神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

質問4

2020-08-14 22:28:37 | 書籍

質問4:宗教界の牧師や長老たちは主の肉における再臨についての証しは偽りであると信者によく説教します。これは以下の聖句をもっぱら根拠としています。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)現在、私たちには真のキリストを偽キリストからどのように見分けるべきかわからないので、この質問についてはっきり説明していただけませんか。

 

回答

主イエスは終わりの日の偽キリストと偽預言者のことを預言されました。これは事実です。しかし、ご自身の再臨も何度か明確に預言されました。私たちはそう信じているでしょう?多くの人は主イエスの再臨の預言について偽キリストや偽預言者を警戒することを優先して、到来する花婿を迎えることや花婿の声を聞くことは考えません。何が問題なんでしょう。むせたくなくて食べないのと同じ。全体を見ていない。実際には偽キリストと偽預言者をいくら警戒しても、主の再臨をお迎えすることができず、御座の前に連れて行かれないのなら、私たちは神に排除され見捨てられた愚かな乙女であり、その信仰は完全な失敗なんです。主の再臨をお迎えするための鍵となるのは御声を聞き分けられるかどうかです。キリストが、真理、道、命であることを認めるなら、御声は簡単に分かります。真理が分からず神のしるしや不思議な業に目を向けてばかりいると、偽キリストや偽預言者にだまされてしまいます。真の道を求めも学びもしなければ、神の御声を聞くことなどできません。それでは死を待ち破滅を招くだけでしょう?御言葉を信じるんです。神様の羊は御声に聞き従います。真の知恵と資質があり、御声を聞き分けられる者は偽キリストや偽預言者にはだまされません。偽キリストや偽預言者は真理がなく、神の働きができません。だから気にすることはありません。ただ混乱している者や知恵のない者だけが偽キリストや偽預言者にだまされるんです。賢い乙女は偽キリストや偽預言者にだまされたりしません。神の配慮とご加護があるからです。神が人を造られた時、賢い乙女は人の霊を与えられ、御声が聞こえました。神様の羊が御声に聞き従うのは神が定められたことです。愚かな乙女だけが偽キリストや偽預言者から身を守るのに熱中し再臨を求めずにいるんです。偽キリストや偽預言者にだまされず、主の再臨をお迎えしたいと思うのなら、偽キリストがどのように人をだますか知らねばなりません。実を言うと、主イエスは偽キリストや偽預言者のやり方について語っておられます。主イエスは言われました。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書 24:24)偽キリストと偽預言者は神の選民をだますためにしるしや不思議な業に頼るということです。これが偽キリストの使うおもな手口です。ここで理解すべきなのは、なぜしるしや不思議な業を用いてだますかということです。なぜかというと、偽キリストと偽預言者には真理がないからです。その本性も本質もきわめて邪悪な霊なので、しるしや不思議な業に頼るしかないんです。もしも彼らに真理があるのなら、しるしや不思議な業を用いたりはしないでしょう。こうして見ると、しるしや不思議な業を見せるのは彼らにはそれしかできないからだと言えます。このことが分かっていなければ、彼らにだまされてしまいます。キリストのみが真理であり、道、命です。真理を表し、人々に道を示し、命を与えられるのはキリストだけなんです。真理を表せないのは間違いなく偽キリストです。詐欺師なんです。これが偽キリストや偽預言者を見抜く方法です。真の道を求める者はこの原則に従って、神の御声を求め確かめれば、間違いはありません。

全能神はもう偽キリストや偽預言者の不誠実なやり方を暴いておられます。全能神の御言葉を数節読みましょう。全能神は言われます。「病人を癒やし、悪霊を祓うのは、恵みの時代の働き、贖いの働きの第一歩であったが、神が人間を十字架から救った今となっては、もはやその働きを神は行わない。もし終わりの日に病人を癒やし、悪霊を祓い、人間のために十字架につけられたイエスと同じ『神』が現れたなら、その『神』は聖書の神の記述と同じで、人間には受け入れ易いであろうが、本質的に、それは神の霊が人間の肉をまとったものではなく、悪霊によるものであろう。すでに成就した働きは二度と繰り返さないのが神の原則だからである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)「この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を起こせる人が現れて、またその人が再来したイエスであると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。…人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。それを理解しておきなさい。」(『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より)「神の働きは人が抱く観念とは決して一致しない。神の働きはいつも新しく、決して古くないからである。神は古い働きを決して繰り返さず、むしろこれまでなされたことのない仕事をたゆみなく行う。」(『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より)

全能神ははっきりこうおっしゃっています。神は常に新しいし、決して同じ働きはなさらない。これは主イエスが来られて恵みの時代を開かれた時と同じなんです。主イエスは贖いの働きで人類を罪から救われました。働きの効果が出るようにしるしや不思議をなさいました。終わりの日には全能神が来られ、神の国の時代を開かれ恵みの時代を終わらせました。でも主イエスの働きを繰り返すのではなく、主イエスの贖いの働きを基にして神の家から始まる裁きの働きをなさいます。人類の清めと救いのための真理をすべて表し、罪の源とサタン的性質を解消し、人をサタンの影響から完全に救ってくださり、神のものとされるんです。偽キリストたちはみなキリストのふりをしている悪霊です。新しい時代を開き古い時代を終わらせることはできません。できるのはただ主イエスの真似をして簡単なしるしと不思議な業を行い、愚かで判断できない人をだますことだけです。主イエスのように死人を生き返らせたり、五つのパンと二匹の魚で五千人のお腹を満たしたりすることも、風と海を叱ったりすることもできません。彼らにはとうてい無理なんです。実際偽キリストたちというのは邪悪な悪霊で、まったく真理がありません。だから、しるしや不思議な業に頼って人をだましたり、またあるいは神の御言葉の口調や昔の簡単な御言葉を真似て人をだましたり戒めたりするんです。

真のキリストと偽キリストの見分け方について、全能神の御言葉を見てみることにしましょうか。全能神は言われます。「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)この全能神の御言葉から分かることは、キリストが受肉の神であって、肉をまとった聖霊、つまり神がお持ちのもの、性質や知恵を含む神のものすべてがキリストの肉に実現されています。キリストは神性をお持ちで真理の化身です。いつでもどこでも真理を表して人を養うことができます。キリストだけが人類を贖い救うことができるんです。これは誰にもまねができませんし、否定することもできません。ほとんどの偽キリストたちは悪霊に取り憑かれています。彼らはひどく傲慢で理不尽で、本質は悪霊であり、悪魔です。だから、どれほどしるしや不思議を行っても、聖書を曲解しても、深い知識や理論を語っても、人をあざむき害し、破滅をもたらすだけです。彼らは何の益ももたらさず、人々の心に暗闇をもたらして道を閉ざし、サタンの餌食にするだけです。明らかに偽キリストと偽預言者はみなサタンの化身であり、神の働きを妨げる悪魔です。だからどれだけの人をだまし、害を与え、滅ぼしたとしても、やがては倒れて自滅していきます。なぜなら彼らには少しの真理もないんですから。真のキリストと偽キリストの見分け方を本当に理解すれば、偽キリストにだまされるのを恐れず、御声を聞き神の出現をお迎えすることができるはずです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

全能神が真理を表し終わりの日の裁きの働きを始められて以来、人類はすでに神の国の時代に入っており、神の国の時代が始まりました。私たちの神様への信仰が恵みの時代にとどまったままなら、私たちは置き去りにされて神様の働きに見捨てられてしまいます。主イエスが密かに戻られ、神様の家から始まる裁きの働きをなさるとき、多くの偽キリストや人を惑わす者が必ず同時に出現し、神様の働きのあとを追い、それを混乱させます。したがって、偽キリストが現われるとき、神様は実際にもうおいでになって密かに降臨されており、単に私たちがそれを知らないだけなのです。そのとき、私たちは終わりの日の神様の働きを積極的に探し求めて考察すべきですが、現在、主の再臨の話となると、どのように賢い乙女になって神様の御声に耳を傾け、主の再臨をお迎えすべきかに注意を払うよりも、偽キリストから身を守ることを最重要な事柄として扱う人がいまだに数多くいます。そのような人はむしろ自分の観念や想像に固執し、主の再臨の証しはすべて偽りだと考えています。彼らはまさに主イエスがお語りになった愚かな乙女ではないでしょうか。これは主イエスの再臨を断罪していることになりませんか。そのような人はそもそも主イエスの再臨を信じているでしょうか。これは主イエスの再臨を暗に否定していることになりませんか。

真のキリストと偽キリストをどのように見分けるかは、私たちに真理があるかどうかを実によく表すものであり、私たちが賢い乙女か愚かな乙女かを示す最善の方法です。中には聖書のこの一節を、受肉されたキリストを裁いて断罪し、キリストの到来を否定する根拠とする人もいます。このような人は自らを愚か者としてさらしているのです。真のキリストと偽キリストを見分けるには、まずキリストの本質に関する認識をもたなければなりません。私たちはみな、主イエスは受肉されたキリストであり、キリストは受肉された神様でいらっしゃること、つまり、天にまします神様は人の子として受肉され、人のあいだで働きをなさることを知っています。キリストは神様の霊の化身であり、神性の本質を有しておられます。神様の霊が有しておられる神様の全能性と知恵、性質、神様が所有されているものと神様そのものはすべて、キリストにおいて具体化されています。キリストは真理であり、道であり、いのちでいらっしゃいます。このようにして、キリストは漠然とした神様ではなく、架空のものでもはかないものでもないことが確信できます。キリストは現実的で実際的です。私たちはキリストを頼り、信じることができます。キリストは、従って知ることができる実際の神様です。それはまさに、主イエスが私たち人間のもとで生き生きとお暮らしになり、働き、人を導き牧されたのと同じです。いま私たちはキリストの本質を知っており、真のキリストと偽キリストを見分けるのはとても簡単になっています。ここで全能神の御言葉の一節に目を向けましょう。全能神は言われます。「このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

主イエスは恵みの時代においでになったとき、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6)とおっしゃいました。主イエスは数多くの真理と、おもに憐れみと愛の性質を表され、全人類を贖う神様の働きを完了なさいました。主イエスの働き、御発言、表された性質は、キリストが真理であり、道であり、いのちでいらっしゃることを完全に証明しています。終わりの日、全能神はおいでになって「わたしの言葉は真理であり、いのちであり、道であり…」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十二章」より)とおっしゃいました。全能神は数百万の言葉を表して巻物をお開きになり、おもに義である性質を表され、終わりの日の裁きの働きをなさってこられました。堕落した人類を裁いて罰し、お救いになる全能神の働きは、キリストが真理であり、道であり、いのちでいらっしゃることを再び証明しています。はるか昔主イエスは終わりの日に戻られて裁きの働きをなさること、そのために人の子の肉体をまとわれ、人の子のお姿で私たち人間の世へおいでになり、諸教会に語られることを預言なさいました。全能神の働きは、主イエスの再臨の預言を成就したのです。そのことから、受肉された真のキリストはおいでになって真理と神様の性質を表し、終わりの日における神様の裁きの働きをなさり、人類を征服し、救い、清め、神様の御心を実行して神様を証しなさることがわかります。キリストは真理であり、道であり、いのちでいらっしゃいます。キリストがお表しになるすべての真理は、堕落した全人類を必ずや徹底的に征服し、心から神様を信じるすべての人を神様の玉座の前へと連れて行くことができます。キリストはきっと終わりの日の神様の働きを成就なさいます。それは間違いありません。

