神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

ニネベに届いたヤーウェ神の警告

2020-07-26 17:03:28 | 天の国の福音

ニネベに届いたヤーウェ神の警告

(ヨナ書1:1-2)主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。

(ヨナ書3章)時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

(ヨナ書4章)ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

「神によるのニネベの救い」の聖句は長いものではないが、この聖句から神の義なる性質の別の側面を垣間見ることができる。その側面とは具体的に何を指すかを理解するためには、聖句で神の業を確認する必要がある。

この聖句の次の部分、ヨナ書第3章に進む。「ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、『四十日を経たらニネベは滅びる』と言った。」この言葉は、神がニネベの人々に伝えるために直接ヨナに託した言葉である。またこの言葉は、当然ながら、ヤーウェがニネベの人々に伝えることを望んでいたものであった。この言葉からは、ニネベの人々の悪が神の目に触れたため、神がニネベの人々に嫌悪感を抱き、ニネベを滅ぼすことを望んでいたことが分かる。しかし、神がニネベを滅ぼす前に、神はニネベの人々にその旨を通知すると同時に、ニネベの人々に、悪を悔い改め、再出発する機会を与えた。この機会は40日間であった。つまり、ニネベの人々が悔い改めて罪を認め、40日以内にヤーウェの前にひれ伏さなかった場合、神はニネベの町を、ソドムと同様に滅ぼそうとしていた。これがヤーウェがニネベの人々に伝えることを望んだ内容であった。これは単なる宣告ではなかったことは明白である。この宣告はヤーウェ神の怒りを伝えるのみならず、ニネベの人々に対するヤーウェ神の姿勢を伝えるものでもあり、同時にこの簡単な宣告は、ニネベの町で生活する人々への厳粛な警告としての作用もあった。この警告では、ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の嫌悪を買うに至ったこと、人々の悪業により、人々は程なくして滅びの危機に見舞われること、したがって、ニネベの人々は喫緊の大惨事が待ち受けていることが伝えられた。

『言葉は肉において現れる』より

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もっと注目

神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

 

 


神の働きのビジョン(3)

2020-07-24 22:35:22 | 書籍

神の働きのビジョン(3)


神が初めて肉となったのは聖霊による受胎を通じてであり、それは神が行なおうとする働きに関係していた。恵みの時代はイエスの名と共に始まった。イエスが自身の職分を始めたとき、聖霊はイエスの名に対する証しを始め、ヤーウェの名はもはや語られなかった。その代わり、聖霊はおもにイエスの名のもとに新しい働きに着手した。神を信じる人たちの証しはイエス・キリストのためになされ、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためだった。旧約聖書における律法の時代の終わりは、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きが完結したことを意味していた。その後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神は代わりにイエスと呼ばれ、それ以降、聖霊はおもにイエスの名のもとで働きを始めることになった。人々は今日もなおヤーウェの言葉を飲み食いし、いまだに律法の時代の働きにしたがってあらゆることを行なっているが、あなたは盲目的に規則に従っているのではないか。過去から抜け出せずにいるのではないか。現在、あなたがたは終わりの日が来たことを知っている。イエスが来るとき、彼はやはりイエスと呼ばれるということなのか。ヤーウェはイスラエルの人々にメシアが来つつあると言ったが、メシアが本当に来たとき、それはメシアでなくイエスと呼ばれた。イエスは、自分は再び来る、去ったときと同じように現われると言った。これらはイエスの言葉だが、あなたはイエスの去り方を見たのか。イエスは白い雲に乗って去ったが、白い雲に乗って自ら人々のもとに戻ってくるということなのか。そうであれば、やはりイエスとは呼ばれないのだろうか。イエスが再び来るとき、時代はすでに変わっているが、それでもやはりイエスと呼ばれることがあり得るのか。神はイエスという名でしか知られないということなのか。神が新しい時代に新しい名で呼ばれることはないのか。ひとりの人の姿とある特定の名前が神の全体を表わすことができるのか。それぞれの時代、神は新しい働きを行ない、新しい名で呼ばれる。どうして神が異なる時代に同じ働きを行なえるのか。どうして神が古いものにしがみつけるというのか。イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき、依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスはまだ贖いの働きを行なっているのだろうか。ヤーウェとイエスは一つでありながら、異なる時代に異なる名前で呼ばれるのはなぜか。それは働きの時代が違うからではないのか。一つの名前で神の全体を表わすことができるのだろうか。そのようなわけで、神は異なる時代に異なる名前で呼ばれなければならず、名前を使って時代を変え、時代を表わさなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神を完全に表わすことはできず、それぞれの名前はある時代における神の性質の一時的な側面しか表わせないからである。必要なのは、神の働きを表わすことだけである。よって、神は時代全体を表わすために、どんな名前であれ自身の性質に合う名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代であれ、イエスの時代であれ、それぞれの時代は名前によって表わされている。恵みの時代の終わりに最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのに、神はどうしていまだにイエスと呼ばれ得るのか。どうして人々のあいだでイエスの姿をとれるのだろうか。イエスはナザレ人の姿に過ぎなかったことを忘れたのか。イエスは人類の贖い主でしかなかったことを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し、完全にする働きに取り組めるというのか。イエスは白い雲に乗って去って行った。それは事実である。しかし、イエスが白い雲に乗って人間のもとに帰ってきて、依然イエスと呼ばれることなどどうしてあり得ようか。イエスが本当に雲に乗って来たなら、人間が認識できないのはどういうことだろうか。世界中の人々がイエスを認識するのではないだろうか。その場合、イエスだけが神だということになるのではないか。その場合、神の姿はユダヤ人の外見であり、またそれ以上に、永遠に同じということになるはずだ。イエスは、自分は去ったときと同じように来ると言ったが、その言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。あなたがたの集団に告げたということがあり得るのか。あなたが知っているのは、イエスは去ったときと同じく、雲に乗って来るということだけである。しかし、神自身がいかに自分の働きを行なうのか、あなたは正確に知っているのか。あなたが本当にわかっているのなら、イエスが語った言葉はいかに説明されるのか。イエスは、「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての人も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」と言った。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見て知ることができるのであれば、これらの言葉は無駄に語られたことにならないだろうか。そしてその際、イエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。……だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのかは、人の子自身も知らない。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、普通で平凡な人である。人の子自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。イエスは、去った時と同じように来ると言った。いつ来るのかは、イエス自身も知らないのである。ならば、イエスがあなたに前もって知らせることができるだろうか。あなたは彼の到来を見ることができるのか。それは冗談ではないのか。神は地上に来るたび、自身の名前、性別、姿、働きを変えるものの、自身の働きを繰り返すことはない。神は常に新しく、決して古くない神である。以前に来たとき、神はイエスと呼ばれた。再び到来した今回、神はやはりイエスと呼ばれ得るのか。以前に来たとき、神は男性だった。今回も男性であり得るのか。神が恵みの時代に来たとき、その働きは十字架にかけられることだった。神が再び来るとき、依然として人類を罪から贖い得るのか。再び十字架にかけられ得るのか。それは自身の働きを繰り返すことではなかろうか。神は常に新しく、決して古くないことを知らないのか。神は不変だという人たちがいる。それは正しいが、そのことは神の性質と本質が変わらないことを指している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わらない。神の働きは決して変わらないと言うのなら、神が六千年にわたる自身の経営(救いの)計画を終えることはできるだろうか。あなたは神が永遠に不変であることしか知らないが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代までずっと導くことができただろうか。神が不変なら、すでに二つの時代の働きを行なったのはなぜか。神の働きは止まることなく前進している。つまり、神の性質が徐々に人間に明かされており、そして明かされているのは神の本来の性質である。最初のころ、神の性質は人から隠されていて、神は決して自身の性質を人に公然と明かさず、人は神についての認識がまったくなかった。そのため、神は働きを用いて自身の性質を徐々に人に明かした。しかし、そのように働くことは、神の性質が時代ごとに変化するという意味ではない。神の旨が常に変わるために、神の性質が絶えず変化しているということではない。むしろ、神の働きの時代が異なるため、神は自身の本来の性質全体を一つひとつ人に明かし、それによって人は神を知ることができるのである。しかしそれは、神がもともと特有の性質をもたないことの証明でも、神の性質が時代と共に徐々に変わっていったことの証明でもない。そのような理解は間違いだと言えよう。時代の移り変わりに応じて、神は人に対し、自身だけがもつ固有の性質、すなわち神そのものを明らかにする。一つの時代の働きで神の性質全体を表現することはできない。だから「神は常に新しく、決して古くない」という言葉は神の働きを指しているのであり、また「神は不変である」という言葉は、神が本来所有するものと神そのものを指しているのである。いずれにせよ、六千年の働きを一点に絞ることはできないし、死んだ言葉で限定することもできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するほど単純ではないし、神の働きが一つの時代に留まることもあり得ない。たとえば、ヤーウェは常に神の名前を表わすわけではない。神はイエスの名のもとでも働くことができる。そのことは、神の働きが常に前へと進んでいることのしるしである。

