東京史跡巡り
旧国技館跡
旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治42年(1909)に竣工・開館した、1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館でした。
昭和58年(1983)に老朽化に伴い解体されました。
旧両国国技館
(昭和10年代)
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大相撲旧国技館跡旧国技館は、天保四年(一八三三)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(一九〇九)に、その境内に建設されました。建築費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(一九八三)に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。墨田区
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旧国技館(大鉄傘)跡所在地 墨田区両国二丁目8番旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治42年(1909)に竣工・開館しました。1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館で、設計は、日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾と葛西萬司が手がけました。日本初のドーム型鉄骨の建物であったことから、大鉄傘とも呼ばれました。開館当初は両国元町常設館が正式名称でしたが、翌年から国技館という名称が定着しました。開館後は菊人形祭りや講演会などを開催するイベントホールとしても利用されました。この建物は、大正6年(1917)の火災と同12年(1923)の関東大震災、そして昭和20年(1945)の東京大空襲などで被害を受けましたが、そのたびに修理され、昭和58年(1983)に老朽化に伴い解体されるまで使用されました。ただし、相撲常設館としての役割は、横綱双葉山の引退披露大相撲として開催された昭和21年(1946)秋場所を最後とし、その後はメモリアルホールと称してプロレスやボクシングなどの格闘技の試合会場として使用さrました。また、昭和33年(1958)以降は、日本大学講堂として使用されました。なお、旧国技館の解体後、地元の方々が台東区の蔵前国技館に移転していた本場所の誘致に尽力され、昭和60年(1958)1月に現在の両国国技館が開館しました。旧国技館の跡地は、現在複合商業施設となり、その中庭にはタイル貼りでかつての土俵の位置が示されています。令和3年3月墨田区教育委員会掲示板より引用
所在地
東京都墨田区両国二丁目8番
最後に
資料から、旧国技館が美しい建物だった事が読み取れます。
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辰野金吾の設計した建築物のファンとしては、是非現代に残して欲しかったと思いました。