神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

2ヨハネの黙示録で預言されたように、終わりの日の神の裁きの働きは大きな白い玉座の裁きである

2020-04-20 21:06:22 | 天の国の福音

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:11-15)

関連する神の言葉

過去に語られた神の家から始まる「裁き」において、その言葉における「裁き」は、終わりの日に神の玉座の前に来る人々に神が今日下す裁きのことを指す。終わりの日が来ると、神は天に大きな卓を据え、その上には白い布が広げられ、すべての人が地にひざまずいているところに神が大きな玉座につき、一人ひとりの人間の罪を明らかにし、それにより人々が天国に昇るか火と硫黄の湖に落とされるかを決める、というような超自然的な想像の表象を信じている人もおそらくいるであろう。人が何を想像しようと、それが神の働きの本質を変えることはできない。人の想像は人の思考の産物以外の何物でもない。それは人の脳に由来し、人が見たり聞いたりしてきたものからまとめられ組み合わされたものである。したがって、その生み出された表象がいかに輝かしくとも、それは線描でしかなく、神の働きの計画にとって代わることはできない、とわたしは言うのである。結局のところ、人間はサタンにより堕落させられてきている。それならば、どうして人間に神の考えを推し量ることができるというのか。神による裁きの働きを何かとてつもないものであると人間は考える。神自身が裁きの働きを行なうのだから、その働きは最大規模のもので、死する人間には到底理解できず、それは天のいたるところに鳴り響き、地を揺らすはずである、と人間は考える。そうでなければどうしてそれが神による裁きの働きでありえようか。それは裁きの働きであるので、神が働くときは特に堂々と威厳があるはずで、裁かれている人々は涙を流して叫び、ひざまずいて憐れみを請うているはずであると人間は考える。そのよう情景は確かに荘厳で、深く感情を揺さぶるであろう…誰もが、神の裁きの働きを奇跡的なものであると想像する。しかし、あなたは知っているのか。神がずいぶん前に人間のあいだでの裁きの働きを開始したとき、あなたは安らかな昏睡状態に留まっていることを。神の裁きの働きが正式に始まったとあなたが思うときには、神はすでに天と地を新しくしていることを。その時、おそらくあなたは人生の意味をちょうど理解しだしたばかりかもしれないが、神の容赦ない懲罰の働きが、まだ深く眠りについているあなたを地獄に落とす。その時になって初めて、神の裁きの働きがすでに終わったことにあなたは突然気づくのである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きではなく、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より

現在の征服の働きとは、人間の結末がどのようになるかを明らかにすることを意図するものである。なぜわたしは今日の刑罰と裁きとが、終わりの日の大きな白い座の前での裁きだと言うのか。あなたにはこれがわからないのか。なぜ征服の働きは最終段階であるのだろうか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることなのではないか。それは、すべての人が、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程の中で、自分のありのままの姿をあらわし、その種類に応じて分類されるようにするためではないか。これはむしろ人間を征服するというよりも、各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方がいいだろう。つまり、これは彼らの罪を裁き、それから様々な種類の人間を示し、そのことによって、彼らが悪であるか義であるかを判定するのだ。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は次の段階に移され、その業を全宇宙に広める。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者たちは悪として分類され、二度と陽の光を見ることがない。また、義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(1)」より

真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12~16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)神の本当の顔は人間の言葉では十分明確に表現することはできないので、神はその本来の性質の表現を用いて人に本当の顔を示す。すなわち、人の子の本来の性質を経験した人々はすべて、人の子の本当の顔を見たのである。神はあまりに偉大なので、人の言葉で十分明確に表現することができないからである。いったん神の国の時代における神の働きの各段階を経験したら、ヨハネが燭台の明かりの中で人の子について語った言葉の意味を人は知るだろう。「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」

                                                       『言葉は肉において現れる』の「序文」より


主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

2020-04-19 08:51:36 | 天の国の福音

主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

 

参考聖書箇所

「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書 12:40)

「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」(マタイによる福音書 24:37)

