暗いトンネルの先で見た暖かな光
2020-01-24
主イエスの再臨を渇望する他の兄弟姉妹と同じく、私も主がいますぐお戻りになって私たちを天国に迎えられ、その祝福を享受できるようにしてくださるのをひたすら待ち望んできました。そして2006年11月のある日、私はついに主の再臨の知らせを聞きました。全能神の表す御言葉を読み、また終わりの日における神の働きに関する兄弟姉妹の交わりと証しを通じ、受肉された全能神が主イエスの再臨でいらっしゃることを認識したのです。私はその場で、終わりの日における全能神の働きを喜んで受け入れました。
しかしある集会のとき、楊さんという姉妹がとても真剣な口調で私にこう教えを説きました。
「最近、神による終わりの日の働きを受け入れたあと、サタンの妨害や試みに遭う兄弟姉妹が多くいます。中国共産党政府の嘘に騙される人もいれば、牧師や長老による妨害と脅しに遭ったり、家族の強要や邪魔を受けたりしている人もいます。また、家族が病気や災難に見舞われている人もいます。これらはどれも、私たちが神に立ち返るのを止めようとするサタンのたくらみです。全能神の裁きの働きが神の家から始まり、それが人類を救う神の働きの最終段階であることを、私たちはすでに全員知っています。神は全力を尽くして人間をお救いになろうとしており、サタンは私たちが神の御前に出てその救いを受けるのを妨げるべく、おのれのたくらみや妨害を実行しています。まさにいま、霊の世界で繰り広げられている戦いはますます激しさを増しています。ですから、サタンのたくらみが降りかかっても決して騙されず、むしろ神の証しを立てられるよう、私たちはいますぐ真理を身につけ、識別力を自分のものにする必要があります。全能神の御言葉の一節を読みましょう。」
そこで私は神の御言葉の本を手にとり、次の部分を真剣に読みました。
「神が働きを行うと、サタンは阻害を行う。終わりの日にサタンの妨害は終わるだろう。同様に神の働きは終えられるだろう。そして神が全き者としたい人間は全き者となるだろう。神は人々を積極的に導く。神のいのちは生ける水であり、測ることができず、終わることがない。サタンはある程度まで人を堕落させた。最後に、そのいのちの生ける水は人を完全にし、サタンが邪魔したり、その働きを実行したりすることは不可能となるだろう。そのようにして、神はそれらの人々を完全に自らのものとすることだろう。サタンはそれを受け入れることを今、依然として拒んでいる。サタンは神に対して継続的に対抗しているが、神はサタンを気に留めない。神は述べた、『わたしはサタンの暗い力のすべてと暗い影響のすべてに勝利するだろう。』と。…神はサタンより賢明で、神の働きはサタンをはるかに凌ぐ。だから、わたしは以下を前に述べた。「わたしが行う働きはサタンの策略に対応して実行される。最後にわたしは、自らの全能性とサタンの無力さを示す。」神が自らの働きを行うとき、サタンは自分が最後に結局粉砕されるまで神の後ろについてゆく。サタンは自分を討ったものを知ることさえないだろう。サタンはすでに打ち破られ、砕かれて初めて、真実に気づく。そのときサタンは、すでに火の池で焼かれてしまっている。サタンはそのとき完全に確信するのではないだろうか。打つ手がなくなったからだ。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より)
すると楊姉妹が静かな口調でこう話しました。
「神の御言葉から、神による経営の働きの各段階において、サタンが絶えずそのあとをぴたりと追っていることがわかります。神が前に立って人間を救う働きをなさっている一方、サタンはその後ろで妨害したり破壊したりしているのです。サタンは人間を巡って常に神と争っていますが、人間を完全に救う神の働きの最終段階においては特にそれが当てはまります。そしていま、サタンはますます力の限りを尽くしてありとあらゆる人や物事を利用し、私たちが神の働きを受け入れてそれに従うのを妨害し、止めようとしています。サタンの卑劣な目的は、人間を神から引き離し、私たちが神を拒んで裏切り、それによって神の救いを失うようにさせることです。しかし、神の知恵はサタンのたくらみに応じて実行されます。神はサタンの妨害をお使いになることで、私たちに神の働きと知恵、そして全能を理解させてくださるとともに、サタンの邪悪さと醜さをはっきり見えるようにしてくださるのです。だから今後どんなことに見舞われようと、私たちはみな神に祈り、神を頼り、真理を求めなければなりません。また神の証しを立てられるよう、サタンのたくらみを見透かさなければなりません。それはヨブが受けた試練とまさに同じです。ヨブは神の証しを立て、サタンは恥辱にまみれて退散しました」
