神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

「因果応報」と人はよく口にするが、神がいま悪人を残らず滅ぼさないのはなぜか

2020-12-10 13:50:59 | 天の国の福音

参考聖書箇所

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(伝道の書 3:1)

 「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」(ルカによる福音書 17:26-30)

 「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」(マタイによる福音書 16:27)

 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(ヨハネの黙示録 22:12)

 「万軍のヤーウェは言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。……また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる」(マラキ書 4:1-3)

関連する神の言葉

 神のすることはすべて緻密に計画されています。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって神は、その物事や状況に対応するための計画を開始するか、またはどのようなやり方でそれを扱うかを決定します。神はあらゆる物事に対して、無関心だったり無感情だったりすることはなく、実際まったくその逆です。この聖書のくだりでは、神はノアにこう言っています。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。ここで神は、人間だけを滅ぼすと言っているでしょうか。そうは言っていません。神は肉なるものをすべて滅ぼすと言っているのです。なぜ神は滅ぼそうとしたのでしょうか。ここに、神の性質の現れをもう1つ見て取ることができます。神にとっては、人間の堕落とすべての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対して、忍耐できる限界があります。その限界とは何でしょうか。神はこう言っています。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。この「すべての人が地の上でその道を乱したからである」という部分は何を意味するのでしょうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含め、生きとし生けるすべての者は、その態度が堕落に満ちそれが神の目に触れれば、神によって滅ぼされずにいられないということです。それが神の忍耐の限界でした。ではどの程度まで神は人間に耐え、すべての肉なるものの堕落に耐えたのでしょうか。それは神に従った者もそうでない者も、すべての者が正しい道を歩まなくなるまでです。人間が単に道徳的に堕落し悪に満ちるだけでなく、誰一人として神の存在を信じなくなり、ましてや神が世界を支配していることや人々に光を与え正しい道へと導けることを、信じるものが一切いなくなるまでです。そして人間が神の存在を憎み、神の存在を認めなくなるまでです。人間の堕落がここまで来ると、神はもう忍耐できませんでした。ではその状態は何に取って代わられたのでしょうか。それは神の怒りと懲罰の到来です。それもまた、神の性質の部分的な現れではなかったでしょうか。現在この時代に、神の目から見て正しい者はいないのでしょうか。神の目から見て完全な者はいないのでしょうか。今の時代は、地上の肉なる者すべての振る舞いが、神の目に堕落と映る時代なのでしょうか。現代では、神が完全にしたいと望む者、神に従い神の救いを受け入れられる者を除けば、すべての肉なる人々が神の忍耐の限界に達しているのではないでしょうか。あなたがたの身の回りで起こること、目で見て耳で聞くこと、この世で日々体験することは、すべて暴虐に満ちてはいないでしょうか。神の目には、このような世界、このような時代は、もう滅ぼされるべきものなのではないでしょうか。今の時代背景はノアの時代背景とまったく違いますが、人間の堕落に対する神の感情と怒りはまったく同じです。神はその働きのために忍耐を持つことができますが、状況や条件を鑑みれば、神の目にはこの世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのです。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる前の世界よりもはるかにひどいものです。『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

 ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲んだり、食べたり、勝手気ままに結婚したり結婚させたりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ただノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。しかしながら、終わりの日に神に守られるのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である。どちらも神が見るに耐えないほどのひどい堕落の時代であり、どちらの時代の人類も主である神を否定するほどひどく堕落していたが、ノアの時代の人はすべて神に滅ぼされた。どちらの時代の人類も神をひどく悲しませたが、神は終わりの日の人々には今日に至るまで忍耐深い。それは何故なのか。あなたがたはこのことを一度も考えたことがなかったのか。本当にそれを知らないなら、わたしがあなたがたに話そう。終わりの日に神が人々を恵み深く取り扱うことができる理由は、彼らがノアの時代の人々ほど堕落していないからでも、彼らが神に悔い改めを示したからでもない。まして、テクノロジーが進歩した終わりの日に人間を滅ぼすことに神が耐えられないからでもない。むしろ、神には終わりの日に一群の人々に対して行う働きがあり、これは受肉の神自身によってなされるからである。その上、神はこの一群の一部を救いの対象、神の経営(救いの)計画の実として選び、そのような人々をともなって次の時代へと連れてゆくのである。『言葉は肉において現れる』の「あなたは知っていたか。神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを」より引用

 今日、そうした者の行動を問わず、そうした者は、神の経営を阻害せず、神の新たな働きと無関係である限り、相応の罰の対象とはならない。なぜなら、怒りの日はまだ到来していないからである。神が既に取り扱うべきであると人々が思っている事はたくさんあり、人々はそれらの悪を行う者は、できるだけ早く罰を受けるべきだと考えている。しかし、神の経営の働きはまだ終結しておらず、また怒りの日がまだ到来していないので、不義な者は不義な行動を行い続ける。……現在は、人間の罰の時ではなく、征服の働きを行う時であるが、神の経営を阻害する者が居る時はこの限りでなく、その場合、そうした人々は、行動のひどさにより罰を受けるであろう。『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より引用

 神が人に働きかける目的は、人が神の心を満足させることができるようにするためであり、それは人に救いをもたらすために行われる。従って、神による人の救いの期間においては、神は人を罰する働きはしない。人に救いをもたらしつつ、神は悪を罰したり、善人に報いたりせず、さまざまな種類の人の終着点を明らかにすることもない。その代わり、神の働きの最終段階が完了して初めて、神は悪を罰し、善に報いる業を行い、そこで初めてさまざまな種類の人々の最後を明らかにする。罰せられるのは実際に救いようのない人である。一方、救われる人は神が人を救う間に神の救いを獲得した人である。神による救いの働きが行われている間、救われることが出来る人はすべて、最大限まで救われ、誰ひとりとして見捨てられることはない。神の働きの目的は人を救うことだからである。神による人の救いの期間に、自分たちの性質の変化を達成できない者、また、完全に神に従うことのできない者はみな懲罰の対象となる。『言葉は肉において現れる』の「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」より引用

 ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰を受けたり報いを与えられたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行した後はじめて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、神は人類を分けるために善と悪を用いている。神は自身の働きを終えて初めて、義なる人を報い、悪である者を罰するのである。最後に働きを終えて悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善に報いる働きに着手するのではない。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用


クリスチャンの証し 2020「知識は本当に運命を変えるのか」

2020-12-09 00:04:37 | クリスチャンの証し

 

クリスチャンの証し 2020「知識は本当に運命を変えるのか」

 貧しい農家に育った主人公は、「知識は人の運命を変える」という言葉を胸に生きてきました。大学進学の夢が潰えた時、自分の願望を娘に託し、厳しい勉強スケジュールを娘に押し付けます。しかし娘は成績へのプレッシャーで次第に殻に閉じこもるようになり、ある夜とうとう家を飛び出してしまいます。娘はいったいどうなるのかと不安になり、その考えに苛まれる主人公は全能神の御言葉を読み、「知識は人の運命を変える」という考え方が自分と娘に苦痛しかもたらしていないことに気づきます。そして神の御言葉を読むことで、知識の正しい扱い方、娘を人生の正しい道に導く方法を理解するようになるのです。


世界がかくも暗く邪悪なのはなぜか。堕落の頂点にいる人類は滅ぼされるべきなのか

2020-12-08 00:31:05 | 天の国の福音

(1)世界がかくも暗く邪悪なのはなぜか


参考聖書箇所

 「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙 5:19)

 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネによる福音書 1:5)

関連する神の言葉

 最初に神により造られたアダムとエバは、聖なる人間であった。すなわちエデンの園にいた間、彼らは聖く、けがれがなかった。また彼らはヤーウェに忠実であって、ヤーウェを裏切ることなど一切知らなかった。なぜなら、彼らはサタンの影響による妨害を全く受けず、サタンに毒されておらず、全人類の中で最も純粋だったからである。彼らはエデンの園に住み、一切けがれにけがされることなく、肉に囚われることなく、ヤーウェを畏れ敬っていた。その後、彼らがサタンに誘惑された時、彼らはへびの毒に見舞われ、ヤーウェを裏切ることを望み、サタンの影響の下で生きた。最初、彼らは聖なるものであり、ヤーウェを敬っていた。そうすることだけが、彼らを人間としていた。その後、彼らがサタンに誘惑された後、彼らは、善悪を知る木の実を食べて、サタンの影響の下で生きた。彼らは、サタンにより次第に堕落させられ、本来の人間の姿を失っていった。最初、人間にはヤーウェの息吹があり、不従順であることは一切なく、心には悪が一切なかった。この時、人間は本当の意味で人間であった。人間は、サタンにより堕落させられた後、獣となった。人間の考えは悪とけがれで満たされ、善や聖さはなかった。それはサタンではなかろうか。『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

 人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用

 数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神への人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに完全な説明ができなくなってしまっている。人はサタンにより深く堕落させられ、惑わされてしまったので、どちらに向いたらよいかわからなくなっているのである。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人は神を見ると裏切り、神が見えないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知はその本来の機能を失い、人の良心も本来の機能を失ったと言う。……ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な人生哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と風俗、これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも堕落した人類にどうして救いの可能性があり得ようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より引用

 人が神に反対し、反抗する根源はサタンによる堕落である。サタンによって堕落させられたので、人の良心は麻痺してしまい、不道徳になり、考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられる前は、人はもちろん神に従い、神の言葉を聞いた後それらに従っていた。人は健全な理知と良心を生来持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがって人の性質は神に対して反抗的である。『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より引用

 夜が静かにしのび寄って来ても、人は気づかない。なぜなら、人の心は夜がどのようにして近づくのかも、それがどこから来るのかも感知できないからである。夜が静かに過ぎ去ると、人は日の光を歓迎するが、光がどこから来て、どのように夜の闇を追い払ったかについては、なおさら知るよしもなく、まして気づいてもいない。こうして繰り返される昼と夜の移り変わりによって、人は一つの時期から次の時期へ、一つの歴史的背景から次の歴史的背景へと導かれ、それと同時に、それぞれの時期における神の働きと、それぞれの時代における神の計画が確実に遂行される。人は神と共にこれらの時期を歩んできたが、神が万物と全ての生けるものの運命を支配することも、神がどのように万物を指揮し導くのかも知らない。これは太古の昔から現代まで、人には知るよしもないことであった。その理由は、神の業があまりにも隠され過ぎているからでも、神の計画がまだ実現されていないからでもない。それは、人の心と霊が神からあまりに遠く離れているため、神に従いながらもサタンに仕え続けるまでなり、しかも、まだそのことに気づいていないからである。神の足跡と顕現を積極的に探し求める者は一人もいない。また進んで神の配慮と加護の中で生存しようとする者もいない。その代わりに、この世と邪悪な人類が従う生存の掟に適応するために、邪悪な者、サタンの腐敗に頼ることを人は望む。この時点で人の心と霊は、サタンへの貢物となり、その餌食となった。その上、人間の心と霊はサタンの住みかとなり、サタンの恰好の遊び場となった。こうして人間は、人間であることの原則について、また人間存在の価値と意義についての理解を気づかないうちに失うのである。神の律法、そして神と人の間で交わされた契約は、人の心の中で次第に薄れ、人は神を求めることも神に注意を払うことも止めてしまう。時間が経つにつれ、人は神が人間を創造した理由も、神の口から出る言葉や神から来る全てをもはや理解しなくなる。それから人は神の律法と掟に抵抗し始め、人の心と霊は麻痺してしまう……。神は自らが最初に創造した人間を失い、人間はその始まりの根源を失う。これが人類の悲哀である。『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より引用