偽キリストはキリストのふりをする悪霊であり、人を惑わします。偽キリストの大半は悪霊に取り憑かれています。たとえ悪霊に取り憑かれていなくても、彼らは極めて傲慢で理知をもたない悪魔です。キリストのふりをするのはそれが理由です。キリストのふりをするのは聖霊を冒涜する罪を犯すことであり、間違いなく呪われます。偽キリストの本質は悪霊なので、真理は一切なく、本質的に悪魔です。したがって、偽キリストが口にすることはどれも嘘や偽りであり、人を納得させることができません。偽キリストのすべての言動は詮索に耐えられず、さらに、彼らはそれをインターネットに投稿して、全人類が探し求めて考察できるようにしようなどとはしません。それは偽キリストも悪霊も暗黒で邪悪であり、白日の光に耐えられないからです。彼らは単純なしるしや不思議を見せることを頼りに、あちこちの暗い隠れた場所で愚かで無知な人たちを騙すことしかできません。ゆえに、キリストを自称しながら、単純なしるしや不思議に頼って人を騙すことしかできない人は偽キリストであると確信できます。全能神、終わりの日のキリストがお表しになる真理はすべてインターネットに投稿され、全人類に堂々と公開されています。心から神様を信じて真理を愛するすべての人が真の道を探し求めて考察しており、ひとりまたひとりと全能神の玉座の前に戻り、神様の御言葉による裁きと清めと完全化を受け入れています。それは一般に認められた事実です。偽キリストによる言動は、受肉されたキリストによるそれとまったく違っています。真理を理解する人がそれを識別するのはとても簡単です。ゆえに、キリストは真理であり、道であり、いのちでいらっしゃるという原則を基に真のキリストと偽キリストを見分けるのが最も正確な方法です。主イエスはかつて神の羊は神の声を聞くとおっしゃいました。賢い乙女は神様の御声を聞き、花婿の声の中に真理を、神様の御言葉の中に神様の性質を発見し、神様が所有されているものと神様そのものを見つけることができ、神様の御旨がわかるので、神様の働きを受け入れて神様の玉座の前に戻ることができます。愚かな乙女には花婿の声が聞こえないのはなぜですか。愚かな乙女は何が真理かを識別できないから愚かなのです。愚かな乙女は神様の御声を聞き分けることができず、規則にどう従うべきかしか知りません。ゆえに、愚かな乙女は終わりの日における神様の働きによって暴かれ、淘汰されます。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

終わりの日の神様の働きを経験する私たちは皆、一つの事実をはっきりと見ます。つまり、神様の働きが新しい段階に入るたび、それを模倣、真似して人を惑わそうとするサタンとあらゆる悪霊がそのすぐあとに続くのです。主イエスは病人を癒やし、悪魔を追い払われましたが、サタンと悪霊も病人を癒やし、悪魔を追い払いました。聖霊が異言を語るという贈り物を授けると、悪霊も人を操り、誰も理解できない「異言」で語らせました。しかし、たとえ悪霊が人間の必要とするものに迎合するためなら何でもし、人を惑わすために超自然的な行ないをするとしても、サタンと悪霊はこれっぽっちも真理を有していません。サタンと悪霊が決して人間に真理を授けられないのはこのためです。その点をもとにして、真のキリストと偽キリストを見分けることができます。

受肉した神様が今回の働きをお始めになったとき、まず卑しい身分のまましばらくお隠れになり、ご自分の御言葉が頂点に達して人が皆征服されるまでお待ちになりました。そのとき初めて聖霊がキリストの証しをしました。キリストは自分がキリストであると誰かに面と向かっておっしゃったことも、キリストというご自身の立場をお使いになって他人に説教なさったこともありません。卑しい身分のままお隠れになり、人々のいのちが必要とする糧を提供し、真理を表現し、人々の性質を変化させる際の困難を解消することに没頭なさったのです。キリストはご自身を誇示なさったことがなく、いつも卑しい身分のままお隠れになっていました。それはいかなる被造物にも匹敵しえないことです。キリストはご自身の立場や地位をお使いになって人をご自分に服従させたり従わせたりなさったことがありません。むしろ、人々が神様の認識を得て、神様に従い、神様によって得られるよう、人類を裁き、罰し、救うべく真理を表現なさいます。神様が真に尊いのはそのことからも明らかです。神様はご自身の霊を肉において有形化しつつ、謙虚かつ密かなやり方で働きを実行なさいます。人間がこの世で経験するすべての苦しみを、神様は一言も不満を漏らさず自ら経験なさいます。キリストである神様はご自身を誇示したり自讃したりなさったことはなく、もちろん、威張られたこともなければ独善的であられたことすらありません。神様は神聖なる高潔さと聖さを完全に発せられます。それは比類なきまでに高貴な神様のいのちの本質と、神様がまさに愛の具現であることを明らかにします。偽キリストや悪霊によってなされる働きは、キリストによってなされる働きの対極にあります。悪霊は我こそキリストであるとすぐに主張します。自分の言うことを聞かなければ御国に入れないと言うのです。他人の目を自分に向けさせるためなら何でも行ない、自慢し、見栄を張り、自分自身を讃え、人を惑わすために何らかの奇跡を行ないます。人が惑わされてそれらを受け入れると、長きにわたって真理という糧を欠くため、最後は音もなく崩れ去ります。偽キリストは真理ではなく、道でもなく、いのちでもないので、そうした例は数多くあります。ゆえに偽キリストは道を有していません。それに従う者は遅かれ早かれ恥をかきますが、そのときになって引き返そうとしても手遅れです。キリストだけが真理であり、道であり、いのちであると確信を持って決意することがもっとも重要なのは、それが理由です。偽キリストには絶対にいかなる真理もなく、それは悪霊も同じです。それらがどれだけ多くのことを言おうと、あるいはどれだけ多くの書を著わそうと、そのどれにも真理は一つもありません。それは絶対です。キリストだけが真理を表現できます。その点をもとに識別力を持つことが極めて重要です。さらに、キリストはご自分を受け入れたり認めたりするよう人々に強制なさったことはありません。キリストを信じる人は真理をますますはっきり理解するようになり、道はますます明るく照らされるようになります。そのことはキリストだけが人間をお救いになれることを証明します。キリストが真理だからです。偽キリストが言えるのはキリストを真似たいくつかのことや、正邪を歪め何の真理も含んでいない言葉だけです。それらは闇と厄災、そして悪霊の働きしか人間にもたらしません。偽キリストに従えば絶対に救われず、サタンによってさらに深く堕落させられるだけです。さらに麻痺し、頭がますます鈍くなって、ついには滅亡に至ります。偽キリストに従う者は盗賊どもの小舟に乗った盲人に似ています。彼らは自分自身の破滅を招いているのです。

『偽キリスト、反キリストが人を惑わした事例解剖』の「序文」より

脚注

a.原文では「~かどうかに関しては」と書かれている。

 


神の働きのビジョン(3)

2020-07-24 22:35:22 | 書籍

神の働きのビジョン(3)


神が初めて肉となったのは聖霊による受胎を通じてであり、それは神が行なおうとする働きに関係していた。恵みの時代はイエスの名と共に始まった。イエスが自身の職分を始めたとき、聖霊はイエスの名に対する証しを始め、ヤーウェの名はもはや語られなかった。その代わり、聖霊はおもにイエスの名のもとに新しい働きに着手した。神を信じる人たちの証しはイエス・キリストのためになされ、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためだった。旧約聖書における律法の時代の終わりは、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きが完結したことを意味していた。その後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神は代わりにイエスと呼ばれ、それ以降、聖霊はおもにイエスの名のもとで働きを始めることになった。人々は今日もなおヤーウェの言葉を飲み食いし、いまだに律法の時代の働きにしたがってあらゆることを行なっているが、あなたは盲目的に規則に従っているのではないか。過去から抜け出せずにいるのではないか。現在、あなたがたは終わりの日が来たことを知っている。イエスが来るとき、彼はやはりイエスと呼ばれるということなのか。ヤーウェはイスラエルの人々にメシアが来つつあると言ったが、メシアが本当に来たとき、それはメシアでなくイエスと呼ばれた。イエスは、自分は再び来る、去ったときと同じように現われると言った。これらはイエスの言葉だが、あなたはイエスの去り方を見たのか。イエスは白い雲に乗って去ったが、白い雲に乗って自ら人々のもとに戻ってくるということなのか。そうであれば、やはりイエスとは呼ばれないのだろうか。イエスが再び来るとき、時代はすでに変わっているが、それでもやはりイエスと呼ばれることがあり得るのか。神はイエスという名でしか知られないということなのか。神が新しい時代に新しい名で呼ばれることはないのか。ひとりの人の姿とある特定の名前が神の全体を表わすことができるのか。それぞれの時代、神は新しい働きを行ない、新しい名で呼ばれる。どうして神が異なる時代に同じ働きを行なえるのか。どうして神が古いものにしがみつけるというのか。イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき、依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスはまだ贖いの働きを行なっているのだろうか。ヤーウェとイエスは一つでありながら、異なる時代に異なる名前で呼ばれるのはなぜか。それは働きの時代が違うからではないのか。一つの名前で神の全体を表わすことができるのだろうか。そのようなわけで、神は異なる時代に異なる名前で呼ばれなければならず、名前を使って時代を変え、時代を表わさなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神を完全に表わすことはできず、それぞれの名前はある時代における神の性質の一時的な側面しか表わせないからである。必要なのは、神の働きを表わすことだけである。よって、神は時代全体を表わすために、どんな名前であれ自身の性質に合う名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代であれ、イエスの時代であれ、それぞれの時代は名前によって表わされている。恵みの時代の終わりに最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのに、神はどうしていまだにイエスと呼ばれ得るのか。どうして人々のあいだでイエスの姿をとれるのだろうか。イエスはナザレ人の姿に過ぎなかったことを忘れたのか。イエスは人類の贖い主でしかなかったことを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し、完全にする働きに取り組めるというのか。イエスは白い雲に乗って去って行った。それは事実である。しかし、イエスが白い雲に乗って人間のもとに帰ってきて、依然イエスと呼ばれることなどどうしてあり得ようか。イエスが本当に雲に乗って来たなら、人間が認識できないのはどういうことだろうか。世界中の人々がイエスを認識するのではないだろうか。その場合、イエスだけが神だということになるのではないか。その場合、神の姿はユダヤ人の外見であり、またそれ以上に、永遠に同じということになるはずだ。イエスは、自分は去ったときと同じように来ると言ったが、その言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。あなたがたの集団に告げたということがあり得るのか。あなたが知っているのは、イエスは去ったときと同じく、雲に乗って来るということだけである。しかし、神自身がいかに自分の働きを行なうのか、あなたは正確に知っているのか。あなたが本当にわかっているのなら、イエスが語った言葉はいかに説明されるのか。イエスは、「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての人も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」と言った。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見て知ることができるのであれば、これらの言葉は無駄に語られたことにならないだろうか。そしてその際、イエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。……だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのかは、人の子自身も知らない。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、普通で平凡な人である。人の子自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。イエスは、去った時と同じように来ると言った。いつ来るのかは、イエス自身も知らないのである。ならば、イエスがあなたに前もって知らせることができるだろうか。あなたは彼の到来を見ることができるのか。それは冗談ではないのか。神は地上に来るたび、自身の名前、性別、姿、働きを変えるものの、自身の働きを繰り返すことはない。神は常に新しく、決して古くない神である。以前に来たとき、神はイエスと呼ばれた。再び到来した今回、神はやはりイエスと呼ばれ得るのか。以前に来たとき、神は男性だった。今回も男性であり得るのか。神が恵みの時代に来たとき、その働きは十字架にかけられることだった。神が再び来るとき、依然として人類を罪から贖い得るのか。再び十字架にかけられ得るのか。それは自身の働きを繰り返すことではなかろうか。神は常に新しく、決して古くないことを知らないのか。神は不変だという人たちがいる。それは正しいが、そのことは神の性質と本質が変わらないことを指している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わらない。神の働きは決して変わらないと言うのなら、神が六千年にわたる自身の経営(救いの)計画を終えることはできるだろうか。あなたは神が永遠に不変であることしか知らないが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代までずっと導くことができただろうか。神が不変なら、すでに二つの時代の働きを行なったのはなぜか。神の働きは止まることなく前進している。つまり、神の性質が徐々に人間に明かされており、そして明かされているのは神の本来の性質である。最初のころ、神の性質は人から隠されていて、神は決して自身の性質を人に公然と明かさず、人は神についての認識がまったくなかった。そのため、神は働きを用いて自身の性質を徐々に人に明かした。しかし、そのように働くことは、神の性質が時代ごとに変化するという意味ではない。神の旨が常に変わるために、神の性質が絶えず変化しているということではない。むしろ、神の働きの時代が異なるため、神は自身の本来の性質全体を一つひとつ人に明かし、それによって人は神を知ることができるのである。しかしそれは、神がもともと特有の性質をもたないことの証明でも、神の性質が時代と共に徐々に変わっていったことの証明でもない。そのような理解は間違いだと言えよう。時代の移り変わりに応じて、神は人に対し、自身だけがもつ固有の性質、すなわち神そのものを明らかにする。一つの時代の働きで神の性質全体を表現することはできない。だから「神は常に新しく、決して古くない」という言葉は神の働きを指しているのであり、また「神は不変である」という言葉は、神が本来所有するものと神そのものを指しているのである。いずれにせよ、六千年の働きを一点に絞ることはできないし、死んだ言葉で限定することもできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するほど単純ではないし、神の働きが一つの時代に留まることもあり得ない。たとえば、ヤーウェは常に神の名前を表わすわけではない。神はイエスの名のもとでも働くことができる。そのことは、神の働きが常に前へと進んでいることのしるしである。