楊姉妹が説く教えを聞き、私は自信をもってこう答えました。
「ええ、私たちは真の神を信じています。神に頼れば恐れるものは何もありません。もしサタンの試みに遭うことがあっても、私は絶対神の側に立ちます」
それから間もないある日、私が福音の伝道を終えて自宅の玄関に近づいたところ、隣の家の人が手を振りながら駆け寄ってきてこう言いました。
「どうしてこんなに遅くなったの?大変な事故があったのよ!今日、劉さんという息子さんの友達があなたのトラックを借りに来たんだけど、なかなか動かせないものだからトラクターで引っ張り出そうとしたの。でも何度か試してみてもトラックは動かなかった。そのときたまたま胡さんもいたから、彼がトラクターに乗ってギヤを5速に入れたの。そしたらトラクターが急に走りだして、トラックについていた鉄のロープがバチンと切れた。それが胡さんのこめかみに直撃して、すぐに血が溢れだしたわ。それから病院に運ばれたけど――」
私は急に頭の中が真っ白になり、家に駆け込んで神にこう祈りました。
「ああ、神様!私にはあなたの御心がわかりません。どうしてこんなことが私の身にいきなり起こったのでしょうか。どうか私をお啓きください――」
祈ったあと、私は霊の戦いについて楊姉妹が説いてくれた真理を思い出し、それで理解しました。これらの出来事はまさにサタンが私を試し、妨害しているのです。私が神を疑い、非難し、拒否するよう、サタンはこの厄災を利用することで、私を攻撃しようとしているのです。これはまさしく霊の戦いです! ちょうどそのとき、神の御言葉が私の脳裏に浮かびました。
「神がサタンと戦う時にあなたが神の側に立つことができ、サタンの方へ後戻りしないならば、あなたは神への愛を獲得し、固く立って証しをするだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)
神の御言葉は私を大きな信仰で満たしました。そして私はこう考えました。
「サタンよ、あなたがどう私の邪魔をしても、私はあなたのたくらみにははまらない。神を責めたり疑ったりするつもりはないし、きっと神の側に立つわ。従うべき全能神に従うつもりよ」
いったん神の御心がわかると、私の心はかなり落ち着きました。
しかしサタンは負けを認めず、その後も他の人々や物事を通じて私を妨害する手を緩めませんでした。胡さんの入院中、彼の家族は我が家にすべての責任を押しつけ、私たちに医療費を全額払わせようとしました。私は胡さん一家と話し合おうと試み、半額を負担するつもりだと言いましたが、相手は拒否するばかりでした。それから20日ほど経ち、胡さんはすっかり回復していましたが、それでも退院しませんでした。我が家からお金を取ろうとわざとそうしていたのです。そんなある日、胡さんから「トラックはあなたの所有なのだから、あなたが費用を全額払うべきだ」と言われました。胡さんの妻も立ち上がって「その通りよ!事故を起こしたのはあなたのトラックなのだから、あなたがすべて払うべきよ」と怒鳴りました。いつまでもしつこく迫る人たちを前にして、私はとても腹が立ってきました。私は心ならずもこの事故に巻き込まれたのです。そう思うと本当につらくなり、心が乱れました。私はこれ以上話を続ける気も失せ、腹立たしい思いで病室を出ました。そして階段を下りながらこう思いました。
「私は神の信者なのよ。こうしたことが起きても腹を立てちゃだめ。この件は神にお任せするべきだわ。私は神に頼らなければならないのよ」
それから家に戻って神の御言葉の本を開き、次の一節を読みました。
「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなた方に対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある。…あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)
この御言葉を読みながら、あの日、サタンの試みがいつ降りかかろうとも必ず神の側に立つと楊姉妹の前で言い切ったことを思い返しました。サタンが何度も私を悩ませたとき、自分が静かに神の御前に出て御心を求めることができず、常に頭が一杯になるとは思ってもいませんでした。私はそう考えて恐ろしくなりました。自分の身にサタンのたくらみが降りかかっているのではないでしょうか。そのことを何度もじっくり考えて初めて、サタンがいかに腹黒く邪悪であるかがようやくわかりました。サタンはこの問題を利用して私を妨害し、私が俗世の利益のために腹を立てるよう仕組んでいたのです。さらに、サタンはそれを利用して、私に全能神を否定させ、裏切らせようとしました。しかし、サタンのたくらみにはまるわけにはいきません。進んで神に頼り、この件を神にお任せしようと思ったのです。胡さんが退院しようとしまいと、私が最終的にどれだけ出費することになろうと、それらはすべて神の御手によって指揮されることであり、結果がどうなろうと、私は喜んでそれに従うつもりでした。神の御心を理解し、進んで神の証しを立てようと望んだところ、驚くべきことにその次の日、神の不思議な御業の一つを目の当たりにしました。神はある若者を鼓舞して胡さんの病室に行かせ、次のように戒めさせたのです。
