神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

質問1

2020-04-25 19:26:49 | 天の国の福音

主は終わりの日に、まずは肉として降臨され、勝利者のグループを作り、雲に乗り現れると、それは理にかなっています。だが2000年間、皆さんは主が雲に乗って来られるのを待ち望んできた。牧師や長老たちもよく言ってきた、我々が聖書の予言に従って待つことは間違いか?牧師や長老たちは皆主に仕える人々、彼らは皆主の再臨を、このように待っている、主がそんな牧師や長老たちを見捨てるのか?絶対にあり得ない!

 

解答: そう言われるにはどのような根拠をお持ちですか?仰ったことは主イエスの言葉に沿っていますか?神の言葉にもとづいていますか?人の思い込みや想像にもとづくものであれば、それは主に対する抵抗です。パリサイ人はどのようにしてメシアの到来を待っていたのでしょうか?主イエスを十字架につけた理由と併せて見てみましょう?当初、ユダヤ教のパリサイ人はメシアについてさまざまな考えをもっていました、彼らは聖書の予言を見ました。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり……」(イザヤ書 9:6)「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。」(ミカ書 5:2)聖書にある予言の言葉の数々に加え、メシアの到来に関する長期的空想や推論にはこうあります。パリサイ人は、主は必ずメシアと呼ばれ、裕福な家庭に生まれると決めつけていた。さらに、彼はダビデのようでありイスラエルの王となり、ローマ政府の支配から解放してくださる。殆どのイスラエル人はこのように考えていたでしょう。しかし、神は彼らの考えや想像に沿って、これらを実現しなかったため、パリサイ人は主イエスに対してあらゆる言い掛かりをつけようとし主イエスを非難しました。その当時、主イエスは多くの真理を表し、多くの奇跡を働き、神の権威と力を十分に示しました。パリサイ人は主イエスの言葉がいかに深淵で、彼の権威がいかに偉大でも無視しました。彼らが持つ考えや想像にそぐわない限り、また裕福な家に生まれておらず、外見も質素で威厳がないとし、彼の名前がメシアでない限り、彼らは非難し抵抗しました。彼らの真理を憎む本性ゆえに、彼らは真理を表し、贖いの働きをなした主イエスを最後には十字架につけてしまったのです。皆さん、パリサイ人は忌まわしいですか?呪われるべきですか!主イエスに抵抗し非難したパリサイ人の罪は、真理を忌み嫌う彼らのサタン的な本性を完全に暴露しました。彼らの心はメシアにより、罪から救われることを心から願っていたわけではありません。では何を期待したのか?彼らはユダヤの王によってローマ政府の支配から切り離され、苦しまなくてもすむことを期待したのです。神を信じメシアの到来を期待したのは、彼らの個人的欲望を満たし地位を守りたいがためだけでした。考えてみましょう。メシアの到来を待つにあたりパリサイ人は、何の間違いを犯したのか?なぜ彼らは神により呪われ罰せられたのか?本当に考えさせられます。神の働きを行う主イエスに、パリサイ人はなぜ抵抗し非難したのでしょうか?パリサイ人の本性がどう示されていますか?神の出現を待ち望む人々は皆、この問題を理解すべきです!こうした問題を見抜けなければ、再臨の主イエスを迎えるにあたり、我々もパリサイ人と同じように神に抵抗することになる。

パリサイ人はどのようにメシアの到来を待ちましたか?なぜ彼らは主イエスを十字架につけたのでしょうか?これらの質問の根源は一体何でしょう?これから全能神が仰ることを見てみましょう!全能神は言われます。「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、『どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない』というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)全能神の言葉を読み、メシアを待つにあたり、主イエスに対するパリサイ人の抵抗の本質と原因が、明らかになりました。では主の再臨を迎えるにあたり、もし人が想像だけで主が雲に乗って戻ることだけを待ち、真理の追究や神の声を聴くことをやめたら、パリサイ人のように神に抵抗する道を歩んでいることになるのではないでしょうか?彼らの結末はどうなりますか?

全能神の国の福音は中国本土中に20年以上かけて広がり、様々な宗派や分派に広がっています。この間、中国共産党政府の取り締まりや共産党系メディアの宣伝活動が合わさり、全能神は今のように誰もが知る名前となったのです。後に全能神が表したすべての真理、全能神教会が作った様々なビデオや映画は、段々とネット上で公開され、世界に広がっています。全能神教会の多様な証しの方法につき、宗教界の人々は皆ご存知だと思います。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)宗教指導者や長老たちはどうして終わりの日における全能神の働きを非難し抵抗するのでしょうか?聖書には主の再臨に関する予言が多くあります、彼らはなぜ主が雲に乗り降臨するという予言に、固執するのでしょうか?彼らはなぜ主の再臨についての証しを求めようとしないのでしょうか?全能神が多くの真理を表していることを知り、神の働きの現実を見ているのに、なぜ終わりの日の神の働きに抵抗し、自分たちの考えに執着するのでしょう?彼らは果たして真理を愛し主の到来を待ち望んでいるのでしょうか?彼らは賢いおとめでしょうか?愚かなおとめでしょうか?彼らが賢いおとめであり、主の到来を待ちわびていれば、なぜ神の声を聞き、神の国の福音が広まっていると知っても、まだ頑固に非難し抵抗をするのでしょうか?彼らは主を待ちわびているのにこれが誠実さの現れなのでしょうか?これは主の再臨を喜ぶ彼らの真の表現なのでしょうか?率直に言えば結局、彼らの信仰と主イエス再臨への切望は偽りで、天国に入りたいという切望は現実なのです!真理を追求し、命を得るために主を信ずるのではなく、真理を得て罪から逃れるためでもありません。彼らの希望は何なのか?降臨された主に天国に連れて行ってもらうこと、肉の苦しみから逃れ、天国の祝福を享受すること、これが彼らが神様を信ずる本当の目的です!この理由以外に、人類を救う真理を表す全能神を彼らが拒絶する理由があるでしょうか?考えてみましょう。ある人が真理を愛し、神の出現を待ちわびているならば、主が来られたと聞いたときに、どうするでしょうか?耳を傾けず状況を見ず接触を避けるでしょうか?それを盲目に否定し非難し抵抗しますか?ないでしょう。神の出現を心から待ち望み歓迎する人ならば、真の光を待ち望み、真理と正義の支配を願うでしょう。彼らは神が人類を救うために来られ、罪から完全に逃れ、神のものとされることを望んでいます。主が雲に乗って来られることだけを待ち、全能神を否定し拒む者もいます。ことに自分の地位と生活を守るために 全能神を猛烈に非難し抵抗する宗教指導者たちは、真理を軽蔑し、真理を憎んでいる者たちと言えます。彼らは皆終わりの日の神の働きにより明らかにされた未信者や反キリストです。受肉された神がその救いの働きを終えた後は、これらの人々はめったにない災害に陥り嘆き、歯ぎしりをするでしょう。そして、雲に乗って公に現れる主についての予言は完全に成就される。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7)

全能神の言葉を一緒に見ていきましょう。「真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である。あなたがたは単にイエスの恵みを望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、肉に戻ったイエスが表した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯しては何度もその罪を告白するという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスへの捧げ物としてあなたがたは何を差し出すのか。自らを称賛する長年の仕事という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すのだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。

……わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)

『呪縛を解く』の映画台本から