山と草花と麺三昧【博多発 森の熊さん】

日々の山歩きと出会う雑草や花と庭いじりとかとかなんでもありで、とても麺好きな博多の熊さんが綴る淡々とした日記です。

四王寺33ヶ所石仏 (石仏三十三ヶ所の由来)

2009年10月19日 06時00分56秒 | 四王寺山石仏巡り 
【石仏三十三ヶ所の由来】



江戸時代の中世すぎ、寛政年間(1789~1800)に建立され、一説には新西国三十三ヶ所霊場の各札所と
して明治から大正のころまで参詣者の香が絶えなかったという。

しかし、今日でいう四国や篠栗の八十八ヶ所霊場、札所の石仏とは全く別の石仏菩薩で、石仏の作者は現在の
福岡市下呉服町にある国松石材の第3代目国松市三郎さんが、寛政十二年(1800)に刻み建立されたもの
と伝えられている。

四王寺三十三ヶ所石仏については夫々の筋からの説があるが、いわば地元民や近郷の人々が千人詣りと称して
列をなしたと伝えられ、篠栗の札所に並ぶ仏像群とは全く異なったもので霊地(場)の系統からみても違った
ものという説である。

三十三石仏異聞説のいま一つは、寛政年間から更にさかのぼった天正年間の岩屋城戦記に関係する。
現在の鮎帰り滝の石仏は、第20番札所で菩薩は三宝荒神を祀つる。ここの信者は八女、久留米地方の人々が
今も団体で詣でる。その人々の口伝によると、岩屋城攻防戦で落命した数千余百の将兵の霊魂を祀つるために
、石仏三十三体が建立されたのだと説明する。

四王寺三十三石仏の建立由来について確たる記録はない。ただ、天正十四年七月二十七日岩屋の狐城に散華
した高橋紹運以下七百三十六名と、約三千名ともいわれる島津摩下将兵の霊を鎮める仏尊とする説はともかく、
何かしら石仏と、古戦場の二つの歴史を偲ばれる感慨深いものがある。

【「福岡県立四王寺県民の森 遊歩道・礎石群・石仏案内」の裏面説明より転記】


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