東方閃電が繁栄した理由
東方閃電の話になると、主を信仰する兄弟姉妹の多くが困惑します。宗教界が全体的にますます荒廃し、堕落していく中で、そして各宗派が東方閃電をますます警戒し、それを非難して追放する姿勢を維持しようとする中で、どうして東方閃電は荒廃したり、衰退することはおろか、止まらぬ大波のように勢力を伸ばし、中国本土全体に広がっているのでしょうか。そして国境を越えて海外の国々や地域まで拡大した今、世界中で多くの人々にどんどん受け入れられているのは一体どうしてなのでしょうか。この事実を受けて、宗教界の人々は完全に当惑しています。しかし、この現状の裏にはとても単純な理由があります。様々な宗派が言う東方閃電とは、天から 「白い雲」 に乗って降臨された終わりの日の救い主、イエスの再臨なのです。それは、もう一度肉となった実践の神御自身であります。だからこそ、世界中では各宗派が終わりの日に受肉した神、またはその神の働きに抵抗し、攻撃や非難を向けてはいますが、いかなる者でも、またはいかなる勢力をもってしても、神がなそうとすることを妨害したり、抑圧することができないのです。神の権威、力、全能性、そして知恵はサタンのいかなる勢力をもってしても超えられるものではありません。
多くの人々は、宗教界の指導者や与党に非難されるものは、そのいずれも真の道であるはずがないと信じますが、この観点は真理に適っているのでしょうか。恵みの時代に、神がユダヤの地で新たな働きを始めるために主イエスとして受肉された時のことを振り返ってみましょう。主は最初から最後まで、ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人から非難され、抵抗され、迫害されました。彼らは主イエスを大工の息子だと言って非難し、ありとあらゆる言い掛かりをつけようとしたほか、主が悪魔の頭の力で悪霊を追い出しているとまで言って主を冒涜しました。彼らは主イエスを死刑にしようと、出来ることを全て行いました。最終的に、彼らは主イエスを捕らえるためにローマ政府と共謀し、慈悲深い主イエスを十字架に釘付けにしたのです。主イエスが復活され、昇天された後ですら、彼らはありとあらゆる噂を捏造し、ヨハネ、パウロ、そして他の使徒や弟子たちを罪に陥れ、彼らのことを 「ナザレ人の分派」、「異端者」、「狂信者」 などと言って中傷しました。彼らは出来る限りのことをして主イエスの弟子たちを追い詰めて迫害しようとしました。しかし、神の知恵は常にサタンの策略を活用し、足掛かりとしますので、主の働きがサタンによって妨害されたり、破壊されるわけがありません。神はユダヤ教とローマ帝国による理不尽な迫害と駆逐を使って弟子たちを多くの国々に避難させて、そうすることによって主イエスの救いをあまねく、世界の隅々まで広められました。兄弟姉妹の皆さん、一緒に考えてみましょう。ユダヤ教の指導者たちとローマ政府は主イエスと主イエスの働きに激しく抵抗し、非難を向けました。それは主イエスが真の神ではなかったからでしょうか。それは主イエスが真の道をもたらしていなかったからでしょうか。それは、主イエスの弟子と使徒たちが広めた福音が神の救いではなかったからでしょうか。宗教指導者とローマ政府が捨て去り、抵抗したものは神の道ではなかったということでしょうか。真の道は宗教指導者と政治的権力によって定められているのでしょうか。これが神の働きであれば、宗教界と全世界がそれに反対し、それを捨てたとしても、それを拒否することはできないということは、誰もが認識しています。これに例外はありません。主イエスはこう仰いました。「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」(ヨハネによる福音書3章19-20節)。 「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい」(ヨハネによる福音書15章18節)。 「この時代は邪悪な時代である」(ルカによる福音書11章29節)。 ヨハネの第一の手紙5章15節には 「全世界は悪しき者の配下にある」と書かれています。人類はサタンによって堕落させられて以来、真理を卑しみ嫌うほどに落ちぶれて、神の敵と化してしまいました。この世はサタンによって完全に操られており、宗教界はその全てが長年に渡って偽善的なパリサイ人と反キリストによって操られてきました。全てはサタンによって支配されているのです。従って、受肉された神が働きをしに現われる時、宗教指導者とサタンの勢力は必ず立ち上がり、神と神の働きに抵抗し、非難を向けるでしょう。宗教指導者やサタンの政権が非難するかどうかによって真理を評価するのは明らかに間違いであり、理性的ではないのです。