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25)

「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録 1:12-16)

関連する神の言葉

イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。あなたがたには今聖霊の言葉が聞こえたか。神の言葉があなたがたに届いた。それが聞こえるか。神は終わりの日に言葉による働きを行うが、そのような言葉は聖霊の言葉である。神は聖霊であり、また肉になることもできるからである。したがって、過去に語られた聖霊の言葉は今日肉となった神の言葉である。聖霊の言葉は天から降りてきて人の耳に届くはずだと信じている多くの愚かな人がいる。このように考える人は誰も神の働きを知らない。実際、聖霊が語る言葉は肉となった神が語る言葉なのである。聖霊は人に直接語りかけることはできないし、ヤーウェは律法の時代でさえ人々に直接語りかけることはなかった。ましてや、今日、この時代に神が直接語りかけるなどとはまず考えられないのではないか。神が言葉を発して働きを実行するためには、肉とならなければならない。そうでなければ神の働きは目的を達成させることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12~16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より


キリスト教映画「滅びゆく都」聖書の預言の成就 完全な映画のHD2018 日本語吹き替え

2020-04-18 20:09:04 | キリスト教映画

キリスト教映画「滅びゆく都」聖書の預言の成就 完全な映画のHD2018 日本語吹き替え
程慧澤は中国にある家庭教会の一員である。彼女は長年にわたって主を信じ、その揺るぎない熱意で主のために働いている。教会では多くの責任を担い、兄弟姉妹の信者を常に思いやる心を持つ。彼女の教会が日に日に荒れ果ててゆくに連れ、教会の神からの離反が目立つようになる。牧師は教会が工場を立ち上げることを精力的に提案して信者を金銭的な富の道へと導き、また中国共産党政府からの支援を得るため三自愛国教会への加入を示唆するが、これが激しい議論の引き金となる。牧師が自分の個人的な利益に固執し、教会の内部分裂も躊躇することなく、信者を誤った道へと導こうとする中、程慧澤は数名の仲間とともに主の道を守り抜き、教会を工場にし、三自愛国教会へ加わることに強く反対する。これに対し教会の長老たちは、牧師の提案に反対すると表明するが、それはあくまでも自身の地位と生活を守るためだけであった。牧師と長老たちは各々の秘密を胸に、互いを妬みながら自身の名声と利益の確保のため争い続けてゆくが、教会内の信心深い信者の大半とその中心的人物が「東方閃電」を論究し次々と全能神に改宗し始めたことを知るやいなや結託し、中国共産党政府の力を借りて、信者が「東方閃電」を学習することを禁じ、その教えに基づいて神の国の福音を説く兄弟姉妹を通報し逮捕させて見せ、「東方閃電」関係者発見の際には警察に通報するよう信者に強く促すなど、弾圧に乗り出した。程慧澤らは、牧師と長老たちが主の道から逸脱して久しく、教会が聖霊の働きを失い、主に呪われた大いなるバビロンのような偽りの宗教の場と化してしまったことを知り、神の明示と御業を求めて「東方閃電」を論究することを決断する。全能神教会の伝道者との熱心な討論の末、程慧澤らは教団の指導者たちが本質的に神に離反していること、また教団が日増しに衰え破滅へと近づいている理由をようやく理解する。その理由とは、教団の牧師と長老たちが聖書を尊重し、解説するのはあくまでも自身の地位と生活を守るためだけだということであった。彼らは人々を混乱させて罠に掛け、神を敬わず証することさえ行わない、神を全く理解しない者たちである。肉となった全能神が現れその働きを行なわれる終わりの日には、彼らは何のためらいもなく反旗を翻し、中国共産党政府と結託して信者を逮捕するように、神の働きを咎めることになる。これは彼らが真理と神を忌み嫌う、悪魔のような本質を所有する何よりの証拠である。彼らは善良な人を装った現代のパリサイ人であり、神が肉となったという真理を否定する反キリストである。既に教団は、神の敵である反キリストの本拠へと完全に化しているが、神の呪いと罰を間違いなく受けるであろう。やがて、教団の指導者たちの反キリストの本質が識別できるようになった程慧澤らは、パリサイ人の混乱と支配から逃げるよう信者に指導し、滅びゆく都バビロンから彼らを解き放つことに成功するのである...

