リートリンの覚書

日本書紀に登場する人物・新羅国 波沙寐錦 ・微叱己知波珍干岐 ・宇流助富利智干 ・汙礼斯伐 ・毛麻利叱智 ・富羅母智 ・漢人等


日本書紀に登場する人物・新羅国

・波沙寐錦
・微叱己知波珍干岐
・宇流助富利智干
・汙礼斯伐
・毛麻利叱智
・富羅母智
・漢人等


波沙寐錦
(ハサムキム)



新羅の王


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“ここで、新羅王・波沙寐錦は、すぐに微叱己知波千岐を質として。宝を、八十の艘船に載せて、官軍に従わせました。”

仲哀天皇9年10月3日、
自ら西征に出発した神功皇后。
皇軍の軍船に従っていた大波が
遠く新羅国
の中まで及びました。

その後、
軍船が海に満ち、
新羅王は戦々傈々(せんせんりつりつ)として、
白旗を挙げて自ら服従しました。

そして、
微叱己知波千岐(ミシコチハトリカンキ)
人質とし、宝を八十の艘船に載せて、
官軍に従わせました。


微叱己知波珍干岐
(ミシコチハトリカンキ)


新羅の人質


別名


微叱許智伐旱(ミシコチホツカン)
許智伐旱(コチホツカン)
微叱旱岐(ミシカンキ)
微叱智(ミシチ)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“ここで、新羅王波沙寐錦は、すぐに微叱己知波珍干岐を質として。”

仲哀天皇9年10月3日、
自ら西征に出発した神功皇后。

皇軍の軍船に従っていた大波が
遠く新羅
国の中まで及びました。

その後、
軍船が海に満ち、
新羅王は戦々傈々(せんせんりつりつ)とし、
白旗を挙げて自ら服従しました。

そして、
微叱己知波千岐を人質とし、
宝を八十の艘船に載せて、
官軍に従わせました。

神功皇后摂政5年3月7日、

新羅王が、
汙礼斯伐(ウレシホツ)
毛麻利叱智(モマリシチ)
富羅母智(ホラモチ)等を
派遣して朝貢しました。

なお、
先(仲哀九年十月)の人質、

微叱許智伐旱(ミシコチホツカン)
返してもらおうとの企みがあり、

許智伐旱(コチホツカン)に誘いかけました。

そして欺いて、
「新羅王が、
『臣が久しく還らないとは坐によって、
妻子を没収して官有奴隷にする』
と言っています。
一度国へもどり真偽を確かめたい。
そして、請願したい」
と願い出ました。

皇太后はこれを聞き入れ、
葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を副えて
派遣しました。

共に対馬に到着し、
鉏海(さひのうみ)の水門に宿泊しました。

このとき、
新羅の使者、
モマリシチ等は、

密かに
微叱旱岐(ミシカンキ)を船に載せ、
新羅に逃がしました。


宇流助富利智干
(ウルソホリチカ)


一書で登場する新羅王


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
一書では、
このように登場しています。

“そこで、新羅王・
宇流助富利智干は、迎え参じて跪き、王船をとらえてすぐさま叩頭して、”

一書で登場する新羅王です。

神の教えの通り西征した神功皇后。
船につき従っていた波は
遠く新羅の国の中まで及びました。

そこで、
新羅王・宇流助富利智干は、
迎え参じて跪き、
王船をとらえてすぐさま叩頭して、

内官家(うちつみやけ)となって、
絶えることなく朝貢します、
といいました。


汙礼斯伐
(ウレシホツ)


新羅の使者


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“五年、春三月七日、新羅王が、汙礼斯伐、毛麻利叱智、富羅母智等を派遣して朝貢しました。”

神功皇后摂政5年3月7日、

新羅王が、
汙礼斯伐、
毛麻利叱智(モマリシチ)
富羅母智(ホラモチ)等を
派遣して朝貢しました。

なお、
先(仲哀九年十月)の人質、

微叱許智伐旱(ミシコチホツカン)
返してもらおうとの企みがあり、

許智伐旱(コチホツカン)に誘いかけました。

そして欺いて、
「新羅王が、
『臣が久しく還らないとは坐によって、
妻子を没収して官有奴隷にする』
と言っています。
一度国へもどり真偽を確かめたい。
そして、請願したい」
と願い出ました。