今、この終わりの日に、神は神の家を起点に裁きの働きをするために、もう一度、無神論の堅固な要塞、まさに大きな赤い龍の巣とも言える中国において受肉されました。神は真理を表して人類を裁き、そして清められます。その目的は、人間をサタンの支配から完全に救い出すことで、最終的に、救われた人たちは神御自身によって神の国に導かれ、神と共に安息に入ります。しかしながら、ユダヤ人が主イエスに抵抗した歴史的悲劇が又しても再現されているのです。神が終わりの日の新たな働きをされるにあたり、それが様々な宗派の人々が持つ観念に沿わないものであるため、彼らは主イエスの再臨を迎え入れることに反対します。むしろ、彼らはありとあらゆる異端と虚偽を広めているのです。彼らは受肉された神を攻撃し、中傷し、神の働きを 「悪質なカルト」 や 「異端」 だと言って非難します。彼らは中国共産党政府と共謀までして、終わりの日の神の福音を伝導する人たちを迫害し、逮捕してしまいます。彼らの行いは、かつて主イエスに罪を着せて、主イエスを迫害したユダヤ宗教界の信者たちと全く変わらないのです。この事実は主イエスがなさった次の預言を完全に成就しています。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書17章24-25節)。 神は言葉を話し、働きをするため、そして人類の罪を贖い、人類を救うために二回も人間のもとへ受肉されましたが、二回とも宗教指導者と支配政権による非難、冒涜、抵抗を強いられました。この事実は、真の道が古代から迫害を受けてきたことを十分に証明しています。道が真であればあるほど、そしてそれが神の現れかつ神の働きであればあるほど、それは宗教指導者とサタン政権のさらなる拒絶と非難を受けることになるのです。賢明な人たちは、宗教界の牧師と長老たち、および中国共産党政府が終わりの日の全能神と全能神の働きを悪徳な形で迫害し、非難するのを見て、それが真の道であるのかどうかを判断し、賢い選択をすることができます。
「東方閃電」 が真の道であるならば、どうして宗教界の反対を受けるのでしょうか。これにはおもに2つの理由があります。1)人々は聖霊の働きの方向性を理解しておらず 「神の働きは常に前進する」 という言葉の意味の見識を全く持っていない。彼らは単に神の新たな働きを自分たちが持つ聖書の知識と宗教的な観念に加え、神が過去になされたことを基に判断しているだけである。彼らは見たものを受け入れられないと、神の新たな働きを 「異端」 や 「狂信」 であると考えている。2)人類の持つサタンの本質は真理を卑しみ嫌うことである。こういった宗教指導者たちは、信者が全能神の御言葉を読み、真理を理解し、全能神に立ち返ってしまった後に、孤立したり、排斥されてしまうことを恐れている。従い、彼らは宗教界を永遠に操り、それぞれの地位と生活を確保するために、全能神に激しく抵抗し、非難を向けている。これ故に、神の新たな働き全てが人々から反対される理由は、神の新たな働きに過ちがあるからではなく、神の道に過ちがあるからでもないのです。むしろ、それは人々が神の働きを理解していないからであり、彼らが真理を卑しみ嫌っているからなのです。宗教指導者たちが神の新たな働きに反対し、それに背いているということだけを理由にそれは真の道ではないという判断をすることは、本末転倒で理性に欠けることであります。この取り返しのつかない、かつ疑う余地のない致命的な過ちを犯す結果として終わりの日の神の救いを逃してしまうということは、人々にとって永遠の損失となるでしょう。
実際どのようにすれば、真の道と偽の道を区別することができるのでしょう。神の御言葉は私たちがこの区別をつけるための原則となってくださいます。全能神はこう仰いました。「神の働きを知ることは単純なことではない。あなたは、基準と目標をもって探究しなければいけない。あなたは、どのようにして真の道を求めるか、何を基準にしてそれが真の道かどうかを推し量るか、そして、それが神の業であるかどうか、ということを知らなければならない。真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。さらに、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる」(『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より)。 全能神の御言葉は、それが真の道であるかどうかを区別するために理解するべきものとして、おもに3つの事柄に触れています。
