神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

クリスチャンの証し 2020「誠実さのみが人間らしさをもたらす」

2020-12-15 00:00:26 | クリスチャンの証し

 

クリスチャンの証し 2020「誠実さのみが人間らしさをもたらす」

 主人公はオフィス家具販売業を営んでいます。商売を始めた頃は、誠実な取引を心掛け、顧客の注文通りの品物を発注していました。しかしある時、同業者である隣の店のオーナーが、自分よりはるかに大きな利益を得ていることを知り、そのやり方を真似て顧客を欺きはじめたことで、次第に最も基本的な良心さえも失っていきます。終わりの日の全能神の働きを受け入れた彼女は、御言葉の暴露と裁きにより、神は誠実さを愛され、不実を憎まれることを理解します。さらに、うそをつき、人を欺き、不実であることの本質と末路をはっきりと理解します。その後、神に祈り、御言葉に従って誠実な人間になるよう心掛けることを決意した主人公は、次第に人間らしい生き方ができるようになります。


終わりの日に再臨した主イエスは、いったいどのような働きを行うのか。

2020-12-14 20:22:03 | 天の国の福音

参考聖書箇所

 「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

 「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)

 「すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」(ヨハネの黙示録 5:5)

 「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、『さあ、われわれはヤーウェの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう』と。律法はシオンから出、ヤーウェの言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」(イザヤ書 2:2-4)

 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(ヨハネの黙示録 22:12)

関連する神の言葉

 イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用

 神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用

 終わりの日に受肉した神が地上に来たのは、おもに言葉を述べるためである。イエスが来た時、天国の福音を広め、十字架の贖いの働きを成就した。イエスは律法の時代を終わらせ、古いものをすべて取り除いた。イエスの来たことで律法の時代が終わり、恵みの時代を招き入れたのである。終わりの日の受肉した神が来て、恵みの時代は終わった。神は、おもに言葉を述べるために来た。言葉を用いて人間を完全にし、人間を照らし、啓き、人間の心にある漠然とした神のいる場所を取り除くために来た。これはイエスが来たときに行った段階の働きではない。イエスが来た時には、多くの奇跡を行い、病人を癒やし、悪霊を追い払い、十字架で贖いの働きを行なった。その結果、人間の観念では、神はこのようでなければならないと考える。イエスが来た時、漠然とした神の姿を人間の心から取り除く働きはしなかったからである。イエスが来た時、十字架につけられ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、天国の福音を広めた。ある意味で、終わりの日の神の受肉は、人間の観念において漠然とした神が占めている場所を除き、それにより人間の心に漠然とした神がもはや存在しなくなるようにするのである。神はその実際の言葉と働き、地上のあらゆる場所を移動すること、そして人々の間で行う極めて現実的かつ普通の働きを通じて、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然とした神の場所を取り除くのである。別の意味では、神は肉の体が語る言葉を使って人間を完全にし、すべてを成就する。これが神が終わりの日に達成する働きである。『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より引用

 終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである。『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

