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1990年代パチンコ・パチスロ実戦記「バラのつぼみ」

私が学生時代に書き留めていたパチンコ・パチスロの実戦データをベースに当時を懐かしむブログにしようと思っています。

私が楽しんだ平成のパチンコ・パチスロ

2019-05-03 20:29:59 | 機種情報他
平成が終わり令和となりました。

 このブログの日記は主に平成6年~8年頃という事と、平成元年~平成15年の平成前期がパチンコ・パチスロの全盛期だと思いますので
少しだけ平成初期のパチンコ・パチスロを振り返ってみたいと思います。

 私がパチンコを初めて打ったのが平成2年春、当時は新台入替のスパンは大変長く1度設置されると少なくとも1年位は設置されていたと思います。
ただし平成3年春に新要件機が発売され旧要件機が設置不適合とされたため平成3年には設置機種が大幅に変わっています。

 私がパチンコを始めた旧要件末期は羽根物に関していえば全盛期だったと思います。特に西陣からは今でも名機と呼ばれる機種たち、パチンコ大賞、スケボーキッズ、もちあげ隊、ドッカン島、おジョーズランド、魔界組etc・・・が多数発売設置されていました。三共からもマジックカーペット、うちのポチ、道路工事、演歌道、タコヤキSPと名機がズラリ、ニューギンもポップアート、さめざんすといった5&10で遊びやすい台が多く設置されていました。平和の台が弱い地区だったのか平和台はあまり設置されておらず残念ながら思い出はあまりありません。
 当時高〇生だった私は100円玉を握りしめてパチンコ店に通っていたものでした。2,000円もあれば軍資金に不足なし!100円玉に両替して200円ずつ玉を借りて遊技していました。放課後のパチンコは500円投資して当時羽根物コーナーの主流だった800個入る箱を一杯にして2,000円換金、+1,500円でその日が終われば大満足、今からでは考えられない平和な日々でした。デジパチに関してはオマケチャッカーありの時代で三共のドラム機、FレクサスⅦ、FレクサスⅥD、平成2年末位から設置されたFフラッシュⅠの設置が多く、その他メーカーでは京楽のにこちゃんクラブ2号店、ダービー、ダービー2、初の京楽1色液晶表示機グランプリ2号(だったかな・・)、ニュートランプカード、奥村のドリームX、ローリング7、マーブルX、マルホンのロータリーセブンなどを打っていた事を思いだします。所謂ボーダー理論(ある台をある条件下で打つ場合1,000円で〇〇回回れば理論上は勝てるという計算式)もまだ無かったか(石橋達也氏による理論提唱がちょうどこの頃だったと思います)、もしくは私は理解していなかった頃ですので結構オカルトな台選びをしてこの当時はデジパチでは結構負けていたと思います。またデジパチを打っていても出玉を20,000個位床に置いて遊技している人はかなり珍しく3万円も勝てば大勝の部類になる時代だったと思います。

 その後、新要件機種が発売されることになりました。共通の変更点としてはそれまで最大13個だった賞球が15個まで認められ、羽根物に関しては最大8Rが16Rに(初回V入賞を1Rとカウントするので実質は最大15R)なり1回の大当り出玉は旧要件時最大800個だったものが最大2,000個と大幅にUP、デジパチに関してはオマケチャッカーが禁止されラウンド数は最大10Rから16Rとなり大当り出玉はオマケチャッカー周辺の釘調整次第で2,000個~3,000個位と幅があった物が概ね2,400個となりました。またデジパチへの電チュー取付及び電チューの確率変動が認められたのもこの規約変更からでした。一発台は一切認められなくなり、その代わり旧要件時代は一発台が規制されていた静岡県位でしか設置されていなかった権利物が一撃大量出玉が期待できる一発台の代替として内容を一部変更後全国で普及するようになりました。
 新要件初期の羽根物は大当り時にパンクしなければ最大水準の2,000個を得られる台が多く(三共のサンダードラゴン、名人会、西陣のニューモンロー、平和のニュートキオ、ニューヨーカー、三洋のサーカス、ニューギンのサンフラワー等々)、前に記したような100円玉を握りしめてひと勝負とはいかなくなってしまいました。また当時は3,000個~4,000個で定量打ち止めルールが多かったのでそちらのルールとも出玉がなじんでいない感じでその後羽根物は衰退する一方となってしまいました。デジパチに関しては最初期のみ各メーカー様子見でノーマル機(西陣ルーキーデルタ、平和ブラボーストロングα1、センチュリー21、三洋ビッグスター、京楽ダービー3、トランプエース、奥村リバティーⅠ、Ⅱ)や確率変動機(三共FチャレンジⅠ、奥村マーブルDX、マルホンウルトラセブン)を発売していましたがすぐに連チャン機(三共FスパークED、FフラッシュSP)も発売され旧要件時代とさほど変わらない感じで営業されていました。平成4年に初のカラー液晶機平和の麻雀物語が発売され大ヒットした後は各社からカラー液晶連チャンデジパチ(三共Fパワフル、西陣春一番、平和ダービー物語、プリンセス物語、奥村ナンパ大作戦etc)が発売され現金機デジパチの全盛期を迎えました。

