リートリンの覚書

第十二代・景行天皇


第十二代・景行天皇
(けいこうてんのう)



生没年 前13~130(享年143歳)
在位年 71(84歳)~130(143歳)


別名


大足彦忍代別天皇
(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)

大帯日子淤斯呂和氣天皇
(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)

大足日足天皇

大帯日子天皇

大帯日古天皇

大帯比古天皇




崇仁天皇(すいにんてんのう)




日葉酢媛命
(ひばすひめのみこと)


配偶者


皇后(前)・稲日大郎姫
(いなひのおおいらつめ)

皇后(後)・八坂入媛
(やさかいりひめ)

妃・水歯郎媛
(みずはのいらつめ)

妃・五十河媛
(いかわひめ)

妃・高田媛
(たかだひめ)

妃・日向髪長大田根
(ひむかかみながおおたね)

妃・襲武媛
(そのたけひめ)

妃・御刀媛
(みはかしひめ)





大碓皇子
(おおうすのみこ)
小碓尊
(おうすのみこと)

稚足彦天皇
(わかたらしひこのすめらみこと)
五百城入彦皇子
(いおきいりひこのみこ)
忍之別皇子
(おしのわけのみこ)
稚倭根子皇子
(わかやまとねこのみこ)
大酢別皇子
(おおすわけのみこ)
渟熨斗皇女
(ぬのしのひめみこ)
渟名城皇女
(ぬなきのひめみこ)
五百城入姫皇女
(いおきいりひめのひめみこ)
麛依姫皇女
(かごよりひめのひめみこ)
五十狭城入彦皇子
(いさきいりひこのみこ)
吉備兄彦皇子
(きびのえひこのみこ)
高城入姫皇女
(たかきいりひめのひめみこ)
弟姫皇女
(おとひめのひめみこ)

五百野皇女
(いおのひめみこ)

神櫛皇子
(かんくしのみこ)
稲背入彦皇子
(いなせいりひこのみこ)

武国凝別皇子
(たけくにこりわけのみこ)

日向襲津彦皇子
(ひむかそつひこのみこ)

国乳別皇子
(くにちわけのみこ)
国背別皇子
(くにそわけのみこ)
豊戸別皇子
(とよとわけのみこ)

豊国別皇子
(とよくにわけのみこ)


略歴(日本書紀の伝えにより作成)


崇仁天皇の第三子です。

母の皇后は日葉酢媛命、
丹波道主王
(たにはのみちぬしのおおきみ)
の娘です。

垂仁天皇17年、誕生

垂仁天皇30年1月6日、
垂仁天皇は五十瓊敷命、大足彦尊に、
欲しい物を問うと、
兄王は、「弓矢が欲しい」、
弟王は「皇位が欲しい」と返答。
そこで天皇は、五十瓊敷命に弓矢を賜り、
大足彦尊には皇位を継ぐように言いました。

垂仁天皇37年、
皇太子となりました。(御歳21歳)

垂仁天皇99年2月、
垂仁天皇が崩御しました。

景行天皇元年7月11日、
天皇に即位しました。

景行天皇2年3月3日、
播磨稲日大郎姫を皇后に立てました。
后は大碓皇子、第二は小碓尊とを生みました。

景行天皇3年2月1日、
紀伊国に行幸し、
天神地祇を祭祀しようと占ったところ、
不吉と出たため、行幸を取りやめ、
代りに屋主忍男武雄心命
(やぬしおしおたけおこころ)を遣わせて、
祀らせました。
屋主忍男武雄心命はそこに留まり、
影媛
(かげひめ)を娶り、
武内宿禰
(たけうちのすくね)が生まれました。

景行天皇4年2月11日、
美濃に行幸し、
そこに住む弟媛
(おとひめ)が美人と聞き、
情交するも、彼女は結婚の意志がなく、
代りに姉の八坂入媛を薦めました。
そこで、八坂入媛を呼びだして妃としました。
妃は七男六女を生みました。
第一子は稚足彦(成務)天皇、
第二子は五百城入彦皇子、
第三子は忍之別皇子、
第四子は稚倭根子皇子、
第五子は大酢別皇子、
第六子は渟熨斗皇女、
第七子は渟名城皇女、
第八子は五百城入姫皇女、
第九子は麛依姫皇女、
第十子は五十狭城入彦皇子、
第十一子は吉備兄彦皇子、
第十二子は高城入姫皇女、
第十三子は弟姫皇女といいます。

