神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

神の働きは人間が想像するほど簡単か 

2020-10-09 19:22:00 | 書籍

神の働きは人間が想像するほど簡単か 


あなたは神を信じる者の一人として、今日、終わりの日の神の働きやあなたに対する神の計画の中にあるすべての働きを受ける中で、あなたは神により引き上げられ、救いを受け取っていることを理解しなくてはならない。全宇宙のすべての神の働きは、この一団の人々に焦点を当てている。神はすべての努力をし、あなた方の犠牲となった。全宇宙のすべての聖霊の働きを取り戻し、あなた方に与えたのだ。だから私は言う。あなた方は幸運なのだと。それに加えて神は、自分が選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなた方へと移した。それはあなた方一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。ゆえにあなた方は神の嗣業を受け、更に神の栄光の継承者となるのだ。あなた方は皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」誰でもこの言葉を耳にしたことがあるだろうが、その言葉の真意を理解した者はいない。今日あなた方は、この言葉の真の意味をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものだ。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害を受けている。ゆえにこれらの言葉は、あなた方一団の身に実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、すべての神の働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。ゆえに、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。神にとって赤い大きな竜の地で自分の働きを実行することは非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を実行し、自分の知恵と素晴らしい業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一団の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこの汚された地における人々のすべてのサタン的な性質がゆえに、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、その業の証人となる人々を手にするのだ。これが、神がこの一団の人々に行った全ての犠牲に関する完全な意義だ。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることでのみ、神の力が現わされるのだ。言い換えれば、汚された地にいる者たちのみが神の栄光の継承者に相応しく、これが唯一、神の力を際立たせることができるのだ。それだから、神の栄光は汚された地とそこに住む者たちから得られると言おう。これが神の心だ。これはイエスの段階の働きと同じだ。イエスは、彼自身を迫害したパリサイ人たちを通してのみ栄光を受けることができた。そのような迫害やユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されたり中傷されたりすることもなく、ましてや十字架に付けられることなどなく、栄光を受けることは不可能だったに違いない。神が各段階のどこで働いても、どこで肉の働きをしても、神はそこで栄光を受け、自分が得ようとする者たちを得るのである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

数千年に亘る神の計画の中にある肉による働きは二つの部分から成る。ひとつは十字架に付けられることであり、これにより神が栄光を受けた。もう一つは終わりの日の征服と完全にするための働きであり、それによっても神が栄光を受ける。これが神の経営である。ゆえに神の働きや神があなた方に託したことをあまり簡単に考えてはならない。あなた方は、あなた方が思うものを遥かに超越した、神の、永遠で重大な栄光の継承者であり、神がそう定めたのである。神の栄光の二つの部分のうち、一つはあなた方の中に現れている。神の栄光の一つの部分すべてがあなた方に授けられており、あなた方が継承する。これは神が引き上げたのであり、遥か昔に定められた神の計画である。大きな赤い竜が住む地において神が偉大な働きを行ったことを考えれば、その働きをどこか別の地で行えば、とうの昔にすばらしい実を結んでおり、容易に人に受け入れられていただろう。神を信じる西洋の聖職者たちにとっては、そのような働きを受け入れることはいとも簡単なことだっただろう。イエスによる段階の働きが前例となっているからだ。だから、神は自身が栄光を得るこの段階の働きを別のどの場所でもなしえないのである。つまり、全ての人間から支持され、全ての国から認められているので、神の栄光を得ることができないのだ。そしてこのような事実にこそ、この段階の働きがこの地でなされることの重要な意味がある。あなた方の中には、誰一人として法の保護を受けているものはおらず、むしろ法により罰せられている。さらに難しいことには、一人としてあなた方を理解する者はいない。親戚や両親も、友人も、仲間も、誰一人としてあなた方を理解しない。神があなた方を「拒絶」するなら、あなた方が地上に生き続ける手段などない。しかしそれでも尚、人々は神から離れることに耐えられない。これが神の人々への征服の意味であり、神の栄光なのだ。あなた方が今日受け継いだものは、昔の使徒や預言者たちのそれに優るものであり、モーセやペテロのそれにも優るものである。祝福を一日や二日で受けることはできない―それは多くの犠牲を伴って初めて受け取れるものだ。つまり、精錬された愛や大きな信心、そして神があなた方に求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義を追い求める姿勢を崩さず、怯えたり屈服したりすることなく、神に対して変わらぬ愛をいだいていなくてはならない。あなた方の決意が求められ、あなた方のいのちの性質を変えることが求められる。堕落した部分を改善し、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にまでも従順でなくてはならない。これが、あなた方が達成しなければならない事である。これが神の最終目的であり、この一団に神が求める要求である。神はあなた方に施したが、彼はあなた方が彼の要求を満たして報いることを要求する。それだから、神は無闇に働くのではない。なぜ神が何度も高い基準の働きをし、厳しい要求をするのかが分かるだろう。このような訳で、あなた方は神に対する信心で満たされていなくてはならないのである。要するに、あなた方が神の嗣業を受け継ぐに相応しい者となるため、神がすべての働きをあなた方のためにしたのだ。これは神自身の栄光のためというよりあなた方の救いのため、そして汚された地で深く苦しんでいるこの一団の人々を完全にするためである。あなた方は神の心を理解しなくてはならない。だからこそ私は見識や理知のない多くの愚かな人々に、こう勧める。これ以上神を試みたり、抵抗したりしてはならないと。神は人が経験したことのないような苦しみすべてを耐え抜き、遥か昔に人間に代わってさらに多くの屈辱にも耐えた。あなた方は他に何か手放せないものなどあるだろうか。神の心以上に大切なもの何があるだろうか。神の愛に優るものなどあるだろうか。この汚された地において神がその働きをするのは倍の困難を伴うというのに、もし人が承知の上で、意図的に背くのであれば、神の働きは長期化せざるを得ない。どのような場合にも、それは誰の得にも益にもならない。神は時間に制約されることはない。自分の働きと栄光が優先される。ゆえにどれだけ時間がかかろうとも、神自身の働きに関しては如何なる犠牲をも厭わない。これが神の性質である。神はその働きを成し遂げるまで休むことはない。神が自分の二つ目の栄光を獲得する時初めて、その働きが終わりを迎える。その栄光を獲得する二つ目の働きを全宇宙において成就できなければ、自分の日は永遠に来ることはなく、神の手を選民たちから離すこともできず、その栄光がイスラエルにやって来ることもなく、神の計画が完結することも決してないだろう。神の心と働きは、天地や万物創造のように簡単なものでないことを理解しなくてはならない。なぜなら今日その働きとは、堕落した人たちや極端に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに影響を受けてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる植物や動物を創造したりすることではない。神の働きは今やサタンによって堕落したすべてのものを清めて取り戻し、自分のものとし、自分の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地や万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪いながら底なしの淵へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることだ。これがこの段階での神の働きの秘められた意味である。あなた方はそれに気づかなくてはならないし、物事を安易に考え過ぎてはならない。神の働きは、どの普通の働きとも異なるものだ。そのすばらしさは人間の頭では考えることができず、その知恵は人間が獲得できるものではない。神は万物を創造しているのでも、それらを破壊しているのでもない。むしろ、神は自分の創造物を変え、サタンによって汚されたすべてのものを清めているのだ。それゆえ神は大規模な働きを始める。そして、これが神による働きの意義の全てである。以上を読み終えたあなたは、神の働きが簡単だと思うだろうか。


