十字架にかけられた主イエスは、私たちの罪を背負ってそれを赦した。それゆえ、私たちはすでに聖いものとして選り分けられ、もはや罪がなく、終わりの日における神の裁きと清めの働きを受け入れずとも天国に入ることができる――このように信じるのは正しいか。
参考聖書箇所
「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」(ヘブル人への手紙 9:28)
「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書 8:34-35)
「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14)
「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネの黙示録 21:27)
関連する神の言葉
イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。
『言葉は肉において現れる』の「序文」より
当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。
『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より
あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。
『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より
終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。
…終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。たとえば、自分たちがモアブの血統であることを知った人々は、愚痴をこぼすと、いのちを探求することをやめ、すっかり消極的になってしまった。これは、人々がいまだに神の支配に完全に服従できないでいることを示していないだろうか。これこそが、まさに堕落した悪魔的な性質ではないだろうか。刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも、イエスすら超えて、高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神の親密なものとなりたまえ。サタンに服従するなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。赤い大きな竜が完全に権力から落ちるようにしたまえ。神によりわたしたちを完全にしたまえ」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰のときが訪れ、再び人々の堕落した性質が明らかになった。人々の叫びは途絶え、彼らは決意を失ってしまった。これが人間の堕落である。それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より
終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。
『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より
終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。…悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。
『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より
キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。
『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より