神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることがない。神の本質、神が所有するものと神そのものは決して変わることがない。しかし、神の働きについて言えば、それは常に前へと進んでおり、絶えず深化している。神は常に新しく、決して古くないからである。神は時代ごとに新しい名前を名乗り、時代ごとに新しい働きを行ない、また時代ごとに、被造物に対して自身の新しい旨と新しい性質を見せる。新しい時代において、もし人々が神の新しい性質の表われを見られなければ、彼らは永遠に神を十字架にかけるのではないだろうか。またそうすることで、神を定義するのではないだろうか。もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある。神は終わりの日における新たな働きの段階に入っている。神は自身の性質をより一層明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神の手には新たな働きがあるので、それは新たな性質を伴う。ゆえに、もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神が受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通じて直接語り、人間には神と直接接触する術がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができるだろうか。もしもこの働きを行なうのが霊だけであれば、人間に神の性質を知る術はないだろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言葉が肉において現われるとき、そして神が自身の性質全体を肉によって表現するときだけである。神は本当に、真に人間のあいだで暮らしている。神は触れることができ、人間は神の性質、および神が所有するものと神そのものと実際に関わりをもつことができる。そうすることでのみ、人間は真に神を知るようになるのである。また同時に、神は「男たちの神であり、女たちの神である」という状態での働きを完了させ、肉における自身の働きを残らず成し遂げた。どの時代においても、神は自身の働きを繰り返さない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日に行なう働きを行ない、終わりの日における自身の性質を余すところなく現わす。終わりの日と言うとき、それは別の時代を指しており、その際イエスは、あなたがたは必ずや災害に見舞われ、地震、飢饉、疫病に遭遇すると言ったが、そのことは、それが新しい時代であり、もはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。人々が言うように、神が永久に不変で、その性質は常に憐れみ深く慈愛に満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神の働きが終わりを迎えることは果たしてあるだろうか。到来して十字架にかけられ、すべての罪人のために自分を犠牲にし、自身を祭壇に捧げたとき、イエスはすでに贖いの働きを完了させ、恵みの時代に終止符を打っていた。ならば、終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何だろうか。同じことをするのは、イエスの働きを否定することではないだろうか。もしも神がこの段階に来た際に磔刑の働きを行なわず、慈愛に満ちて憐れみ深いままならば、時代を終わらせることができるだろうか。慈愛に満ちて憐れみ深い神は、その時代に終止符を打つことができるだろうか。時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。

神の経営のすべてにおよぶ神の働きは完全に明白である。恵みの時代は恵みの時代であり、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代には明確な違いがある。と言うのも、神はそれぞれの時代にその時代を表わす働きを行なうからである。終わりの日の働きがなされるには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。終わりの日は最後の時代を指している。最後の時代において、神は時代を終わらせないのか。時代を終わらせるため、神は自ら刑罰と裁きをもたらさなければならない。このようにしてのみ、神は時代を終わらせることができる。イエスの目的は、人が生存して生き続けられるようにすること、そしてより良い方法で存在できるようにすることだった。人が堕落に陥るのをやめ、それ以上ハデスと地獄の中で生きることがないよう、イエスは人間を罪から救い、また人間をハデスと地獄から救い出すことで、その人が生き続けられるようにした。今や終わりの日は来ている。神は人を絶滅させ、人類を完全に滅ぼすだろう。つまり、神は人類の反逆心を変えるのである。そのため、神が憐れみ深く愛に満ちたかつての性質をもって時代を終わらせるのは不可能であり、六千年にわたる経営計画を結実させることもできないだろう。すべての時代は神の性質の特別な表われを特徴とし、すべての時代は神によってなされるべき働きを含んでいる。したがって、それぞれの時代で神自身によってなされる働きは神の真の性質の表現を含んでおり、神の名前と神の行なう働きはいずれも時代とともに変わり、それらはすべて新しい。律法の時代、人類を導く働きはヤーウェの名のもとになされた。そして第一段階の働きは地上で始められた。この段階において、働きは神殿と祭壇を建てること、および律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らのさなかで働くことから成っていた。イスラエルの人々を導くことで、神は地上における働きの拠点を築いた。この拠点から、神は自身の働きをイスラエルの外に拡張させた。すなわち、イスラエルを皮切りに、自身の働きを外に向けて拡張したのである。それにより、後の世代は徐々に、ヤーウェが神であること、天地と万物を造ったのがヤーウェであること、そしてすべての被造物を造ったのもヤーウェであることを知るようになった。神はイスラエルの人々を通じ、自身の働きを外に向けて広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地であり、神が地上で働きを行なうべく最初に来たのもイスラエルの地だった。それが律法の時代の働きだった。恵みの時代、イエスは人を救う神だった。イエスが所有するものとイエスそのものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行なった働きの多くは人の贖いのためだった。イエスの性質は憐れみと愛であり、イエスは憐れみと慈愛に満ちていたので、人間のために十字架にかけられる必要があった。そうすることで、神は自身のすべてを捧げるほど、人類を自分のように愛していることを示したのである。恵みの時代、神の名はイエスであり、それはつまり、神は人類を救う神であり、憐れみと慈愛に満ちていたということである。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いは一人ひとりに伴っていた。イエスの名前と存在を受け入れることでのみ、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、無数の大いなる恵み、そして救いを受け取ることができたのである。イエスの磔刑を通じ、イエスに従うすべての人が救いを受け、その罪が赦された。恵みの時代、イエスは神の名だった。つまり、恵みの時代の働きはおもにイエスの名のもとでなされたのである。恵みの時代において、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きの段階に着手し、その働きは磔刑で終わった。それがイエスの働きのすべてだった。したがって、律法の時代においてはヤーウェが神の名であり、恵みの時代においてはイエスの名が神を表わした。終わりの日、神の名は全能神、すなわち全能者であり、自身の力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、また神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。