 私が東京に上京した平成4年春には伝説のカラー液晶第1号機平和の麻雀物語が発売され物珍しさと強烈な連チャン(約20%)とで凄まじい人気となりました。まだ島根県に住んでいる頃に発売されたのですがそんな片田舎に超人気機種がすぐに設置されるはずもなく「麻雀物語が新台で入るぞー」との噂を聞きつけ行ってみるとセル盤に麻雀物語と書いてあるだけで実際はブラボークイーンという詐欺まがいの台だったりで悔しい思いをしていた私も東京上京後、多分その日のうちに麻雀物語設置店を探し(笑)空き台待ちをしてやっとの事で打てた事を思い出します。平成4年春には大一商会の名機ダイナマイトも発売され、ダイナマイトの大ヒットによって1回権利が連チャンする連チャン権利物が各メーカーから発売され名機・ヒット機種が次々と生まれます。この時期からダービー物語事件による社会的不適合機撤去までがパチンコ現金機の全盛期だったと思います。各メーカーから発表される様々な趣向を凝らした連チャン機に一喜一憂して遊技すると共にパチンコ雑誌による台の解析記事、また派手なものから地味なものまで色々ありましたが各種攻略法の雑誌掲載をまだかまだかと毎月楽しみにしていたことを思い出します。

 現金連チャン機が規制された後は当然のようにCR機の全盛期がやってきました。市井に普及したCR機最初期の台は西陣のCR花満開でしたがこれはまだ現金連チャン機と共存していた時期で現金連チャン機規制後にそれらの台と変わるように普及したのは主に2回ループ機と呼ばれた大当り確率1/400前後、確変突入率1/3、確変2回継続タイプで平和CR黄門ちゃま、三共Fワールド、FワンGP、Fネプチューン、西陣CR球界王、大一CRビッグソロッター、CRバトルヒーロー、CRちんじゃら等が記憶に残っています。そのCR機も2回ループ機の人気沸騰による社会問題化を経て確変継続最大5回までという規制が行われ隆盛に陰りが見えて来るのですが確変継続最大5回という規制が入る前の平成7年頃がパチンコ産業の最盛期で市場規模30兆円、店舗数18,000店、参加人口3,000万人と言われています。当時は会社帰りの若い普通のOLさん等もパチンコで遊んでいて、今パチンコが流行っていると私にも実感できる位でした。また、咥えたばこで接客するパンチ店員やわけありっぽい店員が一掃されてアミューズメント施設っぽい店舗だけになっていくのも平成6.7年位からだったと思います。

その後は各種規制で連チャンによる大量出玉が期待できなくなった事、パチンコ店に設置される機種がデジパチに極端に偏ってきた事、リーチ演出がまどろっこしくなった事、それに呼応するかのようにパチスロ機の全盛期が来たこともあり私はほとんどパチンコを打たなくなって行きました。

今では全くパチンコをしない私ですが、平成初期に戻ることが出来たらまたパチンコを打ちまくる事と思います。

途中でパチスロの事に全く触れていないことに気が付きましたが長くなりそうなのであえてスルーでまた別の機会に今回の記事のパチスロ版を書こうと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。


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