リートリンの覚書

第十代・崇神天皇


第十代・崇神天皇
(すじんてんのう)


実在した可能性のある最初の天皇。

御肇國天皇(はつくにしらすのすめらみこと)
称される。

生没年 前148~前30(享年119歳)
在位年 前97(52歳)~前30(119歳)


別名


御間城入彦五十瓊殖天皇
(みまきいりびこいにえのすめらみこと)

御間城天皇
(みまきのすめらみこと)

御間城尊
(みまきのみこと)

初肇國天皇
(はつくにしらすすめらみこと)

御眞木入日子印恵命
(みまきいりひこいにえのみこと)

所知初國御眞木天皇
(はつくにしらししみまきのすめらみこと)

美萬貴天皇
(みまきのすめらみこと)




開化天皇
(かいかてんのう)




伊香色謎命
(いかがしこめ)


配偶者


皇后・御間城姫(みまきひめ)

妃・遠津年魚眼妙媛(とおつあゆめまくはし)

一伝では
八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)と

妃・尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)




活目入彦五十狭茅天皇
(いくめいりひこいさちのすめらみこと・垂仁天皇)

彦五十狭茅命
(ひこいそさちのみこと)

国方姫命
(くにかたひめのみこと)

千千衝倭姫命
(ちちつくやまとひめのみこと)

倭彦命
(やまとひこのみこと)

五十日鶴彦命
(いそかつるひこのみこと)

豊城入彦命
(とよきいりひこのみこと)

豊鍬入姫命
(とすきいりひめのみこと)

八坂入彦命
(やさかいりひこのみこと)

渟名城入姫命
(なぬきいりひめのみこと)

十一瓊入姫命
(とおちにいりひめのみこと)


略歴


崇神天王は開化天皇の第二子です。

母は、物部氏の遠祖の大綜麻杵の
娘・伊香色謎命。

開化天皇28年に皇太子となりました。

開化天皇60年、開化天皇が崩御。

崇神天皇元年、正月13日に即位しました。

同年2月16日に
御間城姫を皇后に立てました。

皇后は活目入彦五十狭茅天皇、彦五十狭茅命、国方姫命、千千衝倭姫命、倭彦命、
五十日鶴彦命を生みました。

妃の遠津年魚眼妙媛は
豊城入彦命、豊鍬入姫命を生みました。

次の妃、尾張大海媛は、
八坂入彦命、渟名城入姫命、
十一瓊入姫命を生みました

崇神天皇3年9月、都を磯部に遷しました。

崇神天皇4年10月23日、詔を出しました。

崇神天皇5年、
国内で疫病が発生。民の半数が死亡。

崇神天皇6年、
百姓が流離(さすらい)或いは背叛(そむ)

天照大神、倭大国魂(やまとのおおくにたま)
二神の神勢に畏れ、
天照大神を豊鍬入姫命に託し、
倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祭らせました。

また日本大國魂を渟名城入姫命に託し、
祭らせました。
しかし、渟名城入姫命は髪が抜け落ち、
痩せ祀ることができなくなりました。

崇神天皇7年2月15日 
災厄の原因を突き止めるため
神亀(亀卜)をするよう詔を出しました。
神亀したところ、
倭迹々日百襲姫命
(やまとととひももそひめのみこと)
大物主大神が神懸かりして、
自分を祭るように宣託。
そこで大物主大神を祀りました。

8月7日、
教えの通り大物主大神を祀ったが、
災厄はおさまらず。
そこで、もう一度教えを乞いました。
その夜、大物主大神が夢に現れ、
大物主大神の子・大田田根子を
主祭として大物主大神を
祀るように託宣されました。

また、
倭迹速神浅茅原目妙姫
(やまととはやかみあさぢはらまくはしひめ)
大水口宿禰(おおみくちすくね)
伊勢麻績君(いせのおみのきみ)
三人も共に同じ宣託を受けました。

11月13日、
伊香色雄に命じて、
物部は八十平瓮(やそひらか)
神に奉る物を造りました。
大田田根子を大物主大神の祭主とし、
また、長尾市を倭大国魂神の祭主としました。

崇神天皇8年4月16日、
高橋邑活日(いくひ)大物主大神の
挙酒(さかひと・神酒の管掌者)としました。

同年12月20日、
大田田根子に大神を祭らせました。

崇神天皇9年3月15日、
天皇の夢に神人が現れ、
黒坂の神、大坂の神を祀るよう神託。

同年4月16日、
夢の教えのとおり、
墨坂の神、大坂の神を祀りました。

崇神天皇10年7月24日、詔を出しました。

同年9月9日、四道将軍を地方平定に派遣。

同年9月27日、
大彦命が和珥坂の辺りに到着し、
不思議な少女の歌を聞きました。

大彦命はすぐに還りその歌を奏言。
それを聞いた倭迹々日百襲姫命が
武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を察知、
対策を練るように教えました。