妃の水歯郎媛は、
五百野皇女を生みました。

妃の三尾氏磐城別
(みおのうじのいわきわけ)の妹の、
水歯郎媛は、五百野皇女を生みました。

妃、五十河媛は、
神櫛皇子、稲背入彦皇子を生みました。

妃、高田媛は、
武国凝別皇子を生みました。

妃、日向髪長大田根は、
日向襲津彦皇子を生みました。

妃、襲武媛は、
国乳別皇子と国背別皇子と
豊戸別皇子を生みました。

天皇の息子・娘は、全てあわせて八十子。
日本武尊と稚足彦天皇と五百城入彦皇子
を除いて、別の七十余子は、
皆、国郡の領主とし、
各々その国に行きました。

同年2月、
天皇は美濃の国造、
名は神骨
(かんほね)の娘、
兄遠子
(えとおこ)、弟遠子(おととおこ)が、
美人と聞き、すぐに、大碓命を派遣し、
容姿を観察させましたが、
大碓命は密通し、復命しませんでした。
天皇は、大碓命を恨みました。

同年11月1日、
都を纒向にしました。
これを日代宮
(ひしろのみや)といいます。

景行天皇12年7月、
熊襲が叛逆しました。

同年8月15日、
筑紫に行幸しました。

同年9月5日、
周芳の婆麼
(さば)に到着しました。
南に賊が居る可能性があるとして、
先に武諸木
(たけもろき)、菟名手(うなて)
夏花
(なつはな)を派遣して、
その状況を偵察させました。
そこには、神夏磯媛
(かんなつそひめ)という
首領がいました。
彼女は、すぐに帰順し、
四人の賊の情報を報告しました。
そこで、賊に珍しい物を与えて、
呼び寄せ、これを捕まえて誅殺しました。
その後、天皇は行宮
(かりみや)を興し、
そこに留まりました。

同年10月、
碩田国
(おおきたのくに)
到着しました。
その後、速見邑
(はやみ)に到着。
一処の長、速津姫
(はやつひめ)がいました。
彼女は、5人の土蜘蛛がいるという情報を
提供しました。
そこでその5人を誅殺しました。

同年11月、
日向国
(ひむかのくに)に到着し、
行宮を起こして居ました。
これを高屋宮といいます。

同年12月5日、
熊襲を討つことを議論しました。
そこでひとりの臣が、
襲国
(そのくに)にいた
熊襲の八十梟帥
(やそたける)
厚鹿文
(あつかや)、迮鹿文(さかや)の娘、
市乾鹿文
(いちふかや)を市鹿文召し出たせ、
寵愛していると偽り、
八十梟帥の動向を把握して
不意をつくことを提案します。
そこで贈物を示しその二人の娘を欺いて、
戦地の後宮に召し入れました。
天皇は、市乾鹿文と情交し偽って
寵愛しているよう見せかけました。
その後、市乾鹿文は、
良い謀
(はかりごと)があるといい、
一、二の兵をあずかりました。
彼女は、家に帰り、
多くの酒を用意し、
自分の父に飲ませ酔って眠ったところを、
従う兵が熊襲梟師を殺しました。
天皇は、その不孝の甚だしさを憎み、
市乾鹿文を誅殺しました。
そこで妹の市鹿文に、火の国造を授けました。

景行天皇13年5月、
襲国を平定しました。
御刀媛、召し妃にしました。
豊国別皇子を生みました。

景行天皇17年3月12日、
子湯県
(こゆ)に行幸し、
思邦歌
(くにしのびうた)を詠いました。

景行天皇18年3月、
天皇は、筑紫国を巡狩。
夷守
(ひなもり)に到着。
この時、石瀬河
(いわせ)の辺に、
諸県君泉媛
(もろかたのきみいずみひめ)が、
食事を献上しようといい、
その一族が集まっていました。

景行天皇4月3日
熊県に到着。そこに熊津彦という
兄弟二人がいました。
天皇は先に兄熊を召し出し
兄熊は使者に従い参上。
しかし、弟熊は来ませんでした。
そこで兵を派遣し誅伐しました。

11日、
海路より葦北の小島
(こしま)に停泊、
食の貢進を受けました。
時に、山部阿弭古
(やまべのあびこ)の祖である
小左
(おひだり)を召し出し、
冷水を貢進させましたが、
島に水がありませんでした。
そこで天神地祇に祈ったところ、
忽然と冷泉が崖の傍から湧き出ました。
それ故、その島を水島と呼びます。

