リートリンの覚書

日本書紀 巻第九に登場する人物 3 ・五十狭茅宿禰 ・海上五十狭茅 ・熊之凝


日本書紀 巻第九に登場する人物 3

五十狭茅宿禰
海上五十狭茅
熊之凝


五十狭茅宿禰
(いさちのすくね)


吉師の祖


反乱を起こした、
麛坂王と忍熊王側についた人物



別名


伊佐比宿禰(いさひのすくね)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“犬上君の祖である倉見別と吉師の祖である五十狭茅宿禰は、共に麛坂王につきました。”

反乱を起こした、
麛坂王(かごさかのみこ)
忍熊王(おしくまのみこ)側についた人物です。

将軍となり東国の兵を興しました。

麛坂王と忍熊王は、
共に菟餓野(とがの)に出て、
祈狩(うけいがり)をしましたが、

赤い猪が突然出てきて桟敷に登り、
麛坂王を喰い殺してしまいました。

忍熊王は、
倉見別(くらみわけ)に話しかけ、
大いなる怪異である。
ここで敵を待つことはよくないとし、
すぐに軍を引き返して、
住吉に駐屯しました。

神功摂政元年3月5日、
武内宿禰と武振熊(たけふるくま)に命じて、
数万の兵を率い、
忍熊王を撃たせました。

武内宿禰等は、
精兵を選び、山背へ出ました。
菟道(うじ)に到着し、
河の北に駐屯しました。

忍熊王は、
軍営を出て戦おうと思いました。

時に、
武内宿禰は、三軍に命令して
みな椎結(ついけい)にさせ、
予備の弦を髪の中に隠し、
また木刀を身に着けさせました。

忍熊王を誘いだまして、
「共に弓の弦を絶ち、
武器を捨て、
味方となり一つになりましょう」
といい、

弓の弦を断ち、
刀をはずし、
河水に投げいれさせました。

忍熊王はその誘いの言葉を信じ、
ことごとく軍衆に命令して、
武器を河水に棄てさせ、
弦を断ち切らせました。

すると、武内宿禰は、
三軍に命令し、
予備の弦を出させ、
更に張り替えさせ、
真の刀を身に着けさせ、
河を渡り進軍させました。

忍熊王は騙されたことを知り、
倉見別、五十狭茅宿禰に話して、
「吾は騙されてしまった」といい、
兵をひきずり少しずつ退却しました。

武内宿禰は、
精兵を出してこれを追いました。
たまたま、逢坂で遭遇し破りました。

狭狭浪(ささなみ)の栗林(くるす)で追いつき、
そこで多くを斬りました。

忍熊王は、
逃げ込むところがありませんでした。

五十狭茅宿禰を呼び、歌を詠い、

その後、
二人とも、瀬田の済(わたり)
沈んで死んでしまいました。


「古事記」では


海上に出て
忍熊王と共に歌を歌って
海に入水したとされています。


海上五十狭茅
(うながみのいさち)


上海上国造の一人


別名


伊狭知値
伊佐比宿禰
五十狭茅宿禰(いさちのすくね)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“稚日女尊が教えさとして、
「吾は活田長峡国に居たいと思う」
といいました。
よって海上五十狭茅に祭らせました。”

神功摂政元年、
神功皇后は、
忍熊王が兵をおこしたと聞き、
難波を目指しました。

その途中、
船は海中を廻り、
進むことが出来なくなりました。

そこで、
務古水門(むこのみなと)に還り
このことを占うと、

稚日女尊(わかひるめのみこと)
教えさとして、
活田長峡国(いくたのながお)
居たいと思うといいました。

そこで海上五十狭茅に祭らせました。

神功皇后につき従っていた
神々の教えのとおりに鎮座させると、
平安に海を渡ることが出来ました。


そのほか


・五十狭茅宿禰と海上五十狭茅は
同一人物であるとされています。


熊之凝(くまのこり)


忍熊軍の先鋒


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“忍熊王は、営を出て戦おうと欲いました。この時、熊之凝というものがいました。忍熊王の軍の先鋒となりました。”

また一書では、
熊之凝は
葛野城(かずのき)の首(おびと)の祖です。

またある一云では
多呉吉師(たごのきし)の遠祖である
と伝えています。

神功摂政元年3月5日、
武内宿禰と武振熊(たけふるくま)に命じて、
数万の兵を率い、
忍熊王(おしくまおう)を撃たせました。

武内宿禰等は、精兵を選び、山背へ出ました。
菟道(うじ)に到着し、
河の北に駐屯しました。

忍熊王は、軍営を出て戦おうと思いました。

この時、熊之凝というものがいました。
彼は忍熊王の軍の先鋒となりました。

彼は、自軍を励まそうと思い、
歌いました。

ずっと向こうの 松原
松原に 渡って行き
槻の弓に 鏑矢(かぶらや)をつがえ
貴人は 貴人どうし
従兄弟は 従兄弟どうし
さあ闘おう 我は
たまきわる 内の朝臣の
腹のなかに 小石なぞあろうか
さあ闘おう 我は

その後、
忍熊王の軍は、
武内宿禰の策略にはまり、
敗戦しました。


感想

五十狭茅宿禰と海上五十狭茅は
同一人物であるとされています。
とのことですが…

五十狭茅宿禰は、反乱軍。

海上五十狭茅は、
神功皇后の命に従い、
稚日女尊を祀る神官に…

なんだろ…
やっていることが
正反対…
なのに同一人物?

この人物に関しては、
さらに調べてみたいです。

勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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