神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

質問1

2020-09-17 19:07:05 | 書籍

質問1:主の再来は信者が天国に直接引き上げられることを意味すると信じる。それは聖書に次のように書いてあるからである。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(テサロニケ人への第一の手紙4:17)主イエスが再来したとあなたがたは証ししているが、それではなぜ今私たちは地上にいて携挙されていないのか。

 

回答

主の再来に関しては、主イエスの預言に従うべきで、それが主を待つ妥当な方法だと思います。今の聖句は誰の言葉ですか?主ですか?人間の言葉ですか?「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、」とは誰が言ったのです?主イエスの御言葉ですか?はもちろん聖霊もそのような事は言っていませんよ。それはパウロの言葉ですよね。パウロの言葉は主イエスを代弁していますか?神の代わりができますか?神だけがこの奥義を解き明かすことができ、堕落した人間が勝手に解釈して決めつけるのは深刻な問題です。パウロはキリストではありません。堕落したごく普通の人間で、その書き物も人間の考えと想像の産物です、彼の言葉は真理ではないので、何の証拠にもなりません。聖書の神の御言葉を根拠にすることこそ真理に沿っています。聖書の中の人間の言葉に基づいて天国を待望するのは間違いです。主イエスの御言葉でなく、パウロの言葉なら尚更です。主イエスの御言葉だけが真理で、権威があるからです。主イエスだけがキリストで、天国の王なのです。なぜ主イエスの御言葉の中に真理と神の御心を探そうとせず、人の言葉に頼るのですか?それは主の御心にかなっていますか?これでは人に従い、自分勝手な道に進んでしまいます。はじめに神は土のちりで人間を造りました。人間は神が創造した地上の物を管理するという義務を与えられ、地において神に服従し、崇拝して賛美することを求められ、人間の終着点は天ではなく地上であると決められているのです。それに神はずっと昔に、御国は地上に建てると言われていました。地上で人間と共に住み、地の国はキリストの支配する御国になるので、神の御国は天ではなく地上に建てられるのです。多くの人が天に招かれようと空を見上げますが、それは思い込みと想像から来る妄想に過ぎません。神の御働きにも真理にも合っていません。

主イエスはこう言われました。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 6:9-10)主イエスが言われたのは、神の御国は天ではなく地上にあり、御心が天に行われる通り、地にも行われますように。ヨハネの黙示録第21章2節から3節を読みましょう。「新しいエルサレムが、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。…神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして。」ヨハネの黙示録 第11章15節を「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」この預言によると、「神の幕屋が人と共にあり。」「新エルサレムが、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。」「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。」こうあるので、神は御国を地上に造り、人類と共に住まわれるのです。この世の国は全てキリストの国となり、永遠に続くのです。思い込みや想像で、神の御国が天にあり、主が戻られた時に天に引き上げられると信じるなら、主の預言は意味が無くなりませんか?神の人類を救う経営計画の最終目的は、地上に御国を建てることです。終わりの日のキリストである全能神は、地上に勝利者の一団を作るため、人類を裁き清める働きをされます。神から救われた者は、完全にされ、勝利者となり、地上で神の御言葉を実践し、神の道に従うことができる御国の民です。この一団の勝利者ができたら、神の御心が地上で実現し、キリストの御国が地上に作られ、神の御心は栄光に輝くのです。最後に、黙示録の預言が成就します。この事実が分かりませんか?主は私達にどのような場所を用意しているのでしょう?神の御心を行なえるよう、私たちは終わりの日に産まれるよう定められ、主が戻られた時にお会いし、神の清めを受け、完全にされ、勝利者になり、地上の国はすべてキリストの国になります。それが神の御心です。神は地上に現われるのに、私達は天を眺めています。もし神に空中に上げられたとしたら、食べ物も住む場所もなく、どうやって生きるのですか?思い込みと想像の産物でしょう?主はそのような事をされますか?本気でそう思うのは、子供っぽくて、頭に霧がかかっているようなものです!

だから御国も終わりの日に、地上に建てられるのです。人類の終着点は天ではなく地上にあるのです。これは神が定められたことです。全能神は言われます。「神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされたこと、人における神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人の中で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営(救い)が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間には住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神が全人類を導くのであり、全人類は神の経営の働きの結晶である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で残りの人類を導くが、地上から導くのではなくて天から導く。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より)経営計画を完了された時に、神と人は共に安息に入るのだと、全能神ははっきり言われています。神の安息の地は天に、人の安息の地は地上にあり、これは神が私達に用意してくださった終着点で、神の御国が地上に建てられるのを意味する。何年信仰していても、これが分からないなら、真理、そして主の御言葉が理解できないということでしょう?

引き上げられるの本当の意味は何でしょうか。はっきり理解する人はあまりいません。その奥義については、全能神が明らかにされています。全能神は言われます。「『引き上げられる』とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。『引き上げられる』とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第百四章」より)全能神がはっきり説明しているように、「引き上げられる」とは私達が考えるように、体が空中に浮かび、雲の上で主に会うことでも、天に引っ張り上げられることでもありません。神が地上にお戻りになった時、御言葉を発して働きをされるので、それを聞いて神に従い、終わりの日の御働きを受けるという意味なのです。主の御声に気が付き、御言葉に真理を見出し、真理を受け入れて、全能神に戻ってくる人は、賢いおとめです。主が「盗む」金銀や宝石であり、神様の家へ戻る人達です。真理を理解し、受け入れる能力があり、神の御声がわかる人達です。そして本当に引き上げられる人たちで、神が終わりの日のひそかな出現と働きの時に作られる勝利者です。全能神が終わりの日の裁きの働きを始めると、神を本当に待っている人達は、全能神の言葉が神の御声である事に気が付き、次々に、終わりの日の神の裁きを受け入れました。御座の前で神に対面し、御言葉の潤いと養分を与えられ、神の事を本当に知ることができたのです。堕落した性質は清められ、御言葉に宿る真理を現実で、実現し、救われたのです。この人々は大災害の前に既に勝利者にされ、最初の果実として神の物となりました。思い込みと想像から盲目的に主の再来を待ち、天に招かれると思い、終わりの日の神の裁きを拒む者は愚かなおとめです。神に見捨てられるでしょう。災害に苦しみ、歯軋りし泣き叫ぶでしょう。それが事実です。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

