リートリンの覚書

日本書紀巻第七 登場人物 六


日本書紀巻第七 登場人物 六

豊国別皇子
(とよくにわけのみこ)


日向の国造の始祖

景行天皇の皇子。
母は、御刀媛


「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

豊国別皇子を生みました。これが、日向の国造の始祖です。”

景行天皇の皇子
母は、御刀媛(みはかしひめ)

日向の国造の始祖です。

詳しい活躍は記載されていません。


兄夷守
(えひなもり)

「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

“「その集まっている者は何人か。もしかすると賊か」
といいました。すぐに兄夷守、弟夷守の二人を遣わして見させました。“

景行天皇18年3月、
景行天皇は夷守(ひなもり)
に到着しました。

この時、石瀬河(いわせ)の辺に、
群衆が集まっていました。

天皇はそれを見て、
「その集まっている者は何人か。
もしかすると賊か」
といい、

すぐに兄夷守(えひなもり)
弟夷守(おとひなもり)の二人を遣わしました。

その群衆は、
諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が、
食事を献上しようといい、
その一族が集まっていたのです。


そのほか


・夷守(ヒナモリ)とは、
3世紀から4世紀頃の
邪馬台国の国境を守備する軍事的長の
名称です。
後に地名、駅名、神社名等に残っています。


弟夷守
(おとひなもり)

「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

“「その集まっている者は何人か。もしかすると賊か」
といいました。すぐに兄夷守、弟夷守の二人を遣わして見させました。“

景行天皇18年3月
景行天皇は夷守(ひなもり)に到着しました。

この時、石瀬河(いわせ)の辺に、
群衆が集まっていました。

天皇はそれを見て、
「その集まっている者は何人か。
もしかすると賊か」
といい、

すぐに兄夷守(えひなもり)
弟夷守(おとひなもり)の二人を遣わしました。

その群衆は、
諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が、
食事を献上しようといい、
その一族が集まっていたのです。


諸県君泉媛
(もろがたのきみいずみひめ)

「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

諸県君泉媛が、食事を献上しようといい、”

景行天皇18年3月、
景行天皇は夷守(ひなもり)に到着しました。

この時、石瀬河(いわせ)の辺に、
群衆が集まっていました。

天皇はそれを見て、
「その集まっている者は何人か。
もしかすると賊か」といい、

すぐに兄夷守(えひなもり)
弟夷守(おとひなもり)の二人を遣わしました。

その群衆は、
諸県君泉媛が、食事を献上しようといい、
その一族が集まっていたのです。


熊津彦

「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

“熊県に到着しました。そこに熊津彦という兄弟二人がいました。”

景行天皇18年4月3日、
景行天皇は熊県に到着しました。

そこに熊津彦という兄弟二人がいて、
天皇は先に兄熊を召し出させ、
すぐさま使者に従い参上しました。

次に弟熊を召し出せましたが。
来ませんでした。
そこで兵を派遣し誅伐しました。


小左
(おひだり)


山部阿弭古の祖


「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

“時に、山部阿弭古の祖である小左を召し出し、冷水を貢進させました。”

景行天皇18年4月11日
景行天皇は海路より葦北の小島(こしま)に
停泊し、食の貢進を受けました。

時に、
山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖である
小左(おひだり)を召し出し、
冷水を貢進させました。

その時、嶋の中に水が無く、
どうしてよいのか分からず、
天神地祇に祈ったところ、

忽然と冷泉が崖の傍から湧き出ました。
こういうわけで、その島を水島と呼びます。


津頬
(つつら)


高来県玉杵名邑の土蜘蛛


「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

“その処の土蜘蛛、津頬を殺しました。”

景行天皇18年6月3日、
景行天皇は、高来県(たかく)から
玉杵名邑(たまきな)に渡りました。

時に、玉杵名邑の土蜘蛛、
津頬(つつら)を殺しました。


そのほか


・熊本県玉名市にある
玉名大神宮の伝えによりますと、
土蜘蛛津頬が抵抗した際、
景行天皇は天照大神を祀り拝み、
祈ると玉のような小石が落下して
土蜘蛛津頬を退治したとあります。
この子石を神の霊(たましい)として尊び、
祀りました。
祭神は天照大神と景行天皇。


水沼猿大海
(みぬまのさるおおみ)


水沼の県主


「日本書紀」では


日本書紀巻第七では、
このように登場しています。

“時に、水沼の県主、猿大海が、
「女神がいて名を八女津媛といいます。常に山中におります」と奏言しました。“

景行天皇18年 7月7日、
景行天皇は、
八女県(やめ)に到着しました。

そして、藤山を越え、
南の粟岬(あわのさき)を望み見ました。

天皇は、もしかすると、
その山神がいるのではないか、といいました。

その時、水沼(みぬま)の県主(あがたぬし)
猿大海(さるおおみ)が、
女神がいて名を八女津媛といいます。
常に山中におります、
と答えました。

八女国の名は、
これに由来し起きました。



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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