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


「一度救われればその救いはずっと続く」という定義に聖書的な根拠はあるか

2020-04-18 00:36:36 | 福音を証しするシリーズ

「一度救われればその救いはずっと続く」という定義に聖書的な根拠はあるか


太陽が西の空に沈みかけ、夕焼けが広がる中、私は牧師が集会で言った言葉を考えながら家に向かっていました。「一度救われれば、私たちは永遠に救われているのです。聖書はこう言っているからです。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10章9-10節) 私たちが主イエス様を信じ、心の中で主を信じて認め、言葉でそう告白するならば、私たちは救われます。一度救われたならば、永遠に救われているのです。終わりまで主のために働き、尽くし、耐えるならば、主が戻られるときに、私たちはすぐに天国に引き上げられます。」私は牧師の言葉にアーメンと答えました。「その通りだ。主イエス様は十字架にかけられた。それゆえに私たちは贖われたんだ。私たちが主の御名を呼び求め、罪を告白して主の前に悔い改めるならば、主の恵みによって罪は赦され、救われるんだ。そして一旦救われたならば、それはずっと続くことであり、後の日には天国へと引き上げられるんだ。」長年の信仰の中で、私はいつもそれが正しいと堅く信じ、疑ったことは一度もありませんでした。

けれどもある日、私が聖書を学んでいると、次のような主イエス様の御言葉が目に入りました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書8章31節) 私は注意深くこの御言葉を思い巡らしました。そして、主イエス様が言われていることは、神様の御心を行い、実践する人だけが、天国へ入ることができるということだと理解しました。信仰を持てばそれで救われると言っているのでも、一度救われればそれがずっと続くと言っているのでもなく、主が戻られた時にその人々はすぐに天に引き上げられると言っているのでもないのです。自分の考え方は主の言葉と一致していないのではないかと感じ始めました。これまでの長い年月、ずっと間違っていたということなどあるだろうか。ずっと主を信じてきて、主イエス様によって贖われたということを微塵も疑ったことはなかった。けれど、主の教えを実践しないことも多くあった。神様の御心を実践しないのに、どうやって天国に入れるのだろう。そう考えると不安も感じたけれど、こうも考えた。「主イエス様が私たちの罪のいけにえとなってくださり、全ての罪を赦してくださったのだから、私たちは恵みにより救われているんだ。それなら天国に入れないことなどあるだろうか。恵みによって救われるとは、永遠の救いを意味するのではないだろうか。」私はひどく困惑し、このことを追い求め、主の御前で繰り返し祈りました。何冊もの霊に関する本も読みましたが、答えは見つかりませんでした。

後日、同労者との会議に出席した私は、ずっと会っていなかったヂャン兄にばったり会いました。ヂャン兄は説教師で、聖書をまっすぐに理解していました。どの集会でも、ヂャン兄から新たな光を与えられ、多くを得ることが出来ました。久しぶりにヂャン兄に会った私は、挨拶を交わすと、しばらく話し込みました。そうするうちに、私は自分がずっと引きずっている問題を彼に話しました。ヂャン兄は微笑んで言いました。「ヤンさん、あなたが今言われた問題は、私たちが天国へ入ることができるかどうかに関する重要な問題と関連しています。私も以前悩みましたが、主の導きを与えられました。そして追い求める中で、真の救いが何かを明確に理解できるようになりました。」私は待ちきれずに言いました。「それを今すぐ教えてください!」ヂャン兄は微笑みながら次のように言いました。「すでに知っているように、ヨエル書2章32節にはこうあります。「すべてヤーウェの名を呼ぶ者は救われる。」当時、ヤーウェである神様は律法を定め、イスラエルの人々がそれに従うように命じられました。イスラエルの人々は、自分達が律法に従って罪に定められることがなければ、救われると信じていました。だが律法の時代の末期、人類はサタンによって益々堕落させられ、イスラエルの人々は律法を守ることができず、益々罪深くなっていきました。もはや彼らの罪を償うに相応しいいけにえはなく、彼らは罪に定められて、律法により死刑に処せられる危機にさらされたのです。だが神様は人間を憐れまれ、人類が救われて律法により罪に定められることのないように、イエスという名で肉となられ、贖いの業をされ、罪のない肉として十字架にかけられ、私たち人間を律法から贖ってくださった。その時以来、私たちが主イエス様の名を受け入れ、呼び求め、主の前で罪を告白して悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、罪に定めされることも律法により罰せられることもなくなったのです。主イエス様が私たちを贖ってくださったので、私たちは救いを得たのです。

