1942年、東京小石川に生まれる。
1954年、明治大学付属明治中学入学と同時にマンドリン部に入部。
佐伯亮氏にマンドリンの手ほどきを受ける。明治中学・明治高校・明治大学と10年間マンドリンクラブに籍を置く。卒業後は、佐伯亮氏のもとでアレンジャーとして、また、マンドリン・バラライカ・レキントギターのスタジオプレーヤーとして活躍する。ソロパートを担当したLPレコードが 10数枚、主に日本コロムビアから発売された。
1965年、三石精一氏に指揮法を師事。
1968年、旧西独カールスルーエ音楽大学指揮科にて、アルテゥール・グリューバー教授に師事。在学中、カールスルーエ、シュヴェッツィンゲンでの音楽会で指揮。
音楽大学に通う一方、DZO(ドイツ ツプフオーケストラ)の一員として、また、グロッツィンゲン第一マンドリンオーケストラの指揮者として活躍した。生前のジークフリード・ベーレント(ギタリスト)、コンラード・ヴェルキ(作曲家)、ヘルマン・アムブロジュース(作曲家)の各氏とも親交があった。
『セレナーデ(Op.12)とメヌエット(Op.11)』がドイツのトレッケル社から出版されている。また、『組曲第1番ロ短(Op.4)』はベーレント指揮、DZOの演奏でザールブリュッケンの放送局から放送された。
1972年、オーストリアの国際カリンティッシャー・ゾンマー音楽祭で、同音楽祭管弦楽団を指揮。同年ウィーン音楽大学指揮科にて、ハンス・スワロフスキー教授に師事。1972年、1973年の両夏に、同教授の『指揮者のためのマイスターコース』に参加し、2年連続して最優秀の成績を修めた。
1973年、ケルンテン管弦楽団を指揮した"ジュピター"が、ORFテレビを通して放映された。
1974年6月、ウィーン音楽大学を卒業。ウィーンコンサートハウスにてトーンキュンストラーオーケストラを指揮した卒業演奏会の『未完成交響曲』が地元紙 「Die Prese」 に好意をもって報じられ、大成功を修めた。
1974年7月、6年間に亙るヨーロッパ留学を終えて帰国。帰国後、東京フィルハーモニー交響楽団、札幌交響楽団、群馬交響楽団、新星日本交響楽団、日本新交響楽団、ディベルティメント室内管弦楽団、その他アマチュアの習志野フィルハーモニー管弦楽団、東京楽友協会管弦楽団、明治大学交響楽団などを指揮した。
マンドリン界では、1976年以来7年間、青少年音楽祭、JMJコンサートでジュネス・ミュジカル・マンドリンオーケストラの指揮を務める。1984年、三重県の委嘱により、『第9回国民文化祭・みえ94』の為に作曲した『イセアーナ』を、又、1998年には、大分県の委嘱により、『第13回国民文化祭・おおいた98』のために作曲した詩的幻想曲『過去への祈り』を夫々初演して大成功をおさめた。
1993年に創立、主宰しているクボタ フィロマンドリーネン オルケスターは、定期演奏会の他、全国各地で行ってきた公演も好評を得ている。また帰国直後より、KMA(Kubota Musik Akademie)を主宰し、後進の指導にあたっている。
2002年12月、モスクワにて、ロシア・バラライカオーケストラの最高峰、オシポフ国立ロシア民族楽器オーケストラを、初の外国人指揮者として指揮。
2004年4月、ロシア・チェレポヴェッツ市で行われた、第5回ロシア国際民族楽器演奏コンクール「北方杯」に、撥弦楽器部門の審査員として参加。同年9月、リペック市で行われた、職業音楽家によるロシア民族楽器オーケストラ国際音楽祭に、クボタ・フィロマンドリーネン・オルケスターを率いて参加。同年11月、クラスノヤルスク市で行われた、第2回全ロシア・ロシア民族楽器指揮者コンクールに、審査員として参加。
2006年、第6回「北方杯」に審査員として参加。ロシアにおいて高い評価を得、同国での活躍の場を広げている。また、2007年9月にはギリシャで開催されたEGMA(ヨーロッパ・ギター・マンドリン協会)主催のヨーロッパマンドリンコンクールの審査員を務めた。
日本においても2005年、第1回大阪国際マンドリンコンクール&フェスティバルの審査委員長を、2006年、第2回大阪国際マンドリンコンクール(作曲部門)、及び前橋マンドリンフェスタ2006・マンドリン四重奏コンクール、2007年、日本マンドリン室内楽コンクール2007の審査員を務めた。また、日本マンドリン作曲コンクールは第1回から、日本マンドリン独奏コンクールは第11回から審査員を務めている。
現在、日本音楽著作権協会(JASRAC)正会員、日本作曲家協会(JACOMPA)会員、日本マンドリン連盟(JMU)顧問。クボタ フィロマンドリーネン オルケスター及び上智大学ソフィアマンドリーノ、明治高校マンドリン部、同部OB孝友会オーケストラ、山脇高校マンドリンクラブ、玉川聖学院ギター・マンドリン部の音楽監督。
