神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

日々の神の御言葉「神の現れによる新時代の到来」抜粋72

2020-12-04 22:10:10 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「神の現れによる新時代の到来」抜粋72

 アメリカ人でも、イギリス人でも、どこの国の人でも、自分という枠を乗り越え、自分という存在を超越し、神の創造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはないだろう。それは、特定の国や民族に神が現れることはないだろうと考えている人が多いからである。ああ、神の働きの意義はなんと深く、神の現れはなんと重要か。それは人の観念や考えで測ることなどできるのだろうか。そのため、神の現れを探し求める際には、みずからの国籍や民族性という枠を突き抜けるべきである。そうすれば、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを喜び迎えることができる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

 神は全人類の神である。神が自分を一つの国や民族の所有物とすることはない。神が自分の計画にある働きを、形式や国、民族といった制限を受けることなく行う。これまであなたはこのような形式を考えたこともなかったかもしれないし、そのような形式があることを否定するかもしれない。神が現れる国や民族は差別されている最貧国かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神は、自分の力によって、また自分の真理と性質を通して、自分と心が一つになっている人々をすでに得ている。それは神が求めていた人々で、神に征服され、苦しい試練とあらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる人々である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。まずは、自分の観念を脇に置きなさい。立ち止まって、次の言葉をよく読みなさい。あなたが真理を慕い求めるなら、神はあなたの知性を明るくし、神の心と言葉を理解できるようにしてくれる。「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。

『言葉は肉において現れる』より引用

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利己心を手放せば心が解放される

2020-12-04 00:17:20 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 全能神は言われます。「正常な人々の性質にはひねくれた点や不正直さはなく、人々はお互いに正常な関係にあり、孤立していないし、その生活は凡庸でもなければ退廃的でもない。そこで神もすべてのものから褒め称えられ、神の言葉は人間の間に広がり、人々はお互い平和に神の配慮と保護のもとに暮らし、地上は調和で満たされ、サタンの妨害はなく、神の栄光が人間の間で最も重要なものになっている。このような人々はまるで天使である。純粋で、活気があり、けっして神について不平を言わず、地上の神の栄光だけに、ひたすら努力を捧げる」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」「第十六章」)。神の御言葉によれば正常な人の性質には、歪み、欺瞞、利己心、卑しさは存在しません。誠実に神の委託を受け兄弟姉妹と力を合わせて、本分のために尽くすことは人が行える最も基本的なことです。かつて私は「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」というサタンの哲学に依って生きていました。利己的で、卑しく、心が歪み、ずる賢く、人間らしさを完全に欠いていました。神の御言葉の裁きと刑罰を経験して初めて私のサタンの性質が変わり始めたのです。

 2018年6月に、組に加わった張兄弟が、本分における私のパートナーになりました。その時私は「この本分を尽くしてだいぶ経つ。原則を理解し、いくらか結果も出ている。どこかのタイミングでこの組を離れ、もっと重大な役目に挑戦しよう。張兄弟をできるだけ早く慣れさせて、組の仕事を任せられるようにしなくては」と考えました。そこで私が本分で学んだ基本的な技能の指導を始めました。3か月もすると張兄弟は基本的なことはすべて理解し、かなりの速さで成長していました。私はそのことに危機感を覚え始めました。「張兄弟は本当に飲み込みが早い。これが続けば、追い抜かれてしまうかも。指導者が張兄弟の有能ぶりを知れば、重要な役目をとられてしまうのではないか」。この考えが浮かんだ時、こう思いました。「ちょっと指導を控えなければ。知っていることを全部教えるわけにはいかない」。それからというもの、張兄弟の能力が足りない部分を見つけても表面的なことのみに言及し知識のすべては共有しませんでした。良くないことだとわかっていましたが、「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」という古いことわざが頭に浮かびました。彼が目立つと私がかすんでしまう。負けるわけにはいかなかったのです。その後もパートナーを続けましたが、張兄弟に何か聞かれた時には、部分的な答えしか与えませんでした。

 それから間もなく、指導者が重要な仕事のことで張兄弟を探しにきました。それを聞き鼓動が早くなりました。私は思いました。「張兄弟よりも長く組にいるのに、なぜ私に言ってくれないのか。私は張兄弟に劣るのか指導したのは私なのに今や彼が注目され、私は押しのけられ忘れ去られてしまったのです。このまま指導を続ければ、ますます彼は成長するのではないか。彼が重要な役目に就いたら、誰が私を尊敬してくれるのか」。ですからそれ以降は張兄弟が困難に直面しても、助けませんでした。問題がすぐに解決できなくなり、組の仕事に支障をきたし、ついには教会の働きを阻むことになりました。責任と気まずさは感じたものの自分の行いを全く反省しませんでした。そんなある日、脇が突然かゆくなり、どうにもおさまりません。薬も効きません。次の日、腕がひどく痛み出し、動かせなくなりました。これは偶然ではないと気づいた私は神の御前で祈りました。「神よ。この突然の症状はあなたの善意によるものでしょう。しかし私は鈍感なので御心がわかりません。どうか啓きを与え、お導き下さい」。