「善良な人をいじめて金を巻き上げるなんて、君のような人間は見るに堪えない。僕だったら一文たりとも君に渡さない」
すると、同じ病室の別の患者が一緒になってこう言いました。
「その通りだ。自分の意志でトラクターに乗ったのは胡さんなのに、いまこの人のお金を取ろうとしている。なんと理不尽なことか!」
「そうだ!トラックを借りた人も何か払うべきだ!持ち主に全額払わせるなんて無理だぞ!」
それを聞いた胡さんはうつむいたまま何も言いませんでした。そして3日後、胡さんは退院しました。私は心の奥深くで、この背後には神がいらっしゃり、私のために道を開いてくださったことを知っていました。
この経験のあと、私はサタンの邪悪さと卑劣さがわかるようになりました。お金を失うという理由で、私が神に文句を言い、神を非難し、神から離れるようにしようと、サタンは周囲の人や物事を利用することで、私を妨害、攻撃しました。私が苦しみの中で生きることを望んだのです。同時に、私が自分の肉にまつわる損得勘定をやめ、信仰の中で神に頼り、神の側に立つとき、神は不信心者の言葉をお使いになって私のために道を開き、サタンを屈辱のうちに退散させたこともわかりました。私はそのおかげで、あらゆるものを動かし支配する神の権威を目の当たりにできたのです。それは神の御言葉にこう記されているとおりです。
「わたしは、全てのものを動員してわたしに仕えさせ、さらに、宇宙世界の中でひとつとして私たちの手の中にないものはなく、ひとりとして私たちに奉仕していない者はなく、達成されたものでひとつとして私たちのためになされなかったものはないことを、全ての人が見ることができるよう、わたしはわたしの力を現すだろう。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第百十九章」より)
神の御言葉を読めば読むほど、神の全能と不思議がわかります。万事が神の御手の中にあるのを目の当たりにしたことで、私の神への信仰は高められ、次に何が起きようとも神の働きをもっと経験し、神に頼ってサタンの試みに打ち勝ちたいと思うようになりました。
その1か月後、またもやサタンの試みが私に降りかかりました。ある日、結婚したばかりの娘が我が家に立ち寄ったのですが、突然玄関先で気を失い、隣人が抱き起して家に入れてくれました。最初はただの風邪だろうと思って特に気に留めませんでしたが、夜半になって娘が突然頭からつま先まで震えだすとは当然ながら思いませんでした。怖くなってどうしたらいいかわからなかったものの、即座に娘を胸に抱き寄せたところ、しばらくすして娘は少し具合が良くなったように見えました。翌朝、娘が「お母さん、私は大丈夫だから本分を尽くしに行って」と言うので、私は無言で神にこう祈りました。
「神様!万事はあなたの御手の内にあります。だから、娘のことはお任せいたします――」
それから娘に向かい「ねえ静、もっと神に祈って頼りなさい。神は私たちを強く支えてくださる力なんだから」と言いました。娘にそう促してから、私は本分を尽くしに出かけました。ところが驚いたことに、2日後に帰宅してみると、娘は重態に陥って病院にいるというではありませんか。すると私の義理の娘が、私に向かって悲しそうにこう言いました。
「お義母さん、お義母さんがお出かけになってから静ちゃんの具合はどんどん悪化していったんです。診察してくれたお医者さんは、脳出血を起こしていて開頭手術が必要だと言ったんですけど、お義母さんも静ちゃんのご主人も2日間留守だったので、同意書に署名できる人がいなかったんです。それで手術の機会を逃してしまいました。それに、静ちゃんの病状は治療不可能で、たとえ意識が戻っても植物状態になるだろうと、医師が静ちゃんの姑さんに告げているのも耳にしました」
