神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

質問5.聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものだと、パウロがテモテ第二の手紙で言った。

2019-11-23 09:47:03 | 書籍

質問5.聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものだと、パウロがテモテ第二の手紙で言った。つまり聖書の言葉はすべて神の御言葉であり。聖書は主を代弁しているんです。聖書を信じることは主を信じることです。逸脱すると神を信じないことになる。信仰とは聖書に従うこと、終わりの日の神の働きを受け入れずとも天国には行ける。このことは絶対に間違っていない。
2019-04-02

解答: パウロの言葉から聖書は神の霊感を受けて、書かれたのだと信じられてきました。聖書すべてが神の御言葉であると決めつけ、聖書を信じることで天国に行けると思われている。終わりの日にも、多くの信者がそれを信じている、この考え方は真理に即したものでしょうか?聖書は神の霊感によって書かれたものだと、主は言ったのでしょうか?聖霊が証言しましたか?これはパウロが言ったことです。信者の多くがこの言葉を基に、聖書は神の霊感を受けているので、すべて神の御言葉であると信じているのです。これは大きな間違いではないですか?人間の言葉さえ、聖書に記録があれば、神の御言葉であると信じる者もいるのです。この考えはあまりにも不合理ではありませんか?聖書は神の証しであり、お働きの記録に過ぎないのだと理解すべきなのです。人類を救済する神の働きを基に聖書は作られた。神のお働きはどの段階でも邪悪なサタンとの戦いに満ちていました。聖書に記載されているのは神の言葉だけではない、人々やサタンの言葉さえ 記録されているのです。これは明確な事実です。皆さんは聖書の言葉すべてが、神の御言葉であるという、主張が成り立つと思いますか?事実をゆがめて、混同しているのでは?それなのになぜまだ誤ったことを信じるのですか?事実に沿って議論するべきではありませんか?聖書を読んだことがある人なら、聖書には神とモーセの会話、神とヨブの会話、選ばれた民との会話やサタンとの会話があると知っているはずです。神の対話相手の言葉は、神の言葉になり得るのでしょうか?あまりに短絡的ではないですか?ですから、聖書のすべてが神の霊感を受けて書かれたものとは、主張することができないのです。人の言葉までも、神の言葉だと勝手に主張する不合理な人たちもいます、これは事実に反しています。この考えは神を冒涜するものであり、神の性質を深刻に犯すものです。神の言葉は神の言葉です、人間の言葉は人間の言葉です。サタンの言葉はサタンの言葉です、なぜ混同するのですか?神の御言葉はいつも真理を語っています。人の言葉は真理ではありません、せいぜい真理に沿っていると言えるだけ、サタンの言葉は欺瞞とウソに満ちています。一万回繰り返しても、サタンの言葉はウソと偽りに過ぎません。賢明な人はこの事実を理解できるはず、愚かな者だけが誤った考えに固執するのです。それではこれから、全能神の言葉をもう一節読み 、ハッキリさせましょう。

 全能神は言われます。「今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人々の解釈が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、まして幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。……もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3」より)

『呪縛を解く』の映画台本から



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