引き上げをどのように理解すべきでしょうか。引き上げは、神様がどのようにこの領域から、この範囲において人間を救い、別の領域の別の範囲に置いてくださるかを説明しています。しかし、引き上げについて考えるとき、人は必ずそれを空中に持ち上げられることと想像します。これは誤っていませんか。たとえば、あなたが進歩の遅れた辺鄙な村に生まれ、その後大都市で働くように配属されたならば、人類の言語ではこれを辺鄙な村から大都市での仕事や生活に引き上げられたと表現するでしょう。これが引き上げられることの意味ではありませんか。この引き上げは、人が想像する空中に持ち上げられることと異なりますか。このうちのどちらが現実ですか。引き上げとは、ある領域から別の領域に上げられることです。つまり上昇です。この上昇は、地上から高く持ち上げられたり、地上から空中に持ち上げられたりすることではありません。これはそういう意味ではありません。むしろ、より高い状態、より高い地位、より高いクラスに上げられることを意味します。これが上昇です。たとえば、私たちは元々、堕落した人類の最下層の農民や労働者で、社会的地位はなく、人々に見下され、抑圧と搾取に苦しみ、声を上げる権利もありませんでしたが、いまでは神の国の時代の民として一挙に上昇させられています。私たちの地位は引き上げられていませんか。私たちは元々は堕落した人類で、暗く邪悪な世界の人類の最下層でしたが、今では、携挙により突然に上昇させられて、神の国の民、神の国の時代の公民となりました。私たちが上げられて神の国の時代の民になっているならば、これこそ引き上げではありませんか。これが本当の引き上げです。次のように言う人もいます。「私はまだそこに住んでいるではないか。私はまだあの仕事をしているではないか。私が飲み食いするものも全く変わっていないではないか。なぜ高みに上げられたように感じないのか」。携挙させられたか否かは、あなたがどれほど高く、あるいは低く感じるかによって決めることはできません。この事実が明るみになる日が来たら、高いところにいるとあなたが思っている人は破滅させられ、あなたは自分は何も手に入れていないと考えるかも知れませんが、生き残ります。これをどのように説明しますか。神の国の民の意味は本当です。この事実が検証される日がやって来ます。その時、あなたは「あぁ、私は本当に引き上げられていたが、それに気づかなかった。神様の御働きは本当に素晴らしい」と言います。真理がないならば、人はこの携挙に気づかず、どれほど自分が祝福されているか知らないまま、祝福の中に生きるのです。大災害が起こるとき、神様はあなたをお守りになり、いかなる災害もあなたに降りかかりません。これは、あなたがそのとき既に携挙により上昇させられていること、あなたは神様の選民、神の国の民であることを説明していませんか。この問題を説明していませんか。いつか、あなたはこう認識します。「これは事実だ。私の身分は確かに変わった。この世の人は未だに私を労働者か農民とみなすだろうが、神様の目には、私は神の国の時代の人と映っている。したがって、私は本当に引き上げられており、私は既に携挙の恵みを享受している」。これが携挙の実際的な意味です。携挙と呼ばれるものの意味を理解できず、独自の想像に頼り、携挙とは空中に持ち上げられることだと信じるならば、空中に持ち上げられるのをどうぞ待ってください。

兄弟の交わりより

 

主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

2020-09-13 11:20:41 | 書籍


主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

 

参考聖書箇所

「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書 12:40)

人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」(マタイによる福音書 24:37)

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25)

「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録 1:12-16)

関連する神の言葉

イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。あなたがたには今聖霊の言葉が聞こえたか。神の言葉があなたがたに届いた。それが聞こえるか。神は終わりの日に言葉による働きを行うが、そのような言葉は聖霊の言葉である。神は聖霊であり、また肉になることもできるからである。したがって、過去に語られた聖霊の言葉は今日肉となった神の言葉である。聖霊の言葉は天から降りてきて人の耳に届くはずだと信じている多くの愚かな人がいる。このように考える人は誰も神の働きを知らない。実際、聖霊が語る言葉は肉となった神が語る言葉なのである。聖霊は人に直接語りかけることはできないし、ヤーウェは律法の時代でさえ人々に直接語りかけることはなかった。ましてや、今日、この時代に神が直接語りかけるなどとはまず考えられないのではないか。神が言葉を発して働きを実行するためには、肉とならなければならない。そうでなければ神の働きは目的を達成させることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12~16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」より

 


神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか

2020-09-06 19:20:54 | 書籍

神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか


古い時代は過ぎ去り、新しい時代が到来した。年々歳々、来る日も来る日も神は多くの働きを行ってきた。神はこの世にやって来て、またこの世から去っていった。そのような周期が幾世代にもわたって続いてきた。今日も、神は以前と同じように為さねばならぬ働き、まだ完了していない働きを続行している。何故なら今日まで神はまだ安息に入っていないからである。天地創造の時から今日まで、神は多くの働きを成し遂げてきたが、あなたは、今日の神の働きは以前よりずっと多く、その規模もずっと壮大であることを知っていたか。だからわたしは、神は人々の間で偉大な業を成し遂げたと言うのである。神の働きは人にとっても、神にとっても、すべてが非常に重要である。神の働きの一つひとつは人に関連するものだからである。

神の働きは見ることも感じることもできず、ましてや世間の人が見ることはできないので、いったいどうしてそれが偉大なものだと言えるのだろうか。どのような業が偉大だとみなされるのだろうか。確かに神の働きはすべて偉大であるということは誰にも否定できない。それでは、何故今日神が行う働きが偉大だと言うのだろうか。神は偉大なる業を成し遂げたと言う時、そこには人間がまだ理解していない多くの奥義が含まれているということに疑いの余地はない。今からそれらのことについて話そう。