 終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

  中略

 ……「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

 今日、神はおもに「言葉が肉において現れる」という働きを完成するために、言葉を用いて人を完全にするために、そして人が言葉による取り扱いと精錬を受け入れるように、肉になった。神の言葉において、あなたは神に施され、いのちを与えられる。神の言葉において、あなたは神の働きと業を見る。神はあなたを罰し精錬するために言葉を用いる。したがって、もしあなたが苦難に会うなら、それはまた神の言葉によるものである。今日、神は事実でなく言葉を用いて働く。神の言葉があなたに届いてはじめて、聖霊はあなたの中で働きをすることができ、あなたに苦痛を感じさせたり甘美さを感じさせたりすることができる。神の言葉だけが、あなたを現実に至らせることができ、神の言葉だけが、あなたを完全にすることができる。したがって、終わりの日に神が行う働きはおもに言葉を用い、すべての人を完全にし、人を導くことであることを、せめてあなたは理解しなければならない。神はその働きのすべてを言葉を通じて行なう。神はあなたを罰するために事実を用いない。時には神に抵抗する人もいる。神はあなたに大きな不快感をもたらさず、あなたの肉は罰せられず、あなたは苦痛を味わうことはない。しかし、神の言葉があなたに届き、あなたを鍛錬するようになるとただちに、それはあなたにとって耐えられないものになる。そうではないであろうか。効力者の期間に、人を底なしの穴に投げ入れると神は言った。人は実際に底なしの穴に落ちたであろうか。人を鍛錬するための言葉だけで、人は底なしの穴に入っていった。このように、神が肉となる終わりの日には、神はすべてを成し遂げ、すべてを明らかにするためにおもに言葉を用いる。神の言葉の中においてのみ、神であるものを知ることができる。神の言葉の中においてのみ、神が神自身であることを知ることができる。肉となった神が地上に来るとき、神は言葉を話すこと以外のどのような他の働きもしない。したがって、事実は必要でない。言葉で十分である。おもにこの働きをするために、神の力と至高を人が神の言葉の中に見ることができるように、神が身を低くして自身を隠していることを人が神の言葉の中に見ることができるように、そして神の完全性を人が神の言葉の中に知ることができるように、神は来たからである。神が所有するものおよび神の存在のすべてが、神の言葉の中にある。神の知恵や素晴らしさも神の言葉の中にある。この中に、神が言葉を話す多くの方法を人は見ることができる。『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より引用

 神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代の到来を知らせ、その働きの方法を変え、その時代全体の働きを行う。これが言葉の時代における神の働きの原則である。神はさまざまな視点から語るために肉となって、肉に現れた言葉である神を人間が真に目のあたりにし、神の知恵と驚くべき素晴らしさを目にできるようにした。このような働きは人間を征服し、完全にし、淘汰するという目的をより効果的に達成するために行われており、それが言葉の時代に言葉を用いて働きを行うことの真の意味なのである。こうした言葉を通して、人々は神の働き、神の性質、人間の本質、そして人間が何に入るべきかを知るようになる。言葉を通して、神が言葉の時代に行おうとしている働きの全体が実を結ぶのだ。こうした言葉を通して、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人々は神の言葉を目にし、その言葉を聞き、その言葉の存在を認識した。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、そして神の人間への愛と、人間を救いたいという願望とを信じるようになった。「言葉」という語は単純でごく普通かもしれないが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがし、人々の心を変革し、人々の観念と古い性質を変革し、世界全体の古い現れ方を変革する。多くの時代の中で、今日の神だけがこのように働いてきており、そして今日の神だけがこのように語り、このように人間を救いに来る。これ以降、人間は言葉の導きの下に生き、神の言葉により牧され、施しを受けることになる。人々は神の言葉の世界で、神の言葉の呪いと祝福の内に生きている。そしてさらに多くの人々が、神の言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになっている。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、そして過去の創造による世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、言葉をもって全宇宙の人々を導き、言葉をもって彼らを征服し救う。そして最終的に、神は言葉をもって古い世界全体を終わらせ、その経営(救いの)計画全体を完了させる。『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より引用

 神がこの時代に実行する働きは、おもに人間のいのちのための言葉を与えること、人間の堕落した性質および人間の本性の実質を暴くこと、そして宗教的観念、封建的思考、時代遅れの考え、さらに人間の知識と文化を一掃することである。これらのことはすべて神の言葉による暴きを通して清められなければならない。終わりの日において、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、それにより人間が言葉の中に神の知恵と愛らしさを見、神の性質を知り、神の業を目にするようにする。『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より引用

 時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

 刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。この働きが終わる時、生き残ることを許された人は、みな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。……悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用


神の御言葉「全宇宙に向かって語った神の言葉:六番目の言葉」

2020-12-13 01:42:04 | 全宇宙への神の言葉

 