 ある日祈りを捧げる私の頭に、次の御言葉が突然うかびました。「自分がもつすべてのものを捧げる気がないなら、あるいはそれを隠してしまい込み、いい加減に行動するなら、……」(「正直者になって初めて本当に幸せになれる」『キリストの言葉の記録』)。これにより私は目覚めました。私は名声や利益ばかりを求めて生きていたのです。兄弟に追い抜かれることを恐れ、公正さを欠き、知識を共有しようとしませんでした。この症状は、反省を促す神の警告だったのです。そのあと、次の御言葉の一節を読みました「不信心者にはある種の堕落した性質があります。彼らは他人に専門的な知識や技能を教えるとき、『生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う』という考えを持っています。知っていることをすべて他人に教えてしまうと、誰も自分を尊敬しなくなり、地位を失うことになると考えているのです。そのため知識の一部は伏せておく必要があると感じ、知っていることの80%しか教えず、いくつかの『切り札』も隠し持つようにしています。それが、師としての地位を示す唯一の方法だと思っているのです。いつも情報を伏せて、奥の手を隠し持っておくというのは、どんな性質だと言えるでしょうか。それは欺瞞です。……ただ最も表面的なことや基本的なことを皆に教えるだけで、自分はうまくやっているとか、知識を伏せてはいないなどと思ってはいけません。そうはいかないのです。場合によっては、多少の理論、あるいは人々が文字通りに理解できる物事だけを教えることもあるかもしれませんが、初心者は本質や要点をまったく理解することができません。あなたは踏み込んだり細部に言及したりすることなくただ概要を説明し、内心このように思っています。『とにかくわたしは伝えたし、何かを意図的に隠したりはしていない。わからないならそれはあなたの素質が不足しているせいなので、わたしを責めてはいけない。あとはただ、神がどうあなたを導くか様子を見るしかない』と。このような考え方は、欺瞞を含んでいないでしょうか。自分勝手で卑しくないでしょうか。なぜ、自分の心の中にあること、自分が理解していることを、すべて人に教えられないのでしょうか。なぜ知識を出し惜しむのですか。それはあなたの意図と性質の問題です」(『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は、私の状況を的確に示しました。私は名声や地位にとらわれ自分が習得した技能を教えることを拒みました。張兄弟が成長し、私を追い抜くことを恐れました。「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」という言葉のように。常に一歩引くことで、自分勝手で卑しく、歪んだサタンの本性に支配されていたのではないか。張兄弟が組に入った時のことを思いました。彼を指導した動機はなるべく早く組の仕事を習得してもらうためでした。そうすれば私の本分を他の者に引き継ぎ私はより重要な役目を担うことができるからです。しかし張兄弟の理解力が高いこと、指導者から高く評価されていることを知り、とても不安になりました。このままでは、いずれ私は追い抜かれ、取って代わられると思いました。その結果、知っていることを教えず、本分において困っている時も助けず、それにより教会の働きに遅れが生じました。名声や地位を守ることに夢中になるあまり、神の家の働きを全く考えていなかったのです。自分勝手で欺瞞に満ちた人間でした。あの症状は時を得た神の懲らしめであり、あれがなければ、私は反省することはなかったでしょう。そのあと次の御言葉を読みました。「あなたは神を信仰して以来、神の言葉を飲み食いし、神の裁きと刑罰を受け入れて、神の救いを受けたいと願ってきました。しかしもしあなたの行動原則や、物事を行い人としてふるまう際の方向性が変わっていなければ、そしてあなたが不信心者と同じなのであれば、神はあなたを信仰者として認めるでしょうか? いいえ、認めないでしょう。神はあなたがいまだに不信心者の道を歩いていると言うでしょう。そのためあなたは本分を尽くすにしても、専門的な知識を身につけるにしても、なすことすべてにおいて原則を守らなければなりません。すべての行いを真理に従って扱い、真理に従って実践しなければなりません。真理を用いて問題を解決し、自分の中に露わされた堕落した性質を解決し、誤ったやり方や考えを解決しなければなりません。そうしたものを継続的に克服していかなければならないのです。一つには、自分自身を吟味する必要があります。吟味した結果、堕落した性質が見つかったら、それを解決し、抑え、捨てなければなりません。こうした問題を解決し、自分の堕落した性質に基づいて物事を行うことを止めたとき、そして自分の動機や利益を手放し、真理の原則に従って実践できるようになったとき、初めてあなたは神に真に従う者が行うべきことをするようになるのです」(『キリストの言葉の記録』より引用)。「あなたはその専門的な知識の本質と要点、つまり他の人が見抜いていないことや悟っていないことを理解し、それを人々に伝えて、彼らが皆自分の力を発揮し、それによってより多くの、より深い、より成熟したものを解明できるようにしなければなりません。このようなことすべてに貢献できれば、それはこの本分を尽くす人たちにとっても、また神の家の働きにとっても有益になるでしょう。……ほとんどの人は、専門知識の特定の側面に初めて触れるとき、文字通りの意味しか理解できず、要点や本質に関わる部分については、把握できるまでに一定期間の練習が必要になります。あなたがそうした細部をすでに把握しているのなら、それを直接教えるべきです。そのように回り道をさせ、理解に長い時間をかけさせてはなりません。それがあなたの責任であり、あなたのすべきことです。自分が要点や本質だと思うことを伝えた場合のみ、あなたは何も出し惜しまないことになり、そうして初めて自分勝手ではなくなるのです」(『キリストの言葉の記録』)。御言葉により、本分における自己反省に重きを置き、利己的で卑しいサタンの本性を解決するため真理を求めなければと気づかされました。間違った思想や考えを捨て、兄弟姉妹と心をひとつにし本分を尽くす必要がありました。真理においても本分においても個人としての私たちには欠けているところが多いので兄弟姉妹は互いに助け合いながら本分を尽くすべきなのです。そして理解した物事は余すことなく交わるべきなのです。こうして互いに欠点を補うことで、回り道をせずにすみます。実際、私が張兄弟よりほんの少し優れていたのはすべて神の優しさによるものでした。神の御心を思い、張兄弟が一刻も早く本分を尽くせるよう利己心を捨てて知っていることをすべて教えるべきでした。これこそが神の御心に沿うのです。それに気づいた私は神の御前に急ぎ、祈りました。間違った考えを捨て利己的で卑しいサタンの性質に依らず生きる決意をしました。そのあと張兄弟に、私の状況を正直に話し、私のサタンの性質について分析しました。また私がもつ技能の要点を伝えました。この実践を始めて、心が穏やかになり体の症状もいつしか消えていました。

