一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

イエズスの御受難を崇むる祈

2017-04-10 07:54:45 | 祈り
祈りましょう。

<イエズスの御受難を崇むる祈>

「主イエズス・キリスト、主は世をあがなわんためにこの世に生れ、ユデア人に棄てられ、裏切者なるユダのために口づけをもって敵に売られ、なわめを受けて罪なき子羊の如くとしょに引かれ、アンナ、カイファ、ピラト、ヘロデの前にあざけられ、偽証人の陥るるところとなり、むち打たれ、辱められ、つばきせられ、ほほを打たれ、いばらの冠をかむせられ、よしにてたたかれ、衣をはがれ、十字架にくぎ付けにせられ、酢と苦きものとをなめさせられ、やりにて貫かるるをも甘んじ受け給えり。

▲主、願わくは、われらの身に余りてかたじけなきこの尊き御受難と、聖なる十字架と、御死去とによりて、われらに地獄の苦しみを免れしめ給え。
また主と共にはりつけにせられて、悔い改めたる、盗賊を導き給いし処(ところ)へ、われらをも導き給え。
聖父と、聖霊と共にとこしえに生き、かつしろしめし給う主なるかな。アーメン。」

聖週間

2017-04-10 07:30:09 | カトリック
昨日は枝の主日でした。聖週間の幕開けです。
昨日読まれた聖福音を思い起こすと、これは人間と神様の対比が浮き彫りにされたような印象がありました。イエズス様を十字架に磔るためには、主義主張さえ変え、嘘さえ付くのです。このユダヤ人の「神殺し」は本当に私たちと無関係なのでしょうか。人間と神様ではどちらを大切にすべきだったのでしょうか。
この十字架は一体誰のために用意されたものかをよく考えると、これは私たちの罪の結果と罪の行いによってなのです。主がゲッセマニの園で祈られたとき、過去と未来の神の子ら(人間)の罪のために血を流されたと伝統的な神学者は教えています。そして私たちがたとえ小さな罪を犯したとしてもそれは主の手の釘を打つのに等しいとも教えています。ユダヤ人の「十字架につけろ!」とはつまり私たちなのです。言葉で言わなくても行動を見てください。
聖書の正しい読み方は、ファリサイ派も罪人も私たちとして読むのが正しいのです。従ってあの狂気の沙汰は私たちが引き起こしたのと同じなのです。
ですから私たちは、他人事であるという考えは棄てて、私たちもユダヤ人の当事者であったと思うべきです。私たちはこれまで何度も主を裏切ってきたのですから。どれだけ告白して赦されてもまた同じ過ちを繰り返してきたかを考えてみましょう。
謙遜にそして痛悔の念を持って主に謝る気持ちでこの聖週間を迎えなくてはなりません。