神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることがない。神の本質、神が所有するものと神そのものは決して変わることがない。しかし、神の働きについて言えば、それは常に前へと進んでおり、絶えず深化している。神は常に新しく、決して古くないからである。神は時代ごとに新しい名前を名乗り、時代ごとに新しい働きを行ない、また時代ごとに、被造物に対して自身の新しい旨と新しい性質を見せる。新しい時代において、もし人々が神の新しい性質の表われを見られなければ、彼らは永遠に神を十字架にかけるのではないだろうか。またそうすることで、神を定義するのではないだろうか。もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある。神は終わりの日における新たな働きの段階に入っている。神は自身の性質をより一層明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神の手には新たな働きがあるので、それは新たな性質を伴う。ゆえに、もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神が受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通じて直接語り、人間には神と直接接触する術がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができるだろうか。もしもこの働きを行なうのが霊だけであれば、人間に神の性質を知る術はないだろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言葉が肉において現われるとき、そして神が自身の性質全体を肉によって表現するときだけである。神は本当に、真に人間のあいだで暮らしている。神は触れることができ、人間は神の性質、および神が所有するものと神そのものと実際に関わりをもつことができる。そうすることでのみ、人間は真に神を知るようになるのである。また同時に、神は「男たちの神であり、女たちの神である」という状態での働きを完了させ、肉における自身の働きを残らず成し遂げた。どの時代においても、神は自身の働きを繰り返さない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日に行なう働きを行ない、終わりの日における自身の性質を余すところなく現わす。終わりの日と言うとき、それは別の時代を指しており、その際イエスは、あなたがたは必ずや災害に見舞われ、地震、飢饉、疫病に遭遇すると言ったが、そのことは、それが新しい時代であり、もはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。人々が言うように、神が永久に不変で、その性質は常に憐れみ深く慈愛に満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神の働きが終わりを迎えることは果たしてあるだろうか。到来して十字架にかけられ、すべての罪人のために自分を犠牲にし、自身を祭壇に捧げたとき、イエスはすでに贖いの働きを完了させ、恵みの時代に終止符を打っていた。ならば、終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何だろうか。同じことをするのは、イエスの働きを否定することではないだろうか。もしも神がこの段階に来た際に磔刑の働きを行なわず、慈愛に満ちて憐れみ深いままならば、時代を終わらせることができるだろうか。慈愛に満ちて憐れみ深い神は、その時代に終止符を打つことができるだろうか。時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。

