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神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

終わりの日に神によって表わされた真理は永遠のいのちの道である

2020-07-20 21:25:20 | 天の国の福音

終わりの日に神によって表わされた真理は永遠のいのちの道である

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない。」(ヨハネの黙示録 2:11)

「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」(ヨハネの黙示録 22:1-2)
関連する神の言葉

神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、彼らが何千年もしがみついてきた汚水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

神の国の時代に神は言葉を使い、新たな時代の到来を知らせ、神の働きの方法を変え、その時代全体の働きを行なう。これが言葉の時代において神が働く原則である。神は異なる視点から語るために肉となり、肉に現れる言葉である神、神の知恵と驚くべき素晴らしさを人間が本当に見ることができるようにした。このような働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰する目的をよりよく達成するために行なわれる。これが言葉の時代において働くために言葉を使うことの真の意味である。言葉をとおして、神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何に入っていくべきかを人間は知るようになる。言葉をとおして、言葉の時代に神が行ないたい働きはその全体が結実される。言葉をとおして、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在に気づいた。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、また神の人間への愛と人間を救う願望を信じる。「言葉」という語句は単純でごく普通であるが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがせる。それは人間の心、観念、古い性質、世界全体が以前にはどのように表れていたかを変革する。時代をとおして、今日の神だけがこのような働き方をし、今日の神だけがそのように語り、そのように人間を救いに来る。それ以降は、人間は言葉の導きの下に生き、言葉により牧され、施しを受ける。全人類は言葉の世界に、神の言葉の呪いと祝福の内に生きるようになった。そして言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになったさらに多くの人間がいる。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、過去の創造における世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、宇宙の人間を言葉をもって導き、言葉をもって征服し救う。ついに、神は言葉を使って古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画がくまなく完了する。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

終わりの日の働きはヤーウェとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを表し、人類の中で救いの全ての働きを完結するためになされる。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてに終結をもたらす。人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされなければならない。人が奥義をその深みまで知り尽くし、心の中で完全にはっきりと理解できるようにである。その時初めて人はそれぞれの種類によって区分される。…この段階の働きが完全に終わると、人に理解されていなかったすべての奥義は明らかにされ、これまで理解されなかったすべての真理がはっきりし、人類は未来の道と終着点を告げられているだろう。これこそこの段階でなされるべきすべての働きである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

この最後の段階の働きにおいて、成果は言葉によって達成される。言葉を通して、人は多くの奥義や過去の世代にわたる神の働きを理解するようになる。言葉を通して、人は聖霊の啓きを受け、言葉を通して、人はかつての世代に決して解明されなかった奥義や、昔の預言者たちや使徒たちの働き、そして彼らの働きの原則などを理解するようになる。言葉によって、人は神の性質を知るようになると同時に、人の不従順さや反抗心を理解し、自分の本質を知るようになる。このような働きの段階と、語られた全ての言葉を通して、人は霊の働き、受肉した神の働きを知り、さらに彼の性質の全体を知るようになる。神の六千年以上にわたる経営(救いの)に働きについてのあなたの認識も言葉によって得られた。あなたが以前もっていた観念を知ったのも、それをわきに置くことができたことも、言葉を通して成されたのではなかったのか。前の段階で、イエスはしるしや不思議を行なったが、この段階ではしるしや不思議は行われない。なぜ神がしるしや不思議をしないのかという理解も言葉を通して得られたのではないのか。よって、この段階で語られる言葉はかつての世代の使徒たちや預言者たちによってなされた働きを越えている。預言者たちによる預言でさえもこのような成果を上げることはできなかった。預言者たちは将来何が起こるかという預言を語っただけで、当時神がしようとする働きについては語っていない。彼らは人を生活において導くためや、人に真理をもたらすためや、奥義を顕すために語ったのではなく、ましてやいのちを与えるために語ったのでもない。この段階で語られる言葉には預言と真理があるが、それらはおもに人にいのちを授けるためである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 


VII.恵みの時代の悔い改めの道と終わりの日における永遠のいのちの道の違い

2020-07-19 16:23:38 | 書籍

1. 恵みの時代に主イエスにより広められたメッセージは悔い改めの道だけであった

 