最初、旧約聖書の律法の時代に人間を導くのは、子どもの生活を導くようなものだった。原初の人類はヤーウェから生まれたばかりで、彼らこそイスラエル人だった。彼らはいかに神を崇めるべきかも、いかに地上で生きるべきかも分からなかった。言うなれば、ヤーウェは人類を創造したが、つまりアダムとエバを造ったが、ヤーウェをいかに崇めるべきかや、地上におけるヤーウェの掟をいかに守るべきかを理解する能力を人類に与えなかったのである。ヤーウェによる直接の導きがなければ、誰もそれらを直接知ることはできなかった。最初のうち、人間はそのような能力をもっていなかったからである。人間はヤーウェが神であるということだけを知っており、いかに神を崇めるべきか、どのような行為が神を崇めることだと言えるのか、どのような心で神を崇めるべきか、あるいは神への畏敬のしるしとして何を捧げるべきかについて、何一つまったく知らなかった。人間は、ヤーウェが創造した万物のなかで享受できるものをいかに享受するかしか知らなかった。地上におけるどういった生活が神の被造物にふさわしいかということについて、人間は少しも知らなかった。彼らに指導する者、彼らを直接導く者がいなければ、このような人間たちは人類にふさわしい生活を送ることなく、密かにサタンの虜にされていただけだろう。ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのため、人類の創造におけるヤーウェの働きは半分しか完了しておらず、完成にはほど遠かった。ヤーウェは土で人間の雛形を造り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を授けることはなかった。最初のころ、人間は神を崇めたり恐れたりする心をもたなかった。神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上の生活についての基本的知識や人間生活の正しい規則に関しては無知だった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り、七日間の計画を終えたものの、人間の創造を完成させることは決してなかった。人間は殻でしかなく、人であることの現実を欠いていたからである。人は、人類を創造したのがヤーウェであることしか知らず、ヤーウェの言葉や律法にどう従うべきかについては何も知らなかった。だから人類が存在するようになった後も、ヤーウェの働きは完成からほど遠かった。それでもヤーウェは、人々が地上で共に暮らし、ヤーウェを崇めることができるよう、またヤーウェの導きのもと、人々が地上における正常な人間生活の正しい軌道に入れるよう、人間をしっかりと導き、自身の面前に来させる必要があった。そうすることでのみ、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そのようにして初めて、ヤーウェの創世の働きが完全に完了したのである。このように、人類を創造したヤーウェは、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における正常な人間生活のあらゆる活動に携われるよう、地上における人類の生活を何千年間も導かねばならなかった。そのとき初めてヤーウェの働きは完全に完成したのである。ヤーウェは人類を創造した後でこの働きに着手し、ヤコブの時代まで、つまりヤコブの十二人の息子たちをイスラエルの十二部族にするまで続けた。それ以降、イスラエルのすべての人が地上で正式にヤーウェによって導かれる人種となり、イスラエルはヤーウェが自身の働きを行なう、地上における特別な場所となった。ヤーウェはこれらの人々を、自身が地上において正式に働きかける最初の集団とし、イスラエルの全土を自身の働きの発祥の地としたうえで、彼らをさらに偉大な働きの先駆けとして用いた。そうすることで、ヤーウェから生まれた地上のすべての人が、いかにヤーウェを崇めるべきか、いかに地上で生きるべきかを知るようにしたのである。このように、イスラエル人の行ないは、異邦の民族の人々が後に続くべき模範となり、またイスラエルの人々のあいだで語られたことは、異邦の民族の人々が耳を傾けるべき言葉となった。なぜなら、イスラエルの人々はヤーウェの律法と掟を受け取った最初の民であり、ヤーウェのさまざまな道をいかに崇めるべきかを最初に知った民だったからである。イスラエルの人々はヤーウェの道を知る人種の祖先であり、ヤーウェに選ばれた人種の代表でもあった。恵みの時代が到来したとき、ヤーウェはもはや人間をこのようには導かなかった。人間は罪を犯し、自らを罪にゆだねてしまっていたので、神は人間を罪から救い始めた。このように、人間が罪から徹底的に救い出されるまで、神は人間をとがめた。終わりの日、人間はそこまで堕落してしまったので、この段階の働きは裁きと刑罰を通じてでなければ行なうことができない。この方法によってのみ、働きは達成され得る。これは複数の時代の働きだった。つまり、神は自らの名前、働き、そして異なる神の姿を使って各時代を区切るとともに、それらを移り変わらせるのである。神の名前と働きは、神の時代と各時代における神の働きを表わすのである。どの段階においても神の働きが常に同じで、神がいつも同じ名前で呼ばれるなら、人はどのように神を知るのだろうか。神はヤーウェと呼ばれなければならず、ヤーウェと呼ばれる神以外に、他の名前で呼ばれるものは神ではない。あるいは、神はイエスとだけ呼ばれ、イエスという名前を除き、他の名で呼ばれることはない。イエスを別にすれば、ヤーウェは神でなく、全能神も神ではない。神は全能だと人は信じているが、神は人とともにいる神である。そして神は人とともにいるのだから、イエスと呼ばれなければならない。そうすることは教義に従い、神を一定の範囲に束縛することである。ゆえに、それぞれの時代で神が行なう働き、神が呼ばれる名前、神がとる姿、すなわち今日に至るまでの各段階で神が行なう働きは、一つの規律に従うものではないし、いかなる制限を受けることもない。神はヤーウェであり、しかしイエスでもあり、メシヤ、全能神でもある。神の働きは徐々に変わることができ、それにあわせて神の名も変化する。どの一つの名も神を完全に表わすことはできないが、神が呼ばれるすべての名は神を表わすことができ、神が各時代に行なう働きは神の性質を表わしている。終わりの日が訪れるとき、あなたの目にする神が依然としてイエスであり、またそれ以上に、神が白い雲に乗って来て、依然としてイエスの姿をしており、その話す言葉はイエスの言葉のままで、次のように言ったとしよう。「あなたがたは自分のように隣人を愛し、断食して祈り、自分のいのちを大事にするように敵を愛し、他の人に寛容であり、忍耐強く、謙虚であるべきだ。わたしの弟子になる前に、これらのことをすべて実行しなければならない。そうすることで、あなたがたはわたしの国に入ることができる」。これは恵みの時代の働きに属するものではないだろうか。神が述べているのは恵みの時代の道ではないだろうか。これらの言葉を聞くことになれば、あなたがたはどう感じるだろうか。これはやはりイエスの働きだと思わないだろうか。それはイエスの働きを繰り返しているのではないだろうか。人はそこに喜びを見出せるだろうか。あなたがたは、神の働きは今のままで留まり、これ以上進歩しないと感じているかもしれない。神にはそれほどの力しかなく、行なうべき新しい働きはこれ以上ないのであって、神は力を使い果たした、と。今から二千年前は恵みの時代であり、それから二千年後、神は依然として恵みの時代の道を説き、依然として人々に悔い改めさせている。人々は「神よ、あなたにはそれほどの力しかありません。あなたはとても知恵のあるお方だと、私は信じていました。でもあなたは寛容しかご存知でなく、忍耐ばかり気にしておられます。また敵を愛す方法しかご存知でなく、他には何もありません」と言うかもしれない。人の心の中で、神は永遠に恵みの時代の神のままであり、神は慈愛に満ちて憐れみ深いと、人はいつまでも信じている。あなたは、神の働きは常に同じ古い場所で足踏みしていると思っているのか。ゆえに神の働きのこの段階において、神が十字架にかけられることはなく、あなたがたが見て触れるすべてのものは、想像したり聞かされたりしてきたこととまったく異なるだろう。今日、神はパリサイ人とは関わらず、世界が知ることを許してもいない。そして神を知るのは、神に従うあなたがただけである。なぜなら、神が再び十字架にかけられることはないからである。恵みの時代、イエスは自身の福音の働きのために全土で公に教えを説いた。イエスは磔刑の働きのためにパリサイ人と関わった。もしもイエスがパリサイ人と関わり合いにならず、権力者たちがイエスのことを知らなかったならば、どうしてイエスが断罪され、そして裏切られて十字架にかけられるということがあり得ただろうか。したがって、イエスは十字架にかけられるためにパリサイ人と関わったのである。今日、神は試みを避けるべく秘密裏に働きを行なう。二度にわたる神の受肉において、その働きと意義は異なっており、設定も異なっているのだから、どうして神の行なう働きがまったく同じであり得るだろうか。

「神は私たちと共におられる」というイエスの名は、神の性質の全体を表わせるだろうか。神を完全に表現できるだろうか。もしも、神は自身の性質を変えることができないので、イエスと呼ばれることしかできず、他の名をもつことはないと人が言うなら、それらの言葉はまさに冒涜である。あなたは、「神は共におられる」というイエスの名前だけで神の全体を表せると信じているのか。神は多くの名で呼ばれ得るが、それらの多くの名前の中に、神のすべてを要約できるものは一つとしてなく、神を完全に表わせるものもない。それゆえ、神は多くの名前をもっているが、これらの多くの名が神の性質を余すところなく明確に表現することはできない。なぜなら、神の性質はあまりにも豊かで、神に関する人の認識能力を完全に越えているからである。人が人間の言語を使うことで、神を完全な形で要約することはできない。神の性質について自分たちが知っているすべてのことを要約するにあたり、人間には限られた語彙しかない。偉大な、りっぱな、驚くべき、計り知れない、至高の、聖なる、義なる、知恵に満ちたなど、何と多くの言葉があることか。この限られた語彙では、人間が神の性質に関して目の当たりにしたことを、ほんの少しでも記述することは不可能である。やがて、自分の心の中の熱情をもっと上手に記述できるはずだと、他の多くの人がさらに言葉を追加した。神はとても偉大だ。神はとても神聖だ。神はとても美しい。今日、人間がこのように言うことはその頂点に達しているが、それでも自分自身を明確に表現できずにいる。だから、人間にとって神には多くの名前があるものの、神がもつのは一つの名前ではない。なぜなら、神の存在はあまりに豊富で、人間の言語はあまりに乏しいからである。ある一つの特定の言葉や名前では、神の全体を表わすことができない。そうであれば、神の名は固定され得るとあなたは考えているのか。神は極めて偉大で聖いのに、神がそれぞれの新しい時代に名前を変えるのを許さないつもりなのか。したがって、神は自ら働きを行なうそれぞれの時代に、自身が行なおうとしている働きを要約するため、その時代に合った名前を用いるのである。神はその時代における自身の性質を表わすために、一時的な意義を有する特定の名前を用いる。これは、神が自身の性質を表現するために人間の言語を用いるということである。たとえそうでも、霊的な体験をして神をじかに見たことがある多くの人は、この特定の名前が神の全体を表わすことはできないと感じている。ああ、何と救いがたいことか。そのせいで、人間はもはや神を名前で呼ぶことはなく、ただ「神」と呼ぶのである。それはあたかも、人間の心が愛であふれていながら、同時に矛盾に悩まされているかのようである。人間は神をいかに説明すればよいか分からないからである。神そのものは極めて豊かなので、それを表現する術はまったくない。神の性質を要約できる一つの名前はなく、神が所有するものと神そのものを余すところなく表現できる一つの名前もないのである。もしも誰かがわたしに「あなたはいったい何という名前を使うのですか」と尋ねるならば、こう答えるだろう。「神は神である」と。これこそが神にとって最良の名前ではないのか。神の性質の最高の要約ではないのか。そうであれば、神の名を求めてなぜそんなに苦労するのか。どうして名前のことで寝食を忘れ、頭脳を振り絞るのか。神がヤーウェ、イエス、あるいはメシアと呼ばれない日がやって来るだろう。神はただ創造主と呼ばれるのである。その時、神が地上で名乗ったすべての名前は終わりを迎える。なぜなら、地上における神の働きが終わり、その後神の名はなくなるからである。万物が創造主の支配下に入るとき、神がどうして適切ではあるが不完全な名前をもつ必要があるのか。あなたは今なお神の名を求めているのか。神はヤーウェとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神はイエスとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神を冒涜する罪を背負えるのか。神は本来どんな名前ももたなかったということを知るべきである。神には行なうべき働きがあり、人類を経営しなければならなかったのだから、一つや二つの、あるいは多くの名前を名乗っただけのことである。どのような名で呼ばれるにしても、神はそれを自ら自由に選んだのではないか。神がそれを決めるのに、被造物の一つであるあなたを必要とするだろうか。神が呼ばれる名前は、人が理解できること、および人の言語に沿うものだが、その名前は人が考え出せるものではない。天には神がいて、それは神と呼ばれ、偉大な力をもつ神自身であり、大いに知恵があり、大いに高められ、大いに素晴らしく、大いに神秘的で、大いに全能であるとしかあなたは言えず、それ以上は言うことができない。あなたが知り得るのはこのわずかなことだけである。そうであれば、たかだかイエスの名だけで神自身を表わすことができるだろうか。終わりの日が来るとき、神の働きは依然として神が行なうものの、時代が異なるので神の名は変わらなければならないのである。

全宇宙、そしてその上の世界において最も偉大である神は、肉体の姿を用いて自分自身を完全に説明することができるだろうか。神がその肉体をまとうのは、自身の働きの一段階を行なうためである。その肉体の姿には特に何の重要性もなければ、時代の推移とも無関係であり、神の性質とも関係がない。なぜイエスは自分の姿が残るようにしなかったのか。なぜ自分の姿を人に描かせ、それが後の世代に伝えられるようにしなかったのか。イエスの姿は神の姿であると、なぜ人々に認めさせなかったのか。人の姿は神のかたちに創造されたが、人間の外見が神の崇高なる姿を表現するということは果たして可能なのか。神は肉となるとき、天からある特定の肉体へと降臨するだけである。肉体に降臨するのは神の霊であり、神はそれを通じて霊の働きを行なう。肉において表わされるのは神の霊であり、肉において働きを行なうのも神の霊である。肉において行なわれる働きは霊を余すところなく表わしており、その肉体は働きのためにある。しかしそれは、その肉の姿が神自身の真の姿の代わりになれるという意味ではない。それは、神が肉となる目的でも意義でもないのである。神が肉となるのは、ただ霊が自分の働きに適した住みかを見つけ、肉における働きをよりよく成し遂げるためである。そうすることで、人々は神の業を見、神の性質を理解し、神の言葉を聞き、神の働きの不思議を知るのである。神の名前は神の性質を表わし、神の働きは神の身分を表わすが、受肉した神の外見が神の姿を表わすと神が言ったことはない。それは単に人間の観念である。だから、神の受肉にまつわる重要な側面は神の名前、働き、性質、そして性別である。これらは、この時代における神の経営を表わすために用いられる。受肉した神の外見は神の経営とは無関係であり、そのときの神の働きのために過ぎない。しかし、受肉した神が特定の外見をもたないということは不可能なので、神は適切な家族を選んで自身の外見を決める。もしも神の外見に何か表現的な意義があるのなら、神と同じような顔立ちをしている人も全員神を表わしていることになる。これはあまりにひどい間違いではないだろうか。人が礼拝するようにと、イエスの肖像画は人間によって描かれた。そのとき、聖霊は特別な指示を与えなかったので、人は想像によるその肖像画を今日まで伝えた。実を言うと、神の本来の意図によれば、人間はこうするべきではなかった。イエスの肖像画が今日まで残るようになったのは、ひとえに人間の熱意のせいである。神は霊であり、神の姿がどのようなものであるかを、人間が最終的に要約することは決してできない。神の姿は神の性質によってしか表現できないのである。神の鼻、口、目、頭髪の外見について、それらを要約するのはあなたの能力を超えることである。ヨハネは啓示を受けたとき、人の子の姿を見た。その口からは鋭いもろ刃のつるぎが突き出ており、その目は燃える炎のようであり、その頭と髪の毛は羊毛のように白く、その足は光り輝く銅のようで、その胸には金の帯をしめていた。ヨハネの言葉は極めて鮮明だが、彼が描写した神の姿は、何らかの被造物の姿ではなかった。ヨハネが見たのは幻に過ぎず、物質世界の人の姿ではなかった。ヨハネは幻を見たが、神の本当の外見を目にすることはなかった。受肉した神の肉体の姿は、一つの被造物の姿であり、神の性質全体を表わすことはできない。ヤーウェは人類を創造したとき、自分自身のかたちにかたどって人を創り、男と女を創ったと言った。そのとき、ヤーウェは神のかたちに男と女を創造したと言った。人間の姿は神の姿に似ているが、人間の外見が神の姿であるという意味に解釈することはできない。また、人類の言語を使って神の姿を完全に要約することもできない。なぜなら、神はかくも崇高で、かくも偉大で、かくも不思議に満ち、かくも計り知れないからである。