ヂャン兄の話を聞いた私は、突然啓きを与えられたように感じ、驚きの中でこう言いました。「そうであれば、律法の時代には、人々がヤーウェである神の律法を守っている限り人々は救われ、恵みの時代には、人々が主イエスを信じて罪を告白し、悔い改めるならば、人々は救われるのですね。」

ヂャン兄は言いました。「そうです。神様が新たな段階の働きをされる時はいつでも、神様の働きについて行くことができ、新たな時代で神様の要求に沿うことができ、神様の御言葉に従って実践することができ、そうすることで救われ、神様から罪に定められることはないのです。実は、主イエス様を信じ、主イエス様の恵みによって救われるということは、罪が赦され、律法により罪に定められたり死刑に処せられたりすることがなくなるということであって、私たちが神様の道を歩んでいて罪をすべて捨て去ったということではないのです。一旦救われればずっと救われているということなど、なおさらないのです。我たちは主イエス様を信じ、イエス様によって贖われ、罪赦されていますが、それでも私たちは罪を何度も犯して神様に逆らってしまい、昼間犯した罪を夜になると悔い改めるといった悪のスパイラルの中を生きており、罪のかせと束縛から自分を解放することができないのです。例えば、何か問題が起きれば、私たちは自分の外見と地位を守り、周りの人々から良く見られよう、尊敬されようとして自分を良く装い、偽りを言い、ごまかします。何かするときは目立ちたがり、高い地位のために周りの人々に対して策略を企てて競い合います。兄弟姉妹の誰かが消極的になって弱ってしまい、信仰を失っている時、私たちはしばしばその人のところに行って助け、支えようとします。けれどもその効果が見られない時は、憐れみや忍耐を失い、相手を避けるようになり、自分を愛するように相手を愛することが出来なくなります。特に、私たち自身に試練が臨むとき、私たちは不平を言って主のせいにして批判し、主に背く思いや考えを抱くほどになるのです。私たちはどうしても主の言葉を実践することができず、主に対する真の信仰はなく、真に従順ではなくなるのです。この世の流れに従って罪の快楽を求め、未信者と同じように食べたり飲んだり騒いだりといった事に浸ってしまう兄弟姉妹も多いのです。神様は言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」(ヨハネによる福音書8章34-35節)。「…わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記11章45節)神様の言葉は明確です。神様は聖く、その性質は義であり神聖です。天国に入りたいのであれば、罪の性質を除いて清められ、罪を犯したり神に反抗したりすることを止めなくてはなりません。そのような人だけが、神様の約束を受け継ぐ資格があります。昼間罪を犯しては夜それを悔い改め、罪から逃れることができずにいるような人間に、どうして天国に入る資格があるでしょうか。もし私たちが罪の問題を元から解決しなければ、たとえ千回赦されたとしても、1万回赦されたとしても、やはりサタンに属しており、神に反抗しているのです。考えてみてください。もし神様が、私たちのような、サタンによる堕落した性質に満ち、神様に逆らい、背くことができる人間が神の御国に入ることをお許しになるのであれば、どうして神の御国が聖なる御国と呼ばれることができるでしょうか。そのようなことはあり得ません。」

