神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

質問4

2020-08-14 22:28:37 | 書籍

質問4:宗教界の牧師や長老たちは主の肉における再臨についての証しは偽りであると信者によく説教します。これは以下の聖句をもっぱら根拠としています。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)現在、私たちには真のキリストを偽キリストからどのように見分けるべきかわからないので、この質問についてはっきり説明していただけませんか。

 

回答

主イエスは終わりの日の偽キリストと偽預言者のことを預言されました。これは事実です。しかし、ご自身の再臨も何度か明確に預言されました。私たちはそう信じているでしょう?多くの人は主イエスの再臨の預言について偽キリストや偽預言者を警戒することを優先して、到来する花婿を迎えることや花婿の声を聞くことは考えません。何が問題なんでしょう。むせたくなくて食べないのと同じ。全体を見ていない。実際には偽キリストと偽預言者をいくら警戒しても、主の再臨をお迎えすることができず、御座の前に連れて行かれないのなら、私たちは神に排除され見捨てられた愚かな乙女であり、その信仰は完全な失敗なんです。主の再臨をお迎えするための鍵となるのは御声を聞き分けられるかどうかです。キリストが、真理、道、命であることを認めるなら、御声は簡単に分かります。真理が分からず神のしるしや不思議な業に目を向けてばかりいると、偽キリストや偽預言者にだまされてしまいます。真の道を求めも学びもしなければ、神の御声を聞くことなどできません。それでは死を待ち破滅を招くだけでしょう?御言葉を信じるんです。神様の羊は御声に聞き従います。真の知恵と資質があり、御声を聞き分けられる者は偽キリストや偽預言者にはだまされません。偽キリストや偽預言者は真理がなく、神の働きができません。だから気にすることはありません。ただ混乱している者や知恵のない者だけが偽キリストや偽預言者にだまされるんです。賢い乙女は偽キリストや偽預言者にだまされたりしません。神の配慮とご加護があるからです。神が人を造られた時、賢い乙女は人の霊を与えられ、御声が聞こえました。神様の羊が御声に聞き従うのは神が定められたことです。愚かな乙女だけが偽キリストや偽預言者から身を守るのに熱中し再臨を求めずにいるんです。偽キリストや偽預言者にだまされず、主の再臨をお迎えしたいと思うのなら、偽キリストがどのように人をだますか知らねばなりません。実を言うと、主イエスは偽キリストや偽預言者のやり方について語っておられます。主イエスは言われました。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書 24:24)偽キリストと偽預言者は神の選民をだますためにしるしや不思議な業に頼るということです。これが偽キリストの使うおもな手口です。ここで理解すべきなのは、なぜしるしや不思議な業を用いてだますかということです。なぜかというと、偽キリストと偽預言者には真理がないからです。その本性も本質もきわめて邪悪な霊なので、しるしや不思議な業に頼るしかないんです。もしも彼らに真理があるのなら、しるしや不思議な業を用いたりはしないでしょう。こうして見ると、しるしや不思議な業を見せるのは彼らにはそれしかできないからだと言えます。このことが分かっていなければ、彼らにだまされてしまいます。キリストのみが真理であり、道、命です。真理を表し、人々に道を示し、命を与えられるのはキリストだけなんです。真理を表せないのは間違いなく偽キリストです。詐欺師なんです。これが偽キリストや偽預言者を見抜く方法です。真の道を求める者はこの原則に従って、神の御声を求め確かめれば、間違いはありません。

全能神はもう偽キリストや偽預言者の不誠実なやり方を暴いておられます。全能神の御言葉を数節読みましょう。全能神は言われます。「病人を癒やし、悪霊を祓うのは、恵みの時代の働き、贖いの働きの第一歩であったが、神が人間を十字架から救った今となっては、もはやその働きを神は行わない。もし終わりの日に病人を癒やし、悪霊を祓い、人間のために十字架につけられたイエスと同じ『神』が現れたなら、その『神』は聖書の神の記述と同じで、人間には受け入れ易いであろうが、本質的に、それは神の霊が人間の肉をまとったものではなく、悪霊によるものであろう。すでに成就した働きは二度と繰り返さないのが神の原則だからである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)「この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を起こせる人が現れて、またその人が再来したイエスであると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。…人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。それを理解しておきなさい。」(『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より)「神の働きは人が抱く観念とは決して一致しない。神の働きはいつも新しく、決して古くないからである。神は古い働きを決して繰り返さず、むしろこれまでなされたことのない仕事をたゆみなく行う。」(『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より)