イエスが自身の働きを行なうために来たとき、それは聖霊の指示によるものだった。イエスは聖霊の望み通りに行ない、それは旧約聖書の律法の時代にしたがうものでも、ヤーウェの働きにしたがうものでもなかった。イエスが来て行なった働きは、ヤーウェの律法やヤーウェの戒めを遵守することではなかったが、それらの源泉は同じ一つのものだった。イエスが行なった働きはイエスの名を表わし、恵みの時代を代表した。ヤーウェによってなされた働きについて言えば、それはヤーウェを表わし、律法の時代を代表した。それらの働きは二つの異なる時代における一つの霊の働きだった。イエスが行なった働きは恵みの時代しか代表できず、ヤーウェが行なった働きは旧約聖書の律法の時代しか代表できなかった。ヤーウェはイスラエルの民とエジプトの民を導き、そしてイスラエル以外のあらゆる国の民を導いただけだった。新約聖書の恵みの時代におけるイエスの働きは、神がその時代を導く中で、イエスの名のもとで行なう働きだった。イエスの働きはヤーウェの働きに基づいていて、新しい働きに一切着手せず、イエスが行なったのはヤーウェの言葉にしたがい、ヤーウェの働きとイザヤの預言にしたがうことだけだったと言うのなら、イエスは肉となった神ではなかったはずだ。仮にイエスがそのような形で自身の働きを行なっていたなら、イエスは律法の時代の使徒もしくは働き手だったはずである。もしもあなたの言う通りなら、イエスは一つの時代を始めることも、他の働きを行なうこともできなかっただろう。同じように、聖霊はおもにヤーウェを通じてその働きを行なわなければならず、またヤーウェを通じてでなければ、いかなる新しい働きもできなかっただろう。人がイエスの働きをこのように理解するのは間違っている。イエスによる働きがヤーウェの言葉とイザヤの預言にしたがってなされたと信じるなら、イエスは受肉した神だったのか、それとも預言者の一人だったのか。この見方によれば、恵みの時代などというものはなく、イエスは神の受肉ではなかったということになる。と言うのも、イエスが行なった働きは恵みの時代を表わすことができず、旧約聖書の律法の時代しか表わせなかったからである。あり得るのは新しい時代だけであり、そのときイエスが来て新しい働きを行ない、新しい時代を始め、イスラエルで以前に行なわれた働きを打ち破り、イスラエルでヤーウェが行なった働き、ヤーウェの古い規則、あるいは何らかの規制にしたがって自身の働きを行なうのではなく、むしろなすべき新しい働きを行なったのである。神自身が時代を始めるために来て、神自身が時代を終えるために来るのである。人は時代を始めたり、時代を終えたりする働きをすることができない。到来したイエスがヤーウェの働きを終わらせなかったら、そのことは、イエスはただの人であり、神を表わすことができなかったという証明になるだろう。イエスが来てヤーウェの働きを終わらせ、ヤーウェの働きを引き継ぎ、またそれ以上に自分自身の働き、つまり新しい働きを行なったからこそ、それは新しい時代で、イエスは神自身だったことが証明される。両者ははっきり異なる二つの段階の働きを行なったのである。一つの段階は神殿の中でなされ、もう一つは神殿の外でなされた。一つの段階は律法にしたがって人の生活を導くことであり、もう一つは罪の捧げ物を供えることだった。これら二つの段階の働きは明確に異なっていた。それは新しい時代と古い時代を分け、それらは二つの異なる時代だと言うのは絶対に正しい。両者の働きの場所は異なり、働きの内容も異なり、働きの目的も異なっていた。そのため、それらは二つの時代に区分することができる。つまり新約聖書と旧約聖書であり、すなわち新しい時代と古い時代である。到来したイエスは神殿に入らなかった。そのことは、ヤーウェの時代がすでに終わっていたことを証明する。イエスが神殿に入らなかったのは、神殿におけるヤーウェの働きが終わっており、再度行なわれる必要がなく、再度行なうことは繰り返しになるからである。神殿を離れ、新しい働きを開始し、神殿の外で新しい道を切り開くことでのみ、イエスは神の働きを絶頂に至らせることができたのである。イエスが神殿の外に出て自身の働きを行なっていなければ、神の働きは神殿の基礎に停滞し、なんら新しい変化は起きなかっただろう。だから到来したイエスは神殿に入らず、神殿の中で働きを行なうこともなかったのである。イエスは神殿の外で自身の働きを行ない、弟子を率いて自由に働きに取り組んだ。神が神殿を離れて働きを行なったことは、神に新しい計画があることを意味していた。神の働きは神殿の外で行なわれることになっており、それは実行する方法に拘束されない新しい働きのはずだった。イエスは到来するやいなや、旧約聖書の時代におけるヤーウェの働きを終了させたのである。両者は二つの異なる名前で呼ばれたが、二つの段階の働きを成し遂げたのは同じ霊であり、なされた働きは継続的なものだった。名前が違い、働きの内容も違っていたように、時代も違っていたのである。ヤーウェが来たとき、それはヤーウェの時代で、イエスが来たとき、それはイエスの時代だった。したがって、神は来るたびに一つの名で呼ばれ、一つの時代を表わし、新しい道を切り開く。それぞれの新しい道において神は新しい名を名乗り、またそのことは、神が常に新しく決して古くないことと、神の働きが絶えず前方に進んでいることを示すのである。歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。六千年にわたる神の経営計画が終わりを迎えるには、前方へと進み続けなければならない。毎日、神は新しい働きを行なわなければならず、毎年、神は新しい働きを行なわなければならない。神は新しい道を切り開き、新しい時代を始め、新しくさらに偉大な働きを開始し、それらとともに新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。神の霊は刻一刻と新しい働きを行なっており、古いやり方や規則に固執することは決してない。また、神の霊の働きが止まったことは一度もなく、どの瞬間にも生じている。聖霊の働きは不変であると言うなら、ヤーウェが祭司に対し、神殿の中で自分に仕えるよう求めたのに、イエスが来たときには、彼は大祭司だとか、ダビデの家系で大祭司でもあり、偉大な王であると人々が言ったにもかかわらず、どうしてイエスは神殿に入らなかったのか。そしてなぜイエスはいけにえを捧げなかったのか。神殿に入ろうが入るまいが、これはすべて神自身の働きではないのか。もしも人が想像するように、イエスが再び到来し、終わりの日にいまだイエスと呼ばれ、依然として白い雲に乗り、イエスの姿のままで人のもとに降臨するなら、それはイエスの働きの反復ではないだろうか。聖霊が古いものにしがみつくなどあり得るのか。人が信じているものはすべて観念であって、人が理解しているものはすべて文字通りの意味、または人の想像力に沿ったものである。それらは聖霊の働きの原則と一致しておらず、神の意図に沿っていない。神はそのような形で働きを行なわないはずだ。神はそれほどばかでも愚かでもなく、神の働きはあなたが想像するほど簡単ではない。人が想像するあらゆることを基にすると、イエスは雲に乗って現われ、あなたがたの中に降りることになっている。あなたがたは、雲に乗りながら「自分はイエスだ」と告げる彼を見る。また、イエスの手にある釘の跡を見て、その人がイエスであることを知る。そして、イエスは再びあなたがたを救い、あなたがたの全能なる神となる。イエスはあなたがたを救い、あなたがたに新しい名前を授け、あなたがた一人ひとりに白い石を与える。その後、あなたがたは天の国に入ることを許され、楽園に受け入れられる。だが、このような信仰は人の観念ではないのか。神は人の観念に沿って働くのか、それとも人の観念に逆らって働くのか。人の観念はすべてサタンに由来するものではないのか。すべての人間はサタンによって堕落させられたのではないか。もしも神が人の観念に沿って自身の働きを行なったのなら、神はサタンということになるのではないか。神は自身の被造物と同じようなものだということにはならないか。神の被造物がサタンによって堕落させられるあまり、人はサタンの化身になったので、もしも神がサタンの物事に沿って働いたなら、神はサタンの仲間だということになるのではないか。どうして人が神の働きを理解できるのか。したがって、神が人の観念に沿って働きを行なうことは決してなく、あなたが想像するように働きを行なうこともない。自分は雲に乗って来ると神自身が述べたと言う人たちがいる。神自身がそう言ったのは確かだが、神の奥義を推し測れる人は誰もいないことを、あなたは知らないのか。神の言葉を説明できる人間は一人もいないことを、あなたは知らないのか。自分は聖霊に啓かれ、照らされていると、あなたはみじんの疑いもなく確信しているのか。当然それは、聖霊がそうした直接的な形であなたに示したわけではない。聖霊があなたに指示したのか、それともあなた自身の観念によってそう考えるようになったのか。あなたは「これは神自身によって述べられた」と言った。しかし私たちは、神の言葉を測るにあたって自分たちの観念や思考を用いることはできない。イザヤが語った言葉について言えば、あなたは絶対の確信をもって彼の言葉を説明することができるのか。あえてイザヤの言葉を説明するつもりなのか。イザヤの言葉をあえて説明するつもりがないのに、どうしてイエスの言葉をあえて説明しようとするのか。イエスとイザヤのどちらがより崇められているのか。答えはイエスであるのに、なぜイエスの語った言葉を説明するのか。神は自身の働きを前もってあなたに告げるだろうか。被造物の誰も、天の御使たちさえも、人の子でさえも知らないのに、どうしてあなたにわかるのか。人はあまりに多くのものを欠いている。あなたがたにとって今最も重要なのは、三段階の働きを知ることである。ヤーウェの働きからイエスの働きに至るまで、イエスの働きからこの現段階の働きに至るまで、これら三段階は神の経営全体を隙間なく覆うものであり、またそのすべてが一つの霊による働きである。創世以来、神は常に人類の経営にいそしんできた。神は初めにして終わりであり、最初にして最後であり、時代を始める存在にして時代を終わらせる存在である。異なる時代、異なる場所における三段階の働きは、間違いなく一つの霊の働きである。これら三段階を切り離す者はみな神に敵対している。今、第一段階から今日に至るまでの働きが、すべて一つの神の働きであり、一つの霊の働きであることを、あなたは理解しなければならない。そのことに疑いの余地はあり得ない。