  参考聖書箇所:

「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)

「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイによる福音書 26:28)

「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。』」(ルカによる福音書 24:45-47)

関連する神の言葉

最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、イエスの性質は全体が謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみであった。イエスは人間に豊かな祝福と恵みをもたらし、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった人々が享受することのできるあらゆるものをもたらした。その当時、人が受け取ったあふれんばかりの楽しむことがら、すなわち心の平安と安心、霊の慰め、救い主イエスによる支え、これらのものは、人の生きた時代ゆえにもたらされたのである。恵みの時代、人はすでにサタンにより堕落させられていたので、すべての人を贖う働きを完遂するためには、満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに、人間の罪を贖うのに十分な捧げ物が必要であった。恵みの時代に人々が見たのは、人間の罪のためのわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。人々は神は憐れみ深く寛容であり得ることだけしか知らず、イエスの慈しみと憐れみしか見なかった。それはひとえに、彼らが恵みの時代に生まれたからである。そのようなわけで、贖われる前に人々はイエスが彼らに授けるさまざまな恵みを楽しみ、その恩恵を受けなければならなかった。それにより、彼らは恵みを享受することでその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を享受することで贖われる機会を得ることができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、彼らは赦しを受け、イエスが授けるあふれる恵みを楽しむ権利を手にすることができた。それはイエスが、「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるようにするためにきたのである」と言ったとおりであった。…イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類はイエスにより救われ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれる資格があった。イエスは自分の追随者をあたかも母親が我が子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは人々に対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちていた。人々とともにいても激怒するようなことは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに罪に寛容で、人々の愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を変容させ、それゆえに人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。…イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

イエスの働きは人類の贖いと十字架のためだけにあった。そのため、イエスは人を征服するために、それ以上の言葉を語る必要はなかった。イエスが人に教えたことの多くは聖書の言葉から来ており、そしてたとえイエスの働きが聖書を越えなかったとしても、イエスはやはり十字架の働きを達成することができた。イエスの働きは言葉の働きでも、人類の征服のためでもなく、人類を贖う働きであった。イエスは人類のために罪のいけにえとして行動しただけで、人類のための言葉の源泉として行動したのではなかった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(1)」より

イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

恵みの時代は悔い改めの福音を宣べ伝え、信じれば人は救われると説いた。現在は、救いの代わりに征服と完成だけが語られる。誰かが信じればその人の家族全体に恵みがあるとか、永遠の救いがあるとかいったことは決して言われない。今日では誰もこのような言葉を語らず、このようなことは時代遅れになっている。当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より


神は人が心から悔い改めることを望む

2020-07-17 20:27:04 | キリスト教の歌

「神は人が心から悔い改めることを望む」キリスト教の歌 歌詞付き


神はニネベの人々に怒り
彼らの町を滅ぼすと宣告した
だが彼らが断食を宣言し
粗布と灰をかぶると
神の心は穏やかになり変った
ニネベの人々への神の怒りは
憐れみと寛容へと変わった
彼らが罪を告白し悔い改めたから
神は人に怒る時
真に悔い改めることを望み
悔い改めるなら憐れむ
人の悪ゆえに神は怒る
神に耳を傾け
悔い改め 悪の道を離


暴力を全て捨て去るなら
憐れみと寛容が与えられる
この神の性質の現われに矛盾はなく
彼らの悔い改めの前後に
神はこれらの異なる本質を現わし
神の本質が現わされた
こうして人は神の本質と現実性を見ることを許された
そしてまた
人は神の本質を侵害してはならないことが示された

神はその態度によって人々に知らせた
神は憐れみを示したくないのではない
心から悔い改め 暴力から離れ
悪から立ち返る者がほとんどいないだけだ
ニネベの人々への扱いは
憐れみを得られることの現われで
悔い改め悪を離れるなら
神の心は変わる
神は人に怒る時
真に悔い改めることを望み
悔い改めるなら憐れむ
人の悪ゆえに神は怒る
神に耳を傾け
悔い改め 悪の道を離れ
暴力を全て捨てさるなら
憐れみと寛容が与えられる
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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聖書における罪とは何か。クリスチャンはどのように罪から抜け出すか