第1に、私たちはそれに聖霊の働きが宿っているかどうかを確認する必要があり、それは非常に重要なポイントになっています。それが真の道であるとしたら、それは神御自身の働きということであり、聖霊の働きが宿っていることを意味します。人々が受肉された神を信仰する理由は、この肉が神の霊の権化であるからです。それ故に、神がなさることは、その全てが聖霊の働きであり、聖霊の確認を得ているのです。だからこそ、人々は神を信仰し、神に従うのです。これは主イエスが働きをされた時と同じです。外見上、主は一般の民のように見えたかもしれません。しかし、人々は主の言葉と働きを通じて聖霊の働きを目にしました。なぜなら、主イエスの言葉と働きが権威と力に満ちていたことを全人類が目にすることができたからです。主は盲人を見えるようにし、体の麻痺した人を歩けるようにし、らい病人を清めることがおできになりました。主は5つのパンと2匹の魚で5000人を食べさせることがおできになりました。主は死人を蘇らせることさえおできになりました。主は人間たちの心の奥底をのぞき、彼らが隠し続けた秘密を暴くこともおできになりました。さらに、主は人類に天国の秘密について語ることもおできになりました。人々は主に従い始めた後、心の中で平安と喜びを感じるようになりました。人々が主イエスに従い、主がメシアであったことに気が付いた理由は、主のなさったこと全てが聖霊の働きであったからです。それが真の道である限り、それには聖霊の働きが宿るということが分かります。従って、それが真の道であるかどうかと考える時は、先ずそれに聖霊の働きが宿っているかどうかを確認する必要があるのです。
それが真の道であるかどうかを考える時に検討するべきもう1つのポイントは、それに真理が含まれているかどうか、そして、それが人のいのちの性質を次第に変化させて、その人の人間性を漸進的により普通の状態に戻せるかどうかを確認するということです。誰もが知っているように、神は真理、道、いのちであり、神の新たな各段階の働きは神が人間に対して仰せられる真理に基づいており、それは新たな時代における実践の道を示しています。神は、人間がそのいのちに必要な備えを受けていることを保証してくださり、人間が次第に普通の人間性を貫き、神が最初に人間を創造された時の人間らしさに少しずつ立ち返ることができるようにしてくださります。これが真の道の明白な特徴です。主イエスが恵みの時代に働きを開始された時も同じでした。当時、主は人々が実践するべき真理をたくさん仰せられ、人々に自分を愛するように他人を愛すること、苦難に耐えること、身を悩ますこと、そして他人を何度でも許すことを教えられました。主イエスは人々に霊と真をもって神を礼拝するよう命じられました。真の信者たちは、主イエスの教えを通じて、それぞれの振る舞いにおいて見て分かる形で何らかの変化を遂げることができました。彼らは主イエスの教えを通じて、謙そんする姿勢と寛容な心を持って振る舞い、それによってある程度は普通の人間らしさを持つことができるようになったのです。従い、それが真の道である限り、そこには真理の表れが見られます。これにより、人の人間性と理知はますます普通の状態に近づいていき、その人はより真の人間らしく見えるようになるでしょう。
真の道を考えるにあたって検討するべき3つ目のポイントは、その道が神に関して更なる知識を人々に与えているかどうか、人々の中に神を愛する心を起こして、人々を今まで以上に神に近づけているかどうかを確認するということです。それが真の道であるのなら、それは神御自身の働きであり、神の働きは必ず神の性質、ならびに神が有する全てと神そのものをお見せになると、私たちは誰もが知っています。人々は神の働きを体験すると、自然と神に関する真の理解に至り、自分たちの中に神を愛する心を持つようになります。これは、律法の時代にヤーウェ神が律法を発布して、地上で人々の生活を導かれた時と同じです。彼らはヤーウエ神の働きを体験したことにより、ヤーウエ神が唯一の真なる神であったことを認識しました。さらに、彼らは神の威厳と怒りを認識したほか、神の性質に背いてはならないことも認識したため、彼らの中には神を恐れる心が芽生えました。