5月1日、
葦北から出港し、火国に到着。
ここで日没となりました。
夜は暗く着岸するところが
わかりませんでしたが、
火が見えるところを目指して行くと、
岸に着くことが出来ました。
その火の主が誰なのかわかりませんでした。
ここで、人火ではないことを知りました。
故にその国を火国
(ひのくに)と名づけました。

6月3日、
高来県
(たかく)から玉杵名邑(たまきな)
渡りました。
時に、その処の土蜘蛛、
津頬
(つつら)を殺しました。

16日、
阿蘇国に到着。そこには二神、
阿蘇都彦
(あそつひこ)
阿蘇都媛(あそつひめ)がいました。
故に、その国を阿蘇といいます。

7月4日、
筑紫の後国の御木
(みけ)に到着して、
高田行宮に居ました。
時に、長さ九百七十丈もある
倒木がありました。
倒れるまえは、朝日の光が当たれば、
杵嶋山
(きしま)を隠し、
夕日の光に当たれば、
阿蘇山を覆ったといいます。
それを聞いた天皇は
この国を御木国と名づけました。

7日、
八女県
(やめ)に到着。
そこには八女津媛という女神がいました。
八女国の名は、これに由来し起きました。

8月、
的邑
(いくは)に到着して
食の貢進を受けました。
時の人は、盞を忘れた処を浮羽
(うきは)
と呼びました。
今、的
(いくは)というのは訛ったからです。

景行天皇19年9月20日、
天皇は日向より帰り着きました。

景行天皇20年2月4日、
五百野皇女を遣わして、
天照大神を祭らせました。

景行天皇25年7月3日、
武内宿禰を遣わせて、
北陸と東北の諸国の
地形、百姓の消息を視察させました。

景行天皇27年2月12日、
武内宿禰が、東国から帰還。
地理、風俗などを報告しました。

8月、
熊襲がまた反逆。

10月13日、
日本武尊を派遣して、熊襲を撃たせました。
日本武尊は弟彦公
(おとひこのきみ)
石占横立
(いしうらのよこたち)
田子稲置
(たごのいなき)
乳近稲置
(ちぢかのいなき)を随行しました。

12月、
日本武尊は熊襲の国に到着。
熊襲の首領、名を取石鹿文
(とろしかや)
又は川上梟師
(かわかみのたける)
すべての親族を集めて
宴会をしようとしていました。
そこで日本武尊は、
童女
(おとめ)の姿になり潜入。
川上梟師が酒に酔ったところを、
胸を刺しました。死ぬ間際、川上梟師は
日本武皇子
(やまとたける)の尊号を贈りました。
称号、日本武尊と呼ぶのは
これがその起源なのです。
倭に還る途中、穴海の悪神、
柏渡の悪神を殺しました。

景行天皇28年2月1日、
日本武尊は、
熊襲を平定した状況を奏上しました。

景行天皇40年6月
東夷の叛逆。

7月16日、
天皇は、東征に誰を派遣したらよいのか議論。
みな誰を派遣していいのか
わかりませんでした。
そこで、日本武尊が西征には自分が行った、
この役は必ずや大碓皇子の務めでしょう
といいました。
しかし、大碓皇子は逃げ隠れてしまったので、
ついに美濃の領主としその地に行かせました。
そこで天皇は、
斧鉞
(おのまさかり)を持って
日本武尊に授けて、東夷の状況を教え、
忠告しました。
日本武尊は、斧鉞を受け取り、
派遣を承諾しました。
そこで天皇は、吉備武彦
(きびのたけひこ)
大伴武日連
(おおとものたけひのむらじ)とに命じ、
日本武尊に従わせました。
また七掬脛
(ななつかはぎ)を、
膳夫
(かしわで)としました。

10月2日、
日本武尊は出発しました。

7日、
日本武尊は、寄り道し伊勢神宮を拝みました。
倭姫命に辞去し、そこで、倭姫命は、
草薙剣
(くさなぎのつるぎ)
日本武尊に授けました。

景行天皇43年、
日本武尊が蝦夷を平定後、
帰路の途中で薨去しました。

景行天皇51年1月7日、
皇子稚足彦尊、武内宿禰は、
門の下に侍
(さぶら)いて、
非常に備えて宴会の庭に来ませんでした。
天皇は理由を聞き、ことに寵愛しました。