神の経営のすべてにおよぶ神の働きは完全に明白である。恵みの時代は恵みの時代であり、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代には明確な違いがある。と言うのも、神はそれぞれの時代にその時代を表わす働きを行なうからである。終わりの日の働きがなされるには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。終わりの日は最後の時代を指している。最後の時代において、神は時代を終わらせないのか。時代を終わらせるため、神は自ら刑罰と裁きをもたらさなければならない。このようにしてのみ、神は時代を終わらせることができる。イエスの目的は、人が生存して生き続けられるようにすること、そしてより良い方法で存在できるようにすることだった。人が堕落に陥るのをやめ、それ以上ハデスと地獄の中で生きることがないよう、イエスは人間を罪から救い、また人間をハデスと地獄から救い出すことで、その人が生き続けられるようにした。今や終わりの日は来ている。神は人を絶滅させ、人類を完全に滅ぼすだろう。つまり、神は人類の反逆心を変えるのである。そのため、神が憐れみ深く愛に満ちたかつての性質をもって時代を終わらせるのは不可能であり、六千年にわたる経営計画を結実させることもできないだろう。すべての時代は神の性質の特別な表われを特徴とし、すべての時代は神によってなされるべき働きを含んでいる。したがって、それぞれの時代で神自身によってなされる働きは神の真の性質の表現を含んでおり、神の名前と神の行なう働きはいずれも時代とともに変わり、それらはすべて新しい。律法の時代、人類を導く働きはヤーウェの名のもとになされた。そして第一段階の働きは地上で始められた。この段階において、働きは神殿と祭壇を建てること、および律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らのさなかで働くことから成っていた。イスラエルの人々を導くことで、神は地上における働きの拠点を築いた。この拠点から、神は自身の働きをイスラエルの外に拡張させた。すなわち、イスラエルを皮切りに、自身の働きを外に向けて拡張したのである。それにより、後の世代は徐々に、ヤーウェが神であること、天地と万物を造ったのがヤーウェであること、そしてすべての被造物を造ったのもヤーウェであることを知るようになった。神はイスラエルの人々を通じ、自身の働きを外に向けて広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地であり、神が地上で働きを行なうべく最初に来たのもイスラエルの地だった。それが律法の時代の働きだった。恵みの時代、イエスは人を救う神だった。イエスが所有するものとイエスそのものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行なった働きの多くは人の贖いのためだった。イエスの性質は憐れみと愛であり、イエスは憐れみと慈愛に満ちていたので、人間のために十字架にかけられる必要があった。そうすることで、神は自身のすべてを捧げるほど、人類を自分のように愛していることを示したのである。恵みの時代、神の名はイエスであり、それはつまり、神は人類を救う神であり、憐れみと慈愛に満ちていたということである。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いは一人ひとりに伴っていた。イエスの名前と存在を受け入れることでのみ、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、無数の大いなる恵み、そして救いを受け取ることができたのである。イエスの磔刑を通じ、イエスに従うすべての人が救いを受け、その罪が赦された。恵みの時代、イエスは神の名だった。つまり、恵みの時代の働きはおもにイエスの名のもとでなされたのである。恵みの時代において、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きの段階に着手し、その働きは磔刑で終わった。それがイエスの働きのすべてだった。したがって、律法の時代においてはヤーウェが神の名であり、恵みの時代においてはイエスの名が神を表わした。終わりの日、神の名は全能神、すなわち全能者であり、自身の力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、また神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。