恵みの時代に、受肉された神は人類の罪を贖う段階の働きをするために地上に来られました。人々は主イエスの働きを体験したことにより、神の愛情に満ちた、慈悲深い性質を認識しました。神は霊であるだけでなく、人間の姿をとることがおできになり、さらには奇跡を起こし、病気を治し、悪霊を追い出すことがおできになることも人々は知りました。そして、主イエスがなされたこういう働き全てによって、人々は神に関する新たな理解を得て、それが人々の心の中で神に対する崇敬の念を起こさせたのです。従い、それが真の道であれば、それは人々が神のことをもっと理解できるようにすると同時に、神の性質に関するより深い理解を与えてくれるのです。
神の働きは常に前進していきますが、それが神御自身による働きであり、真の道である限り、確実に既述した3つの特性を持ち、それらを表すでしょう。すなわち、真の道は確実に聖霊の働きを持ち、真理を表し、人々が神をより良く理解できるようにし、人々をもっと神に近づけてくれるのです。従い、これら3つの基準を検討した上で真の道を区別すれば、私たちはその真偽を識別できるようになるため、時にかなった形で神の現在の働きについていき、真理、道、いのちを得ることができると同時に、神のさらに偉大な約束と祝福を授かることもできるのです。
この終わりの日に、神はその言葉を伝えて堕落した人類を裁き清めるという新しい働きをしておられます。この働きは神の計画に従って実行されており、終わりの日を生きる人々が実際に必要とするものに基づいたものです。それは、主イエスがなされた働きを土台とした新しい、かつ以前よりも高い働きとなっています。落ち着いた心で注意深く探求し調査すれば、神のこの新しい段階の働きは聖霊の働きが含まれているだけでなく、それは真理を伝えると同時に、私たちが神の性質および神が有するすべてと神そのものに関してより真で、包括的で、現実的な理解を得られるようにしてくれることが分かります。ここからは、既述した真の道を判断する3つの基準点を踏まえて、終わりの日の神の働きにおける私たち自身の体験と理解について話したいと思います。
第1に、真の道には聖霊の働きが宿っています。全能神は来臨され、神の国の時代を興され、神の家を起点に新たな裁きの働きをされ、人々を裁き清めるために言葉を仰せられ、人類のいのちに新たな備えを与えられました。各宗派の信者たちは神の名の下で次から次へと全能神に立ち返っています。人間がどのように抵抗しても、どのような妨害が起っても、終わりの日の神の福音はそれをものともせず、海上を流れる波のように押し進み、中国本土全体に広がりました。万民が喜びの声を上げながら聖なる山に向かっています。私たちは皆、異なる宗派から来ていますが、それでも相和して、助け合うことができています。ここに派閥はなく、教会生活は活気で溢れています。ここの兄弟姉妹たちは集会の機会を増やしたいと感じながら讃美歌を歌って楽しみ、啓発的な祈りを捧げています。私たちは集まる度に、全能神の言葉から新たな備えを受け、自分たちの欠点に気が付き、神の言葉から実践する道を見い出すことができます。私たちは神の言葉に従いながら仲良く共存し、お互いを愛し合っています。考えに相違が生じる時は、皆が自分の考えを脇に置いて、他の人たちの意見に注意深く耳を傾けることができます。堕落が明らかになる時は、神の言葉を基に自省し、自らを分析することができます。教会の利益に支障を来すようなことをしてしまう場合は、勇気を持って事実と向かい合い、刈り込みと取り扱いを受け止め、教会で神の言葉の真理が持つ権威に従います。私たちの兄弟姉妹は厚い信仰心を持って神からの任務を担い、心を尽くして神の国の福音を伝導するために肉の快楽を捨てることができます。私たちは様々な宗派からどのような扱いを受けても、または排斥され、迫害され、暴行され、罵りの言葉を浴びせられたとしても、いかなる苦難をも耐えしのぐ意思を持っており、今まで通り変わらず神の御心を行うために終わりの日の全能神の福音を宣べ伝えていきます。神の選民たちは数年に渡って神の裁きと刑罰を体験し、彼らのいのちの性質は様々な程度に変化を遂げ、その多くは自らが神の働きを体験して得た実際の恩恵を記事や讃美歌として書き表し、神の証をするためにそれらをインターネットに投稿しているほか、その多くは映画化や動画化されています。これらの記事、讃美歌、そして映画は神の選民たちのいのちの性質において実際に起こった変化を証言しており、神の選民たちが真理を理解していること、および神に関する真の認識を証言しています。