 霊の内のことについて、あなたがたは、細心の注意を払わなければいけない。わたしの言葉を心して聞きなさい。あなたがたは、わたしの霊と肉の体、わたしの言葉と肉の身とを切り離すことのできない単一のものと見ることができるようになるよう努め、わたしの前にあって、すべての人間がわたしを満足させる状態になるようにしなければならない。わたしは、この足で全宇宙を踏み、全宇宙の隅々にまで目をやり、すべての人間の間を歩き、人間であることの甘、酸、苦、辛を味わった。しかし、人間はけっして真にわたしを認識することがなかったし、わたしが歩き回っていても、それと気づかなかった。なぜなら、わたしは何も言わず、超自然のわざを何も行わなかったので、誰一人、真にわたしを見なかったのだ。物事は、かつてとは違っている。わたしは創造の初めから世界の誰も見なかったことをしよう。わたしは人間が、はるか昔からずっと、かつて聞いたことのないことを語ろう。なぜなら、すべての人間が肉におけるわたしを知るようになってほしいからだ。それがわたしの経営(救い)の手順である。人間にはそれがどういうものか、まるで考えもつかないことなのだ。それらについて、わたしが公然と語っても、人々はまだ頭が混乱しているため、すべてを詳らかに言い表してやることができないのだ。ここに人間の絶望的な低劣さがあるのだ。そうではないか。だからこそ、わたしは人間の内を修復したいのだ。そうではないか。長い年月、わたしは人間に何一つせずに来た。長い年月、受肉したわたしの体と直接接触した者でさえ、わたしの神性から直接発せられた言葉を聞いた者はいなかった。だから、人間にわたしについての知識が欠けているのは、やむを得ないことである。しかし、この一事だけでは、この長い年月、人間のわたしへの愛には影響がなかった。しかしながら、今、わたしはあなたがたに無数の奇跡的で人には推し量ることのできない働きを示し、多くの言葉で語ってきた。それなのに、そうした状況にあっても、実に多くの人々が、いまだに、面と向かってわたしに敵対しているのだ。いくつか例を示そう。

 あなたがたは、毎日、漠然とした神に祈りを捧げ、わたしの意向を理解しようとし、いのちを感じようとする。しかし、わたしの言葉が実際に与えられると、それをありのままにとらえない。あなたがたは、わたしの言葉と霊とを一つの不可分のものと考えていながら、人間を蹴りのける。人間であるわたしには、そもそも、こうした言葉を語ることができないと考え、わたしの霊がそうさせているのだと思っているのだ。あなたはこの状況をどう認識しているのか。あなたがたは、わたしの言葉をある程度まで信じるけれど、わたしのまとう肉の身については大なり小なり自分なりの考えを抱き、毎日自分の頭で考えては、「なぜあの人は、ああいうふうに物事をするのか」と言う。「これは神から来ているものなのだろうか。ありえない。思うに、あの人は、わたしとほとんど変わるところがない、普通のただの人間だ」。もう一度尋ねるが、こういう状況をどう説明するのか。

 今わたしの述べたことについて、あなたがたの中に、そういう考えをもっていない人はいるだろうか。そんなふうに考えていない人がいるだろうか。それは、まるで、あなたが個人的な所有物でもあるかのようにしがみついていて、ずっと手放すのを渋っているもののようだ。まして、積極的に努力しようという気持ちもない。そうでなくて、わたしが自分で働きをするのを待っている。実のところ、わたしを求めることなく、容易にわたしを知るようになる人間は、ただの一人もいないのだ。まことに、わたしがあなたがたに説いている言葉は浅いものではない。あなたの助けとなるよう、異なった点から例を挙げることができるのだから。