2020-07-16 18:39:09 | 福音を証しするシリーズ

聖書における罪とは何か。クリスチャンはどのように罪から抜け出すか


「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』。」(ヨハネによる福音書 8:34–35)主の御言葉では、人々が罪の束縛から逃れることができないなら、そして罪を犯し続けるなら、彼らは罪の奴隷であり、決して神の国に入ることはないとされています。聖書のこの一節を読むと、多くの信心深い兄弟姉妹たちは、自分がいかに日々罪を犯しては晩に懺悔してばかりいるかを思い、そして自分たちが罪の中に生きており神の国には入れないことを思い悩み、心の中で苦悶します。彼らは主を信じているのに、なぜ罪から逃れられないのでしょうか。一体どうすれば、罪の束縛から逃れることができるのでしょうか。今日は真理のこの側面について、交わりを持ちたいと思います。

目次
● 私たちはなぜ主への信仰の中で罪から逃れることができないのか

● クリスチャンはどうすれば罪を逃れられるのか

● 神はどのように人を清め裁くのか

 

私たちはなぜ主への信仰の中で罪から逃れることができないのか

私たちがなぜ主を信じながらも罪から逃れられないのかという問題については、まず神の言葉のこの一節を読んでみたいと思います。「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用)神の言葉は、私たちがすでに主イエスの贖いを経ており、私たちの罪は許されているものの、そして私たちが罪を犯した後主に祈り、懺悔し、悔い改めることで主はもう私たちを罪人とは見なさなくなるものの、それでも私たちの罪深い性質は存在し続けている、ということを語っています。私たちはいまだにしばしば罪を犯し、自分の堕落した性質を露わにし、日々罪を犯しては晩に懺悔してばかりいる傾向があります。たとえば他の人が何か私たちの利益を損なうことを言ったりしたりすると、私たちはその人を憎みます。神が正直な者を愛することはよく知っていながら、私たちはしばしば自分の利益のために嘘をつき、人を騙します。そして神の祝福を受ければいつも神に感謝しますが、災難に見舞われると神に不平を言い始め、場合によっては毒づいたり、神に対して大っぴらに口汚い罵りの言葉を浴びせたりさえするかもしれません。そのため、私たちの罪は許されているものの、私たちの中の堕落した性質は清められていないことがわかります。主イエスが行われたのは、磔刑による受難と人類の贖いの働きであり、人を完全に清めて救う働きではないからです。私たちは数千年にわたってサタンに堕落させられており、サタンのような性質は私たちの本性の中に深く根を下ろしています。傲慢、うぬぼれ、利己心、下劣さ、裏切り、狡賢さ、嘘、偽り、嫉妬による不和、悪意、凶暴性、真理への憎悪、神への敵対 ― こうしたものはすべて罪よりも頑なで、人はこうした性質のため、神に直接敵対することもあります。こうした根本原因に取り組まなければ、私たちは今日もそして明日も同様に罪を犯し、罪の束縛や制約を逃れることはまったく不可能になるのです。

クリスチャンはどうすれば罪を逃れられるのか

それではどうすれば、私たちは罪の束縛から完全に逃れることができるのでしょうか。主イエスは次のように预言されました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47–48)

神の言葉には次のようなものもあります。「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用)

神の言葉によれば、神は終わりの日に再来し、神の言葉を語って裁きの働きを行い、人の堕落した性質を完全に払拭し、人を罪から救うとされています。今日、主イエスは肉となり、受肉した全能神として再来されました。主イエスの贖いの働きを基盤として、全能神は1段階の働きを行われました。それが教会から始まった裁きの働きです。神は人類の清めと救いについての真理をすべて表され、私たちの罪深い本性を根本から変化させて、私たちが真理を理解し、罪から逃れ、罪を犯し神に反抗することをやめ、神に従い神を崇める民となることで、真に神のものとされることができるようにしてくださいました。私たちは終わりの日の全能神による裁きの働きを受け入れて初めて、堕落した性質から抜け出し、清められるチャンスを得ることができるのです。