 人類が社会科学を考案して以来、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それから科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや神を礼拝するための充分な余地は人にはなくなり、神を礼拝するための好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められた。心の中に神が無いまま、人間の内面世界は暗く、希望も無く、空虚である。そのため、人類の心と精神を満たすために多くの社会科学者や歴史家、政治家が登場し、社会科学の理論や人類進化の理論、神が人を創造したという真理に矛盾するその他の理論を発表した。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数はさらに増加した。神の働きの記録と旧約聖書の時代の神の言葉を神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに、神が存在し万物を支配しているという信条に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや人にとって重要ではなく、人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。……神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは神が人の終着点をいかに支配し、定めているのかを自らすすんで探し求める人はほとんどいない。こうして、人間の文明は、人間の知らないうちに、ますます人の望みどおりには行かなくなり、こんな世界に生きている自分達はすでに亡くなった人々に比べて不幸せだと感じている人さえ数多くいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。なぜなら、神の導きなしには、支配者や社会学者が人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どのような社会学的理論も人を悩ませる虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適さなどは、人間につかの間の慰めしかもたらさない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への渇望や欲求を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけで、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からないまま人を常に恐怖に怯えたままにさせるからである。人は科学や知識を恐れるまでになり、空虚感をそれ以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住んでいようと、人権のない国に住んでいようと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、被支配者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求したいという願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることなどできない。全人類に共通するこの現象を社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉人が現れることはない。人間は結局、人間に過ぎず、神の地位といのちに取って代われる人間はいない。誰もが食べる物があり、平等で自由で公平な社会だけが人類に必要なのではない。人類に必要なのは神の救いと神によるいのちの満たしである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の必要、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。一つの国や民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、その国や民族は暗黒に向かって、破滅への道を突き進み、神によって滅ぼされる。『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より引用

(2)堕落の頂点にいる人類は滅ぼされるべきなのか

参考聖書箇所

 「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。』」(創世記 6:12-13)

 「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」(ルカによる福音書 17:26-30)

 「たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。」(詩篇 92:7)

 「ヤーウェは言われる、『全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「彼らはわが民である」と言い、彼らは「ヤーウェはわが神である」と言う』」(ゼカリヤ書 13:8-9)

関連する神の言葉

 神のすることはすべて緻密に計画されています。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって神は、その物事や状況に対応するための計画を開始するか、またはどのようなやり方でそれを扱うかを決定します。神はあらゆる物事に対して、無関心だったり無感情だったりすることはなく、実際まったくその逆です。この聖書のくだりでは、神はノアにこう言っています。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。ここで神は、人間だけを滅ぼすと言っているでしょうか。そうは言っていません。神は肉なるものをすべて滅ぼすと言っているのです。なぜ神は滅ぼそうとしたのでしょうか。ここに、神の性質の現れをもう1つ見て取ることができます。神にとっては、人間の堕落とすべての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対して、忍耐できる限界があります。その限界とは何でしょうか。神はこう言っています。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。この「すべての人が地の上でその道を乱したからである」という部分は何を意味するのでしょうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含め、生きとし生けるすべての者は、その態度が堕落に満ちそれが神の目に触れれば、神によって滅ぼされずにいられないということです。それが神の忍耐の限界でした。ではどの程度まで神は人間に耐え、すべての肉なるものの堕落に耐えたのでしょうか。それは神に従った者もそうでない者も、すべての者が正しい道を歩まなくなるまでです。人間が単に道徳的に堕落し悪に満ちるだけでなく、誰一人として神の存在を信じなくなり、ましてや神が世界を支配していることや人々に光を与え正しい道へと導けることを、信じるものが一切いなくなるまでです。そして人間が神の存在を憎み、神の存在を認めなくなるまでです。人間の堕落がここまで来ると、神はもう忍耐できませんでした。ではその状態は何に取って代わられたのでしょうか。それは神の怒りと懲罰の到来です。それもまた、神の性質の部分的な現れではなかったでしょうか。現在この時代に、神の目から見て正しい者はいないのでしょうか。神の目から見て完全な者はいないのでしょうか。今の時代は、地上の肉なる者すべての振る舞いが、神の目に堕落と映る時代なのでしょうか。現代では、神が完全にしたいと望む者、神に従い神の救いを受け入れられる者を除けば、すべての肉なる人々が神の忍耐の限界に達しているのではないでしょうか。あなたがたの身の回りで起こること、目で見て耳で聞くこと、この世で日々体験することは、すべて暴虐に満ちてはいないでしょうか。神の目には、このような世界、このような時代は、もう滅ぼされるべきものなのではないでしょうか。今の時代背景はノアの時代背景とまったく違いますが、人間の堕落に対する神の感情と怒りはまったく同じです。神はその働きのために忍耐を持つことができますが、状況や条件を鑑みれば、神の目にはこの世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのです。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる前の世界よりもはるかにひどいものです。『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

 ノアが箱舟を造った時代を振り返って見なさい。人類はひどく堕落し、人々は神の祝福から迷いはぐれ、もはや神の配慮は得られず、神の約束を失ってしまっていた。闇の中を神の光なしに生きていた。そして人の本性は放縦となり、おぞましい堕落に身を任せた。このような人々はもはや神の約束を受けることはできなかった。彼らは神の顔を見るにも、神の声を聞くにも相応しくなかった。なぜなら彼らは神を見捨て、神から与えられたものすべてを放棄し、神の教えを忘れてしまったからである。彼らの心は神から遠く離れて行くばかりで、それにつれてあらゆる理知と人間性を失い堕落し、邪悪さを増していった。そして彼らは死に歩み寄り、神の怒りと罰を受けた。ノアだけが神を礼拝し、悪を避けたので、神の声を聞くことができ、神の指示を聞くことができた。ノアは神の言葉の指示に従って箱舟を造り、あらゆる種類の生物をそこに集めた。こうしてひとたびすべての準備が整うと、神は世界に破滅をもたらした。ノアとその家族七人だけが破滅を逃れて生き残ったが、それはノアがヤーウェを礼拝し、悪を避けたからであった。『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より引用

 ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲んだり、食べたり、勝手気ままに結婚したり結婚させたりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ただノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。しかしながら、終わりの日に神に守られるのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である。どちらも神が見るに耐えないほどのひどい堕落の時代であり、どちらの時代の人類も主である神を否定するほどひどく堕落していたが、ノアの時代の人はすべて神に滅ぼされた。どちらの時代の人類も神をひどく悲しませたが、神は終わりの日の人々には今日に至るまで忍耐深い。それは何故なのか。あなたがたはこのことを一度も考えたことがなかったのか。本当にそれを知らないなら、わたしがあなたがたに話そう。終わりの日に神が人々を恵み深く取り扱うことができる理由は、彼らがノアの時代の人々ほど堕落していないからでも、彼らが神に悔い改めを示したからでもない。まして、テクノロジーが進歩した終わりの日に人間を滅ぼすことに神が耐えられないからでもない。むしろ、神には終わりの日に一群の人々に対して行う働きがあり、これは受肉の神自身によってなされるからである。その上、神はこの一群の一部を救いの対象、神の経営(救いの)計画の実として選び、そのような人々をともなって次の時代へと連れてゆくのである。『言葉は肉において現れる』の「あなたは知っていたか。神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを」より引用.

 人間が堕落に満ち、嘆かわしいほど神に不従順だったとき、神は自らの性質と本質のため、そして自らの原則を守るために、その人間を滅ぼさなければなりませんでした。しかしその本質のため、神はそれでも人間を憐れんでおり、人間が生き続けられるよう、さまざまな方法で人間を救いたいとすら願っていました。しかし人間は神に反逆し、神に背き続け、神の救いを受け入れることを拒みました。つまり、神の善意を受け入れることを拒んだのです。神がどれほど人間に呼びかけ、言い聞かせ、与え、助け、寛容に接しても、人間はそのことを理解も感謝もせず、注意を払いもしませんでした。神は苦しみつつも、最大限の寛容さを与えることを忘れず、人間が心を改めるのを待ちました。そして限界に達したとき、神は自らが行わねばならないことを迷いなく行ったのです。言い換えれば、神が人間を滅ぼすことを計画したときから、実際に人間を滅ぼす働きを始めるまでには、一定の期間と過程があったということです。この過程は人間に心を改める機会を与えるためにあったもので、神が人間に与えた最後のチャンスでした。では神は、実際に人間を滅ぼすまでの期間、何をしていたのでしょうか。神は人間に言い聞かせ忠告するために、非常に多くの働きをしていたのです。心にどれほどの痛みと悲しみを抱えていようとも、神は人間を配慮し、気遣い、溢れるほどの憐れみを注ぎ続けたのです。『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

 人間の堕落、汚れ、そして暴虐に対する神の忍耐には限界があります。その限界に達すると、神はもう耐えることはせず、新しい経営と新しい計画を開始し、しなければならないことをし始め、神の偉業とその性質のもう一つの面を現すのです。神のこの行いは、人が神を決して怒らせてはいけないとか、神が権威と怒りに満ちているということを示すためではなく、神が人間を滅せると示すためでもありません。ただこのような人間が自らの前で、自らの支配の下で生きていることを、神の性質とその聖い本質がそれ以上許せず、それ以上耐えることもできないのです。つまり、すべての人間が神に敵対したとき、地上で神が救うことができる人間がいなくなったとき、神はそのような人間に対し忍耐することをやめ、一切の躊躇なく、そのような人間を滅ぼす計画を実行するのです。こうした神の行動は神の性質によるところなのです。それは必然の結果であり、神の支配の下にあるすべての被造物がこれに耐えなければなりません。『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より引用

 愚かで無知な全人類に対する神の処分は、おもに憐れみと寛容に基づいています。その一方、神の怒りは、大部分の出来事において、ほぼ常に人間には隠され、知られることはありません。その結果、人間には神が怒りを表しているのを見極めたり、神の怒りそのものを理解したりすることは困難です。したがって、人間は神の怒りを軽視します。人間への忍耐と赦しからなる神の最終的な働きと段階に人間が直面したとき、すなわち、神の最後の憐れみと警告が人類に到達したとき、もし人間が以前と同じ方法で神に反抗したままで、悔い改めて自分自身のあり方を正し、神の憐れみを受け容れる努力を一切行なわなければ、神はもはや寛容と忍耐を人類に与えることはありません。逆に、このとき神は赦しを撤回します。その後、神は怒りしか放ちません。神が様々な方法で人間を罰し滅ぼすことができるように、神は様々な方法で怒りを表現することができます。『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 2」より引用

 神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を悲しみ、人類が一歩一歩、滅びと戻ることのできない道に向かって進んでいることに心を痛めている。神の心を引き裂き、神を棄てて邪悪な者を求めた人類、このような人類がどこに向かっているのかを考えたことのある者がいるだろうか。まさにこれこそが、誰も神の怒りを感知せず、誰も神を喜ばせる道を求めようともせず、神のもとへ近づこうとすることもなく、さらには、誰も神の悲しみと痛みを理解しようとしない理由である。神の声を聞いた後でさえ、人は自分の道を歩み続け、頑なに神のもとから離れ去り、神の恵みと配慮を避け、神の真理を避けて、神の敵であるサタンに自身を売ることの方を好む。そして、人がこのまま頑なであり続けるなら、後ろを振り向くこともなく神を見捨てたこの人間に対して神がどのようにふるまうかについて、誰が考えたことがあるのか。神が繰り返し人に思い起こさせ、勧告する理由は、人間の肉体と魂にはとうてい耐えられないような、未だかつてない災難を神はその手に準備しているからだということを知る者はいない。この災難は単に肉体の懲罰だけではなく、魂の懲罰でもある。あなたは知らなければならない。神の計画が無駄になり、神の喚起と勧告に反応が無いなら、神はどのような怒りを注ぐであろうか。それは今までどんな被造物も経験したことも聞いたこともないようなものである。だからわたしは、この災難は前例がなく、二度と繰り返されることはないと言う。なぜなら、神の計画とは今回一度だけ人類を創造し、一度だけ人類を救うことだからである。これが最初であり、また最後である。『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より引用