 ペテロの名を聞くと、誰もがみな、たたえの心に満ち、ペテロについての物語のあれこれを思い出す——彼が三度神を否定したこと、さらに、サタンの手助けをしたこと、そうして神を試みたこと、しかし、最後には神のために十字架に逆さに釘で打ち付けられたこと、等々。今、わたしはペテロがどのようにしてわたしを知るようになり、最後にはどうなったかを語ることを重視している。このペテロという人は、すばらしい素質の持ち主だったが、彼の境遇はパウロのそれとは異なっていた。彼の両親はわたしを迫害した。彼らはサタンにとりつかれ、悪魔の側にいた。だから、二人がペテロに道を教えたとは言えない。ペテロは頭脳明晰で、生まれながらに豊かな知性をもち、子供のころから両親に可愛がられて育った。しかしながら、彼は両親の敵になった。というのも、ペテロがいつもわたしを知ろうと願い、その結果、両親に背を向けることになったからなのだ。それはつまり、第一に、彼は天と地はみな全能者の手の内にあり、すべてのよいものは神に発し、サタンの手を経ることなく、神から直接来ていると信じたからである。両親の悪い手本のおかげで、ペテロはかえって、わたしの愛と憐れみとをみてとることができ、そうして、わたしを求める欲求がより強く燃え上がることになった。彼はわたしの言葉を飲み食べるだけではなく、わたしの意図するところを把握しようと注意を払った。そして、常に思慮深く、慎重に考えた。だから、彼はいつでも霊が敏感で、その行いのすべてにおいて、わたしの心に適うようにすることができたのだ。ふだんの生活では、失敗の網にかかるようなことを深く恐れ、過去に失敗した人々の教訓を元に、より大きな働きができるよう、自らを励ました。ペテロはまた、遠い昔から神を愛した人々すべての信仰と愛から学んだ。このようにして、ペテロはどのような状況からも学び、急速に成長し、わたしの前で最もよくわたしを知る者となったのだ。このため、想像に難くないことだが、彼は所有物をすべてわたしの手に託し、もはや食べること、着ること、眠ること、どこに宿るかにおいてさえ、自分の主人であることをやめ、あらゆる点においてわたしを満足させ、それによってわたしの恵みを豊かに得たのである。まことに、わたしは何度もペテロを試した。もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりとわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることなく、それまでと同じように、わたしへの愛を実現するため、自分の信じることを続けた。わたしは彼にこう告げたのだ。おまえをほめはしない。かえって、最後には、サタンの手中に投げ込む、と。そうした試練、肉の試練ではなく、言葉による試練の中にあって、ペテロはそれでもわたしに祈った——おお、神よ。天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが憐れみを示されるとき、その憐れみのためにわたしの心は大いに喜びます。あなたがわたしに裁きを下されるとき、わたしはそれに相応しい者ではありませんが、その御業に神の計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。わたしの肉は苦しみを受けても、霊においては慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知って後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。おお、全能者よ。まことに、神がお姿をお示しにならないのは、そう望んでおられないためではないでしょう。まことに、わたしに神の裁きを受ける資格に欠けているからではないでしょう。わたしの中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか。こうした試練の中にあって、ペテロはわたしの意図を正しく把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえそれが、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、裁きを受けるだけだったとしても)誇りと栄光であると考え、試練にさらされても、心砕けることがなかった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となったのだ。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。今このとき、あなたがたは、わたしがなぜペテロのことを詳しく語っているのか、よくよく考えて、理解しなければならない。これをあなたがたの行動の原則としなければならない。

 たとえわたしを知る者がごく少なくとも、人類のうえに怒りを示しはしない。なぜなら、人間にはあまりに多くの欠点があるため、わたしの望む高みに至ることができないからである。だから、数千年の長きにわたり、今日に至るまで、わたしは人間に寛容であった。しかし、わたしが寛容であるからといって、基準を緩めるようなことをしてはならない。そうではなくて、ペテロを通してわたしのところへ来て、わたしを求め、ペテロの物語すべてから、これまでよりはるかに多くを示され、そうして、人間がかつて到達できなかった域に達するのだ。宇宙と無限の世界を通じて、無数の被造物、地上の無数の物、天の無数の物がみな、すべて、わたしの働きの最終段階のために全力をささげている。まことに、あなたがたは傍観者でいて、サタンの力によって、あちらこちらへ動かされていたくはないだろう。サタンはいつでも、人間がわたしについて心にもつ知識をむさぼっている。そして、牙と爪をむき出して、死を賭した戦いの中にある。あなたがたは、今このときに、欺きに満ちた策略によって捕らえられたいのか。あなたがたは、わたしの働きの最後の段階で、いのちを断たれたいのか。まことに、あなたがたはもう一度、わたしが寛容さを示すことを待っているのではあるまい。わたしを知ろうとすることが肝要だが、実践に注意を注ぐことを怠ってはならない。わたしが直接言葉によって明らかにしているのは、あなたがたがわたしの導きに従うことができるようになり、自分なりの野心や願望をもつことをやめるようにさせたいからなのである。