 この経験を通して私は変わったはずだったのですがサタンの性質は本当に深く根づいていました。しかるべき状況になったとたん、再びあの毒が顔を出してきたのです。

 2019年3月、張兄弟と私は同時に教会の指導者に選ばれました。最初は非常に仲良くやっていました。教会の中の問題も、直面した困難も、ともに真理を追求し解決しました。しかしある日、教会でこんな言葉を聞いてしまったのです。「張兄弟の真理についての交わりはとても実践的だ。彼は責任をもって本分を尽くしている」。これを聞き、私の心は再び乱れました。「張兄弟に出し抜かれたらあっという間に面目丸つぶれだ」と思いました。それからは、業務について話をするときには失敗や欠点を指摘することに終始し解決につながる実践の道を共有しませんでした。助けを求められた時には歯を食いしばって、少しだけ応えました。張兄弟が知識を得たら、自力で問題を解決するようになり、私の出番がなくなるかもしれません。こんなこともありました。張兄弟が、弱さを見せている兄弟姉妹を助けようしていたのですが、正しい交わりをもたなければ、意味がないと悩んでいました。そこで私に、交わるべき真理について相談に来ました。しかし私は知っていることをすべて教え、張兄弟が問題を解決したら兄弟姉妹は絶対に彼を尊敬するだろう。そうなったら私は次の交わりで何を話すのか、張兄弟に見劣りするのではと思いました。そして「次の交わりのために何か残しておくべきだ。私の方が問題解決に長けていることを見せなければ」と思い張兄弟には簡単な説明しかせず具体的なことも、重要なことも伝えませんでした。利己心にとらわれ、すべての知識を共有したくなかった私は業務においても張兄弟を意図的に避け話し合いをもつ時間も減っていきました。時おり罪の意識を感じ、心の中で「これでは、兄弟と力を合わせて本分を尽くしていない。神は喜ばれない」と思いました。しかしこうも考えました。「張兄弟が私を追い抜けば、皆が彼を上に見る」と。真理の実践が嫌になりました。そして、こんな状態から抜け出せなかった私に神の義なる性質が降りかかったのです。私の心は常に乱れ集会での交わりも光を欠き、本分でも何も達成できません。毎晩、早い時間に眠くなってしまい、不安感が膨らんでいきました。その時、神が私から離れたことに気づきました。そして恐くなりました。神の御前に急ぎ、祈りました。「神よ、私は利己的で卑しいサタンの性質を生きていました。あなたが深く嫌うとわかっていながら止められず、抜け出すこともできません。どうか啓きを与えてください。私の本性と本質をより深く理解できるように」。

 祈ったあと、御言葉の次の一節を読みました。「人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたの感情はそんなに強いのですか。なぜそうした不義な物事を好むのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因として、そこにはすべてサタンの毒が含まれていることをあなた方は今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、邪悪な行いをする人に、なぜそのような事をするのかと聞くならば、こう答えるでしょう。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの論理が人々のいのちとなり、人はさまざまな目的で物事を行うかもしれませんが、とにかく全て自分の為に行います。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』のだから、人は自分のために生き、自分にできるあらゆることをして良い地位を確保し、必要な食べ物や衣類を手に入れなければならないと、人はみな考えます。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。この言い習わしこそサタンの毒であり、人の中に取り込まれるとそれは人の本性となるのです。サタンの本性はこの言葉をとおして暴露されています。サタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました」(「ペテロの道を歩むには」『キリストの言葉の記録』)。御言葉が教えてくれたのは私が利己的で卑しいサタンの性質に依らずにはいられなかったということでした。サタンの毒である「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」が私のいのちとなっていたからです。それらを良い事であり、生きるための黄金律ととらえました。目指すべき生き方であり、自分たちを守る唯一の方法と考えました。結果として、利己的で卑しく、自分本位な人間になっていきました。協力して行う本分において、張兄弟の方が優れているのではといつもびくびくし、仕事について話すときは常に表面的なこと、最低限のことに留め、一部の知識しか共有しませんでした。問題に直面した張兄弟から助けを求められた時神の家の働きよりもすべてを教えることで自分が教会で輝けなくなることが心配でした。正しい道ではないと知りながらも、助けませんでした。私が本分を尽くしていたのは神の御心への配慮からでも、神の家の働きを守るためでもなく個人的な名声と地位のためでした。私は本当に自分勝手で、ずるい人間でした。本分においてサタンの性質に頼る私が神の導きと祝福を得ることができるでしょうか。知識を誰にも教えずに自分だけのものにすれば教会で一番の存在になり、尊敬されると思っていました。しかし実際は、指導を怠るほどに私の魂は黒くなり、神の導きからも遠ざかりました。ついには、以前できたこともできなくなってしまったのです。その時、主イエスの次の言葉を思い出しました。「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」(マタイによる福音書 13:12)。この経験から、私は神の義なる性質を深く理解しました。さらに考えてみると本分における問題を理解できていたのは、すべて神の導きと啓きによるものであり御言葉の導きなしでは、私は盲目なのです。何も理解できず、何の問題も解決できません。しかし、自分ではそれに全く気づかず恥ずかしげもなく聖霊の啓きを自分の力だと誤解していたのです。私は神から栄光を奪い去ろうとしていたのでは。神は人の心と精神を見通せます。本分においてサタンの性質に頼り続ければ必ずや神に厭われ、排除されます。そう考えた私はすぐに神の御前で祈りました。「神よ、本分において私欲を追求したり、卑劣な人間になることは金輪際ありません。張兄弟とよく協力し、しっかり本分を尽くします」。

