Kumitsu式太極拳《室町武術文化を繋ぐ会》

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ネットで得られるものはない《堺市のシビアな抽象的な太極拳教室》

2018年10月14日 14時11分50秒 | 天地人
私がかねがね言っている事ですが

団体方式では教えないという事です。

それは日本で太極拳の道場、教室を開くことはしても

組織化しないというものです。

外国なら考えますが、まず何十人も一緒に套路をしていきます方式じゃないという事です。

きちんと言えば、団体で表演することは悪くはない、

問題なのは、日本の社会でしか通用しない慣習です。

具体的には、「仲間外れ、村八分、無視する」

これは世界にもあるかもしれませんが

少なくとも大人の世界でこれをやるのは日本ぐらいのものです。

良し悪しを言っているのではなく文化とか言語に規定されるとか、民俗的なとか

そういう学問的な問題ではなくて

私のその理由は

遠慮せずに上達していくのに、仲間意識

日本文化的な「みんなで一緒に」とか

「出る杭はうたれる」みたいな

そんな、空気は武術習得には邪魔にはなれど、益なしといっています。

個人個人がモノ申せない、出しゃばってるわ、あの人・・・

っていう空気がない団体はごくごくわずかながらあります。

そこは、先生が日本的な空気を読んで運営していない脱日本的なところですよ。

欧米的なというか、ラテン的というか・・・

日本の会社で、新人が課長や部長にお説教出来ないでしょう。(極端な例ではないですよ)

でもそのお説教が、論理的に的を得ていて、会社の利益になったならいいじゃないか?

という人は、日本の会社にいたことがないひとでしょう。

そうなんですよ、日本は良い国ですが、反面息苦しいとか

閉塞的な村社会なんです。

私は、インターナショナルスクールや海外の方を教えてきて日本と外国の違いには

物凄く興味があり日々学んでいますが

日本は、自分の国もよその警備会社(アメリカ)に任せているところがあるので

日本人の多くは、平和ボケしたTV番組をあれだけ流されていても

危機感というものをもたず、怒らず

真剣に政治的な話は殆どしないはずです。

それだけ平和なのは有難いことですが、これは今までの日本人が勤勉で

明治までの人達の遺産、努力のたまものだと考えます。100%ではもちろんありませんが・・

ところで

遺産というと、武術や芸術でもその源は、室町時代にあります。

雪舟(水墨画)でしょう

蓮如(浄土真宗の僧)‐普通の人達に普通の言葉をつかって佛教を教えひろめる

足利義政がいますよね。

世阿弥の「目前心後」も超一級の意識操作に通じる言葉ですよね、極意の域ですし、

塚原卜伝は戦国時代の武人ですが、室町最後の偉人ともいえるかもしれません。

茶の道でも、村田珠光や武野紹鴎は後の茶道文化の祖を築きましたし・・


その中でも、世阿弥の「目前心後」

これは一番

現代のわれわれに忘れ去られた意識です。

目は前に向けよ、こころは後ろを観よ---という事ですが

前しかみない(村の中しか興味のない)じゃなくて

こころは常に、後ろから自分を見ていきましょう。

ココロの目は後ろにあるんですよ。ということを教えています。

自分以外のヒト、モノ、動物、文化は大事です。


自分も家族も他人も大切です。

これは知っていますし世界共通ですよね。

でも大地震が来て命の危険が身の上におきた瞬間

奥さんの名前をよんで「おいっ、@@大丈夫かっ!! 愛してる」

って真っ先に口から言葉(気持ち)が飛び出しますか?

こころを後に置くという事は、そういう事ですよ。

当会は、形も大事、套路も大事ですが

感覚(大事な)を教えているのです、まずはね。

それが出来てはじめて、太極拳が分かってくるというか

スタートをきれるのデス修練のね。

ですから、感覚を伝えないネットやこのブログ(言葉の羅列)では弱いんです、伝わりがたいんです。

口だけならロボットが武術を教えればいいんです。

手をとって、肘を掴んで、肩をタッチして、ハイタッチして

感覚を教えるからいろんな秘伝を伝えられるんですよ。

一度のレッスンで先生に手も取ってもらえないというレッスンはうちではしていません。

言葉が本質じゃないからです。

武術はね。







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