日下太鼓台友好会

毎年、東大阪の生駒山麓で
石切神社秋祭り及び夏祭りに奉納される
日下太鼓台をこよなく愛する人達のブログです

新調太鼓台 狭間

2021-07-15 22:41:00 | 新調
狭間の彫り物です

場面の説明と共に読んで頂くとありがたいです

狭間 正面:神功皇后三韓征伐 
弓で弭岩に字を書く
(神話伝説)

皇后は安雲礒良から竜宮の千珠・満珠を受けて
海を千満させ三韓を征する高麗、百済、新羅の大王が
貢物を捧げ服従の意を示すと
皇后は石壁に弓弭にて
「三韓(惑いは新羅)の大王は日本の犬なり」と書きつけた




向右:信玄と謙信 龍虎相打つ(川中島の合戦)

川中島最大の合戦、永禄4年9月10日の戦に於いて
上杉謙信は白布にて顔を覆い、夜明けの濃霧を幸い
唯一騎武田信玄の本陣に斬りこむ。
信玄は謙信の鋭い太刀先に刀を抜く間もなく軍扇にて受け止める




向左:姉川に火花散らす木村又蔵
(姉川の合戦)

元亀元年、姉川の合戦に於いて、加藤清正の臣・木村又蔵正勝は、
朝倉義景軍に苦戦する織田信長軍の助成に向かい、
縦横無尽の戦いで斬りまくり
朝倉方の宿将・島田権右衛門を初め、幾多の勇将を討ち取った
後年、正勝は清正四天王の一人として名を馳せた




後面:源頼義 霊水を得る(前太平記)

源頼信、頼義、義家は河内古市郡を本拠としたので
河内源氏と呼ばれる奥州で
安倍頼時、貞任が反きし頼義、義家父子が追討を命じられた
頃は、6月上旬で炎えるような熱さは耐え難く
口内は渇き一点の水の滴もなかった
こんな時に強敵に当たればどうしょうもないように思われた
頼義は神に祈願し自ら弓で河の岸を探ってみると
岩かどより霊水が急に湧き出て流れ始めた。
兵士たちはこの奇端に勇み立ち敵兵を討つ事ができた
天喜5年6月7日の事である




狭間の彫りは全て先代太鼓台からの移植

ニス取りと洗いで仕上げ、欠損部分を修復し足し彫りをしました




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