1954年、明治大学付属明治中学入学と同時にマンドリン部に入部。
佐伯亮氏にマンドリンの手ほどきを受ける。明治中学・明治高校・明治大学と10年間マンドリンクラブに籍を置く。卒業後は、佐伯亮氏のもとでアレンジャーとして、また、マンドリン・バラライカ・レキントギターのスタジオプレーヤーとして活躍する。ソロパートを担当したLPレコードが 10数枚、主に日本コロムビアから発売された。
1965年、三石精一氏に指揮法を師事。
1968年、旧西独カールスルーエ音楽大学指揮科にて、アルテゥール・グリューバー教授に師事。在学中、カールスルーエ、シュヴェッツィンゲンでの音楽会で指揮。
音楽大学に通う一方、DZO(ドイツ ツプフオーケストラ)の一員として、また、グロッツィンゲン第一マンドリンオーケストラの指揮者として活躍した。生前のジークフリード・ベーレント(ギタリスト)、コンラード・ヴェルキ(作曲家)、ヘルマン・アムブロジュース(作曲家)の各氏とも親交があった。
『セレナーデ(Op.12)とメヌエット(Op.11)』がドイツのトレッケル社から出版されている。また、『組曲第1番ロ短(Op.4)』はベーレント指揮、DZOの演奏でザールブリュッケンの放送局から放送された。
1972年、オーストリアの国際カリンティッシャー・ゾンマー音楽祭で、同音楽祭管弦楽団を指揮。同年ウィーン音楽大学指揮科にて、ハンス・スワロフスキー教授に師事。1972年、1973年の両夏に、同教授の『指揮者のためのマイスターコース』に参加し、2年連続して最優秀の成績を修めた。
1973年、ケルンテン管弦楽団を指揮した"ジュピター"が、ORFテレビを通して放映された。
1974年6月、ウィーン音楽大学を卒業。ウィーンコンサートハウスにてトーンキュンストラーオーケストラを指揮した卒業演奏会の『未完成交響曲』が地元紙 「Die Prese」 に好意をもって報じられ、大成功を修めた。
1974年7月、6年間に亙るヨーロッパ留学を終えて帰国。帰国後、東京フィルハーモニー交響楽団、札幌交響楽団、群馬交響楽団、新星日本交響楽団、日本新交響楽団、ディベルティメント室内管弦楽団、その他アマチュアの習志野フィルハーモニー管弦楽団、東京楽友協会管弦楽団、明治大学交響楽団などを指揮した。
マンドリン界では、1976年以来7年間、青少年音楽祭、JMJコンサートでジュネス・ミュジカル・マンドリンオーケストラの指揮を務める。1984年、三重県の委嘱により、『第9回国民文化祭・みえ94』の為に作曲した『イセアーナ』を、又、1998年には、大分県の委嘱により、『第13回国民文化祭・おおいた98』のために作曲した詩的幻想曲『過去への祈り』を夫々初演して大成功をおさめた。
1993年に創立、主宰しているクボタ フィロマンドリーネン オルケスターは、定期演奏会の他、全国各地で行ってきた公演も好評を得ている。また帰国直後より、KMA(Kubota Musik Akademie)を主宰し、後進の指導にあたっている。
2002年12月、モスクワにて、ロシア・バラライカオーケストラの最高峰、オシポフ国立ロシア民族楽器オーケストラを、初の外国人指揮者として指揮。
2004年4月、ロシア・チェレポヴェッツ市で行われた、第5回ロシア国際民族楽器演奏コンクール「北方杯」に、撥弦楽器部門の審査員として参加。同年9月、リペック市で行われた、職業音楽家によるロシア民族楽器オーケストラ国際音楽祭に、クボタ・フィロマンドリーネン・オルケスターを率いて参加。同年11月、クラスノヤルスク市で行われた、第2回全ロシア・ロシア民族楽器指揮者コンクールに、審査員として参加。
2006年、第6回「北方杯」に審査員として参加。ロシアにおいて高い評価を得、同国での活躍の場を広げている。また、2007年9月にはギリシャで開催されたEGMA(ヨーロッパ・ギター・マンドリン協会)主催のヨーロッパマンドリンコンクールの審査員を務めた。
日本においても2005年、第1回大阪国際マンドリンコンクール&フェスティバルの審査委員長を、2006年、第2回大阪国際マンドリンコンクール(作曲部門)、及び前橋マンドリンフェスタ2006・マンドリン四重奏コンクール、2007年、日本マンドリン室内楽コンクール2007の審査員を務めた。また、日本マンドリン作曲コンクールは第1回から、日本マンドリン独奏コンクールは第11回から審査員を務めている。
現在、日本音楽著作権協会(JASRAC)正会員、日本作曲家協会(JACOMPA)会員、日本マンドリン連盟(JMU)顧問。クボタ フィロマンドリーネン オルケスター及び上智大学ソフィアマンドリーノ、明治高校マンドリン部、同部OB孝友会オーケストラ、山脇高校マンドリンクラブ、玉川聖学院ギター・マンドリン部の音楽監督。