全能神ははっきりこうおっしゃっています。神は常に新しいし、決して同じ働きはなさらない。これは主イエスが来られて恵みの時代を開かれた時と同じなんです。主イエスは贖いの働きで人類を罪から救われました。働きの効果が出るようにしるしや不思議をなさいました。終わりの日には全能神が来られ、神の国の時代を開かれ恵みの時代を終わらせました。でも主イエスの働きを繰り返すのではなく、主イエスの贖いの働きを基にして神の家から始まる裁きの働きをなさいます。人類の清めと救いのための真理をすべて表し、罪の源とサタン的性質を解消し、人をサタンの影響から完全に救ってくださり、神のものとされるんです。偽キリストたちはみなキリストのふりをしている悪霊です。新しい時代を開き古い時代を終わらせることはできません。できるのはただ主イエスの真似をして簡単なしるしと不思議な業を行い、愚かで判断できない人をだますことだけです。主イエスのように死人を生き返らせたり、五つのパンと二匹の魚で五千人のお腹を満たしたりすることも、風と海を叱ったりすることもできません。彼らにはとうてい無理なんです。実際偽キリストたちというのは邪悪な悪霊で、まったく真理がありません。だから、しるしや不思議な業に頼って人をだましたり、またあるいは神の御言葉の口調や昔の簡単な御言葉を真似て人をだましたり戒めたりするんです。

真のキリストと偽キリストの見分け方について、全能神の御言葉を見てみることにしましょうか。全能神は言われます。「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)この全能神の御言葉から分かることは、キリストが受肉の神であって、肉をまとった聖霊、つまり神がお持ちのもの、性質や知恵を含む神のものすべてがキリストの肉に実現されています。キリストは神性をお持ちで真理の化身です。いつでもどこでも真理を表して人を養うことができます。キリストだけが人類を贖い救うことができるんです。これは誰にもまねができませんし、否定することもできません。ほとんどの偽キリストたちは悪霊に取り憑かれています。彼らはひどく傲慢で理不尽で、本質は悪霊であり、悪魔です。だから、どれほどしるしや不思議を行っても、聖書を曲解しても、深い知識や理論を語っても、人をあざむき害し、破滅をもたらすだけです。彼らは何の益ももたらさず、人々の心に暗闇をもたらして道を閉ざし、サタンの餌食にするだけです。明らかに偽キリストと偽預言者はみなサタンの化身であり、神の働きを妨げる悪魔です。だからどれだけの人をだまし、害を与え、滅ぼしたとしても、やがては倒れて自滅していきます。なぜなら彼らには少しの真理もないんですから。真のキリストと偽キリストの見分け方を本当に理解すれば、偽キリストにだまされるのを恐れず、御声を聞き神の出現をお迎えすることができるはずです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

全能神が真理を表し終わりの日の裁きの働きを始められて以来、人類はすでに神の国の時代に入っており、神の国の時代が始まりました。私たちの神様への信仰が恵みの時代にとどまったままなら、私たちは置き去りにされて神様の働きに見捨てられてしまいます。主イエスが密かに戻られ、神様の家から始まる裁きの働きをなさるとき、多くの偽キリストや人を惑わす者が必ず同時に出現し、神様の働きのあとを追い、それを混乱させます。したがって、偽キリストが現われるとき、神様は実際にもうおいでになって密かに降臨されており、単に私たちがそれを知らないだけなのです。そのとき、私たちは終わりの日の神様の働きを積極的に探し求めて考察すべきですが、現在、主の再臨の話となると、どのように賢い乙女になって神様の御声に耳を傾け、主の再臨をお迎えすべきかに注意を払うよりも、偽キリストから身を守ることを最重要な事柄として扱う人がいまだに数多くいます。そのような人はむしろ自分の観念や想像に固執し、主の再臨の証しはすべて偽りだと考えています。彼らはまさに主イエスがお語りになった愚かな乙女ではないでしょうか。これは主イエスの再臨を断罪していることになりませんか。そのような人はそもそも主イエスの再臨を信じているでしょうか。これは主イエスの再臨を暗に否定していることになりませんか。

