リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十八 天命開別天皇 二十三 ・瀬田の戦い ・大分君稚臣の活躍 ・三尾城を降服させる



日本書紀 巻第二十八 
天命開別天皇 二十三

・瀬田の戦い
・大分君稚臣の活躍
・三尾城を降服させる



二十二日、
男依(おより)等は、
瀬田(せた)に到りました。

時に、
大友皇子(おおとものみこ)及び群臣等は、
共に橋の西に陣営を大きく成していました。

その後のほうを
見ることができないほどでした。

旗旘(はた)が野を蔽(おお)い、
埃塵(ほこり)は天に連なっていました。

鉦皷(かねつづみ)の聲が
数十里まで聞こえました。

列(つら)なる弩(ど)から
乱れ発せられた矢は雨の如く下りました。

その將の智尊(ちそん)は、
精兵を率いて、
先鋒として距(ふせ)ぎました。

なお、
橋の中ほどを切斷し、

三丈ほどを
須く(すべから)く容(い)れて、
一つの長い板を置きました。

設けてある板を渡ろうとする者がある度、

乃ち、
板を引き堕としました。

ここをもって、
進み襲うことができませんでした。

ここにおいて、
勇敢な士がありました。
大分君稚臣
(おおきだのきみわかみ)といいます。

則ち、
長い矛(ほこ)を棄て、
重ねて擐甲(かんこう)し、
刀を抜き、
急ぎ板を踏み渡りました。

便ち、板につけた綱を断ち、
矢を被(こうむ)りながら、
陣に入りました。

衆(いくさ)は、
悉(ことごと)く乱れ、

散って走り、
禁ずることができませんでした。

時に、
將軍の智尊は、
刀を拔き、
退く者を斬りましたが、
止めることはできませんでした。

よってもって、
智尊を橋の辺で斬りました。

則ち大友皇子、
左右大臣等は、
僅かに身だけ免がれ逃げました。

男依等は、
卽ち、
粟津岡(あわづのおか)の下に
軍をおこしました。

この日、
羽田公矢国(はたのきみやくに)、
出雲臣狛(いずものおみこま)は、

合わせて共に三尾城(みおのき)を攻めて、
降らせました。



・瀬田(せた)
滋賀県栗太郡瀬田町
・鉦皷(かねつづみ)
金属の太鼓
・弩(ど)
機械仕掛けの弓の一種
・擐甲(かんこう)
鎧を着こむこと
・衆(いくさ)
兵士
・粟津岡(あわづのおか)
大津市膳所
・三尾城(みおのき)
近江国にあった古代日本の城。城跡の所在地は不明で、現在の滋賀県高島市付近に推定される



(感想)

(元年7月)

22日、
男依らは、
瀬田に到着しました。

時に、
大友皇子および群臣らは、
共に瀬田橋の西に屯営し、
大きく陣を成していました。

それは、
後方を見ることができないほどでした。

旗、幟が野を覆い、
軍がたてた埃塵は、
天に連なっていました。

鉦と皷の音が
数十里まで聞こえました。

列をなした弩から
乱発された矢は、
雨のように降りました。

その将軍の智尊は、
精兵を率いて、
先鋒として防御しました。

なお、
近江軍は、
橋の中ほどを切断し、

三丈ほどばかりにして
そこに一枚の長い板を置きました。

設置してある板を渡ろうとする者がある度、
すぐに板を引き落としました。

こういうわけで、
進んで撃破することができませんでした。

この時、
勇敢な士がおりました。
大分君稚臣といいます。

長い矛(ほこ)を棄て、
鎧を重ねて着こみ、
刀を抜き、
急ぎ板を踏み渡りました。

すぐに、
板につけた綱を切断し、

矢を被りながら、
陣に突入しました。

近江軍の兵士は、
ことごとく乱れ、
散って逃走しました。

禁止することができませんでした。

時に、
将軍の智尊は、
刀を抜き、
退く者を斬りましたが、
止めることはできませんでした。

そんな、
智尊を橋の辺で斬りました。

大友皇子、左右大臣らは、
どうにかこうにか免がれ
逃げました。

男依らは、
すぐに、
粟津岡の下に軍をおこしました。

この日、
羽田公矢国、出雲臣狛は、
合流し共に三尾城を攻めて、
降服させました。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


ランキングに参加中!励みになります。
ポチッとお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 神話・伝説へ  

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

最近の「日本書紀・現代語訳」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事