一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

本末転倒

2017-09-06 07:47:33 | カトリック
私の前に所属していた教会は、日本人と外国人の割合でいえば日本人の方がやや多い教会におりました。
しかし最近は、外国人と日本人の割合が逆転し外国人の割合が圧倒的に多くなったそうです。
司祭の数が激減しているという理由で集会祈祷が始まった頃私は、他の教会に転籍しました。外国人の多くは日本語を理解してないのと同様、日本人も外国人司祭の言葉を理解出来ません。
外国人司祭がミサを挙げに来るとき、聖歌も司祭の祈祷も理解出来ないのは当たり前なのですが、月に一回集会祈祷に助祭が来られる時には、どういうわけか、主聖堂で集会祈祷、小聖堂では外国人司祭による外国語によるミサが執り行われているのです!
聞いた話によると、外国人は集会祈祷はただの祈りであってミサでは無いので、外国人にせよ、主聖堂でみんなでミサに与ろう!ということで招待した外国人司祭だったのですが、ある日本人の信者の方が、「言葉が分からないから集会祈祷の方がいい」というのです!?
まず、この事を考えたときいくつかの事を私は思いました。
まず国語化したミサは、結局のところ言葉の壁に直面しています。昔はラテン語、聖歌はグレゴリオ聖歌だったころは、日本語が分からない司祭だろうが、世界のどこにいっても、まったく同じ言語と聖歌のミサに与ることが出来ました。現代はどうでしょうか。外国に私達が旅行に行ったとき、そこで挙げられるミサはどうでしょうか。
この言葉で同じ教会でそれぞれの国のミサが行われて、日本人と外国人が一緒に与れないようになっています。
そして、「ミサ」よりも言語を優先するという由々しき事態に発展しています。