 そのあと、次の御言葉を読みました。「いつも自分のために物事を行なったり、いつも自身の利益を考えたり、自分の地位、体面、評判を気にしたりしてはいけません。人の利益を考慮してはいけないのです。まずは神の家の利益を考え、それを最優先にしなければなりません。つまり、神の旨を察しなければいけません。自分が本分を尽くす中で不純だったかどうか、全力で忠誠を尽くし、自分の責任を果たし、自分のすべてを捧げたかどうか、そして自分の本分と神の家の働きを心から考えてきたかどうかを熟慮することから始めなさい。あなたはこれらのことを考える必要があります。これらのことを頻繁に考慮すれば、立派に本分を尽くすのが簡単になるでしょう」(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。「自分の利己的で卑しい正体があわらになり、そのことを自覚したときは、真理を求める必要があります。神の旨に沿うにはどうすればいいのか。どう行動すれば皆のためになるのか。つまり、まず自分の利益を棚上げにすることから始め、その利益を自分の霊的背丈に合わせて少しずつ手放していかなければなりません。何度か経験していると、それを完全に棚上げできるようになり、そうするうちにますます安定を感じるようになります。自分の利益を棚上げすればするほど、あなたは人として良心と理知を備えるべきだと感じるようになります。そして利己的な動機を持たなければ、自分はまっすぐで公正な人間であり、ただ神を満足させるために行動しているのだということを実感するでしょう。そしてそのような行動を通じて、自分が『人間』と呼ばれるにふさわしいものになるのを感じ、地上でそのように生きていると、自分が公平かつ正直であり、純粋な人間であり、潔白な心を持っており、神に授けられたすべてのものに値すると感じるようになるでしょう。そのように生きれば生きるほど、揺るぎない明るい気持ちになれるのです。その結果、あなたは正しい道に足を踏み入れてはいないでしょうか」(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。これを読み、わかりました。本分を尽くしたければ、神の家の働きを守り、深い責任感をもって全力で本分に臨む方法をまず考えなければなりません。神は、本分における私たちの態度を重要視します。神の望みは、私たちが誠実な心で神に向き合い本分にすべてを捧げ、良心的で慈愛に満ちた人間になることです。神の御心を理解し、心の中で神に祈りました。利己心を捨て、個人の利益を気にせず、教会と兄弟姉妹のいのちにとって有益なことは何でもすると神に伝えました。その後、張兄弟と話をしました。自分勝手で卑しいサタンの性質と、欺瞞に満ちた本心を打ち明け、私たちの働きにおける問題や欠点を解決するためともに真理を追求し、知っていることを余すことなく彼に交わりました。このように実践してから、安らぎを感じるようになりました。裏のない公平な人間でいることのすばらしさを知りました。私の状況は次第に改善し、本分である程度の結果をだせるようになりました。いまだに自分勝手で卑しいサタンの性質を見せることもありますが、そんな時は、神がどれほど嫌悪されるかを思い、神の御前で祈りを捧げ自分の間違った考えを捨て、神の御言葉に従って実践できるよう願います。

 このような経験を通してサタンの性質とサタンの毒に依存して本分を尽くせば利己的で卑しく、自分勝手な人間になるだけということがよくわかりました。人間らしさを完全に失い自分に痛みをもたらすだけでなく、他人との和も乱します。神の家の働きに害を及ぼすだけです。誠実な人間として御言葉に従い真理を実践し自分だけが得するような考えを捨てた時本分において聖霊の啓きと導きを得て、心が安らぎました。神に感謝! 神の御言葉の裁きと刑罰によって利己心と欺瞞というサタンの性質が多少理解でき、多少の真理を実践し、人間らしく生きられるようになりました。


神の御言葉「あなたは信仰について何を知っているか」

2020-12-02 22:55:26 | キリストによる教会での説教

 