私はそれを聞いてナイフで心をえぐられたように感じ、目から涙が溢れてきました。そして、それが本当のことだとどうしても受け入れられませんでした。そこで私は一縷の望みにすがりつき、専門医に相談しに行きましたが、その医師は首を振り、「私たちはできる限りのことをしてあらゆる手を尽くしましたが、どんなによくても植物状態で意識が回復するだけでしょう」と告げました。医師の言葉を聞いて、天が落ちてきたような気がしました。私は無限の苦しみの中で生きていたのです。その後、娘の状態を知った義理の息子は、娘が生きるか死ぬかに無関心だったばかりか、私のほうさえ向かず、自分たちが結婚したとき私たちに贈った結納金を返してくれと言うなど、人間性がまったくないこと見せつけたのです。その日、病院から家に帰る道のりがとても遠く感じられました。私は魂の抜け殻となって道をさまよっていたのです。長く暗いトンネルを歩きながらも、行く手に光がまったく見えないかのようでした。
帰宅後、私は神の御言葉の本を力なく開き、次の一節を読みました。
「地上には、あらゆる悪霊が果てしなく休みどころを求めてさまよい、いつも食べるための人間の死体を探している。わが民よ。あなたがたは、わたしの保護と世話の中にとどまりなさい。けっして自堕落なことをしてはいけない。けっして無謀なことをしてはいけない。そうではなく、わたしの家で忠誠をささげなさい。そして、忠誠によってのみ、あなたは悪魔の狡猾さに対抗できるのだ。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より)
「苦難に直面した時、肉のことを考えず、神に対して不平を言わずに居ることが出来なければならない。神があなたから自身を隠している時は、あなたは神に付き従う信仰を持ち、以前の愛が揺るいだり、消え去ったりすることがないように維持出来なければならない。神が何を為そうが、神の意図に従い、神に対して不平を言うよりも、自らの肉を進んで呪わなければならない。あなたは、試練に直面する時、たとえ自分が愛するものと訣別する未練や苦い涙があっても、神を満足させなければならない。ただこれのみが真の愛、真の信仰と呼ぶことができる。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)
神によるこれらの御言葉を読みながら、私はたったいま起きた出来事を振り返り、サタンの卑劣さ、悪意、そして凶暴さを心の底から理解しました。サタンは私を神の御手からもぎ取り、私の霊を食い尽くそうと、事あるごとに私への狡猾なたくらみを実行し、私を妨害、攻撃したのです。最初は他人にゆすられ、お金を失ってしまうのではないかと苦しい思いをさせられました。そして今回、サタンは愛する娘を利用して再び私を試み、娘の病気を使うことで、私が神に不平を言い、神を拒否して裏切るようにさせ、そうして終わりの日に神の救いを得られないように試みているのです。これらはすべてサタンの狡猾なたくらみであり、ヨブが自分の時に直面した試練とまさに同じです。その背後では戦いが繰り広げられており、サタンは富と子供らを失わせることで、ヨブが神を捨てて拒むようにさせました。しかし、ヨブは決して神を責めず、それどころか神の御名を讃えたので、サタンは屈辱のうちに退散し、それは神に対する美しく鳴り響くような証しとなったのです。たとえ自分の肉体が弱くても、私はサタンの狡猾なたくらみを見透かし、神の側に立たなければなりません。神はこうおっしゃっています。
「そして、忠誠によってのみ、あなたは悪魔の狡猾さに対抗できるのだ。」「たとえ自分が愛するものと訣別する未練や苦い涙があっても、神を満足させなければならない。ただこれのみが真の愛、真の信仰と呼ぶことができる。」
神はサタンによる攻撃をお使いになって、神に対する私の信仰と献身を完全にさせようとしていらっしゃるのです。人間の生死はともに神の御手にあります。そのため私は、自分の娘を神の御手に委ねようと思いました。そしてそう考えつつ、苦い涙を流しながら地面に跪き、神にこう祈りました。
「全能神よ!人々の運命はあなたの御手にあります。あなたがお許しにならなければ、娘は最後のひと息が残っている限り死にません。それに、医者の言うことが正しく娘が植物状態になったとしても、私は絶対にあなたを非難せず、あなたに従い続けます」