イエスは、イエスの存在を受け入れない時代に飼い葉おけの中に生まれたが、この世はまだイエスの行く手を遮ることができず、イエスは神の配慮の下で三十三年間人々の間で暮らした。その数十年の生涯において、イエスはこの世の辛酸を嘗め、地上でみじめな生活を味わった。イエスは全人類を贖うために十字架につくという重い任務を引き受けた。イエスはサタンの支配のもとで生きていたすべての罪人たちを贖い戻し、最終的には、復活した体でもとの安息の場に戻った。今や、神の新しい働きが始まったが、それはまた新しい時代の始まりでもある。神は、新しい救いの働きを始めるために、贖われた人々を神の家に連れて来る。今回、救いの働きは過去の時代よりも徹底している。人の中で働き、自ら人を変化させる聖霊によってではなく、人々の間に現れるイエスの肉体によってでもなく、ましてや、その他のやり方で行われることなどありえない。むしろ、その働きは受肉した神自身によって為され、導かれる。これは人を新しい働きに導き入れるために行われる。これは偉大なことだと言えないか。神はこの働きを一部の人々や預言を通してではなく、神自身によって行う。一部の人は、これは偉大なことではなく、人を有頂天にさせることはできないと言うかもしれない。しかしながら、わたしはあなたに告げる。神の働きはただこれだけのものではなく、何かもっと偉大で、もっと多くのものであると。

今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がその中に戻る体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理を彼から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の現れでもある。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。彼は、今まで誰ひとりとして語ることのできなかった奥義の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。彼は、あなたが神の国に入る入り口の門であり、あなたが新しい時代に入るための導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。彼の行いはあなたには測り知れないものが、彼の行うすべての働きの目標を知れば、彼が、人が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜなら彼は、終わりの日に人類に神が示す配慮、及び神の意志も代表しているからである。あなたは天地を揺るがすような彼の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のような彼の目を見ることもできず、また、鉄の杖のような彼の懲らしめを感じることもできないが、彼の言葉から神の怒りを聞き、人類に示している神の憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持っている配慮をはっきり理解することができる。終わりの日の神の働きは、天にいる神が人々の間で生きていることを地上で人に見せることであり、また人が神を知り、神に従い、神を畏敬し、神を愛することができるようにすることである。これが彼が再び肉に戻った理由である。今日人が見るものは人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的には神はあなた方に次のことを示すだろう。この人の存在がなければ、天と地は膨大な変化にさらされ、この人の存在がなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになるということを。終わりの日における受肉の神による救いがなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずであるということを、神はあなた方に示すであろう。またこの肉の存在がなければ、あなた方は永遠にずっと罪人のかしらと死体のままであろうということを神は示すであろう。この肉の存在がなければ全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日の神の人類への一層厳しい懲罰から逃れるのはできないことをあなた方は知るべきである。この普通の肉の誕生がなければ、どのように求めようとも、あなた方にはみな生も死もやってこない状態に陥るだろう。この肉の存在がなければ、今日、あなた方は真理を受け取ることができず、神の玉座の前に来ることもできないだろう。むしろ、あなた方は罪深いのために罰せられるだろう。あなた方は知っているか。神が再び肉に戻って来なければ、誰にも救いの機会はないということを。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずである。これでも、あなた方は神の二度目の受肉をなおも拒むことができるか。あなた方は、この普通の人から大いに恩恵をこうむることができるのに、なぜすぐにこの人を受け入れないのか。

神の働きはあなたには理解できないことである。あなたの決定が正しいかどうか理解することも、神の働きが成功するかどうか知ることもできないのなら、どうして、この普通の人があなたにとって大いに助けとなるかどうか、また、神は偉大な働きを行ったかどうかを運をためしてでもいいから見てみようとしないのか。しかし、わたしはあなたに告げなければならない。ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲んだり、食べたり、勝手気ままに結婚したりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ただノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。しかしながら、終わりの日に神が守るのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である。どちらも神が見るに耐えないほどのひどい堕落の時代であり、どちらの時代の人類も主である神を否定するほどひどく堕落していたが、ノアの時代の人はすべて神に滅ぼされた。どちらの時代の人類も神をひどく悲しませたが、神は終わりの日の人々には今日に至るまで忍耐深い。それは何故なのか。あなた方はこのことを一度も考えたことがなかったのか。本当にそれを知らないなら、わたしがあなた方に話そう。終わりの日に神が人々を恵み深く取り扱うことができる理由は、彼らがノアの時代の人々ほど堕落していないからでも、彼らが神に罪を悔いたからでもない。まして、テクノロジーが進歩した終わりの日に人間を滅ぼすことに神が耐えられないからでもない。むしろ、神には終わりの日に一群の人々に対して行う働きがあり、これは受肉の神自身によってなされるからである。その上、神はこの一群の人々の一部を救いの対象、神の経営(救いの)計画の実として選び、そのような人々をともなって次の時代へと連れてゆくのである。従って、何がなんでも、神によって支払われたこの全ての代価は、終わりの日における神の受肉の働きのための準備であったのだ。今日あなた方が持っているすべてはこの肉のためである。神が肉の中で生きている故に、あなた方にも生きる機会がある。このすべての恩恵はこの普通の人の故に獲得されたのである。それだけではない。最後にはすべての国々はこの普通の人を礼拝し、この取るに足りない人に感謝し、従うだろう。全ての人類を救い、神と人の間の対立を和らげ、神と人を近づけ、神と人の考えをつなげるための真理、いのち、道をもたらしたのは、この人だからである。一層大きな栄光を神にもたらしたのもこの人である。このような普通の人こそ、あなたの信頼や敬愛を受けるに値しないだろうか。このような普通の肉こそがキリストと呼ばれるに相応しくはないだろうか。このような普通の人が人々の間で神の表出となれないことなどあろうか。人類が災難を免れる手助けをするこのような人が、あなた方に愛され、あなた方が抱きしめる価値がないなどということがあろうか。あなた方が彼の口から発せられる真理を拒み、あなた方の間に彼が存在することを忌み嫌うならば、あなた方の運命はどうなるのか。