七つの雷が轟く -- 神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言

2020-09-25 20:26:22 | 書籍

七つの雷が轟く -- 神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言


わたしは異邦人国家にわたしの働きを広めている。全宇宙にわたしの栄光は閃く。わたしの心はあちこちに散らばる人々の中に現れ、みなわたしの手によって誘導され、わたしが与えた作業をしている。この時点からわたしは新しい時代へと入り、全ての人々を別の世界へ連れて行く。わたしが自分の「故郷」へ戻ったとき、わたしの最初の計画にある働きの別の部分に着手した。その働きにより、人々がわたしをより深く知るようになるためだ。わたしは宇宙全体を眺め、わたしの働きにとっていちばん良い時だと知る。そしてわたしは、人々の中で新しい働きをするため、あちこちを巡る。いずれにしろこれは新たな時代であり、わたしは、もっと多くの新しい人々を新たな時代へ引き入れ、淘汰すべき者達をさらにより多く投げ捨てるために新しい働きをもたらした。大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの「悪い者」が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。狐がわたしの楽園の寄生動物になるなど、わたしが許すだろうか。わたしは考えつくすべての方法でこれらのものを追い払う。わたしの心が表されるまで、わたしが何をしようとしているかを知る者は一人もいない。この機会をとらえて、わたしはこの悪い者たちを追い払うので、彼らはわたしから去るしかない。わたしは悪い者たちに対してこのようにするが、彼らがわたしのために仕える日はまだあるだろう。人々の神の恵みへの欲望はあまりに強すぎる。だからわたしはからだの向きを変え、わたしの栄光に満ちた顔を異邦人の諸国に見せ、人々がみな自分の世界に住み、自らを裁くようにする。そうする間に、わたしはわたしが言うべき言葉を言い続け、人々が必要とするものを与え続ける。人々が我に返るころには、わたしはわたしの働きをずいぶん広めていたことになるだろう。それからわたしは、人々にわたしの心を表し、わたしの人間に対する働きの二番目の部分に着手する。そして、わたしの働きに協力するために人々がわたしにしっかりと付き従うようにし、わたしのすべき働きを共に行うために、人々が能力の限りを尽くすようにする。

誰一人としてわたしの栄光を見る時が来ると信じるものはいない。そしてわたしは人に強要もしない。それよりは、わたしは人々の中からわたしの栄光を移し、他の世界へ持っていく。人々が再び後悔するなら、わたしは信仰を持つより多くの人々へわたしの栄光を示す。これがわたしの働きの原則である。わたしの栄光がカナンの地を去る時があるからであり、わたしの栄光がわたしに選ばれた者から去る時もあるからである。さらに、わたしの栄光が全地を去る時がある、その時、光は暗くぼやけ、暗闇へ陥る。カナンの地にさえ太陽は照らさないだろう。すべての人々は信仰を失うが、誰一人カナンの地の香りから去ることには耐えられない。わたしが新たな天と地へ進む時になってはじめて、わたしの栄光のもうひとつの部分をまずにカナンの地で示す。そうするとかすかな光が闇夜ほど暗い全地に輝き、全地がその光に集まる。全地のあらゆるところの人々を来させ、光から力を得られるようにし、わたしの栄光が増し、全ての国々に新たに現れるようにしよう。わたしがずっと前に人間の世界に現れており、ずっと前にわたしの栄光をイスラエルから東方へもたらしたことをすべての人々に気づかせよう。なぜならわたしの栄光は東方から輝きを放ち、恵みの時代から今日までもたらされたからである。しかし、わたしが去ったのはイスラエルであり、そこから東方に到来した。東方の光が徐々に白く変わるとはじめて、全地の暗闇は光に変わり始める。そしてその時になってはじめて、人はわたしがずっと前にイスラエルを去っていて、東方で新たに現れるのだと知るだろう。わたしは以前イスラエルへ下り、その後そこから立ち去った。そのため、わたしは再びイスラエルに生まれることはできない。なぜならわたしの働きは宇宙のすべてを導き、さらに、稲妻が東から西へひらめき渡るからである。だからわたしは東方へ下り、カナンの地を東方の人々にもたらしたのである。わたしは地上のすべての人々をカナンの地へ連れて行きたいと願う。それ故わたしは全宇宙を支配するため、カナンの地で声を発し続ける。この時、カナンの地以外はどこにも光はなく、すべての人々は飢えと寒さにさらされている。わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。

宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々や宗派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。


救いとは? 天国に入るために必要なのは救いだけ?

2020-09-23 22:00:29 | 書籍

救いとは? 天国に入るために必要なのは救いだけ?

 

目 次
● 「救い」の真の意味
● いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?

 

多くの人が、主の到来後すぐに救われ、天国に引き上げられることを待ち望みます。主イエスが帰ってきて、人々を救い清めるために、神の家から始まる裁きの働きを行っていると、公然と証しているのは、今のところ『全能神教会』だけです。この知らせを聞いて困惑する人もいるでしょう。彼らは次の節を読みます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書 16:16)。「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙 10:10)。この聖句の意味は、主イエスが人類すべての罪を贖うために十字架に掛かられたのだから、主に信じる限り、自分たちは救われるし、いったん救われると永遠に救われるということだと、彼らは信じています。自分たちが最後まで主のみ名を保ち、耐え抜けば、終わりの日に裁きや清めという神の働きを受け入れずとも、主が帰りたもう時、すぐに天国に引き上げられると信じています。このような考えは正しいのでしょうか?