1992年2月27日


人を正しく扱う方法の学び

2020-12-11 23:20:20 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 2年前、私は教会リーダーとしての本分を尽くしていました。教会には優れた素質を持つチェンという兄弟がいました。でも彼の性質は非常に傲慢で、人を抑圧する傾向があった。自分を誇示するのが大好きだった彼に、私は偏見や思いを持ち始めました。ある日、チェン兄弟が来て、新しい信者に水を与えたいと言いました。彼の信仰は日が浅く、真理をうわべで理解していたので、「ダメだ」と答えたの。私が同意しないのを見て、彼は「私には優れた素質があるのに、どうして水を与える本分に就けないのか」と言いました。私はこれを快く受け止められませんでした。「水を与える本分は簡単だと思っているの? 真理を理解しなくても、自分の才能や素質を使うだけでうまく本分が果たせるの? 自惚れないで」と思いました。私はチェン兄弟の求めを退けました。そして、他の兄弟姉妹に彼の堕落ぶりがわかるいろんな例を示して、どんなに彼が傲慢か話しました。何人かの兄弟姉妹は私に同意しました。

 その2週間後、教会は今後の集会で教会映画を見て、全能神の言葉を読む計画を立てました。すべて、真理を説き、神に証しする映画です。それを観れば、真理を理解する助けになります。次の集会でチェン兄弟は言ったわ。「それは良い計画です。一部のリーダーや働き手は集会で既存の文面や教義をなぞらえただけの話をするだけなので、映画を見た方がいい。私は真理を理解していなかったので、最初は本分でとても苦労しました。けれども、神に祈って頼り、神の御言葉をもっと読み、これらの教会映画も大きな助けになって、いくつかの真理を理解しました。今では本分を果たす上でかなり熟練し、原則の基本を把握している。本分で多くを成し遂げています」。その彼の話は不快で、常軌を外れていると感じ、私は「事あるごとに自慢するのね。あなたは本当に傲慢だわ」と思いました。その後、次の集会で取り上げる課題を準備していると、チェン兄弟が割り込んでその内の3つを取り、残りの課題の説教も他の人に割り当てたの。私が集会を主催するグループリーダーを任命したときには、チェン兄弟は疑わしい声でその人に言ったわ。「本当にできるの?」まるで、自分だけが集会を主催できると言っているみたいだった。私は腹を立ち、こう思いました。「あなたは本当に理不尽な人ね。人から尊敬してもらえるよう誇示しているだけよ。そう願っているなら、とんでもない」というわけで私は全部やり直し、彼に集会を主催させなかった。そのころはずっと、チェン兄弟の振る舞いを思う度に彼を嫌悪し、特にその傲慢な振る舞いについて数回話したのに変わらなかったことを思い出しては、嫌な気持ちになったわ。彼には底知らずの傲慢さがあると感じました。それで、私は彼を「変われない人」と決めつけ、彼のように傲慢な人は彼の本分を果たすのにふさわしくない、交代させるしかないと思った。