最初、旧約聖書の律法の時代に人間を導くのは、子どもの生活を導くようなものだった。原初の人類はヤーウェから生まれたばかりで、彼らこそイスラエル人だった。彼らはいかに神を崇めるべきかも、いかに地上で生きるべきかも分からなかった。言うなれば、ヤーウェは人類を創造したが、つまりアダムとエバを造ったが、ヤーウェをいかに崇めるべきかや、地上におけるヤーウェの掟をいかに守るべきかを理解する能力を人類に与えなかったのである。ヤーウェによる直接の導きがなければ、誰もそれらを直接知ることはできなかった。最初のうち、人間はそのような能力をもっていなかったからである。人間はヤーウェが神であるということだけを知っており、いかに神を崇めるべきか、どのような行為が神を崇めることだと言えるのか、どのような心で神を崇めるべきか、あるいは神への畏敬のしるしとして何を捧げるべきかについて、何一つまったく知らなかった。人間は、ヤーウェが創造した万物のなかで享受できるものをいかに享受するかしか知らなかった。地上におけるどういった生活が神の被造物にふさわしいかということについて、人間は少しも知らなかった。彼らに指導する者、彼らを直接導く者がいなければ、このような人間たちは人類にふさわしい生活を送ることなく、密かにサタンの虜にされていただけだろう。ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのため、人類の創造におけるヤーウェの働きは半分しか完了しておらず、完成にはほど遠かった。ヤーウェは土で人間の雛形を造り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を授けることはなかった。最初のころ、人間は神を崇めたり恐れたりする心をもたなかった。神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上の生活についての基本的知識や人間生活の正しい規則に関しては無知だった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り、七日間の計画を終えたものの、人間の創造を完成させることは決してなかった。人間は殻でしかなく、人であることの現実を欠いていたからである。人は、人類を創造したのがヤーウェであることしか知らず、ヤーウェの言葉や律法にどう従うべきかについては何も知らなかった。だから人類が存在するようになった後も、ヤーウェの働きは完成からほど遠かった。それでもヤーウェは、人々が地上で共に暮らし、ヤーウェを崇めることができるよう、またヤーウェの導きのもと、人々が地上における正常な人間生活の正しい軌道に入れるよう、人間をしっかりと導き、自身の面前に来させる必要があった。そうすることでのみ、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そのようにして初めて、ヤーウェの創世の働きが完全に完了したのである。このように、人類を創造したヤーウェは、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における正常な人間生活のあらゆる活動に携われるよう、地上における人類の生活を何千年間も導かねばならなかった。そのとき初めてヤーウェの働きは完全に完成したのである。ヤーウェは人類を創造した後でこの働きに着手し、ヤコブの時代まで、つまりヤコブの十二人の息子たちをイスラエルの十二部族にするまで続けた。それ以降、イスラエルのすべての人が地上で正式にヤーウェによって導かれる人種となり、イスラエルはヤーウェが自身の働きを行なう、地上における特別な場所となった。ヤーウェはこれらの人々を、自身が地上において正式に働きかける最初の集団とし、イスラエルの全土を自身の働きの発祥の地としたうえで、彼らをさらに偉大な働きの先駆けとして用いた。そうすることで、ヤーウェから生まれた地上のすべての人が、いかにヤーウェを崇めるべきか、いかに地上で生きるべきかを知るようにしたのである。このように、イスラエル人の行ないは、異邦の民族の人々が後に続くべき模範となり、またイスラエルの人々のあいだで語られたことは、異邦の民族の人々が耳を傾けるべき言葉となった。なぜなら、イスラエルの人々はヤーウェの律法と掟を受け取った最初の民であり、ヤーウェのさまざまな道をいかに崇めるべきかを最初に知った民だったからである。イスラエルの人々はヤーウェの道を知る人種の祖先であり、ヤーウェに選ばれた人種の代表でもあった。恵みの時代が到来したとき、ヤーウェはもはや人間をこのようには導かなかった。人間は罪を犯し、自らを罪にゆだねてしまっていたので、神は人間を罪から救い始めた。このように、人間が罪から徹底的に救い出されるまで、神は人間をとがめた。終わりの日、人間はそこまで堕落してしまったので、この段階の働きは裁きと刑罰を通じてでなければ行なうことができない。この方法によってのみ、働きは達成され得る。これは複数の時代の働きだった。つまり、神は自らの名前、働き、そして異なる神の姿を使って各時代を区切るとともに、それらを移り変わらせるのである。神の名前と働きは、神の時代と各時代における神の働きを表わすのである。どの段階においても神の働きが常に同じで、神がいつも同じ名前で呼ばれるなら、人はどのように神を知るのだろうか。神はヤーウェと呼ばれなければならず、ヤーウェと呼ばれる神以外に、他の名前で呼ばれるものは神ではない。あるいは、神はイエスとだけ呼ばれ、イエスという名前を除き、他の名で呼ばれることはない。イエスを別にすれば、ヤーウェは神でなく、全能神も神ではない。神は全能だと人は信じているが、神は人とともにいる神である。そして神は人とともにいるのだから、イエスと呼ばれなければならない。そうすることは教義に従い、神を一定の範囲に束縛することである。ゆえに、それぞれの時代で神が行なう働き、神が呼ばれる名前、神がとる姿、すなわち今日に至るまでの各段階で神が行なう働きは、一つの規律に従うものではないし、いかなる制限を受けることもない。神はヤーウェであり、しかしイエスでもあり、メシヤ、全能神でもある。神の働きは徐々に変わることができ、それにあわせて神の名も変化する。どの一つの名も神を完全に表わすことはできないが、神が呼ばれるすべての名は神を表わすことができ、神が各時代に行なう働きは神の性質を表わしている。終わりの日が訪れるとき、あなたの目にする神が依然としてイエスであり、またそれ以上に、神が白い雲に乗って来て、依然としてイエスの姿をしており、その話す言葉はイエスの言葉のままで、次のように言ったとしよう。「あなたがたは自分のように隣人を愛し、断食して祈り、自分のいのちを大事にするように敵を愛し、他の人に寛容であり、忍耐強く、謙虚であるべきだ。わたしの弟子になる前に、これらのことをすべて実行しなければならない。そうすることで、あなたがたはわたしの国に入ることができる」。これは恵みの時代の働きに属するものではないだろうか。神が述べているのは恵みの時代の道ではないだろうか。これらの言葉を聞くことになれば、あなたがたはどう感じるだろうか。これはやはりイエスの働きだと思わないだろうか。それはイエスの働きを繰り返しているのではないだろうか。人はそこに喜びを見出せるだろうか。あなたがたは、神の働きは今のままで留まり、これ以上進歩しないと感じているかもしれない。神にはそれほどの力しかなく、行なうべき新しい働きはこれ以上ないのであって、神は力を使い果たした、と。今から二千年前は恵みの時代であり、それから二千年後、神は依然として恵みの時代の道を説き、依然として人々に悔い改めさせている。人々は「神よ、あなたにはそれほどの力しかありません。あなたはとても知恵のあるお方だと、私は信じていました。でもあなたは寛容しかご存知でなく、忍耐ばかり気にしておられます。また敵を愛す方法しかご存知でなく、他には何もありません」と言うかもしれない。人の心の中で、神は永遠に恵みの時代の神のままであり、神は慈愛に満ちて憐れみ深いと、人はいつまでも信じている。あなたは、神の働きは常に同じ古い場所で足踏みしていると思っているのか。ゆえに神の働きのこの段階において、神が十字架にかけられることはなく、あなたがたが見て触れるすべてのものは、想像したり聞かされたりしてきたこととまったく異なるだろう。今日、神はパリサイ人とは関わらず、世界が知ることを許してもいない。そして神を知るのは、神に従うあなたがただけである。なぜなら、神が再び十字架にかけられることはないからである。恵みの時代、イエスは自身の福音の働きのために全土で公に教えを説いた。イエスは磔刑の働きのためにパリサイ人と関わった。もしもイエスがパリサイ人と関わり合いにならず、権力者たちがイエスのことを知らなかったならば、どうしてイエスが断罪され、そして裏切られて十字架にかけられるということがあり得ただろうか。したがって、イエスは十字架にかけられるためにパリサイ人と関わったのである。今日、神は試みを避けるべく秘密裏に働きを行なう。二度にわたる神の受肉において、その働きと意義は異なっており、設定も異なっているのだから、どうして神の行なう働きがまったく同じであり得るだろうか。