私はヂャン兄の言うことに大いに共感しました。彼の言うとおり、日々罪の中に生き、分かっていながら罪を犯してしまう私たちに、天の御国に入る資格などあるでしょうか。そう思った途端、私は自分の信仰が酷く曖昧なものだと感じました。主の言葉が明確に語られているにも関わらず、私はそれを追求しようと思いませんでした。それどころか、自分の概念と想像の中に生き、神様の御心をすっかり誤解し、自分が心で信じて言葉でそれを表現していれば救われ、主が戻って来られる時に天の御国に入れられるなどとおかしな信じ方をしていたのです。何と愚かだったのでしょう。ただ夢を見ていたのです。もしそのまま自分の概念と想像に頼り続けていたならば、最終的に主に嫌われ、拒絶され、排除されていたに違いありません。私はヂャン兄に尋ねました。「本当の救いとは何なのですか?」

ヂャン兄は鞄から一冊の本を取り出し、その本にその答えが書かれていると言うと、読み始めました。「人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。」(「実践(2)」より)「人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)

ヂャン兄は続けてこう言いました。「主に感謝します。これらの言葉により、真の救いが何であるかが明確にされました。人が真理を得て、神により清くされ完全にされ、完全に罪を捨ててサタンの闇の影響を捨てるなら、もう罪を犯したり神に逆らったりしなくなります。主イエス様のされた働きは贖いの働きであり、私たちはもう罪には属しません。けれども私たちの中のサタンの性質は根深く、罪の赦しは受けたけれども、問題に直面すれば、サタンの性質、つまり、傲慢やうぬぼれ、不正や欺瞞、利己主義や卑劣さ、陰湿さや悪意と言ったものが優勢になり、罪を犯して神を否定せずにはいられなくなり、主の御言葉を実践することが出来なくなるのです。あたかも窃盗の罪で警察に捕まった泥棒のようです。両親は自分の息子が拘置所で失意の中にいるのに耐えられず、多額の保釈金を支払って息子を解放しますが、窃盗の性質は息子の中から抜けず、チャンスがあればまた窃盗を働く性質が働いて盗んでしまうのです。ですから、もし私たちが真理の全ての側面を理解し、サタンの支配から完全に解放され、サタンによる堕落した性質を清められ、罪の束縛から解かれて神の御心を求め、神様の御言葉を実践して何があろうとも神様を畏れて従うのであれば、私たちは常に救われているのであり、そうなって初めて、私たちは完全に神様のものとされるのです。」

私は喜びを感じながら次のように言いました。「神様の啓きと導きにより、『一度救われれば救いはずっと続き、天の御国に入れる』という考えが間違っていることが分かりました。永遠の救いは私たちの罪の性質を取り除かれて清められることであり、それは一度救われて罪赦されることとは全く別のことだということも分かりました。この本は真の救いが何であるかを明確にしてくれますが、私たちが罪から解放されて救われる方法も書かれていますか?もし罪から解放されてその道を歩むことができるのであれば、真の救いを得て天の御国に入れるのではありませんか?

ヂャン兄は喜んで、こう答えました。「ヤンさん、あなたの言う通りです。主に感謝します。罪から解放されて罪の性質の問題が解決できるならば、私たちは真の救いを得て天の御国に入ることができるのです。この本はそのことを実に明確に語っています。続けて読みましょう…。」

 


クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(2) 受肉による神の再臨について、聖書にはその根拠があるのか

2020-04-16 10:56:54 | キリスト教映画

クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(2) 受肉による神の再臨について、聖書にはその根拠があるのか

主の再臨を歓迎する人の多くは、聖書にある「神は雲に乗って降りてこられ、再臨される」という預言のみに重点を置き、主は肉において再臨なされるという預言を蔑ろにしています。彼らは、神が肉体をもって再臨されるという証はすべて偽りであると断言していますが、はたして彼らの見解と行いは聖書と合致しているでしょうか。受肉による主の再臨に関して、聖書では具体的にどのように預言されているのでしょうか。
東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。