 集会が終わった時、私自身の状態や振る舞いを思うと、少し気まずくなりました。チェン兄弟に対して厳しすぎたと思ったので、神に祈りました。「神よ、私の状態は間違っているとわかっています。でも問題は何なのか、どの真理の原則に入ればいいのかわかりません。私を啓き、導いてください」。次の日、ディボーションでこの神の御言葉を読みました。「どのような原則に従って神の家の成員を扱うべきですか。(兄弟姉妹一人ひとりを公平に扱うべきです。)どのようにして公平に扱いますか。誰にも些細な欠陥や欠点があり、ある種の特異性もあります。人はみな独善性や弱点、欠けている部分があります。あなたは愛する心をもって相手を助け、忍耐強く寛容であり、些細なことの一つひとつについて厳しくあたりすぎたり、騒ぎ立てたりしてはいけません。若い人や神を信じてからさほど時間が経っていない人、あるいは最近になって本分を尽くし始め、特殊な要求事項がある人に対し、それらのことをしっかり掴んで彼らに突きつけるなら、それが厳しくあたるということです。あなたは偽指導者や反キリストによる悪事を無視しながらも、兄弟姉妹の些細や欠点や短所を見つけたとたんに彼らを助けるのを拒み、その代わりにそのような事について騒ぎ立てるほうを選び、背後で彼らを裁きます。そうすることで、さらに多くの人が彼らと対立し、彼らを排除、追放するように仕向けているのです。これはどのような振る舞いですか。自分の個人的な好みに基づいて物事を行ない、人を公平に扱えないことです。これは堕落したサタン的性質を示しています。過ちを犯しているのです。人が物事を行なうとき、神は見ています。あなたが何をしようと、どう考えようと、神は見ているのです」(「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」『キリストの言葉の記録』)。御言葉には私の状態が示されてた。恥ずかしく思いました。私は自分の堕落した性質を通してチェン兄弟を扱っていた。彼に会ってからのことを考えると、彼の言動にはよく傲慢さが表れていたために、彼のことを若く生意気で、自らを知らない人物だと感じていた。少しでも彼の話になると、欠点しか思い出さなかったわ。彼の堕落した振る舞いに固執し、「彼の傲慢さはあらゆる理知を超えている、そのような人は決して変われない」と決めつけていました。決して彼を公平に扱えませんでした。彼が発するどんな見解にも抵抗し、反対しました。人前で彼を非難し、見下し、彼に対する偏見を広め、私と一緒に彼を排除して仲間外れにするよう仕向けた。彼を本分から退けることさえ望んだわ。私は彼を抑え込み、打ちのめすためにリーダーとしての立場を利用していたのでは? 私に理知はありませんでした。真理の原則はなく、神への畏敬の念がなかったのです。兄弟姉妹を自分の好きなように扱い、悪魔の本性を生きていました。神はとても不快に思われ、うんざりされるわ。そう考え、罪悪感でいっぱいでした。

 その後、人を公平に扱うことに関する原則を求めて神の御言葉を調べ、二つの節を見つけました。「他人をどのように扱うべきかは、神の言葉の中にはっきり示されているか、あるいはその中でほのめかされています。神が人類を扱う態度は、人が互いの扱いの際にとるべき態度です。神は一人ひとりをどう扱いますか。霊的背丈が未熟な人、若い人、あるいは神を信じるようになってまだ日が浅い人もいます。そうした人たちの本性と本質について、神はそれらを悪いものとも悪意に満ちたものとも見なしません。それは単に、彼らがいくぶん無知だったり素質を欠いたりしているか、社会によって過度に汚染されているかなのです。彼らはまだ真理の現実に入っていないので、馬鹿げたことをしたり、無知な行動をとったりしないようにするのが容易ではありません。しかし神の視点からは、こうしたことは重要ではありません。神は人の心だけを見ます。人が真理の現実に入ることを決意しているなら、正しい方向に進んでおり、それがその人の目標です。すると神はその人を見守り、待ち、入れるようになる時間と機会を与えます。神がその人を一撃で打ち倒すことはなく、またその人が以前に犯した罪をがっちり捕らえ、手放そうとしないということもありません。神が人をそのように扱ったことはないのです。であれば、人がこのように互いを扱うならば、それはその人の堕落した性質を示していませんか。それがまさにその人の堕落した性質なのです。神が無知で愚かな人をどう扱うか、霊的背丈が未熟な人をどう扱うか、人間の堕落した性質が普通に表われているのをどう扱うか、悪意に満ちた人をどう扱うかをあなたはしっかり見なければなりません。神には異なる人々を扱う様々な方法があり、また異なる人の無数の状態を扱う様々な方法もあります。あなたはこのようなことの真理を理解しなければなりません。いったんこの真理を理解すれば、それをどのように経験すべきかがわかります」(「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」『キリストの言葉の記録』)。「愛や憎しみは正常な人間が持つべきものですが、愛するものと憎むものの区別は明確にしなければなりません。あなたは心の中で神を愛し、真理を愛し、肯定的なものを愛し、兄弟姉妹を愛すべきであり、一方で悪魔サタンを憎み、否定的なことを憎み、反キリストを憎み、邪悪な人々を憎まなければなりません。兄弟姉妹に対して憎しみを抱けば、彼らを抑圧し恨みを晴らそうとしたくなるでしょうが、それはとても恐ろしいことです。……もし誰かと性格が合わず、その人をあまり好きでなかったとしても、その人と一緒に働くときは公平な態度を取るでしょうし、本分を果たす中で自分の鬱憤を晴らしたり、本分をおろそかにしたり、不満をぶつけて神の家の利益を害したりはしないでしょう。あなたは原則に従って物事を行うことができますし、そのため基本的な神への畏敬を持っていることになります。もう少し上級者なら、誰かに落度や欠点がいくつかあって、場合によってはその人に気分を害されたり自分の利益を損なわれたりしても、なおその人を助けるだけの能力があります。そして実際にそうすればさらに良いことであり、それは人間性、真理の実在、そして神への畏敬を持っているということを意味します」(「神を信じる正しい道へ入る前に人が置かれる五つの状態」『キリストの言葉の記録』)。