VII.恵みの時代の悔い改めの道と終わりの日における永遠のいのちの道の違い

2020-07-19 16:23:38 | 書籍

1. 恵みの時代に主イエスにより広められたメッセージは悔い改めの道だけであった

 

  参考聖書箇所:

「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)

「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイによる福音書 26:28)

「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。』」(ルカによる福音書 24:45-47)

関連する神の言葉

最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、イエスの性質は全体が謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみであった。イエスは人間に豊かな祝福と恵みをもたらし、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった人々が享受することのできるあらゆるものをもたらした。その当時、人が受け取ったあふれんばかりの楽しむことがら、すなわち心の平安と安心、霊の慰め、救い主イエスによる支え、これらのものは、人の生きた時代ゆえにもたらされたのである。恵みの時代、人はすでにサタンにより堕落させられていたので、すべての人を贖う働きを完遂するためには、満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに、人間の罪を贖うのに十分な捧げ物が必要であった。恵みの時代に人々が見たのは、人間の罪のためのわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。人々は神は憐れみ深く寛容であり得ることだけしか知らず、イエスの慈しみと憐れみしか見なかった。それはひとえに、彼らが恵みの時代に生まれたからである。そのようなわけで、贖われる前に人々はイエスが彼らに授けるさまざまな恵みを楽しみ、その恩恵を受けなければならなかった。それにより、彼らは恵みを享受することでその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を享受することで贖われる機会を得ることができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、彼らは赦しを受け、イエスが授けるあふれる恵みを楽しむ権利を手にすることができた。それはイエスが、「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるようにするためにきたのである」と言ったとおりであった。…イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類はイエスにより救われ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれる資格があった。イエスは自分の追随者をあたかも母親が我が子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは人々に対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちていた。人々とともにいても激怒するようなことは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに罪に寛容で、人々の愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を変容させ、それゆえに人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。…イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

イエスの働きは人類の贖いと十字架のためだけにあった。そのため、イエスは人を征服するために、それ以上の言葉を語る必要はなかった。イエスが人に教えたことの多くは聖書の言葉から来ており、そしてたとえイエスの働きが聖書を越えなかったとしても、イエスはやはり十字架の働きを達成することができた。イエスの働きは言葉の働きでも、人類の征服のためでもなく、人類を贖う働きであった。イエスは人類のために罪のいけにえとして行動しただけで、人類のための言葉の源泉として行動したのではなかった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(1)」より

イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

恵みの時代は悔い改めの福音を宣べ伝え、信じれば人は救われると説いた。現在は、救いの代わりに征服と完成だけが語られる。誰かが信じればその人の家族全体に恵みがあるとか、永遠の救いがあるとかいったことは決して言われない。今日では誰もこのような言葉を語らず、このようなことは時代遅れになっている。当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より


私はいかにして愚かな乙女になりかけたか

2020-07-04 17:03:56 | 書籍

私はいかにして愚かな乙女になりかけたか

 

 2002年秋、真理教会という私の教派に所属する趙姉妹が姪の王姉妹を連れて我が家を訪れ、主の到来という素晴らしい知らせを伝えてくれました。数日間にわたって全能神の御言葉を読み、王姉妹による詳細な交わりを聞いたあと、創世から現在に至るまで、神は人類を救われるべく3段階の働きをなさってきたことがわかりました。他にも、働きの各段階で神がそれぞれ異なる御名を名乗られたこと、各時代における神の御名の意義、神の受肉の奥義といった真理も知るようになりました。これらの真理は本当に私の目を大きく開いてくれました。私は大いに楽しみながらそれらを読み、こう考えました。「この道はとても明瞭に聞こえるし、全能神はきっと再臨なさった主イエスに違いない。だからこの機会をしっかり捉えて全能神の御言葉をもっと読まないと」立ち去り際、王姉妹が神の御言葉の本を何冊か置いていってくれたので、私は日中暇があるたび神の御言葉を読みました。読めば読むほどそれを楽しむようになり、本当に神の御言葉だとますます強く感じました。その三日後、私は不安になって考えました。「同じく信者である息子も、私の教会にいる多くの兄弟姉妹も、主の再臨に関するこの素晴らしい知らせをまだ知らない。急いで伝えたほうがいいわ」

 翌日の早朝、私は息子の家に出かけて弾んだ声で言いました。「これは本当に素晴らしい本よ。できるだけすぐ読むべきだわ」 息子は私を一瞥してこう訊き返しました。「何の本? とても嬉しそうだけど。時間があるときに目を通すからそこに置いといてよ」私はそれを聞いて、信者はみな主の再臨を楽しみにしているのだから、主がすでにいらっしゃったと知れば息子もきっと喜ぶはずだと思いました。

 ところがそれから3日後、まったく予想もしなかったことに、息子が6名の人を連れて私の家に来ました。その1人は私の教派の夏牧師で、他の5人は息子の教派の牧師と説教師です。私は一同を見ていささか驚きました。何が目的なのか、どうしてこんなに多くの人が私に会いに来たのか、見当もつかなかったからです。李という名字の牧師が一瞬私をじっと見たあと、心配そうな表情を浮かべてこう言いました。「お母さま、私たちはみな主の信者、1つの大家族です。息子さんから聞きましたが、誰かから本をもらったようですね。しかしそれを読んでは絶対にいけません。いまは終わりの日であり、主イエスはこうおっしゃいました。『そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイによる福音書24:23-24)主イエスのこの御言葉は、主が戻られたと言う者は詐欺師であり、それに用心して耳を傾けてはいけないという意味だと、私たちは信じています。現在、主の再臨を公然と証ししているのは全世界で東方閃電だけです。なので何をするにしても、彼らとこれ以上関わってはいけません。東方閃電の本も読まないように。彼らの道は私たちの信仰とは違っているので、耳を傾けてはいけません。あなたは聖書をよく理解しておらず、霊的背丈も低いので、簡単に騙されてしまいます。私たちは何年も教えを宣べ伝えており、聖書をよく理解しています。中国全土を旅して多くの物事を目の当たりにし、いのちがより成熟しているのです。今日、私たちはあなたを救うべく特にここへ来ました。だから私たちを信じ、自分で判断しようとしてはいけませんよ」 私はそれを聞いてこう考えました。「この牧師は私を心配しているようだし、言ったことも間違っていない。私は老婆で大した教育も受けていないし、聖書もそんなによく理解していない。この人たちのように見分けるなんてとてもできないわ」 このとき、夏牧師がこう言いました。「私は牧師で、主から信者たちの取り扱いを任されています。つまり、あなたが真の道から外れないようにすることが私の責任なのです。主の信者たちの世話をしなければ、主に申し開きができません。姉妹、このような他の集団と付き合ってはいけません。東方閃電の手であなたが私たちから奪われてしまえば、主を信じてきた年月がすべて無駄になるんですよ」 一同の緊張した表情と、私に語りかける深刻な口調のせいで私は少し怖くなり、こう思いました。「そうだわ。間違った信仰を始めてしまえば、いままでの信仰の年月が無駄にはならないかしら」 しかし、そこでこんな考えが浮かびました。「あの本の御言葉はとても素晴らしく、まったく正しいように思えた。これらの牧師や説教師は全能神の御言葉をまだ読んでいない。だったら、それは真の道ではないとどうして言えるのかしら」 そこで私は一同に言いました。「あなたたちがそうおっしゃるからには正しいのでしょう。けれど、私があの人たちから聞いたことは、聖書にある主の御言葉と完全に一致しているんです」 それを聞いたとたん、みんな一斉に口をひらき、私を脅かすようなことをいくつも言ったので、私は目まいがして混乱し、大いに感情が乱れました。その場に座ったまま何も言うことができません。すると一同は私に、自分たちと一緒に祈って東方閃電を呪わせようとしました。ところが、私がそれに従わなかったので、またも私を脅し始めました。最後に息子が「母のことは僕に任せてください」と言って、戸棚から賛美歌の本2冊と『子羊に従って新しい歌を歌おう』のカセットテープ、それに『裁きは神の家から始まる』という神の御言葉の本を取り出し、牧師に渡しました。

 一同が去ったあと、私は動揺のあまり食事を口にすることもできなかったので、主の御前に出て祈りました。「主イエスよ、あの牧師たちが言ったことは本当でしょうか、それとも違いますか。彼らは心から私のいのちを心配してくれているようです。彼らに耳を傾けなければ、私は自分の信仰を間違った場所に置くことになるのでしょうか。ああ主よ、あなたが本当に全能神としてお戻りになっているのに、私があなたを受け入れなければ、あなたに扉を閉じることにはならないでしょうか。私は単に愚かな乙女の1人ではないでしょうか。ああ主よ、ここ数日のあいだに全能神の御言葉を読むことで、私の霊が多くの施しを得たような気がしています。本当に心からそう感じているのですが、私は間違っているのでしょうか。賛美歌の本とカセットテープを持って行かれたので、本当に悲しくどうすべきかわかりません。どうか道をお示しください…」 祈ったあと、王姉妹が全能神の御言葉の本をもう1冊くれたことと、それを戸棚の奥に隠しておくよう言っていたことを突然思い出しました。その本がまだ手元にあることに気づいたとき、ほんの少し気分がよくなりました。しかしあの牧師たちが言ったことを思い出し、どうすればよいか途方に暮れたままでした。あの本を読むべきか、それとも読まないべきか。その夜は心が乱れてほぼまったく眠れませんでした。私は涙を流しながら、何度も何度も神に祈ったのです…

 翌日の早朝、息子が我が家に来て、私が以前所属していた教会の集会に連れて行こうとしました。私はためらいましたが、息子は集会の場所に私を引っ張っていくと、牧師の1人に「母は東方閃電に盗まれた」とまで言って、なんとしても引き留めてほしいと頼みました。次の瞬間、その牧師と兄弟姉妹全員が私を囲みました。そして牧師は私の手を握ると、穏やかな声でこう言いました。「お母さま、何をするにしても、他の人の説教に耳を傾けてはいけませんよ。間違った信仰を始めてしまうと、主がいらっしゃって信者たちを引き上げられるとき、あとに取り残されてしまうわ。そうじゃありませんか。あなたは霊的背丈が低いので、誰かから何かの本をもらったら、まずは私たちに相談したほうがいいですよ。あなたのために確かめてあげますから……」 兄弟姉妹も私にとどまるよう説得したので、私はその「愛」に感動して涙を流しました。私が感動しているのを見た一同は、こう言って再度念を押しました。「東方閃電の誰かが再びあなたを訪ねてきても、家に入れてはいけません。これ以上彼らと関係してはいけません」 私はそれを聞いてうなずきました。

