山と草花と麺三昧【博多発 森の熊さん】

日々の山歩きと出会う雑草や花と庭いじりとかとかなんでもありで、とても麺好きな博多の熊さんが綴る淡々とした日記です。

博多祗園山笠2010 飾り山14@番外 櫛田神社

2010年07月09日 06時52分51秒 | 博多祗園山笠
★番外 櫛田神社

  

いよいよ、最後の飾り山です。

博多祗園山笠の舞台である「櫛田神社」の中にあります。正面から見て左側にあります。
この時期は、境内に「追い山」用の桟敷が造られていて、少し眺めは良くありませんが、
この「飾り山」は、追い山終了後も継続して、飾られていますから、一年を通じて楽しむ
事ができます。


【表】博多津再興之礎(はかたつ さいこうのいしずえ)


 

 
【内容】
戦国の世、博多の街は度々の戦に見舞われ荒れ果てておりました。天正十五年(1587年
)、時の関白豊臣秀吉は自ら大軍を率いて九州征伐を果たし、九州・博多にも平安が
もたらされたのでした。しかし、前々から博多という地の利便性に注目していた秀吉は、
嶋井宗室や神屋宗湛という博多商人等の力を使い町の再興を行い、朝鮮国や明国出兵への
足がかりにしようとしておりました。そこで秀吉は、九州征伐の折りに参謀であった黒田
官兵衛(後の如水)を筆頭に小西行長等九州の大名を奉行として、秀吉の治世に相応しい
新しき博多の町を作るように命じるのです。これが世に言う太閤町割である。
ところで、当時の博多は大陸との貿易などで知識や文化等がどこの地域よりも早く伝わっ
ていたために、生半可な町作りでは博多に住む町人はもとより博多商人達の得心も得られ
ないであろうと考え、秀吉配下の中でも最も智恵者として知られていた石田三成に町割の
法を考えさせるのです。色々と考えた末、困り果てた石田三成は懇意にしている神屋宗湛
に「如何にしたがよいか?」と尋ね、宗湛は妻の兄で景轍玄蘇という僧侶に近代的な街作
りに協力するように依頼しました。この玄蘇の考えも参考に、十町四方・縦横小路を張り
巡らす現代の博多という町の原型ができたのでした。この飾り山笠は戦火に疲弊した博多
の町を豊臣秀吉が博多ゆかりの人々と協力をして復興させていく「太閤町割」の一場面で
ある。
・・・だそうです。(公式H.P.より)

【見送り】大八島国曙(おおやしま くにのあけぼの)


 

 

【内容】
この世がまだ世界としての体を成しえていない遥かなる昔に、初めて天と地が出来上がり
ました。
それと一緒に我々(日本人)の一番最初の祖先となる天之御中主神(あめのみなかぬしの
かみ)が天の上にある高天原(たかまのはら)にお生まれになりましたが、その時には天
も地もしっかりと固まっておらずに、ふわりふわりと浮いているような状態でした。
さらに、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)・神産巣日神(かむむすひのかみ)等の神
々が次々とお生まれになる中、伊耶那岐神(いざなぎのかみ)・伊耶那美神(いざなみの
かみ)と仰る男神・女神がお生まれになりました。
そこで、天之御中主神は伊耶那岐・伊耶那美お二方の神に天の沼矛を与えられて「漂へる
国を修理め固め成せ。」と命じられました。
伊耶那岐・伊耶那美お二方の神は高天原の天の浮橋に立たれ、沼矛にて潮をかき混ぜられ
滴り落ちる潮にて淤能碁呂島を作られました。その地に降りられ、御殿を建てられ夫婦の
契りを交わされますと、淡路や筑紫・津島・隠岐・伊岐・伊予等の国々、最後に大倭豊秋
津島をお生みになり大八島国(日本の国)を無事に作られていきました。
すべての国を生み終えた後、更に大事忍男神(おおことおしをのかみ)や石土毘古神(い
はつちびこのかみ)等の自然や生産を司る、後の世の人間が生きていく為に必要な神々を
お生みになるのです。

この飾り山笠は日本という国の誕生の成り立ち、また我々が生きていく上で信仰すべき尊
い神々の生成という日本誕生の一場面である。
・・・だそうです。(公式H.P.より)

場所はここです。(博多区上川端町)

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