 人を平等に扱う原則と道、人に対する神の態度がはっきり示されています。反キリストや邪悪な人に対して神は、憎しみと呪いと懲罰の態度を示されます。霊的背丈が低い人、素質が乏しい人、堕落した性質や欠点をいろいろと持つ人に対しては、心から神を信じ、真理を求めたいと願い、そして受け入れられるなら、神は愛と憐れみと救いの態度を示される。一人ひとりの扱いについて神には原則があり、真理の原則に沿って他の人を扱うよう、神は求めておられます。たとえば、心から神を信じる人に対しては、寛容で慈悲深くあり、愛をもって助け、悔い改めて変わる機会を与えなければ。堕落を示したからといって、相手を打ちのめすことはできません。それは神の御旨ではないわ。たとえば、チェン兄弟には優れた素質と、本分に対する責任感がありました。また彼は真理の追求に努力を惜しまなかった。一方、信者になって間もなく、経験も浅いので、傲慢さがありました。でも、私は真理の原則にしたがって彼を公平に扱い、愛情深く真理を交わって助けるべきだった。それなのに、彼の強みや長所を見ようとせず助けなかったどころか、欠点を見て非難し、排除し、消えてしまえと思いました。私の本性はそれほど悪意に満ちていた。自分のリーダーとしてのあり方を思うと、他の人より優れているといつも考え、最終決定を下したい、何でも望むことをしたいと願い、周りの意見を聞かなかった。そのため、教会の活動を乱すことをしました。それなのに、神は私を淘汰なさいませんでした。御言葉を使って私を裁き、懲らしめ、取り扱い、自らを反省させ、悔い改めて変わる機会をくださいました。神は決してあきらめず、堕落を示したからといって淘汰されず、私たちを救うために何でもされる。神はそれほど素晴らしい心をお持ちです! 自分の振る舞いや、チェン兄弟の扱い方を考えると、穴があったら入りたいぐらい恥ずかしいです。それから祈り、神に悔い改めました。真理の原則を実践し、愛情深い心でチェン兄弟を助けたかった。

 そして、私はチェン兄弟の元に行き、神の御言葉を交わり、彼の欠点を指摘しました。彼は自分の傲慢な性質を理解し始め。私の説教と警告はとても助けになった、自分を見つめなおしたい、堕落した性質を解決すため真理を求めたいと言っていたわ。彼の言葉を聞いてとても感動しましたが、後悔もしました。私は彼には変わる力がないと思ってたけど、そうではなかった。私は彼より傲慢でした。真理を追究している限り、自分の傲慢な性質は変わると思っていました。なのに、なぜチェン兄弟は変わらないと決めつけたのでしょうか? 自分自身には多くを求めず、なぜチェン兄弟には多くを期待したのでしょう? そのように人を扱うのは不公平でした。