8月4日、
稚足彦尊を皇太子に立てました。
武内宿禰に命じて
棟梁之臣
(とうりようのまえつきみ)としました。

神宮に献じた蝦夷等は、昼も夜も喧嘩して、
出入も礼もありませんでした。
そこで朝廷に進上しました。
そこで、御諸山
(みもろのやま)
(ほとり)に安置させました。
しかし、神山の樹を伐(き)り、
隣の里に叫呼し、人民を脅かしました。
天皇はこれを聞いて、
国の畿外に離して置くようにといいました。
播磨
(はりま)、讃岐(さぬき)
伊予
(いよ)、安芸(あき)、阿波(あわ)
すべて五国の佐伯部の祖です。

景行天皇52年5月4日、
皇后播磨太郎姫が崩御。

7月7日、
八坂八媛命
(やさかいりひめ)
皇后に立てました。

景行天皇53年8月1日、
天皇は小碓王の平定した国を
巡狩したいといい、
この月、天皇は、伊勢に行幸し、
転じて東海に入りました。

10月、
上総
(かずさ)の国に到着、
海路から淡水門
(あわのみなと)に渡しました。
そこで白蛤
(うむき)をとることができました。
膳臣(かしわでのおみ)の遠祖、
名は磐鹿大雁
(いわかむつかり)は、
白蛤をなますにして進めました。
そこで、六雁臣
(むつかりのおみ)の功を誉めて、
膳大伴部(かしわでのおおともべ)を授けました。

12月、
東国から還って、伊勢に居ました。
これを綺宮
(かにはたのみや)といいます。

景行天皇54年9月19日、
伊勢から倭に還り、纒向宮に居ました。

景行天皇55年2月5日、
彦狭嶋王
(ひこさしま)が、
東山道十五国の都督に任命。
しかし、病に臥して薨去しました。

景行天皇56年8月、
御諸別王は、天皇の東国を治めよと
いう命を承け、そこに行き統治して、
早く善政をしくことができました。
時に、蝦夷が騒動しました。
すぐに兵を挙げて撃ちました。
降伏する者はゆるし、
服属しないのは誅殺しました。
こういうわけで、東国は久しく平安でした。

景行天皇57年9月、
坂手池を造りました。

10月、
諸国に命令、
田部の屯倉(みやけ)を興しました。

景行天皇58年2月11日、
近江国に行幸、志賀に居ること三年。
これを高穴穂宮
(たかあなほのみや)
といいます。

景行天皇60年11月7日、
天皇は、高穴穂宮にて崩御しました。
ときに年百六歳。

成務天皇2年11月10日、
大足彦天皇を
倭の国の山邊道上陵
(やまのべのみちのえのみささぎ)
に葬りました。


日本書紀




皇居


纒向日代宮
(まきむくのひしろのみや)
志賀高穴穂宮
(しがのたかあなほのみや)





陵の名は山邊道上陵
(やまのべのみちのえのみささぎ)


主な神社


景行天皇社(愛知県長久手市)


景行天皇・年表

紀元前13年垂仁天皇17年(0歳)


誕生


西暦1年垂仁天皇30年(14歳)


1月6日 
垂仁天皇は皇位が欲しいと返答した
大足彦尊に皇位を継ぐように言いました。


8年垂仁天皇37年(21歳)


皇太子となる


70年垂仁天皇99年(83歳)


2月 
垂仁天皇が崩御


71年景行天皇元年(84歳)


7月11日 
天皇に即位


72年景行天皇2年(85歳)


3月3日 
播磨稲日大郎姫を皇后とする


73年景行天皇3年(86歳)


2月1日 
紀伊国に行幸。
天神地祇を屋主忍男武雄心命に祀らせる


74年景行天皇4年(87歳)


2月11日 
美濃に行幸、泳宮に滞在。
そこに住む弟媛と情交。
八坂入媛、水歯郎媛、五十河媛、高田媛、
日向髪長大田根、襲武媛、を妃とする。
天皇の息子・娘は、全てあわせて80子。
70余子は、皆、国郡の領主とした。

2月 
天皇は大碓命を派遣し、
兄遠子、弟遠子の容姿を観察させたが、
大碓命は密通し、復命せず。

11月1日 
纒向日代宮に遷都


82年景行天皇12年(95歳)