終わりの日の神の働きのすべてはこの普通の人を通して行われる。彼はすべてのものをあなたに授け、その上、あなたに関わるすべてのことを決定することができる。このような人が、あなた方が思っているように、言及する価値もないほどとるに足りないということがあろうか。彼の真理はあなた方を完全に納得させるのに十分ではないのか。彼の行いによる証しは、あなた方を完全に確信させるには充分でないというのか。あるいは、彼があなた方を導き入れる道は、あなた方にとってついて行く価値がないということか。あなた方が彼に反感を抱き、彼を見捨て、彼を避ける理由は何であろうか。真理を表すのは彼であり、真理を供給するのは彼であり、あなた方が進むべき道を見つけられるようにするのも彼である。あなた方はまだ、これらの真理の内に神の働きの足跡を見つけることができないなどということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類は十字架から降りることはできないが、今日の受肉がなければ、十字架から降りた人々は神に称賛されることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなた方には神のほんとうの顔を見る機会も資格も全くない。何故ならあなた方は皆ずっと前に滅ぼされているはずの人々だからである。神の二度目の受肉の到来の故に、神はあなた方を赦し、あなた方に憐れみを示した。いずれにしても、最後にわたしがあなた方に言い残さなければならない言葉はやはりこうである。神の受肉であるこの普通の人は、あなた方にとって極めて重要である。これこそが、神が人々の間で成し遂げた偉大なることである。

 


質問14

2020-08-23 11:53:15 | 書籍

質問14:「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10:10)と聖書にあります。主イエスが私たちの罪を赦し、私たちを信仰によって義なるものにしてくださったと私たちは信じています。さらに、一度救われれば永遠に救われ、主が再来なさると私たちはすぐに携挙され天国に入ると私たちは信じています。ではなぜ救われ天国に導かれる前に終わりの日の神の裁きの働きを受け入れなければならないとあなたがたは証を立てているのですか。

 

回答

      主が十字架の上で亡くなったとき、私達を贖われたので、罪は全部赦されていると信者は考えています。私達はもう罪人ではないと。信仰を通して義になり、最後まで耐えていれば、救われ、主が戻られた時、直に天国に招かれると信じていますが、それは真実でしょうか?神はその主張の根拠になる発言をされていますか?もしこれが真理にそぐわない見方だとしたら、どうなります?主を信じる者として何事も主の御言葉をもとに判断すべきです。特に主の再来をどう受け止めるかは、何があろうと、自分の思い込みや想像で判断してはいけません。さもないとどうなるか考えただけでも恐ろしいです。パリサイ人がメシアを待っていると言いながら主イエスを磔にしたのと同じで、どのような結果になることか。主イエスは人類の贖いを完了しましたが、救いの働きは完了したのでしょうか?主イエスの信者は誰でも、天国へ招かれる資格があるのでしょうか?答えは誰にもわかりません。神は言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記11:45) 神の言葉によると、天国に入る者は罪から自由で、清められており、神の御心に沿って従い、神を愛し崇敬する者で、神は聖なる方で、天国に入る者は神と共にいますから、清められないままでは、神の国へ入る資格はないでしょう?罪が赦されたので天国へ招かれるという考えは、神の御心を完全に誤解していて人間の想像と思い込みからきています。私達の罪を赦してくださったのは本当です。でも主イエスは一言も、罪を赦されたことで完全に清められ、天国に入れるとは、おっしゃっていないのです。なぜ誰もが罪を赦されたら、天国に入れると信じているのでしょう?何を証拠にそう主張できるのでしょう?多くの人が、聖書の中でパウロや他の弟子たちがそう言っているからだと論じますが、パウロや弟子達の言葉は、主イエスの言葉を代弁できますか?聖霊の言葉に取って代われますか?聖書の中の人の言葉は、神の言葉なのでしょうか?聖書から明確にわかることは、神に称えられた者は、御言葉を聞いて御働きに従うことができ、神の道を歩み、神の約束されたものを受けられる、これは誰にも否定できない事実です。信仰することで、罪は赦されているとしても清められていないので、まだ罪を犯し神に逆らってしまいます。神もはっきり言われました。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記 11:45)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)この言葉から、罪を赦されても、天国に入れるわけではないという事がわかります。人には清めが必要で神の御心を実行する者にならなければ、天国には入れないのです。神の御心を理解する事は簡単ではないですが、罪を赦されても、清められてはいないのです。まず真理を知って、神に褒めていただければ、天国に入る権利を得るでしょう。真理を愛さないどころか、憎みさえして、報酬や冠だけを求め、御心を実行どころか配慮もしなければ、悪質な行為をしていることになります。そのような者を主がお褒めになりますか?まるであの偽善的なパリサイ人のように罪は赦されていても、天国には入れないのです。これは明白な事実です。