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 神は万物を支配し、管理している存在です。神は存在するすべての物事を造り、管理し、支配し、それらに施します。これが神の地位であり、また神の身分です。万物、そして存在するすべての物事について、神の真の身分はあらゆる被造物の創造主であり、支配者なのです。それが神の所有する身分であり、神は万物にあって唯一無二の存在なのです。神の被造物のうちひとつとして、人類の中にあるか、あるいは霊界にあるかを問わず、何らかの方法や言い訳を使って、神の身分と地位を装ったり、神の代理となったりすることができる人はいません。なぜなら、被造物を支配する身分、力、権威、そして能力をもつ存在はただひとつだけであり、それは唯一無二の神自身だからです。神は万物の中で生き、動いています。神は万物のうえ、最も高い場所へと昇ることができます。また神は、血と肉のある人間のひとりに身をやつし、人々と向き合って苦楽を共にすることもできます。それと同時に、神は存在するすべてのものを支配し、その運命と進む方向を決定するのです。さらに、神は人類全体の運命と方向性を導きます。このような神は、あらゆる生物が崇め、付き従い、知るべき存在です。したがって、人類のうちどの集団、どの種類に属しているかを問わず、あらゆる個人、あらゆる生物にとって、神を信じ、神に付き従い、神を畏れること、また自分の運命に対する神の支配と神の采配を受け入れることが、唯一かつ必然の選択肢なのです。『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 10」より引用

 広大な宇宙と天空において、数えきれない被造物が生き、再生し、生命の周期の法則に従い、一つの不変の規則を守っている。死ぬ者は生きる者の物語を抱えて行き、生きている者は死んだ者と同じ悲劇的な歴史を繰り返す。そこで、人類は自問せずにはいられない。なぜわたしたちは生きるのか。そして、なぜわたしたちは死ななければいけないのか。誰がこの世界を支配しているのか。そして、誰がこの人類を創ったのか。人類はほんとうに大自然の生み出したものなのか。人類はほんとうに自分の運命を支配しているのだろうか。……数千年にわたり、人類はこうした問を何度も何度も発している。残念ながら、人類がこうした問に頭を悩ませれば悩ませるほど、ますます科学への渇望が強くなった。科学は、ささやかな肉の欲求の充足と、つかの間の肉の楽しみを与えるが、人類を魂の奥底にある孤独や寂しさ、かろうじて隠している恐怖と無力感から解放することなど到底できない。人類はただ心を麻痺させるために、肉眼で見、脳で理解できる科学的知識を用いている。しかしそのような科学的知識は、人類が奥義を探ることを止めるのに十分ではない。人類は、宇宙と万物の支配者が誰であるかをまったく知らないし、ましてや人類の始まりも未来も知らない。人類はこの法則の中で否応なしにただ生きている。誰一人、逃れることができないし、誰もこれを変えることはできない。あらゆる物事の間と天において、永遠から永遠にすべてを支配しているのは、ただお一方だけだからである。それは、かつて人間が見たことがないお方、人類が知ることもないお方、その存在を人類は信じたこともない。しかし、それは人類の祖先に息を吹き込み、人類にいのちを与えたお方である。人間の生存のために施し、養い、今日まで導いて来たお方である。さらに、人類が生き残るために依存する唯一のお方なのである。彼は万物を支配し、天の下のすべての生ける物を支配している。彼は四季を支配し、風と霜、雪、雨を呼ぶ。彼は人類に陽光を与え、夜の訪れをもたらす。天と地とを整え、人間に山々と湖、川、すべての生き物を与えたのは彼である。彼の業はあらゆるところにある。その力はいたるところにある。その知恵はいたるところにある。その権威はいたるところにある。その法則や規則の一つひとつは彼の業の具現であり、その一つひとつが彼の知恵と権威とを明らかにしている。誰が彼の支配を免れることができようか。また、誰が彼の采配から逃れることができようか。万物は彼の眼差しの下にあり、さらに、彼の支配の下で生きている。彼の業と力の前に人類は、彼が実際に存在し、万物を支配していると認めざるを得ない。神を除いては、他の何も宇宙を支配できず、まして、やむことなく人類に施すこともできない。神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命は神の定めるところであって、神が永遠にあらゆるものの支配権を持ち続けることに疑いはない。神の存在と権威とは、人間に認められ理解され得るかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人類の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関りなく、人類は近い将来、これらのことすべてをその目で見ることになる。そして、これは神が間もなく実現する事実である。人類は神の目の下で生き、死ぬ。人類は神の経営のために生きているのであり、その目が最期に閉じる時もまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去り、行き来を繰り返す。例外なく、これはすべて神の支配し、定めていることである。神の経営は常に前進しており、やむことがない。神は人類に自身の存在を知らせ、神の支配を信じさせ、神の業を見させ、神の国に戻らせる。これが神の計画であり、何千年にもわたって神が行なってきた働きなのである。『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より引用

 神はこの世界を創造し、神が命を授けた生きものである人間を世にもたらした。次に、人間は両親と親族を持つようになり、もはや孤独ではなくなった。人間は、最初にこの物質的世界に目を向けて以来、神の予定の中で存在するように定められてきた。神から出る命の息は、成人へと成長する間ずっとあらゆる生きものを維持する。この過程で、人は神の配慮のもとに成長していると感じる者はいない。むしろ、人は両親の愛情のこもった世話のもとで成長し、人の成長を促すのは自身の生命本能だと思う。それは、人間は誰が自分に命を授けてくれたのか、どこからそれが来たのかを知らず、ましてや、生命本能がどのようにして奇跡を生み出すのかなど知るよしもないからである。人は食物が生命維持の基礎であり、根気が人間生存の源であり、頭の中にある信念が人間の生存を左右する資本であるということだけを知っている。神の恵みと施しにはまったく気づかないので、神によって授けられた命を人は浪費する……。神が日夜世話しているこの人類のうち、一人として自主的に神を礼拝しようとはしない。神は計画通りにひたすら人に働きかけ続けるだけで、人には何も期待しない。人がある日夢から覚めて、命の価値と意義、人に与えた全てのもののために神が支払った代価、そして人が神のもとへ戻ってくるのを待つ神の切なる心遣いを突然悟ることを願いつつ、神は働き続けている。人間の生命の起源と存続をつかさどる奥義を探究した者はいない。これら全てを理解している神だけが、神からあらゆるものを受け取ったにもかかわらず感謝することもない人間から受ける傷や打撃に黙って耐える。人間は命がもたらす全てのことを当然のことと考えている。そして同様に、神が人間によって裏切られ、忘れられ、ゆすり取られるのも「当然のこと」とする。神の計画が本当にこれほど重要であると言えるだろうか。人間、すなわち神の手から出たこの生きものが本当にそれほど重要だと言えるだろうか。神の計画は確かに重要である。しかし、神の手で創造されたこの生きものは、神の計画のために存在する。それゆえ、この人類に対する憎しみ故に神は自らの計画を台無しにすることはできない。神が全ての苦痛に耐えるのは、神の計画のためであり、また神が吐いた息のためであり、人間の肉のためではなく、人間のいのちのためである。神がそうするのは、人の肉ではなく、神が吐き出したいのちを取り戻すためである。これこそが神の計画である。