「神は私たちと共におられる」というイエスの名は、神の性質の全体を表わせるだろうか。神を完全に表現できるだろうか。もしも、神は自身の性質を変えることができないので、イエスと呼ばれることしかできず、他の名をもつことはないと人が言うなら、それらの言葉はまさに冒涜である。あなたは、「神は共におられる」というイエスの名前だけで神の全体を表せると信じているのか。神は多くの名で呼ばれ得るが、それらの多くの名前の中に、神のすべてを要約できるものは一つとしてなく、神を完全に表わせるものもない。それゆえ、神は多くの名前をもっているが、これらの多くの名が神の性質を余すところなく明確に表現することはできない。なぜなら、神の性質はあまりにも豊かで、神に関する人の認識能力を完全に越えているからである。人が人間の言語を使うことで、神を完全な形で要約することはできない。神の性質について自分たちが知っているすべてのことを要約するにあたり、人間には限られた語彙しかない。偉大な、りっぱな、驚くべき、計り知れない、至高の、聖なる、義なる、知恵に満ちたなど、何と多くの言葉があることか。この限られた語彙では、人間が神の性質に関して目の当たりにしたことを、ほんの少しでも記述することは不可能である。やがて、自分の心の中の熱情をもっと上手に記述できるはずだと、他の多くの人がさらに言葉を追加した。神はとても偉大だ。神はとても神聖だ。神はとても美しい。今日、人間がこのように言うことはその頂点に達しているが、それでも自分自身を明確に表現できずにいる。だから、人間にとって神には多くの名前があるものの、神がもつのは一つの名前ではない。なぜなら、神の存在はあまりに豊富で、人間の言語はあまりに乏しいからである。ある一つの特定の言葉や名前では、神の全体を表わすことができない。そうであれば、神の名は固定され得るとあなたは考えているのか。神は極めて偉大で聖いのに、神がそれぞれの新しい時代に名前を変えるのを許さないつもりなのか。したがって、神は自ら働きを行なうそれぞれの時代に、自身が行なおうとしている働きを要約するため、その時代に合った名前を用いるのである。神はその時代における自身の性質を表わすために、一時的な意義を有する特定の名前を用いる。これは、神が自身の性質を表現するために人間の言語を用いるということである。たとえそうでも、霊的な体験をして神をじかに見たことがある多くの人は、この特定の名前が神の全体を表わすことはできないと感じている。ああ、何と救いがたいことか。そのせいで、人間はもはや神を名前で呼ぶことはなく、ただ「神」と呼ぶのである。それはあたかも、人間の心が愛であふれていながら、同時に矛盾に悩まされているかのようである。人間は神をいかに説明すればよいか分からないからである。神そのものは極めて豊かなので、それを表現する術はまったくない。神の性質を要約できる一つの名前はなく、神が所有するものと神そのものを余すところなく表現できる一つの名前もないのである。もしも誰かがわたしに「あなたはいったい何という名前を使うのですか」と尋ねるならば、こう答えるだろう。「神は神である」と。これこそが神にとって最良の名前ではないのか。神の性質の最高の要約ではないのか。そうであれば、神の名を求めてなぜそんなに苦労するのか。どうして名前のことで寝食を忘れ、頭脳を振り絞るのか。神がヤーウェ、イエス、あるいはメシアと呼ばれない日がやって来るだろう。神はただ創造主と呼ばれるのである。その時、神が地上で名乗ったすべての名前は終わりを迎える。なぜなら、地上における神の働きが終わり、その後神の名はなくなるからである。万物が創造主の支配下に入るとき、神がどうして適切ではあるが不完全な名前をもつ必要があるのか。あなたは今なお神の名を求めているのか。神はヤーウェとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神はイエスとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神を冒涜する罪を背負えるのか。神は本来どんな名前ももたなかったということを知るべきである。神には行なうべき働きがあり、人類を経営しなければならなかったのだから、一つや二つの、あるいは多くの名前を名乗っただけのことである。どのような名で呼ばれるにしても、神はそれを自ら自由に選んだのではないか。神がそれを決めるのに、被造物の一つであるあなたを必要とするだろうか。神が呼ばれる名前は、人が理解できること、および人の言語に沿うものだが、その名前は人が考え出せるものではない。天には神がいて、それは神と呼ばれ、偉大な力をもつ神自身であり、大いに知恵があり、大いに高められ、大いに素晴らしく、大いに神秘的で、大いに全能であるとしかあなたは言えず、それ以上は言うことができない。あなたが知り得るのはこのわずかなことだけである。そうであれば、たかだかイエスの名だけで神自身を表わすことができるだろうか。終わりの日が来るとき、神の働きは依然として神が行なうものの、時代が異なるので神の名は変わらなければならないのである。

全宇宙、そしてその上の世界において最も偉大である神は、肉体の姿を用いて自分自身を完全に説明することができるだろうか。神がその肉体をまとうのは、自身の働きの一段階を行なうためである。その肉体の姿には特に何の重要性もなければ、時代の推移とも無関係であり、神の性質とも関係がない。なぜイエスは自分の姿が残るようにしなかったのか。なぜ自分の姿を人に描かせ、それが後の世代に伝えられるようにしなかったのか。イエスの姿は神の姿であると、なぜ人々に認めさせなかったのか。人の姿は神のかたちに創造されたが、人間の外見が神の崇高なる姿を表現するということは果たして可能なのか。神は肉となるとき、天からある特定の肉体へと降臨するだけである。肉体に降臨するのは神の霊であり、神はそれを通じて霊の働きを行なう。肉において表わされるのは神の霊であり、肉において働きを行なうのも神の霊である。肉において行なわれる働きは霊を余すところなく表わしており、その肉体は働きのためにある。しかしそれは、その肉の姿が神自身の真の姿の代わりになれるという意味ではない。それは、神が肉となる目的でも意義でもないのである。神が肉となるのは、ただ霊が自分の働きに適した住みかを見つけ、肉における働きをよりよく成し遂げるためである。そうすることで、人々は神の業を見、神の性質を理解し、神の言葉を聞き、神の働きの不思議を知るのである。神の名前は神の性質を表わし、神の働きは神の身分を表わすが、受肉した神の外見が神の姿を表わすと神が言ったことはない。それは単に人間の観念である。だから、神の受肉にまつわる重要な側面は神の名前、働き、性質、そして性別である。これらは、この時代における神の経営を表わすために用いられる。受肉した神の外見は神の経営とは無関係であり、そのときの神の働きのために過ぎない。しかし、受肉した神が特定の外見をもたないということは不可能なので、神は適切な家族を選んで自身の外見を決める。もしも神の外見に何か表現的な意義があるのなら、神と同じような顔立ちをしている人も全員神を表わしていることになる。これはあまりにひどい間違いではないだろうか。人が礼拝するようにと、イエスの肖像画は人間によって描かれた。そのとき、聖霊は特別な指示を与えなかったので、人は想像によるその肖像画を今日まで伝えた。実を言うと、神の本来の意図によれば、人間はこうするべきではなかった。イエスの肖像画が今日まで残るようになったのは、ひとえに人間の熱意のせいである。神は霊であり、神の姿がどのようなものであるかを、人間が最終的に要約することは決してできない。神の姿は神の性質によってしか表現できないのである。神の鼻、口、目、頭髪の外見について、それらを要約するのはあなたの能力を超えることである。ヨハネは啓示を受けたとき、人の子の姿を見た。その口からは鋭いもろ刃のつるぎが突き出ており、その目は燃える炎のようであり、その頭と髪の毛は羊毛のように白く、その足は光り輝く銅のようで、その胸には金の帯をしめていた。ヨハネの言葉は極めて鮮明だが、彼が描写した神の姿は、何らかの被造物の姿ではなかった。ヨハネが見たのは幻に過ぎず、物質世界の人の姿ではなかった。ヨハネは幻を見たが、神の本当の外見を目にすることはなかった。受肉した神の肉体の姿は、一つの被造物の姿であり、神の性質全体を表わすことはできない。ヤーウェは人類を創造したとき、自分自身のかたちにかたどって人を創り、男と女を創ったと言った。そのとき、ヤーウェは神のかたちに男と女を創造したと言った。人間の姿は神の姿に似ているが、人間の外見が神の姿であるという意味に解釈することはできない。また、人類の言語を使って神の姿を完全に要約することもできない。なぜなら、神はかくも崇高で、かくも偉大で、かくも不思議に満ち、かくも計り知れないからである。