      主イエスは罪を赦してくださいましたが、それはどのような罪で、主の信者となって告白する罪とは、どのようなものでしょう?神の律法や戒律や御言葉を犯すことが主な罪です。神の律法や戒律を犯した人間は、神の律法によって裁かれ罰せられます。だから主イエスが贖いの働きをされ、主イエスに祈り罪を告白して悔い改めれば赦してくださり、律法により責めたてられ罰せられることもなく、罪人として扱われることはありません。神様に祈りお願いすれば、豊かなお恵みを受け真理を知ることができます。これが恵みの時代によく語られた「救い」でしょう。救われることは、清められ天国に入れることとは関係なく、全く別の話なのです。主イエスは、救われ罪を赦された者は天国に入るとは言われていません。御言葉を少し読んでみましょう。「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。……人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)全能神の言葉は明確に答えを示し、聴いてすぐに理解できます。主イエスは恵みの時代に、贖いの働きだけをされて人類の罪を赦し、人は信仰によって義となり、救われるのです。主イエスは、罪を赦された者が天国に入れるとは言われてません。主イエスは私達の罪を赦しましたが、サタンの本性は消えていません。傲慢でわがままな、悪質で堕落した性質はそのままで、罪そのものより深く、消し去ることは非常に難しい、神に反抗するサタンの本性と堕落した性質が消えてなくならないと、何度でも罪を犯してしまい。律法に違反するよりもっと大きな罪を犯してしまいます。パリサイ人はなぜ主イエスを非難し逆らったのです?まして十字架に付けるなど?サタンの本性があるから、罪を犯し、神に逆らい、裏切るという証拠なのです。

      私達は罪を赦され、何年も主を信仰していても、日常的に罪を犯してしまうことには抵抗できずにいます。名声と地位のために、うそをつき、騙しこじつけを言っては、責任を回避し、他人に問題を押し付けて、自然災害や人災など試練や苦難に陥ると神を責めて、神の働きが自分の思い通りでないと、神を否定し逆らうのです。神を信じると言いながら、人間を崇拝し従っています。社会的地位があると、祭司長や律法学者やパリサイ人のように自分を持ち上げ褒めたたえ、神になったかのように、崇敬や称賛を受けたがります。神への捧げ物を盗み、嫉妬を抱き自分勝手になり、欲望のままにに振る舞います。自分の旗を立て人を集め、国を作ろうとするのは、これは紛れもない事実です。サタンの本質や性質が消えないままであれば、何度罪が赦されたとしても、天国に入る権利はありません。罪を犯して神に逆らうのは、神の敵であるサタンに属しているからであり、間違いなく神に非難され、罰せられるでしょう。聖書にも書かれています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙10:26-27)全能神の言葉を少し読みましょう。「あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)主イエスの贖いを受けても、サタンの性質があるため罪を犯し続け神に逆らうのです。終わりの日に神の裁きと清めを受ければ、罪から解放され、神の御心に叶う者となり天国に入る権利を得るでしょう。主イエスも言われました。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書14:2-3)主は私達の場所を用意され、またお見えになります。「迎える」とは終わりの日に私達が生まれ変わる計画を指します。主が現れて私達を御座の前に連れて行き、神の言葉で裁き清め、完全な者にして災害の前に私達を勝利者にします。私達を清め、完全な者にする過程がお迎えであり、終わりの日に裁きの働きをするため、主が地上に現われ、御座の前に私達を引き上げ、一緒に住まれます。主が見えて私達を迎えるという預言を完全に成就しませんか?大災害の後に、キリストの御国が地に造られ、大災害の精錬から生き延びた者は天国に住む場所があるのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

      主を信じることで罪が赦されても、神の目にはまだ汚れて堕落しており、罪から清められていないのです。罪を赦されたとは律法で裁かれず、恵みに救われた」ということ。神に罪を赦され祝福をどれだけ授かり、罪を赦された事で安心して過ごし神に祈り、会話することができても、人は罪を犯し続け、神に逆らい、聖なるものには程遠いのです。だから終わりの日に神が戻られ、人類を清め救うのです。主イエスの贖いの働きは終わりの日の神の働きの準備に過ぎず、神の人類の救いはまだ終わっていなかったと、そう認識すべきです。主を信じることで罪が赦されたにもかかわらず、なぜ人は罪を犯し続け、罪深い生き方から抜け出せないのでしょう?サタンによる堕落があまりにも深いので、サタンの本性を持ち、その性質に満ちてしまったのです。だから私たちは罪を犯してしまうのです。サタンの本性が潜んでいるから、罪が赦されてもまた罪を犯して、神様に逆らってしまうのです。神に認めてもらうには程遠いのです。だから主イエスは「またきて」と言われ、終わりの日に裁きの働きをし、人類を清め救うのです。全能神は言われます。「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

      「人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。…だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

      全能神の言葉はわかりやすいです。主イエスは贖いの働きだけをされ、主を信仰することで罪は赦されましたが、罪深い本性はそのままです。人の罪深い本性はサタンの本性なのです。人に奥深く根付き、人の命となったので、罪を犯し、神に逆らってしまうのです。サタンの本性こそ、神に抵抗する原因です。罪が赦されたからと言って、サタンの本性は赦されるでしょうか?サタンの本性は神と真理に真っ向から反するので、神は赦されません。ですから、人類をサタンの本性の束縛から救い、裁き、罰せねばならないのです。終わりの日の神の御働きは人に潜むサタンの本性と性質が対象です。サタンの本性は裁きと刑罰でしか取り除くことができないのでしょうか?苦しんで肉欲を克服し、強い意志で自らを律すれば、サタンの本性を除去できるのか?できないのです。歴史上の聖徒達は、体を苦しめ抑制してまで罪の束縛から解放され、肉を超越しようとしましたが、サタンに勝ち、真に神に服従できた者がいますか?ほとんどいません。いたとしたら、神に完全にされた人です。そう多くはないでしょう?神の裁きと刑罰がなければ、人が持つサタン的な性質は清められず、人のいのちの性質は変わらないままです。サタンの本性は人間の手では消せないことがわかります。真理と永遠のいのちを得るには神様の裁きと刑罰、刈り込み、取り扱い、試練と精錬を受けるしかありません。そこで初めてサタンの本性は消えてなくなります。主イエスの贖いの働きをもとに全能神は終わりの日に裁きの働きをされ、サタンの本性による束縛や支配から人類を完全に清めて救い神のものにされるのです。終わりの日の神の裁きと刑罰こそが、人類を清め救うのです。これが事実です。