7月 
熊襲が叛逆

8月15日 
筑紫に行幸

9月5日 
周芳婆麼に到着。四人の首長を征伐

10月 
碩田国に到着。5人の土蜘蛛を討伐。

11月 
日向国に到着、行宮・高屋宮を造営

12月5日 
市乾鹿文等が熊襲梟帥を殺す。
天皇は、市乾鹿文を誅殺。
妹の市鹿文に、火の国造を授ける


83年景行天皇13年(96歳)


5月 
襲国を平定。


87年景行天皇17年(100歳)


御刀媛を妃に

3月12日 
子湯県に行幸。思邦歌を詠う


88年景行天皇18年(101歳)


3月
天皇は、筑紫国を巡狩。夷守に到着。
諸県君泉媛が食事を献上

4月3日
熊県に到着。弟熊を征伐、葦北へ

11日 
海路より葦北の小島に停泊、食の貢進。
山部阿弭古の祖・小左が冷水を貢進

5月1日 
火国に到着。国を火国と名づける

6月3日
玉杵名邑の土蜘蛛、津頬を誅殺

16日
阿蘇国に到着

7月4日
筑紫の後国の御木に到着

7日
八女県に到着

8月
的邑に到着して食の貢進


89年景行天皇19年(102歳)


9月20日 
天皇は日向より帰国


90年景行天皇20年(103歳)


2月4日
五百野皇女を遣わして、天照大神を祀らせる


95年景行天皇25年(108歳)


7月3日
武内宿禰を派遣し、
北陸と東北の諸国の地形、
百姓の消息を視察させる


97年景行天皇27年(110歳)


2月12日、
武内宿禰が、東国から帰還。
地理、風俗などを報告

8月
熊襲がまた反逆

10月13日
日本武尊を征伐に派遣。
弟彦公、石占横立、
尾張の田子稲置、乳近稲置等が随行

12月
日本武尊、熊襲国に到着。
熊襲の首領、名を取石鹿文、
又は川上梟師等を討伐。
川上梟師が尊称日本武皇子を贈る。
日本武尊が穴海の悪神、柏渡の悪神を討伐


98年景行天皇28年(111歳)


2月1日
日本武尊が帰国。熊襲を平定した状況を奏上


110年景行天皇40年(123歳)


6月
東夷の叛逆

7月16日
天皇は、東征に誰を派遣したらよいのか議論。
大碓皇子を濃の領主に。
日本武尊を東夷討伐に派遣。
吉備武彦、大伴武日連、七掬脛等が随行

10月2日 
日本武尊、東征に出発

7日
日本武尊が伊勢神宮を参拝し、倭姫命に辞去。
倭姫命から草薙剣授かる


113年景行天皇43年(126歳)


日本武尊が蝦夷を平定後、帰路の途中で薨去


121年景行天皇51年(134歳)


1月7日
皇子稚足彦尊、武内宿禰が
非常に備えて宴会の庭に参加せず

8月4日、
稚足彦尊を皇太子に立てる。
武内宿禰に棟梁之臣に任命

神宮に献じた蝦夷等を
播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波、に安置


122年景行天皇52年(135歳)


5月4日
皇后播磨太郎姫が崩御。

7月7日
八坂八媛命を皇后に立てる


123年景行天皇53年(136歳)


8月1日
天皇は、日本武尊を追慕し東国巡幸。
この月、天皇は、伊勢に行幸、
転じて東海に入る。

10月
上総国に到着、海路から淡水門に渡る。
六雁臣、膳大伴部を授かる

12月
東国から帰還、伊勢、綺宮に戻る


124年景行天皇54年(137歳)


9月19日
伊勢から倭に還り、纒向宮に帰国


125年景行天皇55年(138歳)


2月5日
彦狭嶋王、東山道十五国の都督に任命される。
しかし、病に臥して薨去


126年景行天皇56年(139歳)


8月
御諸別王が父の代わりに
東山道十五国の都督に任命される。
東国は久しく平安


127年景行天皇57年(140歳)


9月
坂手池を造る

10月
諸国に命令、田部の屯倉を興す


128年景行天皇58年(141歳)


2月11日
近江国に行幸、志賀高穴穂宮に3年滞在


130年景行天皇60年(143歳)


11月7日
天皇、高穴穂宮にて崩御。
(『日本書紀』では106歳、
『古事記では137歳』)


132年成務天皇2年


11月10日
景行天皇を倭の国の山邊道上陵に葬る



略歴・年表は、
日本書紀を参考に作りました。

勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。

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