イエスが自身の働きを行なうために来たとき、それは聖霊の指示によるものだった。イエスは聖霊の望み通りに行ない、それは旧約聖書の律法の時代にしたがうものでも、ヤーウェの働きにしたがうものでもなかった。イエスが来て行なった働きは、ヤーウェの律法やヤーウェの戒めを遵守することではなかったが、それらの源泉は同じ一つのものだった。イエスが行なった働きはイエスの名を表わし、恵みの時代を代表した。ヤーウェによってなされた働きについて言えば、それはヤーウェを表わし、律法の時代を代表した。それらの働きは二つの異なる時代における一つの霊の働きだった。イエスが行なった働きは恵みの時代しか代表できず、ヤーウェが行なった働きは旧約聖書の律法の時代しか代表できなかった。ヤーウェはイスラエルの民とエジプトの民を導き、そしてイスラエル以外のあらゆる国の民を導いただけだった。新約聖書の恵みの時代におけるイエスの働きは、神がその時代を導く中で、イエスの名のもとで行なう働きだった。イエスの働きはヤーウェの働きに基づいていて、新しい働きに一切着手せず、イエスが行なったのはヤーウェの言葉にしたがい、ヤーウェの働きとイザヤの預言にしたがうことだけだったと言うのなら、イエスは肉となった神ではなかったはずだ。仮にイエスがそのような形で自身の働きを行なっていたなら、イエスは律法の時代の使徒もしくは働き手だったはずである。もしもあなたの言う通りなら、イエスは一つの時代を始めることも、他の働きを行なうこともできなかっただろう。同じように、聖霊はおもにヤーウェを通じてその働きを行なわなければならず、またヤーウェを通じてでなければ、いかなる新しい働きもできなかっただろう。人がイエスの働きをこのように理解するのは間違っている。イエスによる働きがヤーウェの言葉とイザヤの預言にしたがってなされたと信じるなら、イエスは受肉した神だったのか、それとも預言者の一人だったのか。この見方によれば、恵みの時代などというものはなく、イエスは神の受肉ではなかったということになる。と言うのも、イエスが行なった働きは恵みの時代を表わすことができず、旧約聖書の律法の時代しか表わせなかったからである。あり得るのは新しい時代だけであり、そのときイエスが来て新しい働きを行ない、新しい時代を始め、イスラエルで以前に行なわれた働きを打ち破り、イスラエルでヤーウェが行なった働き、ヤーウェの古い規則、あるいは何らかの規制にしたがって自身の働きを行なうのではなく、むしろなすべき新しい働きを行なったのである。神自身が時代を始めるために来て、神自身が時代を終えるために来るのである。人は時代を始めたり、時代を終えたりする働きをすることができない。到来したイエスがヤーウェの働きを終わらせなかったら、そのことは、イエスはただの人であり、神を表わすことができなかったという証明になるだろう。イエスが来てヤーウェの働きを終わらせ、ヤーウェの働きを引き継ぎ、またそれ以上に自分自身の働き、つまり新しい働きを行なったからこそ、それは新しい時代で、イエスは神自身だったことが証明される。両者ははっきり異なる二つの段階の働きを行なったのである。一つの段階は神殿の中でなされ、もう一つは神殿の外でなされた。一つの段階は律法にしたがって人の生活を導くことであり、もう一つは罪の捧げ物を供えることだった。これら二つの段階の働きは明確に異なっていた。それは新しい時代と古い時代を分け、それらは二つの異なる時代だと言うのは絶対に正しい。両者の働きの場所は異なり、働きの内容も異なり、働きの目的も異なっていた。そのため、それらは二つの時代に区分することができる。つまり新約聖書と旧約聖書であり、すなわち新しい時代と古い時代である。到来したイエスは神殿に入らなかった。そのことは、ヤーウェの時代がすでに終わっていたことを証明する。イエスが神殿に入らなかったのは、神殿におけるヤーウェの働きが終わっており、再度行なわれる必要がなく、再度行なうことは繰り返しになるからである。神殿を離れ、新しい働きを開始し、神殿の外で新しい道を切り開くことでのみ、イエスは神の働きを絶頂に至らせることができたのである。イエスが神殿の外に出て自身の働きを行なっていなければ、神の働きは神殿の基礎に停滞し、なんら新しい変化は起きなかっただろう。だから到来したイエスは神殿に入らず、神殿の中で働きを行なうこともなかったのである。イエスは神殿の外で自身の働きを行ない、弟子を率いて自由に働きに取り組んだ。神が神殿を離れて働きを行なったことは、神に新しい計画があることを意味していた。神の働きは神殿の外で行なわれることになっており、それは実行する方法に拘束されない新しい働きのはずだった。イエスは到来するやいなや、旧約聖書の時代におけるヤーウェの働きを終了させたのである。両者は二つの異なる名前で呼ばれたが、二つの段階の働きを成し遂げたのは同じ霊であり、なされた働きは継続的なものだった。名前が違い、働きの内容も違っていたように、時代も違っていたのである。ヤーウェが来たとき、それはヤーウェの時代で、イエスが来たとき、それはイエスの時代だった。したがって、神は来るたびに一つの名で呼ばれ、一つの時代を表わし、新しい道を切り開く。それぞれの新しい道において神は新しい名を名乗り、またそのことは、神が常に新しく決して古くないことと、神の働きが絶えず前方に進んでいることを示すのである。歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。六千年にわたる神の経営計画が終わりを迎えるには、前方へと進み続けなければならない。毎日、神は新しい働きを行なわなければならず、毎年、神は新しい働きを行なわなければならない。神は新しい道を切り開き、新しい時代を始め、新しくさらに偉大な働きを開始し、それらとともに新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。神の霊は刻一刻と新しい働きを行なっており、古いやり方や規則に固執することは決してない。また、神の霊の働きが止まったことは一度もなく、どの瞬間にも生じている。聖霊の働きは不変であると言うなら、ヤーウェが祭司に対し、神殿の中で自分に仕えるよう求めたのに、イエスが来たときには、彼は大祭司だとか、ダビデの家系で大祭司でもあり、偉大な王であると人々が言ったにもかかわらず、どうしてイエスは神殿に入らなかったのか。そしてなぜイエスはいけにえを捧げなかったのか。神殿に入ろうが入るまいが、これはすべて神自身の働きではないのか。もしも人が想像するように、イエスが再び到来し、終わりの日にいまだイエスと呼ばれ、依然として白い雲に乗り、イエスの姿のままで人のもとに降臨するなら、それはイエスの働きの反復ではないだろうか。聖霊が古いものにしがみつくなどあり得るのか。人が信じているものはすべて観念であって、人が理解しているものはすべて文字通りの意味、または人の想像力に沿ったものである。それらは聖霊の働きの原則と一致しておらず、神の意図に沿っていない。神はそのような形で働きを行なわないはずだ。神はそれほどばかでも愚かでもなく、神の働きはあなたが想像するほど簡単ではない。人が想像するあらゆることを基にすると、イエスは雲に乗って現われ、あなたがたの中に降りることになっている。あなたがたは、雲に乗りながら「自分はイエスだ」と告げる彼を見る。また、イエスの手にある釘の跡を見て、その人がイエスであることを知る。そして、イエスは再びあなたがたを救い、あなたがたの全能なる神となる。イエスはあなたがたを救い、あなたがたに新しい名前を授け、あなたがた一人ひとりに白い石を与える。その後、あなたがたは天の国に入ることを許され、楽園に受け入れられる。だが、このような信仰は人の観念ではないのか。神は人の観念に沿って働くのか、それとも人の観念に逆らって働くのか。人の観念はすべてサタンに由来するものではないのか。すべての人間はサタンによって堕落させられたのではないか。もしも神が人の観念に沿って自身の働きを行なったのなら、神はサタンということになるのではないか。神は自身の被造物と同じようなものだということにはならないか。神の被造物がサタンによって堕落させられるあまり、人はサタンの化身になったので、もしも神がサタンの物事に沿って働いたなら、神はサタンの仲間だということになるのではないか。どうして人が神の働きを理解できるのか。したがって、神が人の観念に沿って働きを行なうことは決してなく、あなたが想像するように働きを行なうこともない。自分は雲に乗って来ると神自身が述べたと言う人たちがいる。神自身がそう言ったのは確かだが、神の奥義を推し測れる人は誰もいないことを、あなたは知らないのか。神の言葉を説明できる人間は一人もいないことを、あなたは知らないのか。自分は聖霊に啓かれ、照らされていると、あなたはみじんの疑いもなく確信しているのか。当然それは、聖霊がそうした直接的な形であなたに示したわけではない。聖霊があなたに指示したのか、それともあなた自身の観念によってそう考えるようになったのか。あなたは「これは神自身によって述べられた」と言った。しかし私たちは、神の言葉を測るにあたって自分たちの観念や思考を用いることはできない。イザヤが語った言葉について言えば、あなたは絶対の確信をもって彼の言葉を説明することができるのか。あえてイザヤの言葉を説明するつもりなのか。イザヤの言葉をあえて説明するつもりがないのに、どうしてイエスの言葉をあえて説明しようとするのか。イエスとイザヤのどちらがより崇められているのか。答えはイエスであるのに、なぜイエスの語った言葉を説明するのか。神は自身の働きを前もってあなたに告げるだろうか。被造物の誰も、天の御使たちさえも、人の子でさえも知らないのに、どうしてあなたにわかるのか。人はあまりに多くのものを欠いている。あなたがたにとって今最も重要なのは、三段階の働きを知ることである。ヤーウェの働きからイエスの働きに至るまで、イエスの働きからこの現段階の働きに至るまで、これら三段階は神の経営全体を隙間なく覆うものであり、またそのすべてが一つの霊による働きである。創世以来、神は常に人類の経営にいそしんできた。神は初めにして終わりであり、最初にして最後であり、時代を始める存在にして時代を終わらせる存在である。異なる時代、異なる場所における三段階の働きは、間違いなく一つの霊の働きである。これら三段階を切り離す者はみな神に敵対している。今、第一段階から今日に至るまでの働きが、すべて一つの神の働きであり、一つの霊の働きであることを、あなたは理解しなければならない。そのことに疑いの余地はあり得ない。