よく考えてみましょう:人が一旦救われたら、天国に入れるなどと主が言われたでしょうか?聖書に書かれているでしょうか?この二つの問いに対する答えは明らかにノーです。主イエスは言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)。この神の言葉によって、天の父の御旨を行う者だけが天国に入ることができるということがわかります。 天の父の御旨を行うとは、神の言葉を実行することができ、神に服従し、どんな状況にあろうと、神の言葉に従って生きることができること、また二度と罪を犯したり神に反抗したりしないことです。とはいえ、私たちは、思わず嘘をつき罪を犯し続け、主の教えを実践しないことさえあります。それでは、罪を犯し、このようになおも主に逆らう可能性のある者が、天国に入ることができるのでしょうか?残念ながら「一度救われると永遠に救われる」という私たちの考えは誤りです。神の国に入るという重要な問題になると、私たちは主の言葉に従わなければなりません。人間の見解や想像で判断することはできません!では、聖書における「救い」の真の意味は何でしょうか?実際、人はいかにして天国に入るのでしょうか?ここでは、この問題について、一緒に、検討し探求したいと思います。

 

「救い」の真の意味

律法時代の後半、人類はサタンにより次第にひどく堕落していきました。イスラエルの人々はたびたび律法と戒めを破り、ますます罪を犯すようになりました。そのため、どんな多くの犠牲も十分ではなく、民はみな、律法により有罪とされ死刑を宣告される危険にさらされるほどでした。人類を死の脅威から救うために、神は人間の姿になって主イエスとして地上に降り、贖いの働きをなし、人のために十字架におかかりになり、全人類の罪のためのいけにえとなって、人の罪を一思いにお許しになりました。それ以来、主イエスを信じ、主に自らの罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪の赦しを得られ、主イエスが与えるすべての祝福と恵を享受できるようになったのです。律法のもとに生きている人々にとって、これは「救い」でした。そのため、主イエスが語られた「救い」とは、私たちが想像するように、主イエスを信じさえすれば永遠に救われるというものではありません。むしろ、罪を犯す人々がもはや律法により罪に定められて死刑になることがなく、人の罪が許されるということです。全能神の言葉の一節を見てみましょう。「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである」(「受肉の奥義(4)」『言葉は肉において現れる』)。

私たちが主に信じる時、救いの賜物を受け、罪が許されたとしても、罪の束縛から解放されるのではなく、罪の中で生き続けるのです。その例をあげます。私たちは信じられないほど傲慢になる可能性があります。どんなグループの中でも常に最終決定権を持ちたいと思い、他の人たちが自分の言いなりになるようにします。誰かが自分の言う通りにしないと、カッとなってその人をいさめたりするかもしれません。もっと深刻な場合、なんらかの方法でその人を罰し、虐待することもあります。信じがたいほど自己中心的になり、自己の利益という原則をすべての基とし、神への信仰において神と取り引きしようとさえすることがあります。物事が平和で順調に進んでいるときは、神に感謝しますが、つまずきや失敗に直面すると、神に対する誤解と不満でいっぱいになり、神を裏切り捨て去るようにまでなります。あまりに欺瞞に満ちているため、自分の個人的利益が関わると、思わず嘘をついて人をだますこともあります。これは私たちがいかに罪の中に生き続けるかを示すほんの数例にすぎません。聖書には、こう書いています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル人への手紙 10:26-27)。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書 8:34-35)。神は聖です。私たちが真の道について学んだ後、なおも、我知らず罪を犯し神に反抗する可能性があります。ということは、私たちは罪の奴隷であり、神の推薦は受けられないということです。聖書にはこうあります。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙 12:14)。罪が清められておらず、たびたび罪を犯し神に背くなら、その人は永遠に救われるでしょうか?天国に入るにふさわしい者となれるでしょうか?それは明らかに無理です。私たちが罪より完全に清められてはじめて、聖なるものとなり、天国に入ることができるのです。そこで「どうしたら清められて天国に入ることができるのだろう?」と問う人もいるでしょう。

 

いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?


全能神は言われます。「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた」(「序文」『言葉は肉において現れる』)。このことから分かることは、人間に深く根差したサタン的性質を解決し、人を罪の束縛から完全に開放するためには、主が終わりの日に帰ってきて、神の家から始まった裁きの働きを実行し、人類を清め救うために真実を表す必要があるということです。事実、聖書に書かれている通り、主はこのことについて昔から既に予言しておられたのです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:48)「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)。

全能神は、今、主イエスの贖いの働きに基づいて、神の家から始まる裁きの働きを行いつつあります。人の罪深い本性をすっかり清算し、清めて罪の縄目から解き放つために、人類を清め救うための真理をすべて表しておられます。それは、最終的に人が神のものとなり、神の国に導かれるようになるためです。終わりの日における全能神の裁きの働きにより、これらの预言が完全に成就するのです。終わりの日に神の働きを受け入れる者はみな、神の清めと救いを受けるのです。大惨事が到来する前に、勝利者となり、神とともに栄光が与えられ、天国に引き上げられる機会が与えられるのです。それでは、全能神は、いかにして、人々を裁き、清め、罪の縄目から解き放つのでしょうか?

全能神はこう言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)。

このことから、神が多くの真理を用いて、神に逆らい反抗するという、人の悪魔的な性質を裁き暴き出しているのがわかります。全能神の言葉による裁きを経験すると、神の義なるご性質は、どんな罪も許さないということを、私たちは身をもって体験します。神の一つ一つの言葉は私たちの心を貫き、あらゆる種類の堕落の現れを暴き出します。また、誤った考えや見方、不純な動機、心の奥底にある意図や妄想、これらの裏に隠れている悪魔的な本性についても暴き出します。それによって私たちに羞恥心と深い悔恨の念が生じ、神のみ前にひれ伏し、真に神にざんげするようになるのです。しばらくは、神も実践の道を示してくれます。たとえば、神を信じる信仰においてどのような見解を持つべきか、いかにして正直な人となるべきか、いかにして神を崇め、その証人となるべきか、いかにして反キリストの道を避けるべきか、いかにして神への真の服従と真の愛を達成すべきかなどについでです。神の裁きの働きを経験し、神の言葉を実践してはじめて、私たちは正常な人の生きぶりができるのです。これはもっぱら神の裁きの成せる業です。

現在、裁きの体験をした『全能神の教会』の兄弟姉妹たちによる様々な体験的な証が、インターネット上に公開されています。この実際の体験と証からわかることは、神が終わりの日に行う刑罰と裁きの働きを経験しなければ、人は、清められ、神のものとなることができないということです。これが天国に到達する唯一の道です。これまで、真に神を信じる世界の多くの人々が、全能神の言葉を通して天国への道を発見し、神に立ち返っています。私たちが「一度救われると永遠に救われる」という概念に執着し、終わりの日の裁きという神の働きを受け入れないならば、私たちの堕落した性質が、清められ、変えられることはないでしょう。それゆえ、天国に入る機会を得ることは決してないでしょう。それなら、あなたがなおも待ち望むものは何でしょうか?

