婦 娘夫婦 が帰りました。
その夜は 母と二人 父のそばで眠りました。
この家に父がいないなんて信じられませんが 現実です。
母がボ-ッとしています。
時折 泣き出します。
母の泣き声は 初めてのような気がします。
私も帰らねばならないし 帰れない。
母を連れて帰りたい と思いました。
「おじいちゃんが寂しがる。田んぼがある。」
母は そう言います。
妹家族に世話になるから と言います。
当たり前の答えだけど 情けないですね。

お母さん ごめんなさい。
でもどうしようもなくなったら 頼ってね。

翌7日
私は実家を後にしました。

現実を受け入れ 明日からのことは帰ってから考えよう。
そんな感じでした。
親を亡くしたら 私 どうにかなってしまうのではないか と思っていましたが
そうではありませんでした。
いろいろありすぎて・・・・・?
まだまだ 問題も残っているし?

真夜中 息子に駅まで迎えに来てもらって
我が家に着いたら 夫は グ-グ- 高いびき。
積もる話は息子としましたわ。











父のそばに 

2006-08-07 16:33:42 | Weblog
7月4日
早朝より 組長さんはじめ組のお手伝いの方々が集まってくださいました。
父の写真は 応接間に飾ってあったものを使うことにしました。
やさしい笑顔のなんともいえないいい顔です。
妹も私も「これがいい。」でした。
出来てきた写真もまたいい感じでした。

葬儀屋さんも早々に来て 祭壇からお花からおときのことから次から次へと決まっていきました。

午後4時 父と一緒に車に乗って斎場に向かいました。
運転してくださるのが近所の人だったそうで驚きました。
ここまで組の方がしてくださるとは思いませんでした。

お通夜まで時間がありました。
親戚の方たちも集まってきました。
私には30年以上会っていない人が多く泣く間はありませんでした。
母は異様にしっかりしていて、かえって心配でした。

妹夫婦も夫も息子たち孫も忙しそうでした。
私は 一人呑気そうでした。何なんだろう。
とにかく 自分でもそう思いました。
みんな大変そうなのに。
私 何か ボ-ッとしていたように思います。

お通夜は 滞りなく終わりました。
お導師さんと お坊さんお二人でした。
どなたも父が懇意にしていただいていた方でした。
いつも見送る立場だったのに。
どんな想いで聞いていたでしょう。

父の微笑んだ写真は好評でした。
背が高く ハンサムだったのですよ。
自慢の父だったのですよ。

淋しいお通夜になるであろうと思っていました。
両親がどれほどのお付き合いがあったか知りませんでしたから。
想像以上に来ていただけて・・・・・
父さん 良かったね。

部屋が狭かったので 父のそばに 母と妹家族が泊まりました。
その後朝5時 私たち家族と交代しました。
「おじいちゃんが寂しがるから。」と母は帰りませんでした。
その時 母は 私を誰かと間違え
母がどうかなってしまうのではないかと心配しました。

いつ降り出したかわかりませんが 夕べから雨が降っていました。





その夜

2006-08-06 10:25:39 | Weblog
着いてまもなく
看護師さんが 父をきれいにしてくださり
私と次女も拭いてあげることができました。
ベッドから 布団に寝かされて
顔は安らかで穏やかでした。

組長さんがおいでになり 葬儀の段取り等を聞きました。
田舎のことは 何もわかりません。
妹夫婦と組長さんの会話を聞いていることしかできませんでした。
(地元にいる妹達に任せたほうが良いと思っていました。)

明日朝8時に組の方たちが集まってくださること
その時 20万円ほど用意しておくこと・・・
知らせるところを書き出しておくこと
おばあさん時、何方が着てくださったかを調べておくこと等 でした。
おばあさんは 亡くなってもう50年以上になります。
お仏壇の中にその台帳はありました。
父は11人兄弟でしたが 皆早くに亡くなっております。
私が知っているのは伯母さん一人で その伯母さんも2年前に亡くなっています。
過去帳を見ると おばあさんも父も 何度も子や兄弟を亡くし辛い思いををしてきたのだと改めて感じました。
息子夫婦や娘婿達は 12時前に着きました。
長女家族は 孫が熱を出し 断念しました。

その夜は 皆 眠ることなく父のそばにいました。

今日は 五七日
父が最後までつけていた腕時計を眺めています。

父さんが可愛がっていた犬も昨日カットに行ってきましたよ。