      神様はなぜ、堕落した人類を裁いて罰する働きを終わりの日になさるのですか。この問題を理解するには、神様が一、二段階の働きだけで人類を完全に救われるわけではないことを知らなければなりません。むしろ、それは三段階の働き、つまり律法の時代、恵みの時代、神の国の時代それぞれの働きを通じて行なわれます。人類をサタンの支配から完全に救えるのはこれら三段階の働きだけであり、人類を救う神様の働き全体を構成するのもこれら三段階の働きだけです。律法の時代、ヤーウェ神は人間の地上での生活を導くために律法と戒律を布告なされ、人類はそれらを通じて神様がどのような人を祝福なさるか、どのような人を呪われるか、そして何が義で何が罪かを知ることができました。しかし律法の時代の後期、人類はサタンによってますます堕落させられてしまったため、すべての人は罪の中で生きていました。彼らは律法を守ることができず、律法によって断罪され呪われる危険に直面しました。そのため、恵みの時代の主イエスがおいでになって贖いの働きをなさり、人間が自分の罪を告白し、悔い改めることで、赦されるようになさり、かくして人間が律法によって断罪され呪われることがなくなり、神様の御前に出て祈り、神様と交わり、神様の豊富なお恵みと真理を享受する資格を得たのです。これが「救われる」ことの本当の意味です。しかし主イエスは私たちの罪をお赦しになっただけであり、私たちの罪深い本性やサタン的な性質をお赦しになったわけではありません。私たちのサタン的な本性はいまなお存在しています。私たちは自分の罪深い本性の束縛と支配から自由になる術を持たないまま、罪を犯してはそれを告白し、そして再び罪を犯すという悪循環の中に存在し続けました。私たちは苦しみの中で神様に叫びました。「私は本当に苦しんでいます。どうすれば罪の束縛と支配から自由になれますか」これは主の信者である私たちの誰もが共有している経験であり認識です。しかし、私たちは自分の罪深い本性を自分で解決することができません。人間の誰一人として人類を救う働きはできないのです。創造主である神様だけが人類を救い、サタンと罪から解放することがおできになります。神様だけが私たちをサタンの支配からお救いになれるのです。全能神はこうおっしゃっています。「彼は人を造ったからには、人を導く。彼は人を救ったからには、完全に救い、完全に人を獲得する。彼は人を導くからには、人を適切な終着点に連れて行く。そして、神は人を創造し、経営するからには、人の運命と前途のために責任を負わなければならない。これこそが造り主によってなされる働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より)神様は誠実でいらっしゃいます。人間をお救いになるのですから、徹底的になさいます。途中でお止めになることは絶対にありません。そのために全能神は人類を完全に救うべく、すべての真理を表現なさり、終わりの日に人類を清めてお救いになるのです。全能神は人類のサタン的な本性とサタン的な性質という問題を完全に解決すべく、神様の家から始まる裁きの働きをなさいます。そうなさることで、人類は罪から自由になり、救いを獲得し、神様に得られることができるのです。終わりの日の全能神がなさる裁きの働きは、まさに堕落した人類が必要とするものであり、また神様が人類を救うためになさらねばならない働きの鍵となる段階でもあります。それは主イエスによる次の預言を成就します。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「真理の御霊」とは、終わりの日に受肉して人間の身体になられ、真理を表現なさり、裁きの働きを行なわれる神様を指しています。私たちがしなければならないのは、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れ、それに従うことだけで、そうすることで救いを獲得して神様に得られることができます。これは神様による終わりの日の裁きの働きを真に経験した人がみな立証できることです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

 