 


質問1

2020-09-21 18:31:23 | 書籍

質問1. 終わりの日に裁きの働きを行うべく神が受肉され人の子になられたとあなたがたは証ししていますが、大多数の宗教界の牧師と長老たちは、主が雲に乗って来られると主張し、次の聖句をもっぱらこの根拠にしています。

 

回答

主の再臨と終わりの日の人の子の受肉については、聖書には明確な預言があるだけでなく、そのような預言が数多くあります。例えば、「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書12:40)

「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書17:24~25)

これらの預言は人の子、あるいはその日の人の子が来ることを述べています。人の子とはそれが人間から生まれたこと、普通の人間性をもつ人のことです。霊ならば、人の子と呼ぶことはできません。ちょうどヤーウェ神は霊であり、人の子と呼ぶことができないようにです。天使を見た人がいますが、天使は霊であり、人の子と呼ぶことはできません。人の姿をしていても霊と分類されるものはどれも人の子と呼ぶことはできません。受肉した主イエスは人の子、キリストと呼ばれますが、これはイエスは神の霊が受肉した人であり、ごく普通の一般的な人になり、人々のもとで生きたからです。ですから主イエスが述べた人の子あるいはその日の人の子の再来は、終わりの日に神の受肉が再来することを指しているのです。

神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

主イエスは人の子として再臨すると預言されています。人の子とは受肉した神のことです。ちょうど主イエスと同じです。見かけは普通の人間で、人間と同じように生活しますが、復活後の霊体は違います。壁を突き抜けたり姿を消したりできたので、人の子とは呼ばれませんでした。主イエスはこう預言されています。

「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書17:25)

あなた方は、主は霊体として雲に乗って公衆の前に現れ、人々はそれを見てひれ伏し崇拝すると言うのですね。それでは「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書 17:25)これはどう成就しますか? 神が人の子として受肉し働かれる時、人々はそれがキリストだとわからずに非難し拒んでしまうのです。そうではないですか? 主はこうも預言されています。

「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイによる福音書 24:36)

「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない」(ヨハネの黙示録3:3)

主が雲に乗って降りてくるなら、誰でもそれに気付くでしょう。では、主の再臨が「だれも知らない」「また子も知らない」「盗人のように」ならば、どう成就しますか? 霊体として現れるなら、主が知らないはずがない。終わりの日に神が人の子として受肉するからこそ、「また子も知らない」が成就するのです。主イエスはその働きを始められる以前、ご自身がキリストだとはご存じありませんでした。しばしば父なる神に祈り、職分を果たすようになり、ようやくご自身の身分に気づかれたのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

主イエスは再来することについて多くを語ったが、あなた方は主は雲に乗って来られるというその預言のみに固執し、他の預言を探究していません。これでは、主に見捨てられてしまいますね。聖書に書かれた預言は「雲に乗って降臨される」というもの以外に、主は盗人のように、ひそかに来られるというものも多くあります。例えば、黙示録16章15節「見よ、わたしは盗人のように来る。」マタイ25章6節「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と」黙示録3:20「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」これは、神が人の子として肉となり、ひそかに降臨されることに言及しています。「盗人のように」ということは、静かにひそかにという意味です。人々は彼を見たり、聞いたりしても、神であることが分かりません。その昔、主イエスがそうなさったように、外からは、主イエスはただの人の子であり、誰も神であると知らなかった。なので、主イエスは「盗人のように」という例えを使って説明したのです。とてもすばらしい例えですね!真理を愛さない者は皆、肉となった神が、いかに多くの真理を表したとしても受け入れません。その代わり受肉した神のことをただの人として扱い、非難し、見捨てるのです。なので再臨について、次の預言をしました。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書 17:24-25)主の預言にもとづくとその再臨は「人の子の再来」となります。「人の子」とは、受肉した神のことを意味しています。復活した主イエスが霊的な体として降臨することとは違います。なぜでしょうか?もしそれが雲に乗って降臨する霊的な体のことであれば、世界は衝撃を受けるでしょう。誰もが地にひれ伏し、抵抗はしません。再臨の主イエスはそれでも苦しみ、この時代から捨てられますか?ですから、「人の子としての再来」であり、「盗人のよう」だと預言したのです。現実には、それは神が受肉し、ひそかに人の子として来られることを意味しているのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

全能神の国の福音は中国本土中に20年以上かけて広がり、様々な宗教や教派に広がっています。この間、中国共産党政府の暴虐な抑圧や取り締まり、および共産党系メディアの宣伝活動が合わさり、全能神は今のように誰もが知る名前となったのです。後に、全能神が表したすべての真理、全能神教会が作った様々なビデオや映画は段々とネット上で公開され、世界に広がっています。全能神教会の多様な証しの方法につき、宗教界の人々は皆、ご存知だと思います。多くの人が神は来られたと証しています。主イエスの預言を成就しているのです。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6)宗教指導者や長老たちは、どうして終わりの日における全能神の働きを非難し、抵抗するのでしょうか?聖書には主の再臨に関する預言が多くあります。彼らはなぜ主が雲に乗り降臨するという預言に、固執するのでしょうか?彼らはなぜ主の再臨についての証を求めようとしないのでしょうか?全能神が多くの真理を表していることを知り、神の働きの現実を見ているのに、なぜ終わりの日の神の働きに抵抗し、自分たちの考えに執着するのでしょう?彼らは果たして、真理を愛し主の到来を待ち望んでいるのでしょうか?彼らは賢いおとめでしょうか?愚かなおとめでしょうか?彼らが賢いおとめであり、主の到来を待ちわびていれば、なぜ神の声を聞き、神の国の福音が広まっていると知っても、まだ頑固に非難し、抵抗をするのでしょうか?彼らは主を待ちわびているのに、これが誠実さの現れなのでしょうか?これは主の再臨を喜ぶ彼らの真の表現なのでしょうか?率直に言えば、結局彼らの信仰と主イエス再臨への切望は偽りで、天国に入りたいという切望は現実なのです!真理を追求し、命を得るために主を信ずるのではなく、真理を得て、罪から逃れるためでもありません。彼らの希望は何なのか?降臨された主に天国に連れて行ってもらうこと、肉の苦しみから逃れ、天国の祝福を享受すること、これが彼らが神様を信ずる本当の目的です!この理由以外に、人類を救う真理を表す全能神を、彼らが拒絶する理由があるでしょうか。考えてみましょう。ある人が真理を愛し、神の出現を待ちわびているならば、主が来られたと聞いたときに、どうするでしょうか?耳を傾けず、状況を見ず、接触を避けるでしょうか?それを盲目に否定し、非難し、抵抗しますか?ないでしょう。神の出現を心から待ち望み歓迎する人ならば、真の光を待ち望み真理と正義の支配を願うでしょう。彼らは神が到来して人類を救い、人々が罪から完全に逃れて清められ、神のものとされる手助けをすることを望んでいます。しかし、主が雲に乗って来られることだけを待ち、全能神を否定し、拒む者もいます。ことに、自分の地位と生活を守るために、全能神を猛烈に非難し、抵抗する宗教指導者たちは、真理を軽蔑し、真理を憎んでいる者たちと言えます。彼らは皆、終わりの日の神の働きにより明らかにされた未信者や反キリストです。受肉された神が、その救いの働きを終えた後は、これらの人々はめったにない災害に陥り嘆き、歯ぎしりをするでしょう。そして、雲に乗って公に現れる主についての預言は、完全に成就される。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

