雑誌の感想まで書いてちゃいかんとは思うのだけど、どこかに書き残しておかないと忘れちゃうし~。
今月号の『波』(新潮社PR誌)の記事で目を引いた文章をここに記す。
「長谷川伸と日本人」【第十一回】遠景のなかの仏教 山折哲雄・著
> 以前にもふれた佐藤忠男氏が「一宿一飯の義理」というエッセイのなかで、もう一つ重要なことをいっている。すなわち日本人は、神を信じなかったかわりに人間を信じてきたのだ、と。(90頁)
人間を信じるっていいことじゃないかと思えるのだけど、続きがある。
> 神を信ずるかわりに人を信ずる思想というのは、何とも哀しい思想ではないか。なぜなら、人間ほど頼りにならない存在はないからだ。[…]本当のところをいえば、神を信じることができないからせめて人を信ずるほかはない、という断念に支えられた考えなのではないだろうか。[…]人の期待を裏切らないように生きようとしても、その思いや期待をたちまち吹き飛ばしてしまうような無情の風がいつ襲ってこないともかぎらない。その無情の風がさらに、人の世の無情の思いをかきたてるのである。(91頁)
そして人を信じることもできなくなった現代、もとより神を信じられない日本人は、信ずるものを失った…。
『波』では、小林朋道先生の連載「ヒト、動物に会う」がお気に入り。小林先生が『波』に連載していたとは知らなんだ。これだけでも雑誌代以上の価値があるな。や、『波』はメチャ安なんだけど。
で、小林先生。犬との思い出。
大学三年のとき、マルチーズ系の迷い犬を拾い、実家に連れて行った。アパート暮らしでは飼えないので。
室内犬として生きてきたであろう小型愛玩犬を、両親は「普通の犬」として遇した。自然豊かな土地(小林先生の妻子は“山奥”と呼ぶ)で土や雑草を踏んで歩くのは、たぶんムク(両親の命名)にとって初めての経験だったに違いない。
長毛種のマルチーズの毛を短く切って、ちょっと寒そうにしていたけれど、ムクは元気だった。田んぼの畦で何かを捕まえようとしたり、スズメを追いかけたりと、野生を身につけつつあった。足の裏の肉球もざらざらしてきた。
…というようなエッセイ。
ユーモアの中に、ほろり。
先生、御両親もステキ。
今月号の『波』(新潮社PR誌)の記事で目を引いた文章をここに記す。
「長谷川伸と日本人」【第十一回】遠景のなかの仏教 山折哲雄・著
> 以前にもふれた佐藤忠男氏が「一宿一飯の義理」というエッセイのなかで、もう一つ重要なことをいっている。すなわち日本人は、神を信じなかったかわりに人間を信じてきたのだ、と。(90頁)
人間を信じるっていいことじゃないかと思えるのだけど、続きがある。
> 神を信ずるかわりに人を信ずる思想というのは、何とも哀しい思想ではないか。なぜなら、人間ほど頼りにならない存在はないからだ。[…]本当のところをいえば、神を信じることができないからせめて人を信ずるほかはない、という断念に支えられた考えなのではないだろうか。[…]人の期待を裏切らないように生きようとしても、その思いや期待をたちまち吹き飛ばしてしまうような無情の風がいつ襲ってこないともかぎらない。その無情の風がさらに、人の世の無情の思いをかきたてるのである。(91頁)
そして人を信じることもできなくなった現代、もとより神を信じられない日本人は、信ずるものを失った…。
『波』では、小林朋道先生の連載「ヒト、動物に会う」がお気に入り。小林先生が『波』に連載していたとは知らなんだ。これだけでも雑誌代以上の価値があるな。や、『波』はメチャ安なんだけど。
で、小林先生。犬との思い出。
大学三年のとき、マルチーズ系の迷い犬を拾い、実家に連れて行った。アパート暮らしでは飼えないので。
室内犬として生きてきたであろう小型愛玩犬を、両親は「普通の犬」として遇した。自然豊かな土地(小林先生の妻子は“山奥”と呼ぶ)で土や雑草を踏んで歩くのは、たぶんムク(両親の命名)にとって初めての経験だったに違いない。
長毛種のマルチーズの毛を短く切って、ちょっと寒そうにしていたけれど、ムクは元気だった。田んぼの畦で何かを捕まえようとしたり、スズメを追いかけたりと、野生を身につけつつあった。足の裏の肉球もざらざらしてきた。
…というようなエッセイ。
ユーモアの中に、ほろり。
先生、御両親もステキ。