リートリンの覚書

日本書紀 巻第九に登場する人物 6 ・千熊長彦 ・鹿我別 改訂版


日本書紀 巻第九に登場する人物 6

・千熊長彦
・鹿我別


千熊長彦
(ちくまながひこ)


対百済国、新羅国の
外交にあたっていた人物


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“天神が教えさとして、
「武内宿禰に議を行わせよ。また千熊長彦を使者にしたら、願うようになるだろう」といいました。“

日本書紀では、
千熊長彦は、
はっきりとしたその姓の分からぬ人です。
と記載されています。

また一書では
武蔵の国の人。
今は
額田部槻本首(ぬかたべのつきもとのおびと)等の
始祖と。

百済記に
職麻那那加比跪(ちくまなながひこ)
といっているのは、
たぶんこの人ではないかと記載しています。


千熊長彦は、
対百済国、新羅国の
外交にあたっていた人物と思われます。

神功皇后摂政47年4月。
百済王は久氐(クテイ)
彌州流(ミツル)
莫古(マクコ)を使わして、
朝貢しました。

この時、
新羅国の調(みつき)の使が、
久氐と共にやってきました。

皇太后と
太子・譽田別尊(ほむたわけのみこと)は、
大いに歓喜しました。

しかし、
二国の貢物を検校(けんぎょう)すると、
新羅の貢物は珍しいものが大変多く。
一方、百済の貢物は少なく、
賤しく良くないものでした。

そこで久氐らに問うと、
彼等は道にまよい、
沙比(さひ)の新羅に到着しました。

新羅人は、
彼等を捕えて牢屋に投獄し、
貢物を奪い、新羅の貢物とし、
新羅の賤物と取り換え百済の貢物としました。

それを聞いた、
皇太后と譽田別尊は、
新羅の使者を責め、

天神に祈ると、
「武内宿禰に議を行わせよ。
また千熊長彦を使者にしたら、
願うようになるだろう」
と天神が教えさとしました。

そこで千熊長彦を新羅に派遣して、
百済の献物を乱したことを責めました。

神功皇后摂政49年3月、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、
海を渡り、卓淳国に到着。

その後、
木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて、
沙白(サハク)、蓋盧(コウロ)
召しあげさせ、
そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。

比自(ひしほ)

南加羅(ありひしのから)

㖨国(とくのくに)

安羅(あら)

多羅(たら)

卓淳(とくじゅん)

加羅(から)


の七国を平定しました。


それから兵を移して、
西に廻り、古奚津(こけつ)に至り、
南蛮の忱彌多礼(とむたれ)を屠(ほふ)り、
百済に与えました。

ここで、
百済王・肖古(しょうこ)及び
王子・貴須(きす)もまた、
軍を率いて来会(らいかい)しました。

この時、

比利(ひり)

辟中(へちゅう)

布彌支(ほむき)

半古(はんこ)の四邑が、

自然と降服しました。


これをもって、
百済王父子及び荒田別、
木羅斤資等は、
共に意流村(おるすき)で会いました。

相見てよろこびを感じました。
礼を厚くして送り、
また遣わしました。

その後、
千熊長彦と百済王は、
百済国に行き、

辟支山(へきのむれ)に登り、
(ちか)いました。

また古沙山(こさのむれ)に登って、
共に磐石の上に居ました。

この時、百済王が盟って、
「つねに西蕃(にしのとなり)を称して、
春秋に朝貢しよう」
といいました。

そして千熊長彦をつれて、
都に行き厚く礼遇し、
久氐等を副(そ)えて送りました。

神功皇后摂政50年2月、
荒田別等が帰国しました。

神功皇后摂政50年5月、
千熊長彦、久氐等が、百済から帰国しました。

神功皇后摂政51年3月、
百済王が、
また久氐を派遣して朝貢しました。

その年に、
千熊長彦を、
久氐らに副(そ)えて、
百済に派遣しました。

神功皇后摂政52年9月10日、
久氐等が、
千熊長彦に従ってやってきました。

そして、
七枝刀(ななつさやのたち)一口、
七子鏡(ななつごのかがみ)一面、
及びにさまざまの重宝を献上しました。


鹿我別
(かがわけ)


朝鮮に派遣された将軍


別名


鹿我別命

賀我別王



「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“四十九年春三月、荒田別、鹿我別を将軍としました。そこで久氐等と、共に兵を整えて、渡り、卓淳国に至り、まさに新羅を襲おうとしました。”

神功皇后摂政47年4月。
百済王は久氐(クテイ)
彌州流(ミツル)
莫古(マクコ)を使わして、
朝貢しました。

この時、
新羅国の調(みつき)の使が、
久氐と共にやってきました。

皇太后と
太子・譽田別尊(ほむたわけのみこと)は、
大いに歓喜しました。

しかし、
二国の貢物を検校(けんぎょう)すると、
新羅の貢物は珍しいものが大変多く。
一方、百済の貢物は少なく、
賤しく良くないものでした。

そこで久氐らに問うと、
彼等は道にまよい、
沙比(さひ)の新羅に到着しました。

新羅人は、
彼等を捕えて牢屋に投獄し、
貢物を奪い、新羅の貢物とし、
新羅の賤物と取り換え百済の貢物としました。

それを聞いた、
皇太后と譽田別尊は、
新羅の使者を責め、

天神に祈ると、
「武内宿禰に議を行わせよ。
また千熊長彦を使者にしたら、
願うようになるだろう」
と天神が教えさとしました。

そこで千熊長彦を新羅に派遣して、
百済の献物を乱したことを責めました。

神功皇后摂政49年3月、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、
海を渡り、卓淳国に到着。

その後、
木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて、
沙白(サハク)、蓋盧(コウロ)
召しあげさせ、
そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。

比自(ひしほ)

南加羅(ありひしのから)

㖨国(とくのくに)

安羅(あら)

多羅(たら)

卓淳(とくじゅん)

加羅(から)


の七国を平定しました。


それから兵を移して、
西に廻り、古奚津(こけつ)に至り、
南蛮の忱彌多礼(とむたれ)を屠(ほふ)り、
百済に与えました。

ここで、
百済王・肖古(しょうこ)及び
王子・貴須(きす)もまた、
軍を率いて来会(らいかい)しました。

この時、

比利(ひり)

辟中(へちゅう)

布彌支(ほむき)

半古(はんこ)の四邑が、

自然と降服しました。


これをもって、
百済王父子及び荒田別、
木羅斤資等は、
共に意流村(おるすき)で会いました。
相見てよろこびを感じました。
礼を厚くして送り、
また遣わしました。

神功皇后摂政50年2月、
荒田別等が帰国しました。

日本書紀 巻第十、
本文ではこのように記載されています。

応神天皇15年秋8月6日、
百済王が阿直伎(アチキ)を派遣して、
良馬二匹を献上しました。
天皇は阿直伎から
王仁(ワニ)という優れた者がいると聞き、
荒田別、巫別(かんなぎわけ)を百済に遣して、王仁を召し出しました。



勉強途中ですので
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