 


第18章神の国の美しさと人類の終着点に関する預言、および神の約束と祝福についての言葉

2020-09-20 15:07:08 | 書籍

第18章  神の国の美しさと人類の終着点に関する預言、および神の約束と祝福についての言葉

 

757. わたしの言葉が完成するにつれて、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人のぬくもりが満ちる。わたしは世界を動き回り、玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほおを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。今日、あなたがたはわたしの前で生きている。明日、あなたがたはみな、わたしの国で暮らすようになる。これは、わたしが人間に与える最大の祝福ではないか。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十章」より引用

758. 稲光の中、すべての動物は真の姿を明らかにする。そして、わたしの光に照らされて、人間もまた、かつての聖さを取り戻した。ああ、過去の堕落した世界よ。それはついに汚い水の中へと崩れ去り、水面の下に沈み、溶けて泥となった。ああ、わたしの創った全人類が、ついに再び光の中でよみがえり、存在のための基礎を見出し、泥の中でもがくことをやめた。ああ、わたしの手の中のもろもろの被造物よ。それらがどうしてわたしの言葉によって新たにならないことがあろうか。どうして、光の中でその機能を果たさないことがあろうか。地はもはや、死んだように動きがなくも沈黙してもいない。天はもはや荒涼として悲しいところではない。天と地とは、もはや虚無で隔てられてはおらず、ひとつになって、決して再び裂かれることがない。この喜ばしい時、この歓喜の瞬間、わたしの義と聖さは全宇宙に広まっており、人類全体が止むことなくほめたたえる。天の町々は喜びに笑い、地上の王国は喜びに舞い踊る。この時に、誰が喜ばずにいようか。そして、この時、誰が泣かずにいるのか。地は、そのはじめは天のものである。そして、天は地とは、ひとつである。人間は天と地とを結ぶ絆であり、人間の聖さのおかげで、人間の再生のおかげで、天はもはや地から隠されてはいない。そして、地はもはや天に対して沈黙していない。人類の顔は安堵の笑顔に飾られ、心には限りない甘美さが満ちる。人間は互いに言い争うことがなく、また、殴り合うこともない。わたしの光の中で他の人々と平和的に生きない者がいるだろうか。わたしの日にわたしの名を汚す者が誰かいるだろうか。人間はみな畏敬のまなざしをわたしに向け、その心が沈黙のうちにわたしに叫んでいる。わたしは人間のあらゆる行いを探った。清められた者の中に、わたしに逆らうものは誰もいない。わたしを裁く者もいない。人間はみな、わたしの性質に満たされている。誰もがわたしを知るようになり、わたしに近づき、わたしを愛する。わたしは人間の霊の中に確固として立ち、人間の目に最も高い頂きに上げられ、その血管を血として流れる。人間の心の喜びにあふれる高揚が地のいたるところを満たし、空気は爽やかに澄み、濃い霧が地面を包むことは、もはやない。そして、太陽がまばゆく輝く。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十八章」より引用

759. わたしの光の中に、人々は再び光を見る。わたしの言葉の中に、人々は自分が享受するものを見つける。わたしは東方から来た。わたしは東方より出ず。わたしの栄光が輝く時、あらゆる国が光で照らされ、すべてに光がもたらされ、何ひとつ暗闇に留まることはない。神の国では、神とともに生きる神の民の生活は、計り知れないほどの幸せに満ちている。水は幸福に満ちた民の生活を喜びながら踊り、山々は民とともにわたしの豊かさを享受する。すべての人が努力し、懸命に働き、わたしの国への忠誠を示す。神の国にはもはや反乱も抵抗もない。天地は互いを拠り所とし、人とわたしは生活の甘美な喜びを通して、互いにもたれかかるように深い感情の中で距離を縮めている……。今この時、わたしは正式に天国での生活をはじめる。もはやサタンによる妨害はなく、民は安息を得る。全宇宙において、わたしの選民はわたしの栄光の中で生きる。人々の間で生きるのではなく、神とともに生きる者として、比類なき幸福を受けながら。すべての人間はサタンによる堕落を経験し、人生の甘さと苦さを味わい尽くしてきた。いま、わたしの光の中で生きながら、どうして喜ばずにいられようか。どうしてこの美しい瞬間を軽くあしらい、手放すことができようか。汝ら民よ、わたしのために心からの歌を歌い、喜びに踊りなさい。その誠実な心を持ち上げ、わたしに捧げなさい。わたしのために太鼓を打ち鳴らし、喜びの音楽を奏でなさい。わたしの喜びで全宇宙を照らそう。栄光に満ちたわたしの素顔を民にあらわそう。わたしは声高に叫ぶ。わたしは宇宙を超越する。すでにわたしは民の上に君臨している。民はわたしを称揚している。わたしは蒼天をさまよい、民はわたしとともに歩く。わたしは民とともに、我が民に取り囲まれながら歩く。民の心は喜びにあふれ、その歌声は宇宙を揺るがし、天空を割る。もはや宇宙が霧で覆われることはなく、泥や汚水も存在しない。宇宙の聖なる民よ!わたしがつぶさに調べれば、あなたがたは真の表情をあらわす。あなたがたは汚れに覆われた者ではなく、翡翠のように純粋な聖人なのだ。あなたがたはみなわたしの愛する者であり、わたしの喜びである。万物はいのちに立ち返る。すべての聖人がわたしに仕えるために天へと戻り、わたしのあたたかな抱擁の中、泣くこともなく、不安を覚えることもなく、自分自身をわたしに捧げ、わたしの家へと戻ってくる。そして自分の故郷において、絶えることなくわたしを愛し続ける。永遠に変わることはない。悲しみはどこか。涙はどこか。肉体はどこか。地が終わりを迎えても、天は永遠である。わたしは万民の前に姿を現わし、万民がわたしを称える。悠久の過去から終わりの時に至るまで、この生活、この美しさが変わることはない。これが神の国の生活である。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「汝ら民よ、みな喜びなさい!」より