神はどのように人を清め裁くのか

では一体、終わりの日の全能神はどのように裁きの働きを行って、人を清め救い、罪から逃れさせてくださるのでしょうか。全能神の言葉の別の一節を読んでみましょう。全能神は言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用)

裁きの働きについて話すと、「裁きとは神による糾弾ではないのか。それでどうやって神に救われることができるのか」と考える人がいるかもしれません。そのように考えるのは、私たちが終わりの日の神による裁きの働きのことを知らないからです。神の言葉によれば、終わりの日に全能神が行う裁きの働きは、おもに人を裁き清めるための真理の表現であり、そして神の言葉の啓示によれば、それによって私たちは自分自身の堕落した性質に気づき、サタンの手による自身の堕落という事実を目にするのだとされています。神の言葉は両刃の剣のようなものです。神の言葉を読むと、まるで神が面と向かって私たちを裁き暴いているかのようで、自分自身のサタンのような堕落した性質に気づくことができます ― 傲慢で、思い上がった、自分勝手で、下劣で、不誠実で、ずる賢く、貪欲で、邪悪な性質に。たとえば主を信じるようになると、私たちは主の恵みを享受するようになり、心には平安と喜びが宿り、特に主によって与えられる祝福と約束を目にしてからは、一層熱意を持って主にすべてを捧げるようになります。集会や聖書の朗読会を休むことは一切なくなり、しばしば弱い兄弟姉妹たちを支えて、行く先々で福音を広め、忍耐強く信仰と愛を貫き、そのように身を捧げれば主は必ずすべてを安全にうまく運ばせてくださると信じ、後に自分は天の国に入り永遠のいのちを得られるのだと信じるようになるのです。しかし不運が降りかかり、主が見守ったり保護したりしてくださらない時は、以前どれほど主に身を捧げたかを後悔し、心の中で神を非難さえし始めます。終わりの日における全能神の働きを受け入れていれば、神が次のように語っているのがわかります。「今日、ほとんどの人がこのような状態にある。祝福を得るには、神のために自分を費やし、代価を払う必要がある。祝福を得るには、神のためにすべてを捨て去り、神が自分に託した物事を残らず済ませ、立派に自分の本分を尽くさなければならない」これは祝福を受ける意図に支配されてのことであり、ひとえに神の報いを受け、冠を得るために自分を費やすことの実例である。」(『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用)「それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。この関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より引用)

全能神の言葉は端的に、神に対する私たちの信仰の誤った動機と態度を暴いています。私たちは自分をふり返ってみて初めて、自分が神への愛のため、神を満足させたいがために努力しているのではないということに気づきます。そうではなく私たちは、神の祝福と約束の見返りとして自分の身を捧げようとしており、私たちの善い行いや行動はあくまで自分自身の目標を達成するためのものなのです。このようなとき、私たちは自分の本性がいかに利己的で下劣かを思い知ることになります。私たちは「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」というサタンの法則に従って生きており、私たちがすることはすべて自分自身の利益のためで、神への信仰のためにいくらか身を捧げているときでさえ、それは神の祝福と利益を得るためなのです。私たちはちょっとした出費を大いなる祝福と引き替えることを望んでおり、今生では100倍の見返りを得て、来世では永遠のいのちを得ようとしています。被造物として自分の本分を尽くし、神の愛に報いるために身を捧げることは一切しません。自分の意図や願望が満たされないと、私たちは後ろ向きになり、不平を言い、神に反抗することもあります。自分がどれほど汚れ堕落しているかを目のあたりにし、良心や分別も失われていて、神の報いや祝福を受けるにはまったくふさわしくないことを思い知ると、心の中で後悔や自己批判を始めます。そして自分を軽蔑し、神の前に倒れ込んで罪を告白せざるを得なくなり、すべてを一からやり直したいと望み、神にすべてを捧げる意志を持って、もうなんの見返りも求めなくなります。神の裁きと刑罰を経験することで、私たちは自分自身のサタンのような性質に気づき、神が人の罪を嫌悪していることを知るのです。汚らわしさがあるところでは必ず神の裁きが行われることを目にして、私たちは神の聖い本質と、その正しく犯すべからざる性質とを知り、それによって私たちの中に神を畏れる心が生まれます。神の言葉の導きのもとで、私たちは徐々に神の旨とその要求とを理解するようになり、被造物という立場を固く守って、いくらか人の本分を尽くすようになるとともに、神との交わりにおける取引は減り続け、神との関係がより密接になって、堕落した性質も何らかの変化を遂げ、最終的には真の人間の姿をなすようになるのです。