皇太后はこれを聞き入れ、
葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を副えて
派遣しました。

共に対馬に到着し、
鉏海(さひのうみ)の水門に宿泊しました。

このとき、
新羅の使者、
モマリシチ等は、

密かに
微叱旱岐(ミシカンキ)を船に載せ、
新羅に逃がしました。

だまされたと知った葛城襲津彦は、
新羅の使者三人を捉えて、
檻中に閉じ込め、
火で焼き殺しました。


毛麻利叱智
(モマリシチ)


新羅の使者


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“五年、春三月七日、新羅王が、汙礼斯伐、毛麻利叱智、富羅母智等を派遣して朝貢しました。”

神功皇后摂政5年3月7日、

新羅王が、
汙礼斯伐(ウレシホツ)
毛麻利叱智、
富羅母智(ホラモチ)等を
派遣して朝貢しました。

なお、
先(仲哀九年十月)の人質、

微叱許智伐旱(ミシコチホツカン)
返してもらおうとの企みがあり、

許智伐旱(コチホツカン)に誘いかけました。

そして欺いて、
「新羅王が、
『臣が久しく還らないとは坐によって、
妻子を没収して官有奴隷にする』
と言っています。
一度国へもどり真偽を確かめたい。
そして、請願したい」
と願い出ました。

皇太后はこれを聞き入れ、
葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を副えて
派遣しました。

共に対馬に到着し、
鉏海(さひのうみ)の水門に宿泊しました。

このとき、
新羅の使者、
モマリシチ等は、

密かに
微叱旱岐(ミシカンキ)を船に載せ、
新羅に逃がしました。

だまされたと知った葛城襲津彦は、
新羅の使者三人を捉えて、
檻中に閉じ込め、
火で焼き殺しました。


富羅母智
(ホラモチ)


新羅の使者


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“五年、春三月七日、新羅王が、汙礼斯伐、毛麻利叱智、富羅母智等を派遣して朝貢しました。”

神功皇后摂政5年3月7日、

新羅王が、
汙礼斯伐(ウレシホツ)
毛麻利叱智(モマリシチ)
富羅母智等を
派遣して朝貢しました。

なお、
先(仲哀九年十月)の人質、

微叱許智伐旱(ミシコチホツカン)
返してもらおうとの企みがあり、

許智伐旱(コチホツカン)に誘いかけました。

そして欺いて、
「新羅王が、
『臣が久しく還らないとは坐によって、
妻子を没収して官有奴隷にする』
と言っています。
一度国へもどり真偽を確かめたい。
そして、請願したい」
と願い出ました。

皇太后はこれを聞き入れ、
葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を副えて
派遣しました。

共に対馬に到着し、
鉏海(さひのうみ)の水門に宿泊しました。

このとき、
新羅の使者、
モマリシチ等は、

密かに
微叱旱岐(ミシカンキ)を船に載せ、
新羅に逃がしました。

だまされたと知った葛城襲津彦は、
新羅の使者三人を捉えて、
檻中に閉じ込め、
火で焼き殺しました。


漢人等
(あやひと)


四邑の漢人等の始祖


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

神功皇后摂政5年3月7日、

新羅王が、
汙礼斯伐(ウレシホツ)
毛麻利叱智(モマリシチ)
富羅母智(ホラモチ)等を
派遣して朝貢しました。

なお、
先(仲哀九年十月)の人質、

微叱許智伐旱(ミシコチホツカン)
返してもらおうとの企みがあり、

許智伐旱(コチホツカン)に誘いかけました。

そして欺いて、
「新羅王が、
『臣が久しく還らないとは坐によって、
妻子を没収して官有奴隷にする』
と言っています。
一度国へもどり真偽を確かめたい。
そして、請願したい」
と願い出ました。

皇太后はこれを聞き入れ、
葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を副えて
派遣しました。

共に対馬に到着し、
鉏海(さひのうみ)の水門に宿泊しました。

このとき、
新羅の使者、
モマリシチ等は、

密かに
微叱旱岐(ミシカンキ)を船に載せ、
新羅に逃がしました。

だまされたと知った葛城襲津彦は、
新羅の使者三人を捉えて、
檻中に閉じ込め、
火で焼き殺しました。

そして、
新羅に行き、
蹈鞴津(たたらのつ)に泊り、
草羅城(さわらのさし)を攻め落とし、
還ってきました。

この時の俘人(とりこ)等が、
今の桑原、
佐糜(さび)
高宮、
忍海(おしぬみ)
あわせて四邑の漢人(あやひと)等の始祖です。



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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