 この世に生まれて来る人間は皆、生と死を通らなければならない。そして、その大多数は死と再生の周期を経てきた。生きている者はやがて死に、死者もやがて戻ってくる。これは全て生きものそれぞれのために神によって用意された命の過程である。けれども、この過程と周期こそが人が目を向けるようにと神が願っている真実である。それは、神が人に授けたいのちは無限であり、肉体、時間、空間により制限されないということである。これこそが神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来た証拠である。多くの人はいのちが神から来たことを信じないかもしれないが、神の存在を信じるか否定するかにかかわらず、人間は神から出る全てのものを必然的に享受する。ある日突然、神が心変わりし、世界に存在する全てのものを取り返し、自らが与えたいのちを取り戻すことを望むならば、万物は存在しなくなる。神は自らのいのちを用いて全てのもの、生きているもの生きていないものの両方に施し、神の力と権威により全てを秩序正しく整える。これは誰にも想像することも理解することもできない真実であり、これらの理解し難い真実は、まさに神のいのちの力の表れであり、証しである。今あなたに秘密をひとつ告げよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にとっても計り知れないものである。過去と同様、現在もそうであり、来たるべき未来もそうである。わたしが伝える第二の秘密はこうである。形や構造がどのように異なっていようとも、全ての被造物のいのちの源は神である。あなたがどのような生命体であっても、あなたは神によって定められたいのちの軌道に逆らうことはできない。いずれにせよ、わたしが唯一望むのは、人間が次のことを理解することである。神の配慮、加護、施しがなければ、人間はどれほど勤勉に努力しても、どれほど熱心に奮闘しても、人が受けるように定められている全てのものを受けることはできない。神からのいのちの施しがなければ、人間は生きる価値や命の意義を失ってしまう。神のいのちの価値を勝手気ままに浪費する人が、これほど何も気にかけないことをどうして神が許すだろうか。前にも言ったように、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。神が授けた全てのものを人が大切にしないならば、神は始めに与えたものを取り返すだけではなく、人間からの代償として与えた全てのものの代価の二倍を要求する。『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より引用

 神はこの世界を創造し、この人類を創造し、さらに神は古代ギリシア文化ならびに人類の文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の統治と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画から切り離せない。あなたが真のクリスチャンならば、あらゆる国または民族の興亡は、神の意図に従って起こるということを必ず信じているであろう。神のみが国や民族の運命を知っており、神のみがこの人類の進むべき道を制御する。人類が良い運命を望むなら、また国が良い運命を願うなら、人類はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人類の運命と終着点は避けることのできない災難となる。

 ノアが箱舟を造った時代を振り返って見なさい。人類はひどく堕落し、人々は神の祝福から迷いはぐれ、もはや神の配慮は得られず、神の約束を失ってしまっていた。闇の中を神の光なしに生きていた。そして人の本性は放縦となり、おぞましい堕落に身を任せた。このような人々はもはや神の約束を受けることはできなかった。彼らは神の顔を見るにも、神の声を聞くにも相応しくなかった。なぜなら彼らは神を見捨て、神から与えられたものすべてを放棄し、神の教えを忘れてしまったからである。彼らの心は神から遠く離れて行くばかりで、それにつれてあらゆる理知と人間性を失い堕落し、邪悪さを増していった。そして彼らは死に歩み寄り、神の怒りと罰を受けた。ノアだけが神を礼拝し、悪を避けたので、神の声を聞くことができ、神の指示を聞くことができた。ノアは神の言葉の指示に従って箱舟を造り、あらゆる種類の生物をそこに集めた。こうしてひとたびすべての準備が整うと、神は世界に破滅をもたらした。ノアとその家族七人だけが破滅を逃れて生き残ったが、それはノアがヤーウェを礼拝し、悪を避けたからであった。