私たちが今日のように変わることができたのはすべて、全能神の裁きの働きによってもたらされた効果によるものです。終わりの日に全能神の裁きと刑罰を経験した者で、真理を本当に愛する者はすべて、数年後に明らかな変化を目にし、その収穫を得ることになります。人に対する神の愛がいかに大きなものか、神による人の救いがいかに偉大かを心の中で感じとれるようになり、そして神の働きがいかに本物かを深く感謝するようになるのです。そして神の裁きと刑罰のみが正真正銘の救いであり、終わりの日の全能神の働きを受け入れて神の裁きと刑罰を経験することによってのみ、人は清められ変えられることができるのだと気づきます。それが、私たちが罪から逃れられる唯一の道なのです。

 

 

今回の交わりで迷いは解決されたでしょうか。この交わりで、罪から逃れる道は見つかりましたか? これが役に立ったと思われる方は、引き続きこのウェブサイトを見ていてくだされば、サイトは今後も新しいコンテンツを加えて更新されていきます。また周りにもあなたのように迷っている人がいれば、その人にもこの記事を見せてあげてください。質問や問題があれば、いつでもお気軽にお問い合わせください。一緒に考え、答えを求めていきましょう。

最後に、いくつかの推薦動画をご紹介したいと思います。「神様の裁きを経験し、変化を得た証し」、「大きな白い玉座の裁きは既に始まった」そして「キリストの御前で裁きを受け命を受け取ることについての証」です。これらの動画ではクリスチャンが神の裁きを経験した後、どのように真に悔い改め、変化するかを知ることができます。これらがあなたのお役に立ちますように。


説教:生活の中で私たちはどのように罪から抜け出すか

2020-07-15 21:27:39 | 福音を証しするシリーズ

説教:生活の中で私たちはどのように罪から抜け出すか

「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』。」(ヨハネによる福音書 8:34–35)主の御言葉では、人々が罪の束縛から逃れることができないなら、そして罪を犯し続けるなら、彼らは罪の奴隷であり、決して神の国に入ることはないとされています。聖書のこの一節を読むと、多くの信心深い兄弟姉妹たちは、自分がいかに日々罪を犯しては晩に懺悔してばかりいるかを思い、そして自分たちが罪の中に生きており神の国には入れないことを思い悩み、心の中で苦悶します。彼らは主を信じているのに、なぜ罪から逃れられないのでしょうか。一体どうすれば、罪の束縛から逃れることができるのでしょうか。今日は真理のこの側面について、交わりを持ちたいと思います。