武埴安彦と妻・吾田媛(あたひめ)
謀反を企て、挙兵。各々二手に分かれ、
武埴安彦は山背(やましろ)妻は大坂から、
同時に都を襲おうとしました。

そこで天皇は、
五十狭芹彦命(いさせりひこ)を派遣、
吾田媛を討伐させました。

一方大彦と和珥(わに)臣の遠祖
彦国葺(ひこくにふく)を派遣して、
山背に向かわせ、埴安彦を討伐しました。

同年10月1日詔を出し、四道将軍らを派遣。

崇神天皇11年4月28日、
四道将軍が戎夷を平定し、その状況を奏上。
また外国人が多く帰化しました。

崇神天皇12年3月11日 
人民の戸籍調査をするようにと
詔を出しました。

同年9月1日、
初めて人民の戸籍調査し、調役を科しました。

天下泰平になり、
御肇國天皇(はつくにしらすのすめらみこと)
称されました。

崇神天皇17年7月1日、
船舶を造るようにと詔を出しました。

同年10月、初めて船舶を造りました。

崇神天皇48年1月10日、
皇太子を選ぶため、
豊城命(とよきのみこと)
活目尊(いくめのみこと)
夢占いをしました。
豊城命は東を向き武器をふる夢。
一方、活目尊は四方を縄で囲み、
雀を追い払う夢をみました。

一方向、東に向かった
兄・豊城命は東国を治める者に。

四方をすべてに臨んだ活目尊を
日嗣に選びました。

同年4月19日、
活目尊を皇太子に。
豊城命に東国を治めさせました。

崇神天皇60年7月14日、
出雲大神宮に蔵している神宝を
持ってくるようにと詔を出しました。
矢田部造の遠祖武諸隅を派遣。
飯入根が出雲の神宝を献上。
その事に怒った、兄・出雲振根が
飯入根を殺しました。
朝廷は報告を受け、
吉備津彦と武渟河別を派遣。
出雲振根を誅殺しました。

出雲臣は、討伐を畏れて、
大神を祭りませんでしたが、
丹波の氷上の子どもの神託を受け、
天皇は神宝を出雲へ返し、
それを祀らせました。

崇神天皇62年7月2日、
治水工事をするように詔を出しました。

同年10月、
依網池(よさみのいけ)を造りました。

同年11月、
苅坂(かりさか)の池、
反折(さかおり)の池を造りました。

崇神天皇65年7月、
任那国(みまなのくに)が、
蘇那曷叱知(そなかしち)を派遣。
朝貢しました。

崇神天皇68年12月5日、
崩御。時に御歳百二十歳。

翌年 8月11日 
山辺道上陵(やまのべみちのえのみささぎ)
葬りました。

日本書紀
現代語訳はこちら


皇居


瑞籬宮(みつかきのみや)




陵の名は
山邊道勾岡上陵
(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)


主な神社


大神神社・末社天皇社(奈良県)
出雲大神宮 境内 崇神天皇社(京都府)


崇神天皇・年表

紀元前148年開化天皇10年(0歳)


誕生


紀元前130年開化天皇28年(19歳)


1月5日 
皇太子となる


紀元前98年開化天皇60年(51歳)


4月 
開化天皇崩御


紀元前97年崇神元年(52歳)


1月13日 即位

2月16日 御間城姫を皇后とする


紀元前95年崇神天皇3年(54歳)


9月 磯城瑞籬宮に遷す


紀元前93年崇神天皇5年(56歳)


疫病が流行し、民の半数が亡くなる


紀元前92年崇神天皇6年(57歳)


宮中で祀られていた
天照大神と倭大国魂神を皇居外に遷す。


紀元前91年崇神天皇7年(58歳)


2月15日 
大物主大神が倭迹々日百襲姫命に宣託。

8月7日 
倭迹速神浅茅原目妙姫、大水口宿禰、
伊勢麻績君の三人が共に同じ宣託を受ける。

11月13日 
大田田根子を大物主大神の祭主とし、
市磯長尾市を倭大国魂神の祭主とた。
疫病は治まり、五穀豊穣となる。


紀元前90年崇神天皇8年(59歳)


4月16日 
高橋邑の活日を大物主大神の挙酒とする。

12月20日 
大物主大神に神酒を捧げる。


紀元前89年崇神天皇9年(60歳)


3月15日 
墨坂の神、大坂の神を祀るよう、
神託を受ける。

4月16日 
墨坂の神、大坂の神を祀る。


紀元前88年崇神天皇10年(61歳)


9月 四道将軍の派遣。武埴安彦の叛乱

10月 四道将派遣


紀元前87年崇神天皇11年(62歳)


4月28日 
四道将軍が戎夷を平定。その状況を奏上する


紀元前86年崇神天皇12年(63歳)


9月1日 
人民の戸籍を調査、課役を科す。
天下泰平になり、
天皇は御肇國天皇と称される。


紀元前81年崇神天皇17年(68歳)


10月 船舶を造る


紀元前50年崇神天皇48年(99歳)


4月19日 活目尊を皇太子に立てる。


紀元前38年崇神天皇60年(111歳)


7月 
飯入根が出雲の神宝を献上。
兄・出雲振根が飯入根を殺すが、
皇軍に誅殺される。


紀元前36年崇神天皇62年(113歳)


10月 依網池を造成

11月 苅坂池、反折池を造設


紀元前33年崇神天皇65年(116歳)


7月 任那国が、蘇那曷叱知を派遣。朝貢した。


紀元前30年崇神天皇68年(120歳)


12月5日 
崩御。享年120歳
(『古事記』では享年168歳で崩御とある)


紀元前29年垂仁天皇元年


8月11日 山辺道上陵に葬られた。



略歴・年表は、
日本書紀を参考に作りました。
勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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