これらは勝利者たちの証言なのです。このような証言が増え続けているのは、神の裁きと刑罰の働きがもたらした効果なのではないでしょうか。聖霊の働きなくして、誰がこのような結果を得ることができたでしょう。人は私たちの兄弟姉妹の体験と証言によって、全能神の権威と力を知ることができます。全能神の働きには聖霊の働きが宿っているのです。一方で、神の新たな働きについて行けていない宗派について言うと、宣教師の言葉には聖霊の啓示が全くなく、信者たちも否定的で薄弱した状態にあり、彼らの信仰も冷めています。彼らは妬みを抱き、対立的で、派閥を作り、同じ働きをしていても、その理由は違うといった状況にあるのです。これは宗教界が聖霊の働きを失っていることを十分に立証しています。全能神教会は聖霊の働きが宿っているため、活気に満ち溢れていますが、その一方で、様々な宗派はわびしく荒廃した状態にあり、聖霊の働きを失っているので、全能神教会とは全く対照的な状態に陥っています。従い、どちらが真の道で、どちらが古い道であるかは自明なことです。
第2に、真の道は真理を持ち、新たな時代における実践の道を示し、人々がいのちの新たな備えを得られるようにしてくれます。人々のいのちの性質はどんどん変化して行き、彼らの人間性もどんどん正常になっていきます。全能神は、終わりの日の働きをされる中で、様々な側面における真理をたくさん仰せられます。これは、神の働きを理解することについての真理や新たな時代に実践して真理に入る方法についての真理を含みます。例えば、神の経営計画の目的、神の働きの原則、律法の時代と恵みの時代になされた神の働きの内なる真実、神はどのように裁きの働きをされるか、神が受肉される意味、人類はどのようにして今日まで発展してきたか、サタンはどのように人類を堕落させるか、神はどのように人類を救われるか、人類の将来の終着点はいかなるものか、異なる種類の人々の最後はどうなるのか、信者はどのような考えを持つべきか、忠実に本分を尽く方法、正直な人になる方法、人間はどのようにして普通の人間性を貫くべきか、神の御旨を満たす形で神に仕える方法、そして神に対する真の従順と愛を手にする方法などが含まれます。全能神がこれらの真理を仰せられることによって、人々は神の働きと性質をより良く理解できると同時に、自分自身の本性、本質、そして堕落の事実をより深く理解することができます。さらに、これらの真理は、人々が自分の性質を変えるために進む必要がある道を明確に見い出せるようにもしてくれます。人々は全能神の裁きと刑罰を受けて、それまでの信仰には人の観念が混同した部分があることを理解し、神の贖いと豊かな恵みを授かったにもかかわらず、依然として神からより大きな肉の快楽と物質的祝福を得ようと計画していること、ならびに神を通じて富と夢を手にいれることを深く熱望していることに気が付きます。さらに、彼らは神のために働きながら奔走してはいるものの、それは祝福されて、義の冠を手にするために行っているのです。彼らはそれを個人的な名利のために行っているだけで、創造物としての本分を尽くすためではありません。人々は神から恵みや祝福をどれだけ頂いても、神のなされることがほんの少しでも自分たちの観念に沿わないことがあると、すかさず神に抵抗して不平を言います。彼らは公然と神に敵対したり、神を見捨てることすらあります。人々は元々持っていた良心と理性的な思考能力を神の御前でとっくの昔に失ってしまったのです。人々はサタンに酷く堕落させられて、人間らしさを完全に失ってしまいました。全能神が仰せられる真理は人々が自分たちの堕落を心から理解できるようにしてくださるほか、自分たちが身勝手で、卑劣で、人間性に欠いていることを示してくださいます。これと同時に、人々は神が人のためにしてくださる救いの働きの意味、神の心のこもった親切な御旨、骨身を惜しまぬ努力、そして人間を救うために払われた犠牲について理解するのです。これにより、人々の魂は少しずつ目を覚まし、彼らの良心と理性的な思考能力も日に日に回復していきます。人々は自分たちの肉の欲求を満たそうとしなくなり、神と取引もしなくなります。代わりに、彼らは神の御旨を満たすことだけを求め、神に全てを捧げるようになります。このように、創造物である人間は、次第に創造主との普通の関係を取り戻していくのです。彼らはますます神を愛するようになり、ますます従順に、敬虔になり、ついには本当の人間らしさを見せるようになります。要するに、全能神は、私たちが神への信仰の中で救いを得るために、すぐに理解する必要のある真理を与えてくださるのです。全能神は新たな時代に進むべき道の方向性を指し示してくださり、私たちのいのちが必要とする最も現実的な備えを得られるようにしてくださいます。この全てが、全能神の道が真な道であることを証明しているのです。