760. わたしの知恵は地上のあらゆるところにあり、全宇宙にあまねく。あらゆるものの只中にわたしの知恵の果実がみのり、すべての人々の只中にわたしの知恵の傑作が満ち満ちる。何もかもわたしの国にあるすべてのもののようである。すべての人々はわたしの天の下、わたしの牧場の羊のように安心して暮らす。わたしはすべての人々の上を動き、至る所を見ている。何一つ古びて見えるものがなく、誰一人かつてと同じ人はいない。わたしは玉座に座し、全宇宙上に横たわり、満ち足りている。すべてのものが聖さを取り戻し、わたしは再びシオンで安らかに暮らすことができるからだ。そして、地上の人々はわたしの導きの下、穏やかで満ち足りた生活ができる。諸国民は、わたしの手の中であらゆることを管理している。諸国民はかつての知性と本来の姿を取り戻した。彼らはもはや塵におおわれてはいない。わたしの国では、人々は翡翠のように聖く、人の心の中の聖い者のような顔をもつ。わたしの国が人々の間に打ち立てられたからである。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十六章」より引用

761. 「わたしはすべての人々の上を動き、至る所を見ている。何一つ古びて見えるものがなく、誰一人かつてと同じ人はいない。わたしは玉座に座し、全宇宙上に横たわり……」これは神の現在の働きの結果である。神の選民はすべて最初の形に戻り、そのため、長年にわたり苦しんできた天使たちは解放される。神が「人の心の中の聖者のような顔」と言うとおりである。天使たちは地上で働き、地上で神に仕え、神の栄光が世界中に広がるので、天は地上にもたらされ、地上は天に持ち上げられる。したがって、人間は天と地を結ぶ絆である。天と地にはもはや隔たりはなく、もはや分離しておらず、一つのものとしてつながっている。世界の至る所で、神と人間だけが存在する。ほこりも汚れもなく、すべてのものは再び新しくなり、子羊が大空の下で緑の草原に横たわっているように、神のすべての恵みを享受している。そして、一面の新鮮な緑が現れたことから、生命の息吹が輝き出る。というのも永遠に人間と共に暮らすために神がこの世に来るからである。神の口から「わたしは再びシオンで安らかに暮らすことができる」と語られたとおりである。これはサタンの敗北の象徴であり、この日は神の安息の日であり、すべての人々によって褒めそやされ、称えられ、すべての人に祝われる。神が玉座で安息している時は、神が地上における働きを終了する時でもあり、まさに神のすべての奥義が人間に示される瞬間である。神と人間は永久に調和し、離れることはないだろう――これらは神の国の美しい光景である。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十六章」より引用

762. 神の国がすっかり地上に降りて来ると、すべての人々は最初の姿を取り戻すだろう。したがって、神は次のように言う。「わたしは玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほほを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。」これは、神が完全に栄光を得る日は人間が休息を享受する日であることを示している。人々はサタンの妨害にあって右往左往することはもはやなく、世界は前進することをやめ、人々は安楽に暮らす――天空の無数の星は更新され、太陽、月、星など、そして天や地のすべての山と川はみな変化するからである。そして人間が変化し、神が変化するので、すべてのものも変化するだろう。これが神の経営(救いの)計画の最終的目標であり、最後には達成されるものである。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第二十章」より引用

763. わたしの働きは六千年しか続かない。そしてわたしは、悪い者による全人類の支配もまた六千年より長くは続かないと約束した。それゆえもうその時は来ている。わたしはこれ以上続けたり遅らせたりはしない。終わりの日に、わたしはサタンを打ち負かし、わたしの栄光をすべて取り戻し、わたしに属する地上のすべての魂を取り戻して、これらの苦悩する魂が苦しみの海から逃れられるようにする。これにより地上におけるわたしの働きがすべて完了するのである。これより後、わたしは地上で再び受肉することは決してなく、すべてを支配するわたしの霊が地上で働くことは二度とない。わたしが地上で行うのはただひとつ、わたしは人類を、聖なる人類に造り直す。それは地上におけるわたしの忠実な都である。しかし、わたしは世界全体を滅ぼしたり、人類すべてを滅ぼしたりはしないことを知るべきである。わたしはその人類の残りの三分の一、わたしを愛し、完全にわたしに征服された人類の三分の一を保ち、イスラエル人が律法の下でそうであったように、この三分の一を、多くの羊と家畜、そして地のすべての豊かさにより育み、繁栄させる。この人類はわたしのもとに永遠にとどまるであろう。ただし、それは現在のどうしようもなく汚れた人類ではなく、わたしに得られたすべての人々の群としての人類である。このような人類はサタンにより破壊され、混乱させられ、包囲攻撃されることはなく、わたしがサタンに勝利した後も地上に存在する唯一の人類となる。それは今日わたしに征服され、わたしの約束を得た人類である。それゆえ、終わりの日に征服された人類は、残され永遠に続くわたしの恵みを受ける人類でもある。これはサタンに対するわたしの勝利の唯一の証拠であり、サタンとの戦いの唯一の戦利品である。これらの戦利品はサタンの支配下からわたしにより救われたのであり、わたしの六千年にわたる経営計画の唯一の結晶であり実りである。彼らはあらゆる国家と教派から、また全宇宙のあらゆる場所と国から来る。彼らはさまざまな民族、さまざまな言語、風習、肌の色の者であり、地球のあらゆる国家と教派、そして世界の隅々にまで広がっている。最終的に、彼らは完全な人類、サタンの勢力が及ばない人間の集団を形成するために集まって来る。

『言葉は肉において現れる』の「肉なる者は誰も怒りの日から逃れられない」より引用

764. 神の国の中の勝利者たちは、彼らの様々な役割と証しに基づいて祭司として、あるいは信者として仕えるであろう。また患難のただ中で勝利した者たちは、みな神の国で祭司の集団となるであろう。祭司の集団は全宇宙における福音の働きが終わった時に形成されるであろう。その時が到来すると、人間がなすべき事は、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなるであろう。祭司の集団の中には、祭司長と、祭司がいて、それ以外の者は神の子、神の民となるであろう。これは全て患難の間の神への証しにより決定される。それらは気まぐれで与えられた称号ではない。一旦人間の地位が確立すれば、神の働きは停止する。なぜなら、各人が種類に従って分類され、彼らの本来の地位に戻され、それは神の働きの成果のしるしであり、神の働きと人間の実践の最終結果であり、また神の働きのビジョンと人間の協力との結晶だからである。最後に人間は神の国で安息を得て、神もまた自らの住まいに戻って休息を得るであろう。これが神と人間の六千年におよぶ協力の最終結果である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より引用