 それからわずか数日後、王姉妹が私に会いに来ましたが、私はこう言いました。「牧師が聖書のこの一節を私に読んでくれたんです。『そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイによる福音書24:23-24)終わりの日には偽キリストが現われます。主はもうお戻りになったと言う人はみな詐欺師なんです。私は聖書を理解していなくて霊的背丈も低いから、簡単に騙されてしまいます。他の道に耳を傾けようとは思いませんし、だからあなたを家に入れるつもりもありません。もう来ないでください」 すると王姉妹は誠実そのものの口調で言いました。「主イエスがそうおっしゃったのは、私たちが終わりの日に偽キリストから確実に身を守るようになさるためです。しかし、キリストからも背を向けよという意味ではありません。偽キリストがいるのはすでに真のキリストが現われたからであり、真のキリストがいなければ詐欺師も真似しようがないからです。主イエスのその御言葉は、見分け方を学ばなければならないことを私たちに伝えているのであって、終わりの日に偽キリストが現われるからといって、主の再臨の福音に耳を傾けてはならないと言っているわけではありません。そうでなければ、どうやって主の再臨をお迎えできるでしょう。実際のところ、主イエスは偽キリストの特徴をすでにはっきり述べられています。そのおもなものは、しるしを見せること、奇跡を行なうこと、病人を癒やして悪霊を追い出すこと、主イエスがすでになさった働きを真似て人々を騙すことです。なので、終わりの日に主イエスを真似て悔い改めの道を説く人、いくつかの単純なしるしを見せたり、病人を癒やして悪霊を追い出したりする人はみな偽キリストです。全能神、つまり終わりの日に肉をまとわれ再臨された主イエスは、主イエスがすでになさった働きを繰り返されることはなく、主イエスによる贖いの働きを土台として新たな働きをなさいます。全能神は恵みの時代を終わらせて神の国の時代をお開きになっており、真理を表わされるとともに、人類を裁いて清めるという働きの一段階をなさいます。全能神は人々の罪深い本性の束縛を一掃し、サタンの闇の権力から人々を解放なさることで、すでに贖われながらいまだ罪の中に生きる人を残らず完全に救われます。それから人類を素晴らしい最後の終着点へとお連れになるのです。この働きを行なえるのは神ご自身だけであって、偽キリストは誰1人としてそれをすることができません」 姉妹の言うことはもっともだと思えましたが、牧師から言われた言葉が頭の中でまだ渦を巻いていました。心が乱れて集中できず、彼女の交わりをこれ以上聞きたくなくなりました。そこで彼女を追い払おうと、用があって隣のお宅に出かけなければならないと嘘をつきました。その後も王姉妹は私の家を何度も訪れましたが、私はいつも彼女を避けました。近所の人は「悪い人には見えないけど、何が怖いの」と言っていましたし、私も王姉妹はいい人だと内心わかっていましたが、自分の霊的背丈が低いせいで間違った信仰をもつのが不安だったのです。

 再びもとの教会での集会に出席してみると、説教師たちは以前と同じことを説教していました。東方閃電からこのように身を守りなさいとか、教会に寄付しなさいとかいうことを話し、自分たちがどれだけ主のために働いて苦しんだか、主のお恵みをどのくらい享受してきたかなど、いつもの退屈な話を繰り返すだけだったのです。新しい光があることは何一つ口にしませんでした。私はすぐにこれ以上聞くのが嫌になり、うとうとしてしまいました。あるとき、別の教会の兄弟が説教をしに来たのですが、それも自分が主の働きを行なうためにどれほど浮き沈みを経験したか、どれだけ苦しんできたか、福音の伝道を通じてどれほど多くの人を転向させたか、どれほど多くの教会を建てたかなど、まったく同じ話ばかりでした。その人はひたすら自慢ばかりしていたのです。その話を聞いているととても不快に感じ、この人は主ではなく自分の証しをしているに過ぎないと思うようになりました。また別のときには、私が集会の場所に着くやいなや姉妹の1人に、「今日は20代の女性の神学生が説教をしてくれるんですよ」と教えられました。私はそれを聞いてとても嬉しくなり、説教師よりも素晴らしい説教をしてくれるはずだから、今回は特に注意して聞かなくてはと自分に言い聞かせました。ところがその学生は東方閃電からの身の守り方という話で説教を始めたあと、16歳のときに神学を学ぶべく普通の教育を捨てて神学校に入ったこと、雨天にもかかわらず外で働き苦しんだこと、どれほど多くの場所へ行ったかなどを話し続けたのです。私は聞けば聞くほどうんざりしてこう考えました。「新しい酒袋に古い葡萄酒を入れるとはまさにこのことだわ。どうしてみんな、同じようなつまらない話ばかりするのかしら。そのどれも主の御言葉にまつわる経験や知識とは関係ないし、私たちが主の道に従ったり、主の御言葉を実践してそれに入ったりするよう導いてもくれない」 私が集会に戻ってもう1ヵ月以上経っていましたが、そこからは何も得ていませんでした。そこでの説教に耳を傾ければ傾けるほど、私の霊はますますしおれ、このような形で信じ続ければ霊が乾きと飢えで死んでしまうだろうと思いました。どこに行けばいのちをひとかけらでも得られるでしょうか。それについて考えれば考えるほど、私は動揺しました。

 集会のあと、私は重い心持ちで家路につきました。王姉妹からもらった『裁きは神の家から始まる』という本のことが頭に浮かびましたが、そこには、人は傲慢であったり自分を賞揚したりしてはならず、神を偉大なものとして讃え賞揚しなければならないと記されていました。しかしあの説教師たちはみな自分の証しをし、他の何にもまして自分を讃え、他人が自分を仰いで崇拝するようにしています。私にはその本に書かれていることが正しいように思えました。そこでその晩、一人で家にいるとき、『裁きは神の家から始まる』を取り出してその中身を読みました。すると読むほどに心が舞い上がり、これらの御言葉は自分のいのちの糧かもしれないと実感しました。また、私たちの牧師がこんなに素晴らしい本を読ませないのはなぜなのかと首をひねりました。私たちのいのちに責任を負っているということを私たちの牧師はよく口にしますが、説教の中でいかに自分の証しをするかだけしか知らないらしく、どのようにいのちを得るかなど話したことはありません。自分がとても弱って教会の集会に行きたくなかった時期のことを思い出すと、牧師が私のもとを訪れたり、手を差し伸べたりしたことなどありませんでした。それなのに、私が全能神の御言葉を読んで霊の糧をいくらか得始めるやいなや、私のところに姿を見せてもとの教会に引っ張っていき、以前と同じ話を繰り返し聞かせたのはどういうことでしょう。そんなのは私のいのちに責任を負っているとは言えません。そのとき突然、自分がいかに間違っていたかに気づき、私は自分を激しく責めました。全能神の御言葉は私のいのちに糧を施すことができましたが、そのことはまさに、それらの御言葉が神から来たものに違いないということを意味しています。牧師が言ったことを信じて真の道の考察を諦めるなど、私はなんて愚かで盲目だったのでしょう。また、私が神による終わりの日の救いを得られるよう、王姉妹がいつも愛情深く私を支え、終わりの日の神の働きを証ししてくれたことを思い出しました。しかし私は王姉妹に冷たくあたり、何度も彼女と会おうとさえしなかったのです。私は彼女を敵として扱うべきではありませんでした。そのことを考えるととてつもなく悲しくなり、神の御前に出て涙ながらに悔い改めの祈りを唱えました。「主よ、私は神の御言葉の本をくれたあの姉妹を敵として扱い、彼女に背を向けてしまいました。それは1人の人間に背を向けていたのではなく、実はあなたの救いを拒んでいたのです。主よ、私はいま、あの牧師たちの言うことに耳を傾けて、神による終わりの日の働きの考察を諦めるべきではなかったことを知っています。あなたに悔い改めたいのですが、どうしたら王姉妹を見つけられるかわかりません。どうかお助けください……」 祈り終えたあと、私は再びその本を手にして夜遅くまで読みました。読めば読むほど素晴らしい内容だと感じ、全能神の御言葉を読ませようとしなかったあの牧師たちを蔑むようになりました。

 私の祈りを聞いてくださった主に感謝いたします。翌日の正午ごろ、私が昼食をとっていると王姉妹が自宅に姿を見せました。私は最後に会ってからの出来事を残らず彼女に話しました。宗教の中で糧を得られなかったことを聞いた彼女は全能神の御言葉の一節を読んでくれました。「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が深刻な飢餓に苦しみ、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より) 次いで姉妹は次のように教えを説いてくれました。「神は生きた水の源泉でいらっしゃり、神だけが人のいのちを供給できます。人が神から離れるとすべてが暗くしおれてしまうのであって、それはまさに木の幹から切り離された枝と同じです。私たちは神を信じる中で、子羊の足跡にしっかり従い、神が現在なさっている働きを受け入れ、神の御前に出なければなりません。そうして初めて聖霊の働きと、神の生きたいのちの水による糧と施しを得られるからです。宗教の牧師や長老の話を聞いても糧を得られないのはなぜですか。それには2つの理由があります。1つは、それらの牧師や長老が主の戒めに従わず、主の御言葉を実践しないからです。本当のいのちの経験も神に関する真の知識もなく、まして神を畏れる心などありません。働きや説教の中で神を賞揚することも、神の証しをすることもまったくないのです。いつも自分を賞賛しては、自分の証しをしています。主の道から完全に逸れることで、人を惑わす典型的な偽の羊飼いになったのです。彼らが聖霊に嫌悪されて拒まれ、その啓きと導きを決して得られないのはそれが理由です。そして宗教界がここまで荒廃しているのもそれが主な理由なのです。もう1つの理由として、主イエスがもうお戻りになって新しい時代の働きをなさっていることが挙げられます。聖霊が恵みの時代の人々になさった働きはすでに引き下げられ、いまは神の新たな働きに歩調を合わせる人々の集団に対してなされています。しかし牧師や長老は神の新たな働きをまったく調べず、神の足跡に従ってもいなければ、神の導きを受け入れてもいません。それとは逆に、神による終わりの日の働きに狂ったように抵抗してそれを断罪し、全能神、すなわち終わりの日のキリストを中傷、冒涜しています。信者が真の道を調べて神に立ち返るのを、ありとあらゆる手を尽くして妨げ、そうして主を十字架につけたパリサイ人のようになってしまったのです。彼らはすでに神によって断罪され、取り除かれているので、聖霊が彼らに働きをなさる術はありません。なので、私たちがいのちの糧を受けたければ、聖霊の現在の働きに歩調を合わせ、神がいま表わされている御言葉を受け入れ、全能神、すなわち終わりの日のキリストによる導き、施し、牧養を受け入れなければならないのです。それによって主イエスのおっしゃった次の聖句が成就されます。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(マタイによる福音書 14:6)「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(マタイによる福音書 4:14)