日々の神の御言葉「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」抜粋57

2020-12-06 19:44:35 | 日々の神の御言葉

 

 終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日にキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も滞留したままの濁った水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の息子たちである。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの段階は、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡をたどる者だと見なされることはあろうか。あなたが神として手放さずにいるものが、常にあたらしく、古くなることがないと証明できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きはどのように進めるべきかを求めるように、それらがあなたを導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。

 キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神が用意する道を受け入れなくてはならない。真理を受け取ったり、いのちの供給を受け入れることなく、祝福だけを得ようと考えたりすべきではない。キリストは、神を真に信じる者がいのちを得ることができるように終わりの日に来る。神の働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが神を認めず、神を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上で業を行うために託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない罰は、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、否定するなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが否定したのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。

『言葉は肉において現れる』より引用

 


神の御言葉が私の霊を目覚めさせた

2020-12-05 20:06:42 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 全能神は言われます。「この終わりの日における神の働きの現在の段階では、神はもはや以前のようにただ恵みと祝福を人間に与えるのではなく、また人間をなだめて前に導くこともありません。この働きの段階で、人間は経験した神の働きのあらゆる側面から何を見ましたか。人間は神の愛と神の裁きと刑罰を見ました。この期間、神は人間に施し、人間を支え、啓き、導き、人間は次第に神の意図、神が語る言葉、そして神が人間に与える真理を知るようになります。……神の裁きと刑罰により、人間は人類の堕落とサタンのような本質を次第に認識するようになります。神が与えること、神が人間を啓くこと、そして神による導きにより、人類は真理の本質、人間に必要なこと、進むべき道、人生の目的、自分の人生の価値と意味、将来へと進む方法をますます知ることができるようになります。……人間の心が蘇ると、人間は退廃し堕落した性質で生きることを望まなくなり、その代わりに神を満足させるために真理を追い求めることを望むようになります。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンに支配されることも騙されることもなくなります。その代わりに、人間は神の働きと言葉に積極的に協力して神の心を満足させることができ、神を畏れ、悪を避けることができるようになります。これが神の働きの元来の目的です」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 6」より引用)。神の御言葉のこの一節に関する経験が私にはあります。

 2016年6月、私は英文朗読チームでの本分を割り当てられ、心から嬉しく思いました。自分の英語力をようやく活かせることになったからです。自分の力を発揮しなきゃ! 家にいる兄弟姉妹にこの素晴らしい知らせを伝えたくてたまらず、それを知った彼らが顔に浮かべる羨望の表情を想像さえしたものです。

 その本分を尽くし始めると、他の兄弟姉妹がとても流暢に英語を読み、発音も素晴らしいことに気づきました。お互い英語で話すこともよくあって、集会のときや本分を尽くしているときも会話は全部英語です。私の英語はそこまで優れておらず、羨ましさと不安を同時に感じましたが、「一生懸命勉強していれば、いつか追いつき追い越せる!」と自分に言い聞かせました。そこで英語を勉強して語彙を増やすため、朝は早起きして夜も遅くまで起きるようになりました。どうすれば働きの成果を向上させられるかを常に考えていたのです。働きの経験に関する誰かの話を聞くたび、私はペンを手にしてメモをとりました。でもあっという間に数ヵ月が過ぎたのに、私の進歩は全然遅く、チームでの成果も一番低いままでした。自分が本分を尽くしておらず、年下の兄弟姉妹からヒントや助けをしばしば受けなければならないこと、加えてそのころ、指導者からつまらないルーチンワークをよく割り当てられていたことが頭に浮かび、自分はチームにまったく不要なんだと感じ、心底落ち込んで動揺するようになりました。その後、私たちのチームに新たな姉妹が加わりましたが、チームの本分に不慣れだったので、私が手助けするよう言われました。自分はもうチームで一番能力が低い人じゃないと思い、密かに喜んだものです。ところが驚いたことに、この姉妹は才能に恵まれ憶えが早く、英語もすぐに上達しました。二、三ヵ月も経たないうちに、もう私を追い越しつつあったのです。そのせいで私はパニックになりました。「このままだと、またすぐにチームで一番劣ったメンバーになってしまう。もっと長く働いている他のメンバーほど、自分が成果を挙げていないことは理解できる。そして今、この新人が入ってきて手助けするよう言われたけど、あっという間に追い越された。こんなの屈辱だわ!」。私は地位と名声を求めて毎日暮らし、絶えず不安を感じていました。惨めさの中で日々を過ごしていたのです。故郷で本分を尽くしていた昔の日々を懐かしく思い始めました。そのころは自分が先頭に立って話し合いや計画を行なっていて、兄弟姉妹はみんな私の意見に賛成していたし、教会指導者にも高く評価されていたものです。かつては重要人物だったのに、今ではここまで落ちてしまった。そう考えれば考えるほど悲しくなり、自分が不当な扱いを受けているように感じました。そしてあるとき、ついにトイレにこもって泣いてしまったのです。その夜は床についても寝返りを打つばかりで眠ることができず、こんな思いを止められませんでした。「私は初日からチームで一番劣ったメンバーだった。他の兄弟姉妹は私のことをどう思ってるだろう。もうこんなところにいたくない」。でもそのとき、生きている限りあなたのために自分を費やし、あなたの愛に報いますと、神に厳粛な誓いをしたことが頭に浮かびました。本当に自分の本分を諦めてしまったら、約束を破ることにならないだろうか。神を騙して裏切っていることにならないだろうか。動揺のあまり、私は神に祈りました。「神よ! この状況をどう乗り越えるべきか、そこから何を学ぶべきかわかりません。どうか私を導き、啓いてください」。

