「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒 17:30)
「…悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ 1:15)
聖書の言う悔い改めとは、今まで神に背を向けていたのを改めて、神の方に向きなおることを意味しています。ちょうど、ひまわりの花が、陽が昇ると太陽の方向を向くように、です。
しかし、私たち人間は、悔い改めという言葉に、良い印象を持たないのではないでしょうか。 それは、この言葉が私たちのプライドを攻撃するからです。悔い改めるということは、過去の自分の間違いを認めなければなりません。間違いを認めるというのは、人間にとって、屈辱的なことなのです。
しかし、聖書は、神が私たちを連れて行きたいと思っている場所がまさにそこにあることを示しています。
「(神は)だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(第二ペテロ 3:9)
神が人に悔い改めるように命じられる根本的な理由は、神は聖なる方であり、いつの日かすべての人が、創造主なる神の前に立たされ、自分の人生について弁明しなければならないからです。
聖書には、こう書かれています。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、…」
(ローマ 3:23)
しかし、また同時に、神の愛を宣言しています。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(第ーテモテ2:4)。
神の御子イエス・キリストは、今から約二千年前に、人間の姿をとってこの世に来られ、私たち人間のすべての罪をその身に背負って十字架にかかり、私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けてくださいました。 そして、死後三日目によみがえられました。
だれでも、悔い改めて、このイエス・キリストを、自分の罪のために死んでくださった唯一の救い主と信じるならば、すベの罪が許され、神の子供とされ、永遠の天国へ行く者とされるのです。
イエス・キリストの犠牲のおかげで、神はすべての罪を赦すことがおできになります。しかし、私たちのプライドは、しばしば、私たちが罪の赦しを得るために、神に向き合うことを妨げます。
悔い改めは、私たちを救うために十字架につけられたイエス・キリストの愛を確信した人々の心に生じます。それは、神に背いたことへの悲しみを伴う、深い内面の変化を生み出します。その悔い改めは、ただの、感情の高揚による、一過性のものではなく、私たちの未来に、思考と行動の完全な変化を伴います。主イエスを信じることによってのみ、私たちは死後の罪の裁きである永遠の地獄から救われ、完全な平安を得ることができるのです。
「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます…」(コリント第二7:10)
“ la buena semilla " より。