神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

2020-07-23 22:56:43 | 天の国の福音

神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる


ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

こうした簡潔な説明により、人々は神の心、神の本質の現実性を理解し、神の怒りと神の心の変化には理由があるという事実を理解することができるようになる。神が怒っていた時と、神が心を変えた時の際だった対比により、神の怒りと寛容さという神の本質の2つの側面には大きな隔たりや対比があると人々は考えるが、ニネベの人々の悔い改めに対する神の姿勢により、人々は、神の真の性質について、それらとは別の側面を理解することができるようになる。神の御心の変化により、人間は神の憐れみと慈愛の真実を理解し、神の本質の真の明示を理解することができる。人類は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でも無いということを、認める他は無い。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容さを再び人類に対して与えたからである。

ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。

『言葉は肉において現れる』より

 

もっと注目

 神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

 創造主の義なる性質は現実であり、生きている

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「玉座から命の川の水が流れ出る」から、その六「悔い改めの道と永遠の道との違い」

2020-07-22 22:16:24 | キリスト教映画

主イエスと全能神は一人の神であり、主イエスが行なったのは贖いの業で、悔い改めの道を広めました。終わりの日の全能神が行なっているのは、裁きと清めの働きであり、永遠のいのちの道をもたらしました。では、悔い改めの道と永遠のいのちの道には、一体どのような違いがあるのだろうか?この短編映画をご覧ください。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 

悔い改めの道と永遠のいのちの道の違い

2020-07-21 20:58:38 | 天の国の福音

悔い改めの道と永遠のいのちの道の違い


「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)

関連する神の言葉

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

恵みの時代では、イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり祝福したりといった働きを多く行なった。しかし、現在ではそのようなことをするのは無意味であろう。聖霊は当時そのように働いた。それは恵みの時代であったからで、人が享受するのに十分の恵みがあった。人はいかなる代価を支払うことを要求されることもなく、信仰がある限り、恵みを受け取ることができた。すべての人たちは非常に寛大に扱われた。今、時代が変わり、神の働きがさらに前進した。神の刑罰と裁きを通して、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれるだろう。当時は贖いの段階であったので、神は人が楽しむのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、恵みによって罪が赦されるように働きを行なわなければならなかった。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉による打ち砕かれ、そして言葉による懲戒と暴露を通して、人の中の不義を明らかにするためであり、それにより後に人が救われるためである。これは贖いよりももっと深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が楽しむのに十分であった。すでにこの恵みを経験したので、これ以上人はそれを楽しむことはない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通して救われる。裁かれ、刑罰を受け、精錬されて、人の性質は変えられる。これはわたしが話した言葉の故ではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

当時、イエスは使徒たちにとっては不可解な働きをたくさん行い、人々には理解できないことを多く言った。これは当時イエスが説明しなかったからである。そのため、イエスが去ってから数年後にマタイがイエスの系図を作り、他の者も人間の意志による働きをたくさん行なった。イエスは人を完全にし、自分のものとするために来たのではなく、働きの一段階をするために来たのである。それは天の国の福音をもたらし、十字架の働きを完成させることであり、イエスが十字架につけられた時点でその働きは完了している。しかし、現在の段階、征服の働きの段階では、もっと多くの言葉が語られ、もっと多くの働きがなされ、そして多くの過程を踏まなければならない。イエスとヤーウェの働きの奥義も明らかにされ、すべての人が信仰において理解と明瞭を得られるようにされなければならない。というのは、これは終わりの日の働きで、終わりの日は神の働きの終わりであり、この働きが完了する時だからである。働きのこの段階はあなたのためにヤーウェの律法とイエスの贖いを明確にするであろう。この働きは主にあなたが神の六千年の経営(救いの)計画の全体像を理解し、六千年の経営計画のすべての意義と本質を理解し、イエスによってなされたすべての働きとイエスが語った言葉の目的、そしてあなたの聖書に対する盲目的信用と崇拝さえも理解するためである。この段階の働きはこれら全てをあなたがたに理解させるであろう。あなたはイエスによってなされた働きと今日の神の働きの両方を理解するようになるであろう。真理、いのち、そして道をすべて理解し見上げるであろう。イエスによってなされた働きの段階で、イエスはなぜ神の働きを終えることなく去ったのだろうか。それはイエスの働きの段階は、完了の働きではなかったからである。イエスが十字架に釘付けにされたとき、イエスの言葉もまた終わりを迎えた。十字架刑の後、イエスの働きは完全に終わりとなった。現段階は違っている。言葉が最後まで語られ、神の働きの全体が完了したあとではじめて、神の働きは終わる。イエスの働きの段階の期間、多くの言葉が語られずに終わったか、あるいは明確に語られなかった。しかしイエスの職分は言葉による職分ではなかったため、イエスは自分が何を語って何を語らなかったかは気にかけず、そのため、十字架につけられた後に去って行った。その段階の働きは主に十字架刑のためであり、今日の働きの段階とは異なる。この段階の働きは基本的には完了すること、明確化すること、そしてすべての働きを終結することである。もし言葉が最後の最後まで語られないなら、この働きを終える方法はないであろう。この段階の働きで、すべての働きは、言葉を用いて終わり達成されるからである。当時イエスは人には理解できない多くの働きをした。イエスは静かに去り、今日依然としてイエスの言葉が理解できない人たちが多くいる。彼らの理解は間違っているが、それでも彼らは正しいと信じており、間違っていることを知らない。最後には、この現段階は神の働きを完全に終わらせ、その終結をもたらすだろう。すべての人たちが神の経営計画を理解し知るようになるであろう。人の中にある観念、意図、間違った理解、ヤーウェとイエスの働きに関する人の観念、異邦人についての見解、そして人の他の逸脱と間違いは正されるであろう。そして人は人生の正しい道、神によってなされたすべての働き、そしてすべての真理を理解するであろう。そうなった時、この段階の働きは終わりとなるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

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