 それから携帯電話を手に取り、神の御言葉のこの一節を読みました。「あなたがたは追求において、個人的な観念や願望や未来をあまりに多く抱きすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望や途方もない欲望を取り扱うためのものである。願望、地位、そして観念はどれも典型的なサタン的性質の表われである。これらが人々の心に存在するのは、ひとえにサタンの毒が常に人の考えを腐敗させており、人々がサタンの誘惑を決して払いのけられないというのが理由である。このような人たちは罪のただ中で生活しているが、それを罪と思わず、「わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに祝福を与え、わたしたちのために万事を適切に手配してくださるに違いない。わたしたちは神を信じているので、他人よりも優れており、他の誰よりも地位と将来性が高いはずだ。わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに無限の祝福を与えてくださるに違いない。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないだろう」と考える。長年にわたり、人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ、不誠実で臆病で卑劣になるに至った。そのような人は意志の力や決意が欠けているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には自我を超越する決意が完全に欠けている上、これら闇の勢力による呪縛を払いのける勇気が少しもない。考えと生活があまりに腐敗しているので、神への信仰に対するその人の見方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人々が神への信仰に対する自分の見方について語るときでさえ、それはただ聞くに堪えない。人はみな臆病で、無能で、卑劣で、傷つきやすい。闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと全力を尽くす」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」より引用)。神の御言葉は私の状況を完全に説明していました。私がこれほどの苦痛を感じたうえに、本分を尽くすことに抵抗し、本分を諦め神を裏切ろうと思うまでになったのは、地位に対する自分の欲求が満たされなかったからではないでしょうか。このチームに加わってからというもの、英語を必死に勉強して働きの成果を向上させようとしてきたのは、単に自分の力を見せつけ、チームで傑出したかったから。新入りの姉妹がとても早く上達するのを見ると、彼女に追い越され、再びチームで一番劣ったメンバーになるのではないかと不安でした。地位のことで一日中ストレスを感じ、まったく惨めに暮らしていたのです。「人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ」という神の御言葉を見て、私は自分に問いかけました。「なぜ地位のために奮闘してるの? この惨めさはどんな考えのせいなの?」神の御言葉をじっくり考えて初めて、自分が「出世して先祖に栄誉をもたらす」、「人は上をめざし、水は下に流れる」、「天上天下唯我独尊」といったサタンの格言にしたがって生きていることに気づいたのです。私たちは幼いころから、人より優れて頂点に立つよう、教師に教え込まれています。私も名声のある有名人を絶えず心から尊敬して羨み、自分もそうなりたいと望んでいました。どこにいようと人から高く評価されることをいつも望み、全員から感心され、支えられ、賞賛されればなおいい気分になりました。これが愉快で有意義な生き方だと思っていたのです。人から感嘆と賞賛を得られなければ生活は惨めになり、とても落ち込みました。神の家で本分を尽くすようになってからも、私はこうした物事を追い求めていました。でも向上が見られなかったり、他の人の賞賛や感嘆を得られなかったりすると、悲観的になって落胆し、気力が挫けました。本分を諦めて神を裏切ることさえ考えたのです。私は名声を求める執念にすっかり取り憑かれ、それを得るためならどんな困難にも耐え、どんな戦いも行ない、自分の世界全体がこの一つのことを中心に回るまでになりました。そのとき、自分が間違った物事を求めて奮闘していることに気づきました。私が本分を尽くしていたのは真理を追い求めて神の愛に報いるためではなく、ただ名声と地位に対する自分の欲求を満たすためだったのです。

 神の御言葉に暴かれたおかげで、自分の追求がいかに誤っていたかがわかりました。その後、私は神の御言葉のこの一節を読みました。「本分を尽くしている一人ひとりにとって、真理の理解の深さがどれほどであろうと、真理の現実に入ることを望むなら、自分が行なうすべてのことにおいて神の家の益を考え、自分の利己的な欲求、個人的な意図、動機、面子、地位を捨てるのが最も簡単な実践の方法です。神の家の益を第一にしなさい。これが行なうべき最低限のことです。……加えて、自分の責任と義務を果たし、本分を尽くし、自分の利己的な欲求や意図や動機を捨て去り、神の旨を考慮し、神と神の家の益を第一にすることができるなら、それをしばらく経験した後、それがよい生き方だと感じるようになります。それは卑劣で役立たずな人間になることなく、正直かつ誠実に生きること、心が狭かったり卑しかったりするよりむしろ、公正かつ高潔に生きることです。人はそのように生きて振る舞うべきだと感じるようになります。自分の益を満足させようとする心の欲求も徐々に小さくなります。」(『キリストの言葉の記録』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」より引用)。神の御言葉を読んで、他人に賞賛されるのは重要なことではないとわかりました。神の支配と計画に従い、神の家の働きを守り、真理を実践して本分を尽くすことこそが本当に重要で、それが心を開いて誠実に生きる方法なのです。神の御心がわかったあと、私は大きな解放感を覚えました。チームで一番劣っていることに変わりはないけれど、それをつらいと思うことがなくなったのです。また自分の名声と地位を傷つけることがあっても、以前のように弱ることもなくなりました。意識して神に祈り、自分の間違った動機を捨て、心を静めて本分を尽くせるようになったのです。しかしサタンの害毒は私の中に深く根を下ろし、私の本性そのものになっていました。単に認識するだけではそれを根絶できません。清められて変わるには、裁きと精錬をもっと経験する必要がありました。