目次
● 私たちはなぜ主への信仰の中で罪から逃れることができないのか

● クリスチャンはどうすれば罪を逃れられるのか

● 神はどのように人を清め裁くのか


私たちはなぜ主への信仰の中で罪から逃れることができないのか

     私たちがなぜ主を信じながらも罪から逃れられないのかという問題については、まず神の言葉のこの一節を読んでみたいと思います。「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用)神の言葉は、私たちがすでに主イエスの贖いを経ており、私たちの罪は許されているものの、そして私たちが罪を犯した後主に祈り、懺悔し、悔い改めることで主はもう私たちを罪人とは見なさなくなるものの、それでも私たちの罪深い性質は存在し続けている、ということを語っています。私たちはいまだにしばしば罪を犯し、自分の堕落した性質を露わにし、日々罪を犯しては晩に懺悔してばかりいる傾向があります。たとえば他の人が何か私たちの利益を損なうことを言ったりしたりすると、私たちはその人を憎みます。神が正直な者を愛することはよく知っていながら、私たちはしばしば自分の利益のために嘘をつき、人を騙します。そして神の祝福を受ければいつも神に感謝しますが、災難に見舞われると神に不平を言い始め、場合によっては毒づいたり、神に対して大っぴらに口汚い罵りの言葉を浴びせたりさえするかもしれません。そのため、私たちの罪は許されているものの、私たちの中の堕落した性質は清められていないことがわかります。主イエスが行われたのは、磔刑による受難と人類の贖いの働きであり、人を完全に清めて救う働きではないからです。私たちは数千年にわたってサタンに堕落させられており、サタンのような性質は私たちの本性の中に深く根を下ろしています。傲慢、うぬぼれ、利己心、下劣さ、裏切り、狡賢さ、嘘、偽り、嫉妬による不和、悪意、凶暴性、真理への憎悪、神への敵対 ― こうしたものはすべて罪よりも頑なで、人はこうした性質のため、神に直接敵対することもあります。こうした根本原因に取り組まなければ、私たちは今日もそして明日も同様に罪を犯し、罪の束縛や制約を逃れることはまったく不可能になるのです。

クリスチャンはどうすれば罪を逃れられるのか

         それではどうすれば、私たちは罪の束縛から完全に逃れることができるのでしょうか。主イエスは次のように预言されました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47–48)

         神の言葉には次のようなものもあります。「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用)

神の言葉によれば、神は終わりの日に再来し、神の言葉を語って裁きの働きを行い、人の堕落した性質を完全に払拭し、人を罪から救うとされています。今日、主イエスは肉となり、受肉した全能神として再来されました。主イエスの贖いの働きを基盤として、全能神は1段階の働きを行われました。それが教会から始まった裁きの働きです。神は人類の清めと救いについての真理をすべて表され、私たちの罪深い本性を根本から変化させて、私たちが真理を理解し、罪から逃れ、罪を犯し神に反抗することをやめ、神に従い神を崇める民となることで、真に神のものとされることができるようにしてくださいました。私たちは終わりの日の全能神による裁きの働きを受け入れて初めて、堕落した性質から抜け出し、清められるチャンスを得ることができるのです。

神はどのように人を清め裁くのか

      では一体、終わりの日の全能神はどのように裁きの働きを行って、人を清め救い、罪から逃れさせてくださるのでしょうか。全能神の言葉の別の一節を読んでみましょう。全能神は言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用)

       裁きの働きについて話すと、「裁きとは神による糾弾ではないのか。それでどうやって神に救われることができるのか」と考える人がいるかもしれません。そのように考えるのは、私たちが終わりの日の神による裁きの働きのことを知らないからです。神の言葉によれば、終わりの日に全能神が行う裁きの働きは、おもに人を裁き清めるための真理の表現であり、そして神の言葉の啓示によれば、それによって私たちは自分自身の堕落した性質に気づき、サタンの手による自身の堕落という事実を目にするのだとされています。神の言葉は両刃の剣のようなものです。神の言葉を読むと、まるで神が面と向かって私たちを裁き暴いているかのようで、自分自身のサタンのような堕落した性質に気づくことができます ― 傲慢で、思い上がった、自分勝手で、下劣で、不誠実で、ずる賢く、貪欲で、邪悪な性質に。たとえば主を信じるようになると、私たちは主の恵みを享受するようになり、心には平安と喜びが宿り、特に主によって与えられる祝福と約束を目にしてからは、一層熱意を持って主にすべてを捧げるようになります。集会や聖書の朗読会を休むことは一切なくなり、しばしば弱い兄弟姉妹たちを支えて、行く先々で福音を広め、忍耐強く信仰と愛を貫き、そのように身を捧げれば主は必ずすべてを安全にうまく運ばせてくださると信じ、後に自分は天の国に入り永遠のいのちを得られるのだと信じるようになるのです。しかし不運が降りかかり、主が見守ったり保護したりしてくださらない時は、以前どれほど主に身を捧げたかを後悔し、心の中で神を非難さえし始めます。終わりの日における全能神の働きを受け入れていれば、神が次のように語っているのがわかります。「今日、ほとんどの人がこのような状態にある。祝福を得るには、神のために自分を費やし、代価を払う必要がある。祝福を得るには、神のためにすべてを捨て去り、神が自分に託した物事を残らず済ませ、立派に自分の本分を尽くさなければならない」これは祝福を受ける意図に支配されてのことであり、ひとえに神の報いを受け、冠を得るために自分を費やすことの実例である。」(『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用)「それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。この関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より引用)