 それでは現代に目を向けてみなさい。ノアのように神を礼拝し、悪を避けることのできる義人はいなくなってしまった。それでもなお、神はこの人類に恵み深く、この終末の時代においても人類の罪を赦す。神の現われを切望する人々を神は探し求める。神の言葉を聞くことができる人々、神の任務を忘れず、心と体を神に捧げる人々を神は探し求める。神の前で赤子のように従順で、神に抵抗しない人々を神は探し求める。あなたが何の勢力にも妨げられずに神に献身するならば、神はあなたを好意の眼差しを注ぎ、祝福を授ける。たとえあなたが地位が高く、名声があり、知識が豊富で、有り余るほどの資産の持ち主で、多くの人々の支持を得ていたとしても、それらのものが、あなたが神の前に出て神の召命と任務を受け、神の命じることを行う妨げにならないならば、あなたの為すことはすべて地上で最も意義深い行いであり、人類の最も義なる事業となる。もしあなたが地位や自分自身の目標のために神の召命を拒むならば、あなたの為すことはすべて神にのろわれ、さらには忌み嫌われるであろう。あなたは大統領かもしれない、あるいは科学者、牧師、長老かもしれないが、あなたの地位がどんなに高くても、自分の知識と能力を頼りにして事業に着手するならば、あなたは必ず失敗し、必ず神の祝福をのがすことになる。神はあなたの為すことは何も受け入れず、あなたの事業が義であるとは認めず、あなたが人類の益のために働いているとは見なさないからである。あなたの為すことはすべて、人類の知識と力を用いて人から神の保護を奪い、神の祝福を否定するために行われると神は言う。あなたは人類を暗闇の方向へ、死の方向へ、人が神と神の祝福を失ってしまった終わりなき存在の始まりへ導いていると神は言う。『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より引用

 人類が社会科学を考案して以来、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それから科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや神を礼拝するための充分な余地は人にはなくなり、神を礼拝するための好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められた。心の中に神が無いまま、人間の内面世界は暗く、希望も無く、空虚である。そのため、人類の心と精神を満たすために多くの社会科学者や歴史家、政治家が登場し、社会科学の理論や人類進化の理論、神が人を創造したという真理に矛盾するその他の理論を発表した。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数はさらに増加した。神の働きの記録と旧約聖書の時代の神の言葉を神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに、神が存在し万物を支配しているという信条に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや人にとって重要ではなく、人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。……神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは神が人の終着点をいかに支配し、定めているのかを自らすすんで探し求める人はほとんどいない。こうして、人間の文明は、人間の知らないうちに、ますます人の望みどおりには行かなくなり、こんな世界に生きている自分達はすでに亡くなった人々に比べて不幸せだと感じている人さえ数多くいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。なぜなら、神の導きなしには、支配者や社会学者が人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どのような社会学的理論も人を悩ませる虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適さなどは、人間につかの間の慰めしかもたらさない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への渇望や欲求を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけで、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からないまま人を常に恐怖に怯えたままにさせるからである。人は科学や知識を恐れるまでになり、空虚感をそれ以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住んでいようと、人権のない国に住んでいようと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、被支配者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求したいという願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることなどできない。全人類に共通するこの現象を社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉人が現れることはない。人間は結局、人間に過ぎず、神の地位といのちに取って代われる人間はいない。誰もが食べる物があり、平等で自由で公平な社会だけが人類に必要なのではない。人類に必要なのは神の救いと神によるいのちの満たしである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の必要、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。一つの国や民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、その国や民族は暗黒に向かって、破滅への道を突き進み、神によって滅ぼされる。『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より引用

 この広大な世界で、数え切れないほどの変化が起こっている。大海は変じて田園となり、田園は変じて大海となり、これが何度も繰り返されている。宇宙の万物を統治する方を除いては、この人類を導き案内できる者はいない。この人類のために労したり備えたりできる力ある者は存在せず、ましてや人類を光の終着点へと導き、この世の不正から解放できる者などいるはずもない。神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を悲しみ、人類が一歩一歩、滅びと戻ることのできない道に向かって進んでいることに心を痛めている。神の心を引き裂き、神を棄てて邪悪な者を求めた人類、このような人類がどこに向かっているのかを考えたことのある者がいるだろうか。まさにこれこそが、誰も神の怒りを感知せず、誰も神を喜ばせる道を求めようともせず、神のもとへ近づこうとすることもなく、さらには、誰も神の悲しみと痛みを理解しようとしない理由である。神の声を聞いた後でさえ、人は自分の道を歩み続け、頑なに神のもとから離れ去り、神の恵みと配慮を避け、神の真理を避けて、神の敵であるサタンに自身を売ることの方を好む。そして、人がこのまま頑なであり続けるなら、後ろを振り向くこともなく神を見捨てたこの人間に対して神がどのようにふるまうかについて、誰が考えたことがあるのか。神が繰り返し人に思い起こさせ、勧告する理由は、人間の肉体と魂にはとうてい耐えられないような、未だかつてない災難を神はその手に準備しているからだということを知る者はいない。この災難は単に肉体の懲罰だけではなく、魂の懲罰でもある。あなたは知らなければならない。神の計画が無駄になり、神の喚起と勧告に反応が無いなら、神はどのような怒りを注ぐであろうか。それは今までどんな被造物も経験したことも聞いたこともないようなものである。だからわたしは、この災難は前例がなく、二度と繰り返されることはないと言う。なぜなら、神の計画とは今回一度だけ人類を創造し、一度だけ人類を救うことだからである。これが最初であり、また最後である。それゆえ、今回人類を救おうとする神の苦心や切なる期待を理解できる者は一人もいない。『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より引用