 神の御言葉に関する王姉妹の説教を聞いた私は、宣べ伝える価値のあるものが牧師や長老や神学者にないのはなぜなのか、突如として気づきました。その人たちには真理がないのです。神に抵抗しているので、聖霊はとうの昔に彼らのもとを離れました。彼らが説教するときは頭脳的な知識に頼るばかりで、聖霊の啓きはありません。彼らの説教が誰にも益をもたらさないのはそれが理由です。しかし私にはまだわからないことがあったので、王姉妹にこう尋ねました。「牧師や長老は口を揃えて、自分は聖書に精通しているとか、神学校に行って多くのいのちを自分のものにしたとか言っています。私は聖書をそれほど理解していないし、彼らが本当に私よりもいのちにおいて成熟していると信じていました。だから彼らの話に耳を傾けたんです。なのでいま、彼らが本当に多くのいのちを自分のものにしているのかどうか判断がつきません。姉妹、彼らは本当に多くのいのちを自分のものにしていると思いますか」 すると王姉妹はこう答えました。「いのちを自分のものにしていると証しできる人はいません。それはひとえに神の御言葉によって決まります。いのちを自分のものにしているとはどういう意味ですか。具体的にどのようなことが現われていなければなりませんか。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」(マタイによる福音書 14:6)とおっしゃいましたし、全能神はこうおっしゃっています。「あなたが現実性を自分のものにしているかどうかは、あなたが言うことにではなく、あなたが実際に生きることに基づいている。神の言葉があなたのいのちとなり、あなたの自然な表現となる時、それは初めて現実性と見なされ、また、あなたが理解と真の器を自分のものにしているものと見なされる。あなたは長期にわたる試みに持ち堪え、神があなたに要求する人間像を実際に生きることができなければならない。それは単なる身振りではなく、あなたから自然と滲み出るものでなければならない。その時初めて、あなたは真に現実性を得、いのちを獲得することになるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「真理を実行に移すことだけが現実性を有することである」より)「なぜ多くの人にはいのちがないと言われるのであろうか。それは彼らが神を知らず、従って彼らの心には神はなく、いのちがないと言われるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが神に証しを立てることができる」より) 神の御言葉から、キリストは真理であり、道であり、いのちでいらっしゃることがわかります。真理は人のいのちとして機能することができるので、真理を得るのはいのちを得るのと同じことです。そしていのちを自分のものにしているとは、その人が真理を得て神を知っていることを指し示しています。真理を理解せず神を知らない人には神を畏れる心がなく、神の御言葉の現実を生きることができません。これは、その人がいのちを自分のものにしていないことを意味しています。神の御言葉を自分のいのちとしてもっていなければ、その人は依然として自分本来のサタンの害毒によって生きています。そのような人は傲慢、自惚れ、利己心、卑劣、不実、狡猾といった、自らの堕落した性質をしばしば露わにします。さらに、たとえ神を信じているとしても、依然として神を畏れることも、悪から離れることもできません。しばしば嘘をつき、騙し、罪を犯し、神に抵抗するのです。そのような人がいのちを自分のものにしている人だとどうして言えるでしょう。彼らがいのちを自分のものにしていると言ったところで、それは以前と同じ肉のいのち、神に反抗するという堕落した性質に満ちているサタン的ないのちに過ぎず、神の御言葉を経験して真理を得ることから生じる、新しいいのちではありません。したがって、牧師や長老が聖書に通じ、聖書や神学理論の知識をもっていたとしても、神を知り、神を畏れ、真理を理解して聖霊の働きを有していることを意味するわけではないのです。さらに、彼らが主の御言葉を実践している、あるいは主に従っていることを意味するものでは決してありません。それどころか、彼らが普段から自分を賞揚して自らの証しをし、いつも信者に自分を崇拝させようとしているのを、私たちは目にしています。彼らはサタンらしさを露わにし、それを生きています。傲慢で自惚れていて、神への畏れがなく、人を欺こうと偽善を装っているのです。彼らは働くにしても説教するにしても、主の御言葉に関する真の知識や、人々の益になる実際的な経験を語ることができません。たとえ何年彼らに耳を傾けようと、真理を理解することは決してなく、いのちが成長することもありません。彼らには神や神の働きに関する知識がなく、神が終わりの日に肉をまとってお戻りになり、真理を表わして裁きの働きをなさるときも、心の中でほんの少しも神を畏れず、狂ったように神に抵抗し、神を断罪、冒涜します。彼らが自分のものにしているのはどのようないのちですか。それは完全にサタンのいのちです。聖書に精通し、敬虔に神を信仰していのちを自分のものにしていると思い込みながら、神を知らず、主に抵抗して断罪し、十字架につけさえしたパリサイ人と同じなのです。そのことは、聖書に精通しているからといって、その人が真理やいのちを自分のものにしているわけではないことを、私たちに教えています。いのちを自分のものにしているのは、真理を理解して実践し、神を知り、神を畏れる心をもち、神の御言葉によって生きることができる人だけです。それらの牧師や長老は多くのいのちを自分のものにしていると言いますが、それは信者を惑わし自らを欺いているだけなのです」

 全能神の御言葉と王姉妹の説教に耳を傾けたあと、心の中ですべてが完全にはっきりしました。聖書に通じ詳しく説明できるからといって、その人が真理を理解しているとか、神を知っているとか、いのちを自分のものにしているとかいうわけではないのです。私はそれまで、高い地位にいる人、神学を勉強した人、あるいは聖書の知識がある人はみな、多くのいのちを自分のものにしていると考えていました。しかしいまは、そのような見方が完全に馬鹿げていることを知っています。真理を自分のものにしていない人は見分けることができないので、簡単に惑わされてしまうようです。そこで私は王姉妹にこう質問しました。「全能神の御言葉はとても素晴らしいです。私たちはひたすら神の御言葉を注意深く読めばいいのであって、そうすればそれが神の御言葉であり、神のお声であることがわかるのですね。では、牧師や長老がそれを受け入れず、全力で神に抵抗し、断罪するのはどういうわけですか」 王姉妹はこう答えました。「終わりの日であるいま、全能神がおいでになって、堕落した人類が清められ救われるのに必要なすべての真理を表わされてきました。それらの真理は、神が私たちに授けられた永遠のいのちの道です。神の御言葉を真剣に読みさえすれば、人はそれらの御言葉が真理であり、いのちであり、道であり、人類が生存する基礎にして指針であることを認めます。それは事実です。大半の牧師や長老は終わりの日の神の働きに抵抗し、それを断罪して、人々が全能神の御言葉を読むのを妨げようとしていますが、それは御言葉の権威と力を彼らが聞くことができないという意味ではありません。牧師や長老の中には、自分では何一つ有益な説教をできないため、全能神の御言葉を盗んで信者たちに宣べ伝え、これは聖霊が自分に与えた啓きだと主張する人もいます。しかし、それでも狂ったように全能神に抵抗し、断罪するのはなぜですか。それは真理を憎む彼らの本性と実質が関係しています。主イエスが最初に働きを始められたときのことを振り返ると、特にラザロの復活や、5枚のパンと2匹の魚で5,000人の空腹を満たしたことなど、主は数多くの奇跡を示されましたが、それらはユダヤの地に住む人々にとって大いに驚くべきものでした。ゆえに当時の普通の人々の多くは、その御言葉と働きから、主がメシアの到来であると認識しました。しかしユダヤの指導者たちは主イエスを受け入れず、それどころか主に抵抗して断罪し、最後はローマ政府と共謀して主を十字架につけました。どうしてこのようなことになったのでしょう。主イエスの御言葉の権威と力を聞けなかったからでしょうか。そうではありません。ますます多くの人が主イエスの道を受け入れているのを見たからです。一般の大衆がみな主イエスを信じれば、自分たちに従う人も崇拝する人もいなくなり、地位と生計を失ってしまうのを恐れたのです。彼らは主イエスが神でいらっしゃることをはっきり知りながら、あえて主に抵抗しました。そのことは、神に抵抗して真理を憎む彼らの反キリスト的な実質を明らかにしています。主イエスはこのようにおっしゃって、彼らを痛烈に非難なさいました。『ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。』(ヨハネによる福音書 8:40)『どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである』(ヨハネによる福音書 8:43-44) そして現在、いまの宗教界の指導者たちの本性と実質を、全能神の御言葉がはっきり明らかにしています。『荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは『健全な肉体』の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。』(『言葉は肉において現れる』の「神を知らない人はすべて神に反対する人である」より) 今日の宗教界の指導者たちは、まさにかつてのパリサイ人と同じです。聖書に精通しながら神の働きについて何一つ知りません。神の出現を切望して求めるますます多くの人が全能神の御言葉を受け入れているのを目の当たりにし、信者がみな全能神を信じれば誰も自分たちに従わず、献金もしなくなることを恐れています。そこで自分たちの地位と生計を守るため、主に忠実であり信者を守るという旗印のもと、ありとあらゆる悪意に満ちた噂を捏造し、終わりの日の神の働きに狂ったように抵抗し、それを断罪するとともに、信者が真の道を求めて調べるのを全力で阻んでいます。ゆえに、宗教の指導者たちが実際には真理にうんざりしてそれを憎むパリサイ人であることがわかります。彼らは人の魂をむさぼり食う生ける悪魔であり、終わりの日の神の働きによって暴かれつつある反キリストなのです」

 神の御言葉と姉妹の説教を聞き終えると、突然光が見えました。私は何度かうなずいてこう言いました。「いまようやく、あれらの牧師と長老が、神の再臨を証ししている人がいると聞いて、それを求めも調べもせず、それどころか神をしつこく断罪している理由がわかりました。牧師と長老が声を大にして私を守るとか、私のいのちが心配なんだとか言いながら、実際には全力を尽くして私を引き留め、神の御言葉を読むのを阻み、神からのいのちの糧を得るのを妨げている理由が、いまやっとわかったのです。それはすべて、彼らの行ないがどれも自分の益を守ることだからなんですね。人々が全能神に従い始めれば、もはや自分たちの説教を聞く人も、自分たちに献金する人もいなくなることを恐れ、そのため人々が真の道を調べるのを妨げています。彼らはまさに下劣であり、私が真の救いを得る機会を台無しにするところでした。いま私は見分け方をよりよく知ったので、彼らと関係することを拒否するつもりです。彼らがどんなことをして私の邪魔をしようと、しっかり立って全能神に従っていきます」 その後、私は以前の教会での集会に二度と出席しませんでした。

 それから程なくして、以前の教会の説教師が2人、私の家を訪れました。その1人、張という説教師が私にこう言いました。「お母さん、どうして集会に来なかったんですか。また東方閃電の連中と接触しているんですか。何をするにしても信仰を切り替えてはいけません。連中の信仰に従えば、あなたはもう終わりですよ」 私は断固言い返しました。「最近あなたたちの集会に出席しても、私は何も得られませんでした。霊がますます暗くなるばかりで、主の存在を感じられなかったんです。しかし全能神の御言葉を読み始めてからというもの、私の霊は持ち上げられて、いまでは真理を理解し始め、いのちも糧を得ています。神がともにいらっしゃり、聖霊が私に働いてくださるのを感じるんです。いまでは全能神が再臨された主イエスでいらっしゃること、全能神の表わされる真理がいのちの生きた水であることを、私は固く信じています。全能神の御言葉だけが私に糧を施せるのであって、いのちを得られるならば私はどこにでも行きますよ」 するともう1人の宋という説教師がこう言いました。「私たちはあなたのことが心配なんです。正しい道から逸れてしまうのではないかと不安なんですよ。あなたのいのちは未熟ですから……」 そこで私は言いました。「私のいのちは未熟かもしれませんが、とにかく神が導いてくださいます。ご心配には感謝しますけど、ご自分のいのちのことをお考えなさい。私のいのちは神の御手の中にあるんですから……」 私がそう言うのを聞いた2人は、腹を立てて出て行きました。その姿が遠くに消えるのを見ていると、それまで感じたことのない大きな安堵を覚えました。その後、2人は我が家を2度訪れましたが、自分たちの警告に私がまったく動じないのを見て、再びやって来ることはありませんでした。神が導いてくださったおかげで、私はそれら宗教指導者たちの素顔と邪悪な動機、そしてサタンの策略を見抜き、混乱から脱出して神のもとに戻る道を見つけたのです。いまではいのちの生きた水の施しを受けており、これからもひたすら全能神に従い、崇拝してまいります。

李芳 中国