筆・刀・杖・お茶碗・茶杓と何を持ったとしても
何と接触したかについても区別はないという考え方です。
人が扱う道具は、武術の武器であっても
湯のみ茶碗であっても
釣りざおであっても
それはどういうことかと種明かしをしますと
それぞれのモノ(動物・人でもおなじ)とのかかわりにおいて
絶対にしてはいけない操作があるからです。
そのしてはいけない操作(意識操作)が異物と感覚しちゃダメということです。
当会の生徒さんには簡単なことですが
レッスンを受けないとたぶん理解できないことです。
それはそれとして
続けますと、
異物として感覚したらだめというのは
異物じゃないと感覚したら良いと、逆にいえばそういう事です。
そのためには、私とモノとの間(境目)、つまり境界をなくしましょう。
ということ
みんな自分と自分以外を分けたがります。
その区別している大本は「脳」の機能ですが、
それは脳の仕事だから仕方がないものですが
その区別したがる「脳」をなだめて
区別を取っ払います。
すると扱う道具は自分の手足のごとくに変身していきます。
それが人間であっても同じでなんですが、それは今日のテーマじゃないので
これ以上書きませんが
道具を扱うというのはそういう事です。
その詳細テクニックはレッスンの内容になりますので割愛します。
茶道でも同じです。
17歳から表千家流の教室に入門したときにはそのような意識操作は全く
判りませんでしたが
武術をしていくうちに、お茶の理も同じだと
書の世界でも同じです。
筆(起筆)と運筆についても字、自体に命を吹き込むような線をひくには
筆の操作がとても大事になります。
これも小筆の扱いをみたらその刹那にわかります。
この方は、字はうまいけれど、筆の扱いが基本を外れて我流だなぁとか、
その対に
筆をある条件で、さっと紙に穂先があたったところから
転折などで生き生きとした線引きが出ている人は
筆が自分の一部となっています。
書を教えていて
生徒さんを見ていて注意するのは、そこなんです。
その筆使いができていたら
自然に字は上手になります。
茶道教室、書の教室、武術の道場・・・
「技」を教えるという前に、または並行的に
自分と他が一体になるという”理”を教えることが大切だと私は思います(私の勝手な考えですが)
合気道も私はもともと
身心統一合気道で学びましたので
それを”統一体”と言っていました。
おなじコンセプトで出来るかという事。というのは
あれはあれ、これはこれと区別するんだけれど
区別しないという考え方、進みかたもあるんだよと
まずは知ることだと思います。
何と接触したかについても区別はないという考え方です。
人が扱う道具は、武術の武器であっても
湯のみ茶碗であっても
釣りざおであっても
それはどういうことかと種明かしをしますと
それぞれのモノ(動物・人でもおなじ)とのかかわりにおいて
絶対にしてはいけない操作があるからです。
そのしてはいけない操作(意識操作)が異物と感覚しちゃダメということです。
当会の生徒さんには簡単なことですが
レッスンを受けないとたぶん理解できないことです。
それはそれとして
続けますと、
異物として感覚したらだめというのは
異物じゃないと感覚したら良いと、逆にいえばそういう事です。
そのためには、私とモノとの間(境目)、つまり境界をなくしましょう。
ということ
みんな自分と自分以外を分けたがります。
その区別している大本は「脳」の機能ですが、
それは脳の仕事だから仕方がないものですが
その区別したがる「脳」をなだめて
区別を取っ払います。
すると扱う道具は自分の手足のごとくに変身していきます。
それが人間であっても同じでなんですが、それは今日のテーマじゃないので
これ以上書きませんが
道具を扱うというのはそういう事です。
その詳細テクニックはレッスンの内容になりますので割愛します。
茶道でも同じです。
17歳から表千家流の教室に入門したときにはそのような意識操作は全く
判りませんでしたが
武術をしていくうちに、お茶の理も同じだと
書の世界でも同じです。
筆(起筆)と運筆についても字、自体に命を吹き込むような線をひくには
筆の操作がとても大事になります。
これも小筆の扱いをみたらその刹那にわかります。
この方は、字はうまいけれど、筆の扱いが基本を外れて我流だなぁとか、
その対に
筆をある条件で、さっと紙に穂先があたったところから
転折などで生き生きとした線引きが出ている人は
筆が自分の一部となっています。
書を教えていて
生徒さんを見ていて注意するのは、そこなんです。
その筆使いができていたら
自然に字は上手になります。
茶道教室、書の教室、武術の道場・・・
「技」を教えるという前に、または並行的に
自分と他が一体になるという”理”を教えることが大切だと私は思います(私の勝手な考えですが)
合気道も私はもともと
身心統一合気道で学びましたので
それを”統一体”と言っていました。
おなじコンセプトで出来るかという事。というのは
あれはあれ、これはこれと区別するんだけれど
区別しないという考え方、進みかたもあるんだよと
まずは知ることだと思います。