 チームリーダーが劉姉妹と張姉妹に、私たちの働きの監督を任せました。二人とも高度な専門技能を有していたからです。私は羨望と嫉妬を同時に感じました。他の兄弟姉妹を指導するのがとても名誉なことに思えたのです。どうして自分は二人のようになれないのだろう? 自分にできるのは技能が不要なつまらない仕事だけ。その後私は、兄弟姉妹の問題解決を助けるチームで水を与える本分を尽くすよう勧められました。でも期待に胸を膨らませることはまったくなく、その本分を見下しさえしました。実際の技能をもたない人だけがそんな本分を割り当てられるのだと思えたのです。私たちのチームが立派な成果を挙げているとすれば、それはひとえにあの二人の姉妹のおかげだと、誰もが口を揃えて言うでしょう。舞台裏で働き、真理を交わって問題を解決している私のことに、いったい誰が気づくでしょうか。間違った心構えをもち、聖霊の働きを得られていなかったせいで、どうしてもその本分を尽くそうという気が起きず、心の中で「私の素質がみんなにかなわないのはなぜだろう? 私は何に優れているんだろう? いつになったら自分の力を発揮できるんだろう?」と思うこともありました。徐々に嫌気と焦りが募っていき、そして程なく、通りかかった張姉妹からドアを閉めたり窓を開けたりお願いされるたび、感情が爆発しそうになるのを感じました。「あなたは信者になってどれくらい経つの? ほんの少し技能が優れてるだけじゃない。それで私を顎で使う資格があるっていうの?」しまいには、張姉妹に話しかけられても無視するようになりました。時おり質問されても聞こえなかったふりをするだけで、答えたとしてもぶっきらぼうな話し方でした。そのせいで彼女がふさぎ込んでいるのを見て、私は気の毒に思いましたが、地位と名声のことになるとやはり感情が先に立つのです。

 ある朝、劉姉妹と張姉妹が用事で出かけるのを目にしました。二人とも本当に上品でおしゃれな服に身を包んでいたので、私は動揺して嫉妬しました。「私は舞台裏で誰にも感謝されず苦労してるのに、あなたたちは栄誉を独占してる。私がどれだけ懸命に働いているか、誰にも知られることはないんだわ……」。その夜姉妹たちが戻ってくると、チームの全員が駆け寄って労をねぎらい、二人のために夕食を準備する人もいました。最初は私も二人に声をかけ、働きがどう進んだかを訊きたかったのですが、みんなの反応を見て嫉妬が蘇り、「あの二人がまた栄誉を独占して、私はますます価値がないように見えている」と思いました。そう考えて二人に背を向け、そのまま部屋に戻ったものの自分を静められず、そこで神に祈りました。「神よ、地位を求める私の執念が再び醜い頭をもたげてしまいました。名声と地位への欲望を捨てたいのですが、どうしてもできません。どうか評判と地位の束縛から自由になる方法をお示しください」。

 翌日、私がひどい状態にあるのを見た姉妹の一人が次の一節を読んでくれました。「地位や体面、名声に触れるとすぐ、みな期待に胸を躍らせ、自分が傑出し、名声や評価を得ることをいつも欲します。誰も譲歩したがらず、競うことは恥であり、神の家では許されないにもかかわらず、常に競おうとします。競争しないと気が済まないのです。あなたがたは、傑出した者を見ると嫉妬し、憎み、不公平だと感じます。『自分が傑出できないのはなぜだろう。傑出するのが常にあの人で、自分の番が回ってこないのはなぜだろう』。そして一種の憤りを感じます。あなたがたはそれを抑えようとしても抑えられません。神に祈り、しばらく気分が楽になるものの、そのような状況に再び直面するやいなや、それを克服できません。それは未熟な霊的背丈を示すものではありませんか。こうした状態に陥ることは罠ではないですか。これらは人を束縛する、サタンの堕落した本性の足かせなのです」(『キリストの言葉の記録』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」より引用)。私が自分の追い求めるものを本当に変えていなかったことを、神の御言葉は示していました。依然として評判と地位、そして他の人に優ることを求めていたのです。こうしたことに取り憑かれていた私は、傑出して注目され、重要な本分、あるいは技能を要する本分を尽くしたいといつも望んでいました。それがみんなから尊敬され、一目置かれる唯一の方法、神に認めていただき、最終的に祝福を受ける唯一の方法だと思い込んでいたのです。重要でないと思った仕事にはどれも冷淡で、水を与える本分でさえも軽蔑のまなざしで見ていました。二人の姉妹に重要な本分が任される一方、自分には決して注目されない些細な仕事しか与えられないことに気づくと、嫉妬を感じて憤り、よりよい素質や技能を与えてくださらなかったといって、神に文句をぶつけて責めさえしました。私は何て理知のない人なんでしょう! 地位への欲望が満たされなかったからという理由で本分に力を注がず、姉妹たちを自分の不満のはけ口にさえしました。それが姉妹たちを押さえつけ、傷つけたことは間違いありません。そのことを省みれば省みるほど罪悪感を覚え、自分がいかに利己的で人間性に欠けていたかがわかりました。

 その後、私は神の御言葉のこの一節を目にしました。「人は名声を得て有名人になることを常に望んでいます。大きな名声と信望を得て、先祖に栄誉をもたらすことを望んでいるのです。それらは肯定的な物事ですか。それらは肯定的な物事とまったく一致しません。そのうえ、神が人類の運命を支配しているという法則にも真っ向から反しています。わたしがそのように言うのはなぜでしょうか。どのような人を神は望んでいますか。偉人、有名人、高貴な人、あるいは世を揺るがす人を望んでいるのですか。(違います。)では、神はどのような人を望んでいるのですか。神が望んでいるのは、地に足をつけ、神の被造物にふさわしくなることを求め、被造物の本分を尽くすことができ、人間の立場を守れる人です」((『キリストの言葉の記録』の「真理を探し求め神に頼ることだけが堕落した性質を解決できる」より引用))。神の御言葉を振り返り、神が望まれるのは高貴な人や地を揺るがすような才能の持ち主ではなく、神の被造物として自分の本分を尽くせる、地に足の着いた人なのだとわかりました。神は私に優れた素質や一流の専門技能をもつよう求めてはおらず、私が自分の立場を守り、全力で本分を尽くすことだけを求めておられます。そしてそれが、私にできることだったのです。神は各人にそれぞれ異なる素質と才能を授けられます。私たちは自分の能力の限りを尽くし、互いに助け合い、ともに働きさえすれば、本分を尽くして神に満足いただけるのです。