765. 安息の中の生活とは、戦いも汚れも、継続する不義もない生活である。言い換えれば、そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン(サタンとは敵対する勢力を指す)による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその種類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが、人類が安息に入った生活である。神が安息の中に入った時、地上にはもうどんな不義も継続せず、もういかなる敵対勢力の侵入もなくなる。人類も新しい領域の中に入る。すなわち、彼らはもはやサタンに堕落させられた人類ではなく、サタンに堕落させられた後救われた人類である。人類の安息の日々は、神にとっての安息の日々でもある。神は人類が安息の中に入ることができないため、安息を失ったのである。つまり、神は本来、安息に入ることができなかったのではない。安息の中に入ることは、あらゆる事物の活動が止まることを意味するのでもなければ、あらゆる事物の発展が止まることを意味しているのでもない。また、神がもう働くことをやめる、あるいは人がもう生活することをやめることを意味しているのでもない。安息に入ったことのしるしは、以下のようなものである――サタンが滅ぼされている、サタンに同調する悪人たちがみな懲罰を受けて一掃されている、そして神に敵対するすべての勢力が存在しない。神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされたこと、人における神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人の中で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間には住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神が全人類を導くのであり、全人類は神の経営の働きの結晶である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で残りの人類を導くが、地上から導くのではなくて天から導く。神は依然として霊であり、一方、人は、依然として肉である。神と人にはおのおの異なる安息の仕方がある。神は安息するが、人の間に来て人に現れる。人は安息するが、神に導かれて天を訪ね、天上で人生を楽しむこともある。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用

766. 一旦、征服の働きが完了すると、人類は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、現在の人間の生活とは全く違う。それは全人類が征服された後の生活であり、それは地上の人間にとって新しい始まりとなり、人類がそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠となるであろう。それは地上における人と神の生活の始まりとなる。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服されたあと、造り主の前に服従する。それゆえ、征服の働きとは、人類が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人類の未来の生活であり、それは地上で最も美しい生活、つまり人が待ち焦がれていたような生活であり、世界史上、人が決して達成したことのないような生活である。それは六千年の経営の働きの最終的結果であり、人類が最も待ち望んでいたものであり、それはまた、神が人間に約束していたものでもある。しかし、この約束はすぐには実現されない。終わりの日の働きが完成され、人が完全に征服され、すなわちサタンが完全に打ち負かされて、初めて人類は未来の終着点に入るのである。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より引用

767. 永遠の終着点に入るとき、人は造り主を礼拝する。そして、人は救いを得て、永遠の中に入ったので、人は何の目的も追求しないし、その上、サタンによって包囲される心配もない。この時、人は自分の立場を知り、本分を尽くす。そして、罰せられたり裁かれたりしなくとも、人はそれぞれ自分の本分を尽くすだろう。その時、人は身分においても、地位においても被造物となる。高低の差別はもはやない。人はそれぞれの異なる役割を果たすだけである。但し、人は依然として人類の秩序ある適切な終着点の中で生きており、造り主を礼拝するために本分を尽くす。そして、このような人類は永遠の人類となるであろう。その時、人は神に照らされた生活、神の配慮と守りの下にある生活、そして神と共に生きる生活を獲得することになる。人類は地上で正常な生活を送り、全人類が正しい軌道に乗ることになる。六千年の経営計画は徹底的にサタンを打ち負かすことになるだろう。つまり、神は創造直後の人間の本来の姿を回復させ、そうして、神の本来の意図が成就される。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より引用

768. 人類が地上で真の人間生活を達成し、サタンの全勢力が縛られると、人は地上で楽に生きることになるだろう。物事は現在ほど複雑ではなくなるだろう。人間関係、社会関係、複雑な家族関係など……。それらは厄介で、本当に苦痛である。地上の人間生活はとてもみじめである。一旦征服されると、人の心と思いは変わるだろう。人は神を畏敬する心と、神を愛する心を持つだろう。全宇宙で神を愛することを求めるすべての人たちが征服され、つまりサタンが打ち負かされ、サタン――暗闇の全勢力――が縛られると、地上での人の生活は困難でなくなり、地上で自由に生きることができるだろう。もし人の生活に肉の関係がなく、肉の複雑さがないなら、どれほど楽なことだろう。人の肉的な関係はあまりにも複雑で、人にとってそのようなものを持つことは、その人がまだサタンの影響から解放されていない証拠である。もしあなたが兄弟姉妹とそれぞれ同じ関係を持ち、家族とそれぞれ同じ関係を持っていたら、あなたは何の心配もしないだろうし、誰かを心配する必要もないだろう。これ以上良いことはないだろうし、これなら人は苦しみの半分から解放されるだろう。地上で正常な人間の生活をすると、人は天使のようになる。依然として肉体を持っているけれども、人は天使のようになるだろう。これは最後の約束、人に授けられる最後の約束である。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より引用

769. 人類がみな本来の姿を回復し、それぞれ自分の本分を尽くし、自分の立場を守り、神のすべての定めに従うことができたら、神が地上で一団の、自身を礼拝する人たちを得、自身を礼拝する国を打ち立てたことになる。神は地上で永遠の勝利を得、自身に敵対する者たちは永遠に滅びる。これは神が最初に人を造った時の意図を回復し、神が万物を造った意図を回復し、地上での神の権威、万物の中での神の権威、敵の間での神の権威をも回復したことになる。これらは神が完全に勝利を得たことのしるしである。その後人類は安息に入り、正しい軌道に乗った生活に入る。神も人との永遠の安息に入り、神と人が共有する永遠の生活に入る。地上の汚れと不従順は消え、地上の嘆き悲しみも消える。神に敵対する地上のあらゆるものも存在しなくなる。神と神に救われた人たちだけが残り、神の創造物だけが残る。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用

770. 祝福とは、あなた方が憎むことは将来にはもう起こらないと言うことである。つまり、それらのことは、もはやあなた方の実際の生活に存在しなくなり、あなた方の目の前から取り除かれるということである。家族、仕事、妻、夫、子供、友人や親戚、そしてあなた方が毎日嫌っている一日三食の食事でさえ、消えて無くなるだろう。(これは、時間に制約されなくなり、完全に肉から抜け出すという意味である。あなたの体は、霊に満たされることによってのみ維持される。ここで言及されているのは、あなたの肉ではなく、あなたの体である。あなたは完全に自由になり、超越するだろう。これは、神が世界創造以来示した中で最も大いなる、最も明白な奇跡である。)あなた方の体から土の成分はすべて取り除かれ、あなた方は完全に聖なる汚れなき霊体となり、宇宙と地の隅々まで旅することができるだろう。それ以降、面倒な洗い物や擦り洗いもすべてなくなり、あなた方はただ目一杯楽しむだろう。その時から、あなた方は、もはや結婚の概念を持たなくなるだろう(何故ならわたしは一つの時代を終わらせるのであり、世界を創造するのではないからである)。そして、女性にとって最も辛い産みの苦しみも、もはや無くなるだろう。あなた方は将来、もう働くことも労することもない。わたしの愛の抱擁に包まれ、わたしがあなた方に与えた祝福を楽しむのだ。このことは確かな事である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第八十四章」より引用