      全能神の言葉は端的に、神に対する私たちの信仰の誤った動機と態度を暴いています。私たちは自分をふり返ってみて初めて、自分が神への愛のため、神を満足させたいがために努力しているのではないということに気づきます。そうではなく私たちは、神の祝福と約束の見返りとして自分の身を捧げようとしており、私たちの善い行いや行動はあくまで自分自身の目標を達成するためのものなのです。このようなとき、私たちは自分の本性がいかに利己的で下劣かを思い知ることになります。私たちは「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」というサタンの法則に従って生きており、私たちがすることはすべて自分自身の利益のためで、神への信仰のためにいくらか身を捧げているときでさえ、それは神の祝福と利益を得るためなのです。私たちはちょっとした出費を大いなる祝福と引き替えることを望んでおり、今生では100倍の見返りを得て、来世では永遠のいのちを得ようとしています。被造物として自分の本分を尽くし、神の愛に報いるために身を捧げることは一切しません。自分の意図や願望が満たされないと、私たちは後ろ向きになり、不平を言い、神に反抗することもあります。自分がどれほど汚れ堕落しているかを目のあたりにし、良心や分別も失われていて、神の報いや祝福を受けるにはまったくふさわしくないことを思い知ると、心の中で後悔や自己批判を始めます。そして自分を軽蔑し、神の前に倒れ込んで罪を告白せざるを得なくなり、すべてを一からやり直したいと望み、神にすべてを捧げる意志を持って、もうなんの見返りも求めなくなります。神の裁きと刑罰を経験することで、私たちは自分自身のサタンのような性質に気づき、神が人の罪を嫌悪していることを知るのです。汚らわしさがあるところでは必ず神の裁きが行われることを目にして、私たちは神の聖い本質と、その正しく犯すべからざる性質とを知り、それによって私たちの中に神を畏れる心が生まれます。神の言葉の導きのもとで、私たちは徐々に神の旨とその要求とを理解するようになり、被造物という立場を固く守って、いくらか人の本分を尽くすようになるとともに、神との交わりにおける取引は減り続け、神との関係がより密接になって、堕落した性質も何らかの変化を遂げ、最終的には真の人間の姿をなすようになるのです。

       私たちが今日のように変わることができたのはすべて、全能神の裁きの働きによってもたらされた効果によるものです。終わりの日に全能神の裁きと刑罰を経験した者で、真理を本当に愛する者はすべて、数年後に明らかな変化を目にし、その収穫を得ることになります。人に対する神の愛がいかに大きなものか、神による人の救いがいかに偉大かを心の中で感じとれるようになり、そして神の働きがいかに本物かを深く感謝するようになるのです。そして神の裁きと刑罰のみが正真正銘の救いであり、終わりの日の全能神の働きを受け入れて神の裁きと刑罰を経験することによってのみ、人は清められ変えられることができるのだと気づきます。それが、私たちが罪から逃れられる唯一の道なのです。

       今回の交わりで迷いは解決されたでしょうか。この交わりで、罪から逃れる道は見つかりましたか? これが役に立ったと思われる方は、引き続きこのウェブサイトを見ていてくだされば、サイトは今後も新しいコンテンツを加えて更新されていきます。また周りにもあなたのように迷っている人がいれば、その人にもこの記事を見せてあげてください。質問や問題があれば、いつでもお気軽にお問い合わせください。一緒に考え、答えを求めていきましょう。

       最後に、いくつかの推薦動画をご紹介したいと思います。「神様の裁きを経験し、変化を得た証し」、「大きな白い玉座の裁きは既に始まった」そして「キリストの御前で裁きを受け命を受け取ることについての証」です。これらの動画ではクリスチャンが神の裁きを経験した後、どのように真に悔い改め、変化するかを知ることができます。これらがあなたのお役に立ちますように。