 またこの神の御言葉も読みました。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、真理を自分のものにしているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の旨に従わない人はみな懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である」(『言葉は肉において現れる』の「終着点のために十分な善行を積みなさい」より引用)。神は義なる神でいらっしゃいます。神が誰をお褒めになるのか、また神が各人にどのような結末と終着点を定められるのかは、その人に名声や信望があるかどうか、どのくらいの人がその人を支えて認めているのか、あるいはその人にどのような元手があるのかによって決まることではありません。むしろ、それはひとえに、その人が真理を実践し、神に従い、神の被造物として本分を尽くしているかどうかに基づいています。祭司長、律法学者、そしてパリサイ人を例に取りましょう。彼らには地位も影響力もあり、多くの人が彼らを崇めて付き従いましたが、主イエスが来られて働きをなさったとき、彼らは真理を求めることも神の働きを受け入れることもまったくしませんでした。自分の地位と収入を守るために主イエスを激しく断罪し、主に抵抗さえして、果ては主を十字架にかけて神の呪いと懲罰を受けたのです。また、神の言いつけ通りに箱船を作ったノアのことも頭に浮かびました。当時、ノアは気が狂っていると誰もが思いましたが、ノアは神の言うことを聞いて神に従ったおかげで、神のお褒めを受けて洪水を生き延びたのです。そして聖書に記された貧しい未亡人。彼女が与えた二枚の硬貨は、他の誰にとっても些細なものにしか見えませんでしたが、神は彼女をお褒めになりました。自分がもつすべてのものを神に捧げたからです。これらの話を振り返り、神は本当に義でいらっしゃると気づきました。神は人の誠実さを大事になさいます。神の御言葉に耳を傾け、神に従い、神の御言葉を実践し、神の被造物として本分を尽くすことでのみ、人は有意義な人生を生きられます。他人に賞賛されようと励んでも、悪事を犯して神に逆らい、神の懲罰を受けるだけです。私があの環境で本分を尽くすよう神が采配なさったのは、私が苦しんだり屈辱を感じたりするのを神が望まれたからではなく、神には私のための計画があるからだとわかりました。私はあまりに地位に取り憑かれていたので、本当に自己を認識し、名声と地位の足かせを捨て去り、神の御前で自由な解放された人生を生きられるよう、暴かれ精錬される経験をしなければなりませんでした。これこそ神が私を変えて清める最善の方法であり、神の愛と救いだったのです。そう考え、私は神に祈りました。「ああ、神よ。これらの環境を巧みに整え、私を救って清めてくださったことに感謝いたします。私はもう名声と地位のために生きたくはありません。どのような本分を割り当てられようと、他人の目から見てそれがどれほど卑しいものでも、私は喜んで服従し、兄弟姉妹と一緒に働くことで、私たちの本分を尽くしてまいります」

 その後、私たちのチームの何名かが、教会の業務に出かけなければならなくなったのですが、それを聞いたとき、私の中で再び欲望が湧き上がりました。自分の力を示すチャンスがようやく得られるかもしれないと思ったのです。誰が行くか兄弟姉妹が話し合っているあいだ、私は自分が選ばれることをずっと期待していましたが、結局選ばれたのは劉姉妹と張姉妹でした。多少がっかりしました。自分が日の目を見る瞬間は決して来ないように思えたのです。再び名声を求めて争っていることに気づいたので、神に祈って間違った動機を捨て去りました。そして、この間ずっと自分の働きに集中せず、貴重な時間と活力を地位への奮闘に残らず費やし、自分の本分をこれっぽっちも尽くさなかったことが頭に浮かびました。私は名声と地位を求めて毎日戦っていましたが、それは本当にひどい気持ちでした。サタンに騙されてきたような感覚です。地位と名声は本当に人を傷つけます。実際のところ、私たちのチームの兄弟姉妹はみな異なる技能と素質をもっています。私たちが一緒に働くよう神が采配されたのは、一人ひとりが自分の技能を生かし、互いに学んで補い合い、一緒に働いて本分を尽くすことを望まれたからです。神はずっと以前に私の素質と背丈を決められました。また、私がチームでどのような役を演じるのか、どのような役割を果たすのかも、神が予め定められたことです。だから私は自分の居場所に喜びを感じ、全力で本分を尽くし、神に従うことのできる理知的な人であるべきなのです。それに気づくと、心がずっと穏やかになりました。二人の姉妹が本分を尽くしに出かけるたび、私は二人のためにひたすら祈り、他の姉妹たちが自分の本分に集中できるよう、全力でルーチンワークを終わらせました。また他の兄弟姉妹にも、働くと同時にいのちの入りの時間も見つけられるよう、霊のデボーションに力を入れることを勧めました。集中して物事を行ないだすと、地に足の着いた穏やかな気持ちをますます感じるようになりました。神との距離が縮まり、兄弟姉妹との関係もより正常になったと思いました。そして名声や地位を重視することもなくなり、より心を開くようになりました。この小さな変化に対し、私の心は神への感謝で一杯でした。神の御言葉の裁きと刑罰が私の心を目覚めさせ、名声や地位を求めることの虚しさと苦しみを示すとともに、神を信じ、真理を追い求め、被造物の本分を尽くすことでのみ、人は有意義な人生を生きられるのだと理解させてくれたのです。