771. わたしがあなた方のために用意したもの、つまり、世界中の稀有で貴重な宝があなた方に与えられるのだ。あなた方は、現時点では、それを思い浮かべることも、想像することもできない。そして、このようなことを楽しんだことがある者は一人もいない。これらの祝福があなた方の上に臨むとき、あなた方はいつまでも心から楽しむが、これらはすべてわたしの力、わたしの行為、わたしの義、そして何よりも、わたしの威厳であることを忘れてはならない。(わたしは、恵みを示すよう選んだ者たちに恵みを示し、憐みを示すよう選んだ者たちに憐みを示す。)その時、あなた方は親を持つことはなく、血縁関係もない。あなた方は皆、わたしの愛する民、わたしの最愛の子らである。それ以降は、誰もあなた方を弾圧しようとしないだろう。それは、あなた方が大人に成長する時となり、あなた方が鉄の杖で国々を支配する時となるであろう。わたしの愛する息子たちを妨げようなどとするのは誰か。わたしの最愛の息子たちを敢えて攻撃しようとするのは誰か。父が栄光を受けたので、彼らはみなわたしの愛する子らを敬うだろう。誰も想像すらできなかったことがすべて、あなた方の目の前に現れる。それらは無限で、無尽蔵で、終わることがない。もうしばらくすれば、あなた方はもはや太陽の焼けつく暑さに耐える必要はなくなる。また、寒さに苦しむ必要もなくなり、雨も、雪も、風さえもあなた方には及ばなくなる。それは、わたしがあなた方を愛しているからであり、それは完全にわたしの愛の世界になる。わたしはあなた方が望むすべてのものを与えよう。また、あなた方が必要とするすべてのものをあなた方のために用意しよう。わたしは義ではないなどと言う者は誰か。わたしは直ちにあなたを殺す。それは前に言ったように、わたしの怒りは(邪悪な者たちに対して)永遠に続き、わたしはほんの少しも容赦しないからである。しかし、(わたしの最愛の子らへの)わたしの愛も永遠に続くだろう。わたしは少しもそれを惜しまない。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第八十四章」より引用

772. 立ち上がってわたしに協力しなさい。わたしは心からわたしのために尽くす者を決して粗末には扱わない。わたしに本気で自分自身を捧げる者には、わたしの祝福をすべて授ける。あなた自身を完全にわたしに捧げなさい。食べるもの、着るもの、そして未来はすべてわたしの手の中にある。わたしはすべてを正しく計らうので、あなたは終わりのない喜びを得られ、それは決して尽きることがない。それはわたしが、「心からわたしに尽くす者よ、わたしは必ずあなたを大いに祝福する」と言ったからである。あらゆる祝福が、わたしのために心から尽くす一人ひとりに与えられる。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十章」より引用

773. 今日わたしは、わたしの旨を行える者、わたしの重荷に配慮できる者、そして真心と誠意をもってわたしにすべてを捧げられるすべての者を愛する。わたしは絶えず彼らを啓き、わたしのもとから立ち去らせない。わたしはよく「心からわたしに尽くす者よ、わたしは必ずあなたを大いに祝福する」と言うが、「祝福」とは何を意味するのか。あなたは知っているのか。現在の聖霊の働きという観点から言えば、それはわたしがあなたに与える重荷のことを指している。教会のために重荷を負えるすべての者、そして心からわたしに自らを捧げるすべての者は、その重荷も真心も、わたしから与えられた祝福なのだ。そしてまた、彼らに対する啓示もわたしからの祝福である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第八十二章」より引用

774. 神の国は人間たちの間で拡大している。神の国は人間たちのただ中で形作られている。神の国は人間たちのただ中で建て上げられている。わたしの国を滅ぼすことのできる勢力はない。今日の神の国にいるわたしの民のうち、あなたがたの誰が人間たちの中にあっても、人間ではない者がいるだろうか。あなたがた、誰が、人間である状態の外にあるのか。わたしの新たな出発点が大衆に告げられるとき、人間は、どのように反応するだろうか。あなたがたは、その目で人類の状態を見てきた。あなたがたはまさか、この世で永遠に存在し続けようという希望はもう抱いてはいまい。わたしは今、わが民の間を歩き回り、わが民の中で生きている。今日、わたしに本物の愛を抱いている者たちは幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまるであろう。わたしを知る者は幸いである。その人たちは、必ずや、わたしの国で権力を振るうであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの束縛から逃れ、わたしの中にある祝福を享受するであろう。自らを捨てることのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは記憶し、わたしのために尽くす人を、わたしは喜んで抱こう。わたしに捧げ物をする人に、わたしは喜びとなるものを与えよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となるであろう。その人たちは、必ずやわたしの家で何ものにも及ばない豊かさを得、彼らに並ぶものは一人もいない。あなたがたは、自分に与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、あなたがたのために結ばれた約束を求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の要塞を打ち破るだろう。あなたがたは、闇のただ中にあっても、あなたがたを導く光を絶対に見失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利する。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の大衆の中で立ち上がり、わたしの勝利を証しするであろう。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、決意を固くし、揺らぐことがないだろう。あなたがたの耐え忍ぶ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙にわたしの栄光を輝かせるだろう。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十九章」より引用

775. 神に完全にしてもらうことができる人たちは、神から祝福や嗣業を受け取ることのできる人たちである。すなわち、そのような人たちは、神が所有するものそして神という存在を取り入れる。そうすることによって取り入れたものは彼らが内部に持つものとなる。すなわち、彼らは、神の言葉が彼らの中に働いたものすべてを所有している。神という存在が何であれ、あなたがたは、その存在のすべてをまさにそのまま受け入れることができる。そうすることによって、真理を生きることができる。これが、神によって完全にされ、神のものとされた人である。そのような人だけが、次に掲げる、神が授ける祝福を受け継ぐ資格がある。

1)神の愛のすべてを受け取ること。

2)あらゆる事柄において神の旨に沿って行動すること。

3)神の導きを受け取り、神の光の下で生き、神の啓示を受けること。

4)地上で神によって愛された姿を生きること、すなわち、ペテロと同じように真に神を愛すること、神の為に十字架にかけられ、死が神の愛に対する報いに相応しいと感じるほどに神を愛すること、そしてペテロと同じ栄光を受けること。

5)地上のすべての人によって愛され、敬われ、称賛されること。

6)死やハデスの束縛のすべてを克服すること、サタンに働く機会を与えず、神のものとされていること、新鮮でいきいきとした霊的状態であること、いささかの疲れもないこと。

7)人生のあらゆるときに、あたかも神の栄光の日の到来を見てきた人のように、言語を絶するほどの高揚感や気持ちの高まりをもてること。

8)神とともに栄光を受け取ること、そして神の最愛の聖人たちに似た容貌をもてること。

9)神が地上で愛するもの、すなわち神の最愛の子になること。

10)姿を変えて、神と共に、肉を超越して第三の天まで引き上げられること。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた人々への約束」より引用