真のキリストと偽キリストをどのように見分けるかは、私たちに真理があるかどうかを実によく表すものであり、私たちが賢い乙女か愚かな乙女かを示す最善の方法です。中には聖書のこの一節を、受肉されたキリストを裁いて断罪し、キリストの到来を否定する根拠とする人もいます。このような人は自らを愚か者としてさらしているのです。真のキリストと偽キリストを見分けるには、まずキリストの本質に関する認識をもたなければなりません。私たちはみな、主イエスは受肉されたキリストであり、キリストは受肉された神様でいらっしゃること、つまり、天にまします神様は人の子として受肉され、人のあいだで働きをなさることを知っています。キリストは神様の霊の化身であり、神性の本質を有しておられます。神様の霊が有しておられる神様の全能性と知恵、性質、神様が所有されているものと神様そのものはすべて、キリストにおいて具体化されています。キリストは真理であり、道であり、いのちでいらっしゃいます。このようにして、キリストは漠然とした神様ではなく、架空のものでもはかないものでもないことが確信できます。キリストは現実的で実際的です。私たちはキリストを頼り、信じることができます。キリストは、従って知ることができる実際の神様です。それはまさに、主イエスが私たち人間のもとで生き生きとお暮らしになり、働き、人を導き牧されたのと同じです。いま私たちはキリストの本質を知っており、真のキリストと偽キリストを見分けるのはとても簡単になっています。ここで全能神の御言葉の一節に目を向けましょう。全能神は言われます。「このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

主イエスは恵みの時代においでになったとき、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6)とおっしゃいました。主イエスは数多くの真理と、おもに憐れみと愛の性質を表され、全人類を贖う神様の働きを完了なさいました。主イエスの働き、御発言、表された性質は、キリストが真理であり、道であり、いのちでいらっしゃることを完全に証明しています。終わりの日、全能神はおいでになって「わたしの言葉は真理であり、いのちであり、道であり…」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十二章」より)とおっしゃいました。全能神は数百万の言葉を表して巻物をお開きになり、おもに義である性質を表され、終わりの日の裁きの働きをなさってこられました。堕落した人類を裁いて罰し、お救いになる全能神の働きは、キリストが真理であり、道であり、いのちでいらっしゃることを再び証明しています。はるか昔主イエスは終わりの日に戻られて裁きの働きをなさること、そのために人の子の肉体をまとわれ、人の子のお姿で私たち人間の世へおいでになり、諸教会に語られることを預言なさいました。全能神の働きは、主イエスの再臨の預言を成就したのです。そのことから、受肉された真のキリストはおいでになって真理と神様の性質を表し、終わりの日における神様の裁きの働きをなさり、人類を征服し、救い、清め、神様の御心を実行して神様を証しなさることがわかります。キリストは真理であり、道であり、いのちでいらっしゃいます。キリストがお表しになるすべての真理は、堕落した全人類を必ずや徹底的に征服し、心から神様を信じるすべての人を神様の玉座の前へと連れて行くことができます。キリストはきっと終わりの日の神様の働きを成就なさいます。それは間違いありません。

偽キリストはキリストのふりをする悪霊であり、人を惑わします。偽キリストの大半は悪霊に取り憑かれています。たとえ悪霊に取り憑かれていなくても、彼らは極めて傲慢で理知をもたない悪魔です。キリストのふりをするのはそれが理由です。キリストのふりをするのは聖霊を冒涜する罪を犯すことであり、間違いなく呪われます。偽キリストの本質は悪霊なので、真理は一切なく、本質的に悪魔です。したがって、偽キリストが口にすることはどれも嘘や偽りであり、人を納得させることができません。偽キリストのすべての言動は詮索に耐えられず、さらに、彼らはそれをインターネットに投稿して、全人類が探し求めて考察できるようにしようなどとはしません。それは偽キリストも悪霊も暗黒で邪悪であり、白日の光に耐えられないからです。彼らは単純なしるしや不思議を見せることを頼りに、あちこちの暗い隠れた場所で愚かで無知な人たちを騙すことしかできません。ゆえに、キリストを自称しながら、単純なしるしや不思議に頼って人を騙すことしかできない人は偽キリストであると確信できます。全能神、終わりの日のキリストがお表しになる真理はすべてインターネットに投稿され、全人類に堂々と公開されています。心から神様を信じて真理を愛するすべての人が真の道を探し求めて考察しており、ひとりまたひとりと全能神の玉座の前に戻り、神様の御言葉による裁きと清めと完全化を受け入れています。それは一般に認められた事実です。偽キリストによる言動は、受肉されたキリストによるそれとまったく違っています。真理を理解する人がそれを識別するのはとても簡単です。ゆえに、キリストは真理であり、道であり、いのちでいらっしゃるという原則を基に真のキリストと偽キリストを見分けるのが最も正確な方法です。主イエスはかつて神の羊は神の声を聞くとおっしゃいました。賢い乙女は神様の御声を聞き、花婿の声の中に真理を、神様の御言葉の中に神様の性質を発見し、神様が所有されているものと神様そのものを見つけることができ、神様の御旨がわかるので、神様の働きを受け入れて神様の玉座の前に戻ることができます。愚かな乙女には花婿の声が聞こえないのはなぜですか。愚かな乙女は何が真理かを識別できないから愚かなのです。愚かな乙女は神様の御声を聞き分けることができず、規則にどう従うべきかしか知りません。ゆえに、愚かな乙女は終わりの日における神様の働きによって暴かれ、淘汰されます。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