神の羊は神の声を聞く:真の道を究めるには神の言葉を聞くべきです

2020-08-22 20:24:07 | 書籍

神の羊は神の声を聞く:真の道を究めるには神の言葉を聞くべきです


      ここ数か月間、パンデミックが広がり、感染確認者数と死亡数がどんどん増えつつあります。世界中に昆虫の大量発生、洪水、火事、戦争の脅威など、災が蔓延しています。クリスチャンの多くは、主が既に再臨されていることに気づいており、今やその出現を求めつつあります。現在、全能神の教会だけが主は再臨されていると証ししており、今や多くの人が全能神の出現と働きを求め究めつつあります。全能神の言葉を聞いて、それが神の声であると確信し、終わりの日における全能神の働きを受け入れている人が、だんだん増えてきています。とはいえ全能神の働きが中国共産党政府や宗教界の牧師や長老たちによって中傷・非難されているのを見て、彼らに従う決心をする人もいます。その人たちは、これが真の道であると信じず、それを求め究めようともしません。真の道を究める際は注意が必要ですが、中国共産党政府や牧師や長老の言葉を、真の道か偽りの道かを判断する基準として引合いに出すことが、真理にかなっているでしょうか? 私たちが主のご再臨をお迎えできるようになるには、真の道を究めようとするとき、誰に耳を傾けるべきでしょうか? ここでは、その問題について分かち合い探求していきたいと思います。
目次
     ● 中国共産党政府の非難を信じることはサタンの言葉を信じること
     ● 真の道を究めるとき、牧師や長老が言う事を信じて神の言葉を聞かないというのは正しいことだろうか?
      ● 真の道を究めるなら神の声を聞くべき
      中国共産党政府の非難を信じることはサタンの言葉を信じること
中国共産党政府が無神論の政府であることは誰でも知っています。権力を握って以来、中国共産党は無神論、唯物論、進化論を宣伝してきました。常に神の存在を否定し、「我々に救いを与える者は誰もいない」、「運命は己の手中にあり」、「人は自分の手で楽しい故郷を作ることができる」などとサタン的な欺瞞を唱道しています。また中国共産党はキリスト教を「邪教」、聖書を「邪教」の本だと公然と非難しています。非常に多くの教会を破壊し、無数の聖書を焼き払い、クリスチャンとカトリック教徒を不当に逮捕し迫害しています。キリスト教やカトリック主義に対する荒れ狂った迫害からわかることは、中国共産党が真理と神をひどく嫌っているということです。神に反対するサタン的な政権がどうして神の出現や働きを認識できるでしょうか。中国共産党は単に真理の道などというものがあることさえ認めようとしません、ましてや神の存在はなおさらのことです。一つの道が真の道であるかどうか判断するにあたって、中国共産党が流すうわさや偽りを信じることと、悪魔であるサタンの言葉を信じることと何の違いがあるでしょうか?
さらにいえば、はるか昔から真の道が、迫害を受けてきたことは誰もが知っています。サタン的な政権はすべて神や真理に対して最大の嫌悪を示し、何かが神のものであればあるほど、それだけ熱狂的に反発します。だから神がやってきて働きを行うたびに、必ずサタン的政権によって迫害や非難を受けるのです。これは否定できない事実です。昔、主イエスが説教をし、働きを成したとき、ユダヤ教の祭司長やパリサイ人たちがローマの役人たちと共謀してイエスを十字架にかけました。では統治政権による非難、迫害、虚言、中傷を受けているからといって、主イエスがキリストであるという事実を否定できるでしょうか。同様に、神は働きを行うために再臨され、中国共産党は神の出現と働きに対する荒れ狂った非難と冒涜の度合いを増しています。キリスト教徒を不当に逮捕し迫害し、国内外でオンラインメディアを通じて、神の働きを中傷し、真実を知らない人たちを誤った方向に導くようないつわりを広めています。神が出現し、人類を救うために働きつつあり、人類すべてが真理を受け入れて神に立ち返るようになるのを党は恐れているので、恐れからこのようなことをするのです。さらに神の言葉が地上に伝えられるようになり、神の国が地上に表れ、人類すべてが中国共産党を拒否するのではないかと恐れているので、なおさら強硬になります。だから中国政府は全能神の教会を熱狂的に抑圧し、残酷に迫害するのです。これが、中国政府が神の働きを中傷・非難する根本的な理由です。私たちが真に識別力を持つならば、このサタン的な政権に最も反対され嫌われているものによって、何が真の道なのか判断すべきです。逆に、終わりの日における全能神の働きが中国政府の反対と非難を受けているからといって、それを究めることを諦めてしまうなら、私たちはまさに大馬鹿者となってしまいます。
真の道を究めるとき、牧師や長老が言う事を信じて神の言葉を聞かないというのは正しいことだろうか?
     中国共産党政府は常に神に抵抗しており、党がオンラインに掲載していることは何も信頼できないけれども、牧師や長老たちは聖書に精通していて理解しているから、真の道を究めようとするなら、彼らの言う事を聞けば間違いない、と思う人もいます。けれども誰かが聖書に精通しているということが、真理を理解しているということになるのか、考えたことがありますか。ユダヤ教の祭司長、聖書学者やパリサイ人を考えてみれば、彼らは聖書に精通していて、たびたび人に聖書の解説をしていました。けれども主イエスが現れて働きを行われたとき、彼らはイエスをメシアと認めたでしょうか。イエスの言葉を、真理、神の声と認識したでしょうか。彼らは主を認識しなかっただけでなく、自分の立場や暮しを守るために、聖書の文字面の意味を引合いに出して主に逆らい、イエスについて噂をでっちあげ、イエスの信用を傷つけたのです。彼らはイエスを猛烈に非難し冒涜し、最後はローマの役人たちと共謀して主イエスを十字架にかけました。これらの事実が十分に示すことは、誰かが聖書に精通していてたびたび聖書を解説していたとしても、その人が真理を理解していることにはならず、ましてや神を知っていることにもならないということです。これは当時のユダヤ教に忠実な者がよく理解できなかったことであり、パリサイ人についていえば、まったく識別力がありませんでした。主をお迎えするということにおいて、彼らは宗教指導者の言うことを盲目的に信じ、一部の人は主イエスの言葉と働きに権威と力があることを良く知っていながら、なお宗教的パリサイ人たちが流した噂や中傷を信じたのです。そのため、彼らは騙され宗教指導者たちと一緒になって主イエスを非難し拒みました。彼らは主の救いを得られなかったばかりか、神に罰せられてしまいました。
    まったく同様に、今の牧師や長老たちは聖書に精通していますが、それが真理を理解し神を知っているという証拠にはなりません。通常、その説教のほとんどが聖書知識や神学理論であり、彼らが主イエスの言葉を伝えたり証したりすることは極まれです。その聖書知識や神学理論は、人にいのちの糧を与えることができず、彼らがいかに多くを知っていても、それが真理を理解し、あるいは主を知っているということにはまったくなりません。私たちにとって今何よりも必要なことは、なぜ宗教界がこんなに荒廃しているか、いかに教会の荒廃の根本原因を解決するか、いかに神の足跡をたどるか、いかに主をお迎えするか、いかに神の御旨を行い主に従うか、いかに罪の束縛から解放され清められてキリストと共に生きることができるかなど、真理をいくつか理解することです。牧師や長老たちは、自分がわからないので、そのような真理を説いたことがありません。彼らが真理を理解したなら、信者たちは潤され励まされることでしょう。牧師や長老たち自身が真理を理解せず主を知らなくて、どうして主のご再臨をお迎えするよう私たちを導くことができるでしょうか。聖書ではこう言っています。