第3に、真の道は人間に神の新しく、現実的な理解を与え、人間が神をもっと愛せるようにしてくれます。兄弟姉妹の皆さん、全能神の言葉を自らお読みになって、終わりの日の全能神の働きを受け入れた人たちと話しをすることができれば、全能神教会の兄弟姉妹は、全能神の真理を求めたことで神に関する新たな認識をより多く得たということが容易に理解できると思います。人々は全能神の裁きと刑罰を受けて、神の義なる性質を理解し、神固有の性質は愛と慈しみを含むだけでなく、威厳と怒りをも含み、神の性質は人類のいかなる反抗もお許しにならないことを知ります。人々は全能神の働きを体験して、神は人類を救うために真理を表して人を裁くだけでなく、ありとあらゆる種類の状況と環境を用意して人々の本質を明らかにしたり、最終的には災害を起こして人々を精錬し清めることがあることも知ります。同時に、人々は神がどのようにして教会にいる反キリスト、悪人、不信者を明らかにされるか、そして、どのようにして大きな赤い龍を操って、選民たちを完全にすることに仕えさせるかについても知ります。このようにして、人々は神の全能さ、知恵、不思議さ、そして深遠さに関する現実的な知識を学びます。さらに、人々は人類を救われる神の親切な御旨、神の人類に対する真の愛、そして神の聖なる本質と麗しさに関する現実的な理解も手にします。全能神の働きと言葉を体験することは、神に対して抱いていた誤解を解消する役に立ち、神はイスラエルの神であるだけでなく、異邦人の国全ての神でもあると同時に、創造物全ての神でもあるということも認識させてくれます。人々はまた、神の働きは常に新しく、決して古くなく、いかなる規則にも制約されないことも理解します。人々は、神にはたくさん愛すべき側面があり、人類に対する神の愛は偉大かつ現実的であることを知り、それによって彼らの心の中には神に対する偽りのない愛が芽生えます。彼らは真理を追い求めることを強く望み、創造物としての本分を尽くして神を喜ばすことに全力を注ぐようになります。これより、私たちは、終わりの日の全能神の働きと言葉によって、恵みの時代に可能であった以上に深く神を理解できることが分かります。その理解はより現実的であると同時により包括的でもあります。神と人間の関係は、人間が神をより深く理解するにつれてより親密になっていきます。神が自ら行う働きのみがこの効果をもたらすことができ、神御自身のみが人類に神の性質と神が有する全て、そして神そのものを表すことができるのです。全能神の道が真の道であることに疑いの余地はありません。
要約すると、宗教指導者たちの反抗と非難を受けている東方閃電は、終わりの日に再度受肉された主イエスであり、それは唯一なる神御自身です。これ故に、様々な宗派がいかなる形でそれに反抗し、それを攻撃しようとも、中国共産党がいかなる形で噂を捏造してそれを非難し、罪に陥れようとしても、彼らは神の働きが終わりの日に広まるのを妨げることが全くできないのです。わずか20年程度で、全能神の国の福音は中国本土全体に広がりました。神の御言葉と御名は何億という数の家庭に届きました。真理を求め、心から神を求める人たちが様々な宗派から全能神に立ち返ったのです。何百万という人々が神の御言葉の恩恵にあずかり、神の裁き、清め、救いを受け、完全にしていただき、神の素晴らしい御業を称えています。神は中国で勝利者の集まりを作り、神と共に心と思いを1つにした人々の集まりを獲得されました。神の働きは神の栄光と共に近々完結を迎え、すぐに東、すなわち中国から西の世界へと移行していきます。全能神教会は数多くの国々に拠点を立て、それは主イエスによるこの預言を完全に成就しています。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書24章27節)。 皆さん、今すぐに想像に基づいた観念を捨てて、神の声を聞くことをお求めください。どうか、ひたむきな姿勢で神の御前にお越しください。全能神があなたの帰りを待っておられます。
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