終わりの日の神様の働きを経験する私たちは皆、一つの事実をはっきりと見ます。つまり、神様の働きが新しい段階に入るたび、それを模倣、真似して人を惑わそうとするサタンとあらゆる悪霊がそのすぐあとに続くのです。主イエスは病人を癒やし、悪魔を追い払われましたが、サタンと悪霊も病人を癒やし、悪魔を追い払いました。聖霊が異言を語るという贈り物を授けると、悪霊も人を操り、誰も理解できない「異言」で語らせました。しかし、たとえ悪霊が人間の必要とするものに迎合するためなら何でもし、人を惑わすために超自然的な行ないをするとしても、サタンと悪霊はこれっぽっちも真理を有していません。サタンと悪霊が決して人間に真理を授けられないのはこのためです。その点をもとにして、真のキリストと偽キリストを見分けることができます。

受肉した神様が今回の働きをお始めになったとき、まず卑しい身分のまましばらくお隠れになり、ご自分の御言葉が頂点に達して人が皆征服されるまでお待ちになりました。そのとき初めて聖霊がキリストの証しをしました。キリストは自分がキリストであると誰かに面と向かっておっしゃったことも、キリストというご自身の立場をお使いになって他人に説教なさったこともありません。卑しい身分のままお隠れになり、人々のいのちが必要とする糧を提供し、真理を表現し、人々の性質を変化させる際の困難を解消することに没頭なさったのです。キリストはご自身を誇示なさったことがなく、いつも卑しい身分のままお隠れになっていました。それはいかなる被造物にも匹敵しえないことです。キリストはご自身の立場や地位をお使いになって人をご自分に服従させたり従わせたりなさったことがありません。むしろ、人々が神様の認識を得て、神様に従い、神様によって得られるよう、人類を裁き、罰し、救うべく真理を表現なさいます。神様が真に尊いのはそのことからも明らかです。神様はご自身の霊を肉において有形化しつつ、謙虚かつ密かなやり方で働きを実行なさいます。人間がこの世で経験するすべての苦しみを、神様は一言も不満を漏らさず自ら経験なさいます。キリストである神様はご自身を誇示したり自讃したりなさったことはなく、もちろん、威張られたこともなければ独善的であられたことすらありません。神様は神聖なる高潔さと聖さを完全に発せられます。それは比類なきまでに高貴な神様のいのちの本質と、神様がまさに愛の具現であることを明らかにします。偽キリストや悪霊によってなされる働きは、キリストによってなされる働きの対極にあります。悪霊は我こそキリストであるとすぐに主張します。自分の言うことを聞かなければ御国に入れないと言うのです。他人の目を自分に向けさせるためなら何でも行ない、自慢し、見栄を張り、自分自身を讃え、人を惑わすために何らかの奇跡を行ないます。人が惑わされてそれらを受け入れると、長きにわたって真理という糧を欠くため、最後は音もなく崩れ去ります。偽キリストは真理ではなく、道でもなく、いのちでもないので、そうした例は数多くあります。ゆえに偽キリストは道を有していません。それに従う者は遅かれ早かれ恥をかきますが、そのときになって引き返そうとしても手遅れです。キリストだけが真理であり、道であり、いのちであると確信を持って決意することがもっとも重要なのは、それが理由です。偽キリストには絶対にいかなる真理もなく、それは悪霊も同じです。それらがどれだけ多くのことを言おうと、あるいはどれだけ多くの書を著わそうと、そのどれにも真理は一つもありません。それは絶対です。キリストだけが真理を表現できます。その点をもとに識別力を持つことが極めて重要です。さらに、キリストはご自分を受け入れたり認めたりするよう人々に強制なさったことはありません。キリストを信じる人は真理をますますはっきり理解するようになり、道はますます明るく照らされるようになります。そのことはキリストだけが人間をお救いになれることを証明します。キリストが真理だからです。偽キリストが言えるのはキリストを真似たいくつかのことや、正邪を歪め何の真理も含んでいない言葉だけです。それらは闇と厄災、そして悪霊の働きしか人間にもたらしません。偽キリストに従えば絶対に救われず、サタンによってさらに深く堕落させられるだけです。さらに麻痺し、頭がますます鈍くなって、ついには滅亡に至ります。偽キリストに従う者は盗賊どもの小舟に乗った盲人に似ています。彼らは自分自身の破滅を招いているのです。

『偽キリスト、反キリストが人を惑わした事例解剖』の「序文」より

脚注

a.原文では「~かどうかに関しては」と書かれている。