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(マタイによる福音書 4:10)。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」(マタイによる福音書 15:8-9)。「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心がヤーウェを離れている人は、のろわれる」(エレミヤ書 17:5)。信仰において神を偉大なものと賛美し、真心をもって神を拝むよう、主は私たちに勧めておられます。私たちは他人の目を気にしたり、他者のいう事を簡単に信じたりしてはなりません。そうでなければ私たちがいかに主に従っていようと、決して主にほめられることはないでしょう。神への信仰において、真の道を究めるという重要な問題について牧師や長老たちを盲目的に信じ、自分の運命や終着点を彼らの手に委ねるとしたら、これはどのような問題となるでしょうか? 神を信じるのでしょうか、それとも人を信じるのでしょうか。真の道を究めるとき、神が言われることを聞くべきでしょうか、それとも牧師や長老たちが言うことでしょうか。真の道を究めながら、自分自身の考え方を持たずに他者の言葉をただ盲目的に信じるなら、自分の人生に責任を持っていないことになりませんか。そうなればかつて一般のユダヤ人が犯したと同様の間違いを犯しがちになり、主に見捨てられ排除されてしまうでしょう。
真の道を究めるなら神の声を聞くべき
    真の道を究めようとするなら、牧師や長老あるいは中国政府の言うことを盲目的に信じるのではなくて、自分自身の考えを持つべきです。私たちは主の言葉に従って実践しなければなりません。その時初めて、主の出現をお迎えすることができるでしょう。主イエスは言われました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」 (ヨハネの黙示録 3:20)。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)。黙示録の2章と3章はたびたびこう予言しています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」全能神は言われます。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちである』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか」。(「神の現れによる新時代の到来」『言葉は肉において現れる』)。これからわかることは、神が終わりの日に再臨なさるときは、より多くの言葉を発せられるため、私たちは神の声を聞くことに集中する思慮深いおとめのようになるべきだということです。思慮深いおとめは資質を持ち霊的感覚が鋭く、キリストの発する声からその言葉が真理、いのちの道であると認識することができ、そのため神の声に気がついて神の出現をお迎えすることができるのです。恵みの時代に主イエスが現れ、ご自分の働きをされたとき、このように表現されました。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)。ペテロ、ヨハネおよび主イエスに従った他の弟子たちはみな、神の声を通して主を認識しました。主が表されていることが真理だということを彼らは聞くことができ、そのため躊躇せずに両親も家も捨てて主に従い、じきじきに主に潤され導かれました。彼らは、主イエスに従っているあいだ、あらゆる方法でパリサイ人による嫌がらせや妨害を受け、ローマの役人の中傷や非難を受けました。それでも彼らは神の言葉に耳を傾け、神に従うだけで、統治権力や宗教的パリサイ人に妨げられ騙されるのを拒みました。キリストを認め最後までキリストに従い、キリストに祈り、その言葉を体験しました。彼らはいのちにおいてしだいに成熟し、神についての知識をいくらか持つようになりました。けれども、ユダヤ教に忠実な者たちは、頑なで無知で頑固であって、権威と力に満ちた主イエスの言葉を聞いて、このようなことを言える人間はいないとわかっていても、主イエスを信じることも彼に従うこともできなかったのです。彼らはパリサイ人たちに嫌がらせを受け騙されるという兆しが少し見えただけでぐらつきました。彼らは神を信じていましたが、神の言葉を聞くことができず、識別力も自分自身の考えも持たず、サタンの側に立って神に逆らうまでになりました。結局、そのような人たちは神に捨てられ排除され、地獄に落ちて永遠に罰せられるだけでした。ですから、私たちが真の道を究めるとき、他者の言うことを盲目的に信じてはならず、神の声を聞くこととキリストが真理、道、いのちであると認識することに集中せねばなりません。それが最も重要なことです。
    全能神による終わりの日の福音は、今や全世界に広がっており、全能神が表現された古典的な言葉の本『言葉は肉において現れる』は20以上の言語に翻訳され、求め究める全人類に向けてオンラインで公開されています。神への真の信仰とは、神への服従と愛とは、いかにして神を恐れ悪を避けられるか、いかにしてキリストと共に生きることがきるか、いかにして意義ある人生を実現できるかなど、全能神は人類を救うためにすべての真理を表しています。神の出現を待望する全世界の人々が、全能神の言葉の中に神の声を認めています。彼らは、これらの言葉は神が人間を清め救うために表わされた真理であると確信しており、次々と神の家に立ち返ってきています。いかに牧師や長老たちが邪魔しようとしても、中国政府がどんな非難や冒涜を広めようと、彼らは揺らぐことなく神に従います。このような人たちが、思慮深いおとめたちであり、神の御座に引き上げられている者であり、神に清められ完成され、終わりの日に神によって勝利者とされるチャンスがある者たちです。そのほかに、全能神の表される言葉はすべて真理であり、それは神の声だとわかるのに、なおも牧師や長老たちが語る禁止令を聞いて騙され抑制され、神の働きを究めようともしない人たちもいます。彼らは真の道と神の働きを疑うまでになります。これが思慮深いおとめのふるまい方でしょうか。神が百の言葉を語っても、彼らはそれを完全に信じることができないのに、堕落した人類の一人がたった一言話すだけで、心からそれを受け入れてしまいます。この人たちは思慮の浅いおとめではありませんか? 真の道を究めるとき、愚かなおとめたちは神の声を聞かない代わりに、人の声を聞きます。彼らは常にサタンの嫌がらせと欺きを受け、ついにはサタンの餌食となるのです。彼らは神の救いを失い、神に捨てられ排除され、災いによって一掃されるでしょう。これはまさに聖書のこの言葉の成就です。「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」(ホセア書 4:6)。「愚かな者は知恵がなくて死ぬ」(箴言 10:21)。
    さて、終わりの日における全能神の働きは、まもなく終わりを迎えようとしています。私たちはペテロのように、神の声を聞き主を迎える人になりたいでしょうか。それともユダヤ教に忠実な人のように、牧師や長老たちやサタン的な政権の言うことに盲目的に従って、神の救いを失いたいでしょうか。真の道を究めようとするとき、神の言葉を聞くか人の言葉を聞くかによって、私たちの運命や最後の結末が決まります!全能神は言われます。「神の働きは強い波のように打ち寄せる。誰も神を引き留めることはできず、誰も神の前進を停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め渇望する人々だけが神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然受けるべき罰を受ける」(「神は全人類の運命を支配する」『言葉は肉において現れる』)。