 全能者のいのちの供給から離れた人類は、存在の目的を知らないが、それでも死を恐れている。支えもなく援助もないが、人類は依然として目を閉じようとせず、自らの魂を感じることもない肉の塊として頑なにこの世における下劣な存在を引きずっている。あなたはこのように何の希望もなく生き、他人も何の目的もなく生きている。伝説のあの聖なる者だけが、苦しみにうめきながら彼の到来を待ち焦がれる人たちを救う。この信念は知覚のない人々においてはまだ実現していない。しかし人々はまだそれを切望している。全能者は深い苦しみの中にあったこのような人々に慈しみを抱く。同時に、全能者は何の知覚もないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならなかったからである。全能者は探したい、あなたの心と霊を探し、あなたに水と食料を施したい、あなたを目覚めさせたいと思っている。それにより、もはやあなたが渇きと飢えを感じないようにである。あなたが疲れているとき、この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。彼はあなたのそばで見守り、あなたが立ち返るのを待っている。あなたが記憶を突然回復する日を待っている。すなわち、あなたが神から来たのであり、いつであったかは不明だが道に迷い、いつであったかは不明だが路上で気を失い、いつであったかは不明だが「父」ができたことに気づく日を。さらに、全能者がずっと見守ってきたということ、とても長い間あなたが帰ってくることを待っていたということに気づく日を。全能者は切実な思いで見守り、そして答えのない応答を待っている。全能者の見守りはきわめて貴重であり、それは人間の心と霊のためである。この見守りは無期限かもしれないし、それは終わりの段階にあるのかもしれない。しかし、あなたは自らの心と霊がたった今どこにあるのかを正確に知らなくてはならない。『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より引用


日々の神の御言葉「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」抜粋482

2020-12-01 00:07:27 | 日々の神の御言葉

 

 あなたは、ペテロとパウロの本質の違いから、いのちを追い求めない人の努力は全て徒労に終わるということを知るべきである。あなたは神を信じ、神に付き従っているのだから、心で神を愛さなければならない。自分自身の堕落した性質は脱ぎ捨て、神の望みを叶えることを追い求め、被造物としての本分を尽くさなければならない。あなたは、神を信じ付き従う以上、あなたの持つすべてを神に捧げ、自分の個人的な選択や要求は持たず、神の望みを満たすことに尽くすべきである。造られた者として自分を造った神に従うべきである。これは、あなたが元々自分を支配することができず、自分の運命を決める能力も持ち合わせていないからである。あなたは神を信じる者である以上、聖さと変化を追い求めるべきなのである。あなたは被造物であるから、本分を守り、自らの立場を守り、その本分を超えてはならない。これはあなたを束縛したり、教義によって抑えつけたりするものではなく、ひたすらあなたが本分を尽くすための道であり、義を尽くす人には必ず到達できる、また到達されるべき道である。ペテロとパウロの本質を比べてみれば、どのような方法で追い求めるべきかがわかる。ペテロとパウロが歩んだ道は、一つは完全に至る道であり、もう一つは排除に至る道であった。つまり両者は二つの異なる道を代表しているのである。いずれも聖霊の働きを受け、聖霊の啓きと照らしを受け、また両者とも主イエスから委されたものを引き受けたが、それぞれがもたらした実は違っていた。一方は実際に実を実らせ、もう一方は実を実らせなかった。あなたは両者の本質、働き、彼らが表面上で示してきたこと、そして彼らの結末から、どちらの道を選んで歩むべきなのかを知ることができなければならない。彼らは明らかに異なる二本の道を歩いた。パウロとペテロは、それぞれの道の典型的な例であり、初めからその二通りの道の特徴を示していた。パウロの経験では何が重要だったのか。そしてパウロはなぜ、神のものとされなかったのか。同時にペテロの経験では何が重要だったのか。彼はどのようにして完全にされることを経験したのか。彼ら二人が重要視した点を比べて見れば、神の求める人物像がどのようなものであり、神の心、神の性質が何であり、どのような人が最終的に完全にされるのか、どのような人が完全にされないのか、また、完全にされえる人の性質、そして完全にされない人の性質はどのようなものかを知ることができる。これらの本質に関する問題点がペテロとパウロの経験の中に全て見て取れる。神が万物を造ったのだから、全ての被造物が神の支配の下に帰し、神の権威の下に従うようにする。また神は万物を采配し、万事が神の手の中にあるようにする。動物、植物、人類、山や川、湖を含む、あらゆる被造物が神の権威の下に帰さなくてはならない。天の万物と地上の万物が神の権威の下に帰さねばならない。他に選択肢はなく、皆が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある。神はすべてをつかさどっていて、万物を整えて秩序立て、神の心に沿って、万物をその種類に従ってそれぞれの場所に配置した。どのような大きなものでも、神に勝るものは存在せず、万物は神の造った人類に仕え、あえて神に逆らったり神に何か要求したりするものは一つもない。よって人も、被造物としてその本分を尽くさなければならない。人が万物の主人であろうが支配者であろうが、また万物の中で人の地位がどれほど高かろうが、所詮は神の支配下における小さな一人の人間であるのだから、小さな人間または被造物以上ではなく、決して神を超えることはできない。人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。あなたが追い求めるものが真理であり、実践することが真理であり、それによってあなたが得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しいのである。もしあなたが追い求めるものが肉的な祝福であり、実践するものが自分の考える真理であり、自分の性質に変化がなく、また肉において神に全く従わず、未だ曖昧さの中に生きているのであれば、あなたの追い求めるものはあなたを確実に地獄へと導くであろう。なぜなら、あなたの歩む道は失敗の道だからだ。あなたが完全にされるか排除されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するかどうかはその人の歩む道にかかっていると言える。

『言葉は肉において現れる』より引用