 その後、集会で聖霊に用いられた兄弟の説教を聞きました。「堕落した人類は皆、傲慢な性質を持っている。真理を愛する人、完全にされることを求める人さえも皆、傲慢で独善的な性質を持つ。しかしこれは救いを得て、完全にされる能力には影響しない。真理を受け入れ、刈り込みと取り扱いを受け入れられ、たとえどんな状況でも無条件に真理に服従できる限り、救いを獲得し、完全にされる全き能力がある。事実、本当に優れた素質を持ち、固く決意している人に傲慢でない人はいない。それが事実である。神の選民は正しい方法で人を扱わなくてはならない。ひどく傲慢で独善的だからと、その人は善人ではないとか、救われ完全にされない人だとか、限定してはならない。この点については、神の御旨を理解する必要がある。優れた素質を持ち、固く決意している人で、全く傲慢でも独善的でもない人はいない。いるとしたら、それは間違いなく見せかけか、偽りの外見を見せている。堕落した人類は皆、傲慢で自惚れた本性があると知るべきだ。これは紛れもない事実なのである」(兄弟の交わりより引用)。この説教は傲慢な性質を持つ人をどう扱うか、より良く理解するのを助けてくれました。彼らが変われないのではありません。鍵は彼らが真理を求め受け入れられるかどうかを見ることです。もし真理を受け入れ、神の裁きや刑罰、刈り込み、取り扱いを受け入れられるなら、神によって変わり、完全にされないわけはないわ。……実際、才能や強さ、素質がある人は皆、かなり傲慢です。でも素質が優れているので、真理をすぐ理解し、本分で成果を上げる。このような人が真理を理解し、原則にそって行動すると、神の家の働きにとても有益です。チェン兄弟は優れた素質を持っていたのだから、私はもっと愛をもって彼を助け、もっと交わって支えるべきです。それが唯一、神の御旨に配慮した行いです。

 この経験でよく分かりました。真理もなくサタンの堕落した性質によって人を扱うと、ただ兄弟姉妹を傷つけ、彼らのいのちの入りと教会の働きを遅らせるだけだと。これは過ちであり、悪の行為です。私は、真理の原則にしたがって人を扱うことの大切さを知りました。神の御言葉の導きのおかげで、この小さな理解を得られました。


日々の神の御言葉「人類の経営の目的」抜粋313

2020-12-11 22:26:11 | 日々の神の御言葉

 

 人々が本当に、人生の正しい道と神による人類の経営(救い)の目的とを明確に理解できるなら、個人的な将来や運命を宝として心に抱くことはないだろう。そして豚や犬よりも劣る両親に仕えたいとはもう思わなくなるだろう。人の将来や運命はまさに、ペテロのいわゆる「親」の現代版ではないか。それはまさに人の身内のようなものだ。肉の終着点や将来とは、一体どんなものなのか。生きながら神を見ることなのか、あるいは死後に魂が神と出会うことなのか。肉は明日患難の巨大な炉に落ちるのか、あるいは大火で尽きることになるのか。人の肉が不幸や苦しみを被るのかどうかに関するこのような問いは、この流れの中にあって、頭脳と分別をもつ人がもっとも関心を寄せているものではないのか。(ここで、苦しみを被るとは祝福を受け取ることであり、将来の試練が人の終着点にとって有益であることを意味している。不幸とは堅く立てないことや惑わされること、あるいは不運な状況に見舞われて災害のさなかで命を落とし、その魂に適切な終着点がないことを意味する)。人は健全な理知を持っているが、おそらく人の考えることは、彼らの理知に備わっているべきものと完全には一致していないのだ。それは、人が皆相当混乱していて、物事に盲目に従っているからである。人はみな自分が何に入るべきかを完全に把握していなければならないし、特に患難の時(つまり炉における精錬の間)何に入るべきなのか、そして火の試練の際に何を備えているべきなのか整理しておかねばならない。豚や犬のような、蟻や虫よりも劣る両親(すなわち肉)に、いつも仕えることはやめなさい。それについてくよくよと悩み、必死に考え、頭を悩ませることに何の意味があるのか。肉はあなたに属しておらず、神の手の中にある。神はあなたを管理するだけでなく、サタンをも支配している。(これは肉がもともとサタンに属しているということだ。サタンも神の手中にあるのだから、このようにしか表現できない。そのほうが説得力があるからだ。それは人が完全にサタンの支配下にあるわけではなく、神の手の中にあることを示唆している。)あなたは肉の苦しみの下で生きているが、肉はあなたに属しているだろうか。あなたの支配下にあるだろうか。なぜそのようなことに頭を悩ませるのか。とうの昔に断罪されて呪われ、汚れた霊によって汚された、悪臭を放つ肉のために、執拗に神に嘆願するのはなぜなのか。何の必要があっていつもサタンの仲間をそんなにも大事にするのか。肉があなたの実際の未来や素晴らしい希望、そして人生の真の終着点を、台無しにする可能性があることは心配しないのだろうか。

『言葉は肉において現れる』より引用

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