名所江戸百景を訪ねて
名所江戸百景を訪ねて
第87景 「四ツ谷内藤新宿」
宿場内より四ツ谷大木戸方面を描いています。
近景には馬の尻が大きく描かれており、蹄には草履が履かせられています。その足元の地面には馬糞が数個落ちているのも描かれています。
道路の左側には、茶屋や旅籠が続いて描かれ、道の奥の森は内藤家か水番所の森だと思われます。
内藤新宿
内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つです。
江戸秘本橋から数えて最初の宿場で、新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道の起点でもありました。
現在の東京都新宿区新宿一丁目から新宿二丁目。三丁目の一帯にあたります。
地名から四谷新宿とも呼ばれることもありました。
内藤新宿開設三百年記念碑元禄十一年(一六九八)六月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衞(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三丁目交差点付近までの約一kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。この宿場は、享保三年(一七一八)に一旦廃止されたが、五十四年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、平成十年(一九九八)、開設三百年を迎えることとなった。新都心・新宿の出発点となった内藤新宿の歴史と先人の歩みを記念し、ここに記念碑を建立する。平成十年十一月東京都新宿区
四谷大木戸
四谷大木戸(よつやおおきど)は江戸時代の四谷に設けられていた、甲州街道の大木戸です。ここで、江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まっていました。
史跡玉川上水水番所跡所在地 新宿区内藤町八十七番地玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。定一、此上水道において魚を取水をあびちり芥捨てべからず 何にても物あらひ申問敷並両側三間通に往来候並木下草其外草刈取申間敷候事右之通相背輩あらば可為曲事者也元文四巳未年十二月 奉行東京都指定有形文化財(古文書)水道碑記指定年月日 昭和五年十二月玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ四六○センチ、幅二三○センチ。上部の篆字は徳川家逹、撰文は肝付兼武、書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもので、表面に七八○字、裏面に一三○字が陰刻されている。碑の表面には明治十八年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(一八九五)に完成したものである(裏面銘文)。四谷大木戸跡碑四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、昭和三十四年十一月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。実際の大木戸の位置は、ここより約八○メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。平成二十四年六月新宿区教育委員会
四谷大木戸跡碑
水番所跡碑
描かれた場所は
現在どのようになっているのでしょうか?
訪ねてみました。
新宿二丁目交差点付近で撮影してみました。
最後に
内藤新宿のどの辺りでこの作品が描かれたのかが、ちょっとわからなかったので、内藤新宿があった場所を、数枚撮影してみました。
新宿一丁目西交差点
新宿御苑駅前
しかし、江戸時代には馬が闊歩していたとは、現在の舗装され車が行き交う状況からは想像できませんね。
参考
Wikipedia
太陽の地図帖 広重「名所江戸百景」の旅