その日の夜遅く、私は病院で娘の枕元に座っていましたが、いつの間にか居眠りをしていました。そして意識がもうろうとする中、「お母さん、お母さん、水が飲みたい」という娘の声で目を覚ましました。娘の声を聞いて心臓が激しく鼓動し、私はその場に飛び上がりました。目をこすって娘を見ると、両手を動かし目を開けているではありませんか。それを見たとたん、私は感情の渦に巻き込まれて言葉もなく、ただ「ああ神様!ああ神様!」と口にすることしかできませんでした。同じ病棟の人も驚きのあまり、「おお、奇跡だ!どうしてそんな風にいきなり良くなったんだ?」と言いました。私は高揚のあまり満面の笑みを浮かべました。人の生死がともに神の御手の中にあることをまさに目の当たりにしたからです。神の御業は本当に不思議です。娘を救ってくださったのは神でした。3日後、娘は奇跡的に回復し、再び普通の人と変わりなく見えるようになりました。サタンの手によるこの打撃を経験した私は、霊の世界で繰り広げられている戦いがいかに熾烈かを知るとともに、サタンの悪意に満ちた卑劣さと、凶悪な残酷さをまざまざと目の当たりにしました。同時に、私は神の御心をずっとよく理解できるようになりました。神は私をよりよく救い、私を完全になさるべく、これらの試練が私に降りかかるのをお許しになりました。そのおかげで、私は神の全能と知恵を認識し、神の権威と支配もわかるようになりました。また、それによって、神に対する私の信仰、献身、服従が完全なものになりました。私はそのおかげでサタンの影響から救われ、いのちの成長を遂げることができたのです。神は本当に素晴らしい!
その後、私は神の御言葉の次の一節を読みました。
「わたしの全経営(救いの)計画、六千年にわたる経営(救いの)計画は三段階、あるいは三時代から成る。それは始まりの律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして終わりの日の神の国の時代である。これら三時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階においてこの働きは人間の必要性に対応している。正確には、わたしがサタンに対して行なう戦いでサタンが用いる策略に応じて働きは行われる。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことであり、それによりサタンの支配下に生きる人類全体を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示し、サタンの耐え難いおぞましさを明らかにするものである。それに加えて、被造物が善悪を区別し、わたしこそがすべてを治める者であることを認識し、サタンが人類の敵であり、下の下、悪い者であることをはっきりと見極められるようにし、善と悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを絶対的な明白さをもって区別できるようにすることである。それにより無知な人類は、人類を堕落させるのはわたしではなく、創造主であるわたしだけが人類を救うことができ、人々が享受できるものを彼らに授けることができることをわたしに証しし、わたしこそがすべてを治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと人類は知ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より)
神のこの御言葉を通じ、私は神の御心をよりよく理解できるようになり、神がなさるすべてのことは人類の救いであり、人類への愛だということがわかりました。自分が経験した試練に次ぐ試練を思い返してみると、多少の困難を耐え忍ぶこともありましたが、同時に多くのことも得ました。これらの経験を通じて、サタンが私に嫌がらせをしようと、常に私の周囲の人々や物事を使っていたことがわかりました。しかし、私の側にはずっと神がいらっしゃり、私が識別力をさらにもてるよう、御言葉を使って私を啓き導いてくださったのです。そして、私が受け身で弱っているときもしっかり立てるよう、神は辿るべき道をくださり、信仰と力を与えてくださいました。その道を一歩進むごとに、私はサタンの闇の影響から解放され、神の不思議な御業を目にすることができました。これらの経験により、いのちが成熟してより強くなったのです。そして、そのすべてを経ることで、自分の側には神がいらっしゃるのだから、サタンによるこれらの妨害や苦痛をこれ以上恐れることはないと思いました。神に頼って神の御言葉から離れない限り、そして神を信じる限り、神はサタンの試みや攻撃に勝利するよう私たちをお導きになり、私たちは神が見守ってくださる中で生きていくでしょう。いまや私は、全能神が再来された主イエスでいらっしゃることをさらに強く確信しています。全能神は私の主であり、神なのです!また、私たちは被造物であって、祝福を享受するにせよ、困難に耐えるにせよ、絶えず神に従い、神を崇めるべきであることにも気づきました。私は次のように固く決意しました。この道が果てるまで、私は全能神に従うことを心に決めています!
王玉萍 中国